ウブはキスを拒絶する03
キャンサーは笑う。
自分はまた人を傷つけた。月駒を怯えさせてしまった。希望を信じた者たちから夢を奪ってしまった。だが、眼前の事実は、自分は地を這う人間より遥かに有能で、生き物として優越的存在であることの証左である。と結論付ける。
自分が有能であったがため、不幸にも無能の脇腹を三度も貫いてしまった。そう考えれば考えるほど、彼の心は満たされていく。満ち溢れた多幸感に溺れ、身体が震えてしまった。
(哀れ哀れ哀れ。無能・凡才の自覚を持ち、私に使われれば少しは真っ当だったものを)
彼はやはり自分は有能な男だとかたく信じ込み、高い声で笑い続けた。
だが、不思議なことに笑い声はもう一つ重なる。笑い声を止め、声を探る。空気を漏らす笑い声。幽かだが存在は近い。まさかと思い黒目を動かした。
不幸にも、彼の予感は的中する。
身体を貫かれた人間が笑っていた。チュシャ猫を思わせる笑顔を浮かべて大きく、小さく変化するキャンサーの黒目をはっきりと捉えていた。
(な、な、なんなんだ! コイツは!!!)
慌ててドリルを引き抜くと
「なっ、何がおかしい」
と震える声で背中に声を投げつけた。
白いシャツは破れ、周囲は血で汚れている。脇腹を貫かれた痛みで理性が飛んだのかと考えた。だが、彼の目には光がある。理性は、増見 光成の中に存在していた。
「何がおかしいって? お前が想像以上に愚劣だったからだよ。月の四賢人。どれだけカシコかと思えば、二浪のオレより頭が悪いなんて……。笑うなって方が無理だよ」
光成は身体をキャンサーへ向ける。お互いに汗を流していた。だが、流した汗の意味は違っている。
「キャンサー。お前が穿った脇腹はどういう脇腹か覚えている?」
「な、何を言うか。そんなこと。そんな些末な事――」
「覚えていたけれど忘れてしまった? お前は、自分が左右どちらの腹を貫いたのかも忘れたのか?」
キャンサーは口をつぐむ。軽々に口を開けば、自分の浅慮が暴かれると思ったからだ。
「覚えていないならどうでも良いか。まぁ、でも。残念でした。お前が穿った穴は元々空いていた穴さ。貫かれようが何をしようがもう怖くはない。いや、月の人間の習性とオレの考えがはまった方が嬉しいんだ!」
光成がいう通り、彼の顔は喜色に包まれている。理性の土壌で育まれた狂気が花開こうとしていた。頼りがいのない男がどうして此処まで変貌したのか。何故と考える。けれども、彼の想像に答えはない。
星の瞬き。その光はもう一つの天啓だったのかもしれない。自分に失態に顔を崩し、奥歯をすりつぶして、臓腑の底から声を絞り出す。
「貴方……。カグヤを使いましたね」
キャンサーの回答に光成は反応しなかった。だが正解だ。
穿たれた穴の周りを縁取るように描かれた赤い線。原料はカグヤの血。
カグヤの血が月駒を引き寄せる誘引剤。カグヤの血は特別で、「月のイキモノ」を引き寄せる力があるなら、月の人間であるキャンサーだって例外ではない。
キャンサーは「光成を傷つける」ことを決めていても詳細までは決めていない。そこで、光成はカグヤの血を使って誘導した。
体のこの部分を狙え。
このぐらいの深さで穿て。
と手取り足取り誘導して上げたのだ。
「増見さん。貴方は。貴方は。貴方はあああああああ」
広い額に青筋が浮かび上がる。白目に深紅の血管が線香花火のように迸る。キャンサーは肘を曲げ左手のドリルを見せつける。
彼の目は光成しか見えていない。憤怒を纏い、近づいていく。彼は「殺す」と口にしない。増見 光成殺害は絶対事項。「月の四賢者」の肩書きをかなぐり捨て、自分の有能さを確立すべく光成に襲い掛かった。
だが、キャンサーの気高い自尊心すら光成の手中の範囲なのだ。
「今だ! カグヤああああああ」
彼は右手を上げ、すぐに薄い地面に転がった。刹那、闇の中から一陣の光がキャンサーと光成の空間を切り裂いた。
鈍色の光は金属がこすれるような音を立てキャンサーのドリルに絡みつく。
「ん、な!」
驚嘆の声を上げ、彼は自分の左腕を見つめた。彼の手に絡みついたのは太い鎖。程子にも彼には右腕はなく、彼自身で鎖を解く術はない。闇の中、鎖が右へ左へと揺さぶられると、マリオネットの如く滑稽に動く。
「誰だ。誰だ。誰だ。誰だあああああ」
キャンサー奇怪な踊りを舞いながら、闇に向かって吠えたてる。声は闇の中に吸い込まれ消えていく。誰何に応ずるのは鎖を手繰り寄せる音。踵を鳴らす音。最後に人の声だ。
「愚問だな。キャンサー。俺とお前、コウナとオンナ。それ以外ここに誰がいるんだよ」
声の主が光の下に現れると、一つ息を飲む声が聞こえた。
百八十センチを超えた体躯。
目尻は垂れさがっているが、眉は薄く鋭い山を描いている。明るい茶色の髪。
残忍な獣を思わせる好戦的な瞳。
手に巻き付けた鎖を見せつけて彼は現れた。
「よぉキャンサー。あまりにも月が綺麗だから、お前を殺しに来たぜぇ」
「カ、カグヤ……」
破顔し、駆け寄る光成に「待たせたな」と声をかけ、彼は鎖をもう一巻きし、キャンサーとの距離を詰めた。
「本当はもっと早くお前に会う予定だったんだけどなぁ。コウナの野郎がぶらんこを見つけろ。ぶらんこを繋ぎ合わせろって煩くてよぉ。まぁ、実物見て意味がわかったわ。どっちにしても悪かったなキャンサー。殺すのが遅れて今になっちまって、なぁ!」
カグヤは鎖を一気に沈める。キャンサーは腕にかかる負荷に耐えきれず膝をついた。
「あぁ。殺したかった。殺したかった。お前も、あいつらも、殺してやりたかった。月じゃぁ殺しそびれた。地球でも一回殺しそびれた。でも、今なら殺せる。お前をブチ殺せる!」
カグヤは興奮を抑えきれず手に巻き付いた鎖を地にかなぐり捨てると、キャンサーに飛び掛かる。地にいる者を見下す偉大な月を背後に従え、彼はキャンサーの額目掛けて万力を叩きつけた。
自分の拳がキャンサーの血で汚れていく。月の人間の血を嗅いだのは久々で、懐かしい香りでカグヤの左目は己の過去を捉えた。
無菌室を思わせる白亜の部屋で、キャンサーは人の悪い笑みを浮かべて彼の頬に鉄球を投げつけた。
なぜ鉄球を叩きつけたのか、誰も覚えていない。「何故」を考えること自体が無駄なのだ。ただ一つ言える事がある。当時の「四賢者」と呼ばれる人間は反抗しない人形を凌辱するのが楽しかった。玩具でしかない。
気づけば、カグヤと名前が付けられた玩具は息をするように暴力と恥辱の海に堕ちていた。生きるために息を吸うように、彼らの享楽を満たすために、生き物の尊厳を奪い取られたのである。
「やめろ。やめるんだ。カグヤあああ」
身体の下から声がする。哀れな声でゾクゾクとカグヤの心が震え立った。
「む、無抵抗な私を痛めつけるのはそんなに楽しいことなのか! カグヤ!」
その言葉で、カグヤの手が止まる。意識はようやく右目にシフトする。
まんまると膨らんだ顔。顔のどこに目があり、鼻頭があるのか分からない。けれども、口だけは当たり前のように回っていた。
「何故だ。どうしてなんだ。カグヤ。何故、君は月を捨てる。カグヤの役割を放棄して地球の生き物に肩入れをするんだ!」
「うるせーよキャンサー。てめぇにはわからねぇよ」
「わかるさ! 君が月を逃げ出した理由はわかる。確かに、君にとって月は居心地が悪い場所だっただろう。だが仕方なかったんだ。君がカグヤであるから良かれと思って我々は君に接していたんだ。仕方ないんだよ」
カグヤの身体が震える。確かにキャンサーの主張は彼の心に響いた。しかも、悪い意味である。
(なんだよそれ。カグヤである為なら、俺の身体をいじくりまわして、玩具に仕立てるのも仕方ないのか? 暗がりの中薄汚い月駒に弄ばれた事も仕方ないのか? 俺がカグヤであるためなら、なんでも許されるのか? 仕方ないで済まされるのか?)
幼き頃より繰り返されてきた日常。自尊心。自己肯定など自分の支えは目の前で壊されてきた。試してみたいから。そのような軽い気持ちで彼の体にメスと薬物が入れられた。知識欲の塊で実験に付き合わされた。
幼いころは「仕方がない」と自分に言い聞かせ我慢を強いた。
我慢をして、我慢をして、我慢をして。コップの中から水が破裂するように、ある出来事がきっかけで彼の心は軽い音を立てて破裂した。あふれんばかりの感情を取りまとめたのが暴力。
暴力が無ければ、感情の圧に押しつぶされていた。
ようやっと保たれていた感情がキャンサーの言い訳で凝り固まっていく。
「復讐なのか! これは我々に対する復讐なのか!」
キャンサーが放つ言葉はカグヤの心にナイフを突き立てる。傷の痛みは「殺したい」欲望に冷水を浴びせた。自分の抱えていた感情を「復讐」という言葉で片づけられたことがショックだった。五文字に収まる程度のものだったのかと考えると心が締め付けられる。
この痛みを思い出すためにキャンサーを手にかけようとしたのか。自分はキャンサーに何を望むのか。と問いただすも答えは返ってこない。無反応にキャンサーの興味も殺意も引いていく。強力を振るう事すら億劫になった。
「もう良いわ。お前」
冷ややかな声にキャンサーの顔色は見る見るうちに青白く変化する。
キャンサーから離れると、彼は天を見上げた。瞳は月の光を捉える。月の光を浴びた茶色の虹彩は強く輝く。彼の目は、この空間を見つめていた。
「此処は現世」
抑揚のない無機質な声。声は男なのか、女なのか、それすら判別しかねた。
「生と死の狭間、生の天秤に傾きしこの地よ。我は月の引導者。地球は寛大なり。道はずれたモノを全て許容し地球の胎へと呼び戻そう」
「何故だ。カグヤ。お前は、お前は嫦娥様の器でありながら、どうしてその言葉を知っている! 汚れた地球の言葉を、お前が唱えて良い訳がない!」
カグヤの声に手繰り寄せられ、空間の景色が変化していく。月も天も星も。人の手の届かない場所へ離れていく。大地の色は透明から深い茶色に戻り、地の底を捉える事は出来なくなった。
「漂える地よ、戻り、糺せ。あるべき場所へ、命を還したまえ!」
周囲を覆っていた緞帳が上がっていく。幕が上がるに連れて完走した空気が流れ始め、肌に心地よい威圧感が戻ってきた。暗闇の中、象牙色の光が点々と灯り始めた。
「ち、地球に戻ってこれた? 戻ってきたんだ」
あるべき場所への帰還。安堵する声にカグヤは大きなため息をつく。疲労の色は隠せないが、その顔には達成感を感じ取れた。
そのような二人とは対照的に、キャンサーの顔は色をなくしている。すぐに立ち上がり二人をけしかける余裕もない。
カグヤは再びキャンサーに近寄ると、鎖を拾い上げた。肩口につま先を立て、鎖を弛みなく伸ばす。
「カグヤ?」
光成は彼が何をしようとしているのか、理解できなかった。
彼の眼光が鋭く、鎖の弦を弾いたところまで現認した。
琴のような美しい音は流れない。けれども、肉がひしゃげ、肩関節から大きな石を転がすような不吉な音だけが聞こえた。
音を境に、鎖の役割も変化する。
キャンサーの腕を拘束する鎖は、リードになったのだ。
「約束だ。トドメはてめぇにくれてやる」
カグヤの声に続き、現れたのはあの女だった。
「こいつの左腕はもらった。アイツはもう月の人間の価値はねぇし、死んだも同然だ。殺してやるつもりだったが、てめぇが一番の適任だな」
カグヤは鎖を器用に扱い破壊した左腕を手繰り寄せる。
「遠慮はいらねぇ。気持ちよく、喰らい殺しな」
女はカグヤの顔を見つめると、両腕を失くしたキャンサーに視線を移す。垂れた瞼の奥。闇に浮かぶロウソクのように揺らめく明確な殺意。
「ま、待て。わ、私を殺すな。私を殺すということは――」
命乞いは届かない。彼女の身体が動くと、真っ先に彼の喉仏に喰らいついた。二度と人をだまし、たぶらかす甘言を紡げぬよう、一殺の願いを込めて喰らい潰した。
「これで、分かったか? お前が相手にする人間がどんな奴かって」
カグヤはキャンサーのドリルを抱きしめたまま光成に尋ねる。
「地球のルールは通用しない。そんな奴らを自分の身体の為だけに相手すんのか?」
「それが、自分の成すこと。そう決めたんだ。だけど、オレだけじゃ無力だ。オレの身体を取り戻すためには、どうしてもお前の力が必要だ」
「……。俺がイヤって言っても?」
「言うわけはない。お前は、生きる意味を持ったんだろう?」
一瞬驚いた表情を見せたが、カグヤは嬉しそうに「そっか」と小さくつぶやいた。
そして、鎖に包まれたドリルを光成に見せる。鎖の隙間から血液は落ちてこない。切断面を覗きたい気持ちはあったが、グッと抑え込む。
「コレは、ホトケノミイシノハチ。キャンサーの鍵の名前だ」
「ホトケノミイシノ……。て、ちょっ。仏の御石の鉢ってアレだろ。カグヤ姫が求婚を求めた男に要求した五つの難題の一つ」
「はぁぁぁん。あの女らしい。で、だ。コウナ、あの女がなんで男どもにそんなもんを要求したか知ってるか?」
光成は黙った。薄い知識で知っている竹取物語。彼の知識ではない物語が語られようとしている。心と体が興奮している。命のやりとりをした余韻なのだろうか。カグヤの話は胸躍る話に思えてきた。
「あの女が要求した物は、あの女が勝手に名前を付けた月と地球を往来する鍵。一つありゃぁ良いものを、ガメツイ女は全部奪い取って地球にやってきたんだ。馬鹿女は、その鍵をどっかに失くしたようでな。自分の失敗を棚に置いて、月に戻らない為に惚れた男どもに失くした鍵を探せと要求した。だが、回収は無事に失敗。あの女が回収する前に月の人間がみんな回収。クソ女は月に連れ戻されたわけだ。あの女の経験を糧に、月の人間は五つの鍵、ホトケのミイシノハチ・ホウライノエダ・ヒネズミのカワゴロモ・ リュウノアゴノタマ。これを四賢人と嫦娥の身体に組み込んだ」
カグヤはいたずら坊主のように口角を上げる。
彼は、仏の御石の鉢を地面に叩きつけた。
一度 二度。
耳障りな音と高貴な音が入り混じる。
三度目。カグヤは背伸びをして仏の御石の鉢を叩き落し、おまけに踵落としも入れ込んだ。
「鍵を失くせば月に戻れない。死をもって償うべし」
外側の衝撃に、月の鍵は耐えきれなかった。
鍵の内部から軋む音が聞こえる。音の長さは不規則。鍵は終わりを迎えようとしている。
男の断末魔と共に、鍵は甲高い音を立てて崩れ落ちた。
「キャンサー。てめぇの罪を数え、怯えて眠れ」
月夜の下、一つの劇が幕を閉じる。
キャンサー。 カニのハサミと 穿孔具を持った男は、傲慢さで身を滅ぼすのである。
その亡骸は、取り除かれたがん細胞のようであった。




