ウブはキスを拒絶する02
不思議なことに、彼女は生きていた。重い瞼に喝を入れ必死に生きようと足掻いている。すでに嗅覚と触覚が断絶している。聴覚機能は低下し、その影響で方向感覚は狂ってしまった。砂地を踏む音。キャンサーが動いた。と気づいたが、どこからどこへ移動したのか全くわからない。
狭い視野で彼を認識した次の瞬間、彼女の体はゴム鞠のように地面をバウンドしていた。
「私はですねぇ、最初の頃は貴女を特別とは思っていませんでしたぁ」
地面を弾む。ジャリジャリと素直をこする音と、キャンサーの声が四方から聞こえる。うつ伏せになった身体は一度だけ震えた。
「嫦娥様は女。故に月駒に落ちるのは男の役目。それが私達の常識で定説。けれども、貴女はどういうわけか違った」
砂を掴む女の手を黒いエナメルシューズがタバコを踏み消す要領でねじる。
グリグリと丁寧に。指の骨がパキパキと小気味よい音を立てても、指先が天を向いても、爪が割れ、白い破片が桃色の肉に砂と一緒にへばりついても、彼は動きを止めなかった。
「カグヤと出会ったからですか? それとも……。私の知らないところでカグヤと交わったんですか?」
踵で手甲を踏みつぶす。下世話な問いに彼女は答えない。手を壊される程度ではもう声は出ない。当然答える必要のない問いに彼女が応じるわけもない。
「起きてくださいよ。私は嬉しいのです。女の月駒に片腕を喰らい落とされる。こんなこと、想像もしていませんでした。そんな優秀な月駒に出会えたキセキに感謝シマース」
彼の言葉の後半は、誰かが紡いだ歌詞と同じ。知ってか知らずか、彼の口調はある音楽のメロディーに酷似していた。
「私の腕を喰らい落した優秀な月駒。是非とも嫦娥様に貴女を献上し、褒美に新しい腕を願いましょう」
そういうと、失った腕を天に掲げる。風が吹くとハタハタと破れた袖が旗のようにはためいた。血で汚れた袖。荒い切断面。千切れたハサミは、未だに死ねずに口に手を突っ込み自死に挑む男の背中に突き刺さっていた。
「あのぉ。聞いていますか?」
キャンサーは彼女の頭をつま先で小突く。続いて勢いよく脇腹をえぐった。ギッシリと中身の詰まったサンドバックを蹴りあげるような重い音。男の蹴りをまともに受けた女は、空気を漏らし、ゴロリと仰向けになった。
お岩さんのように張れ上がった顔。ニキビ一つ出来なかった額は擦り傷だらけ。寄った眉間と眉間の皺を目掛け、キャンサーは彼女の頭に自由な左腕を突き刺した。嗅覚と触覚が断絶しても痛覚は生きている。人間では到底耐えきれない破壊行為。いや、普通の人間なら死んでいた。彼女はもはや人間ではない。外見は人間に似ていても、醜いエメラルドグリーン色の舌を持ち、頭を壊されても潰されても生きていられる身体。自分は人間ではない。痛みと突きつけられた現実に潰れかけた声帯をふり絞りヒキガエルに似た叫び声を上げる。
「そうです。そうです。反応は大切ですよ」
キャンサーの腕はクレーンのように女を持ち上げる。銀色の血を流し、足をばたつかせる。その光景に、舌なめずりをした。
「強い女ですね。女は涙が武器と言われるのに貴女は泣かないのですね」
流せる涙は失った。彼女はしゃくりあげ、自分の身体を抱き寄せる。「痛い」「痛い」「痛い」腹の奥底から叫びたい声はもうない。凝縮された感情を表現する術は足をバタバタと動かす程度。身体を動かさなければ、彼女の感情は焼き切れてしまいそうだった。
「使い捨てるだけだった貴女が私の腕に喰らいついてもぎ取る。ココの言葉ではこう言うのでしたかね? 飼い犬に手を噛まれる」
嘲る言葉を漏れた。彼は聞き流した。ソレはもはや言葉ではなかった。
「ただし、噛んだ相手が悪かった。月の四賢人に地球の人間ごときか私に歯向かってくる。躾が足りていない。これでは、嫦娥様に献上しても粗相をしてしまうかもしれない」
キャンサーは彼女を地面に投げ捨てた。
「だから、君を躾け直そう。二度と私に歯向かえぬように絶望を与えてやろう」
地面に蹲る彼女の髪をむんずと掴み、同じ高さに視線を落とす。細めた目は彼女に何かを伝えていた。
「いたっ!」
光成は二人の姿を捉えた。キャンサーと彼女の距離は片足程度。キャンサーは彼女を蹴りあげて距離を取る。その所業に握りしめていた手を強く握りしめる。光成に気づいたのか、チラリと一目を送ると銀色に染まった穿孔器具を天に掲げた。
「此処は幽世」
風が止む。この場を支配していた威圧感は退去する。湯冷めする時のよう、体温が急激に奪われていく感覚。自分の身を守っていた大きな膜が剥がれていく。手厚い保護からの分離。遠くへ、遠くへと感じる温かい威圧感。両親のように見守っていた大切な存在が、二人の隣から消えていた。
「生と死の狭間、生者と死者の垣根を越え月の慈悲を願いし容れ者よ」
生温かい空気が冷たいキャンサーの声に触れ、霜柱が立つように凍っていく。
「月は寛大なり。古層の声もたましひも異類も。全て許容し、一つへ飲もう。全て嫦娥の下へ。全て嫦娥の胎へ」
凍り付いた空気は公園の周囲の景色を奪っていく。真っ黒の緞帳は周囲の存在を黒く塗りつぶしてしまった。
「土の上で喘ぎし地の者。幽世は、久しからずや」
公園周囲の光は無くなった。代わりに天と地からスポットライトのように強烈な光が新たな空間が産声を上げる。
「な、なんだよ」
光成はソラを見上げる。ソラは彼の知るいと高きソラではなかった。天は高さを失った。夜空が近すぎる。部屋の天井より低いと言っても過言ではない。
仰ぎ見る月もすぐそこに迫っている。矮小な二人を飲み込むかのように偉大な月は二人を飲み込まんばかりに存在していた。
光成は首を横に振り、倒れる彼女の近くへ駆け寄る。変形した手の惨状に痛ましく顔を変化させ彼女に肩を貸した。「大丈夫」柔らかくかける声にうつむきがちの顔があがった。彼女は痛みに顔をしかめたが、すぐに驚愕の色に変化した。
「この漂える地よ。今、糺し直せ。生と死の狭間、漂える地をあるべきモノに還りたまえ」
キャンサーのドリルは宙を切った。空間を切る音の後、二人の足許が軋んだ。
「マジかよ」
きしむ音と霜柱が立つ音は混ざり、堅牢な大地は、透明な薄氷に変わっていった。薄氷の下、見えるのは何もかも吸いつくす底なしの常闇。時折見える瞬く白銀の光。視線を動かすと青白く光る柔らかい球体が目に飛び込んできた。常闇の中、燦然と青白く光る姿は神々たる美であった。
光成はこの光景を知っている。
青白く光る球体。それはまさしく地球。
白銀の光は星の輝き。
「オレ達は、宇宙の上に立っているのか」
独り言つ彼の背中に「似て、非なるも」と答えた。
「おやおや。増見さん。てっきりカグヤは貴方だけを連れ出したと思いましたけれど違いましたねぇ。いや、もしかして、乗り過ごしたんですか?」
「キャンサー」
「ダメですよ。人間は指摘された事を習慣化しましょう」
乾いた唇をネチャネチャと下品な音を立て潤していく。一歩 二歩 つま先で地面を蹴りあげた。長い舌がベロォと口周りを撫で、地面を蹴りあげる。
薄い地面は軽く蹴りあげただけでで、ひびが入る。同じ場所を踏めば、地面は確実に割れるだろう。
キャンサーと光成達の距離が近づく。地面を弾く音が大きく。大きく。背中に迫り、距離がゼロに近づいた時だった。
光成は彼女を振りほどき、キャンサーを真正面で迎える。無防備な背中をみすみす見逃すわけがない。キャンサーは「淡い期待を持たせ、ドンガラガシャーン」と突き落とすクセがある。光成は彼女を救い出した時、必ずキャンサーはほんの数歩、数分の時間を与えて仕留めに来ると読んでいた。今、彼の読みは的中した。浮かれる気持ちを抑え、彼はキャンサーを睨む。
(振り上げろ! 誇示しろ! お前の強さをオレに見せつけろ)
「ここは地球ではない。地球の制約無き今、貴方の命の保証は――」
高尚な説教と共に、キャンサーの手が振り上げる。高々と自分のパートナーを見せびらかし、強者と弱者を線引きする。命を刈り取ろうと振り下さられる手。ドリルが動いた事を確認すると、光成はキャンサーの顔に砂を浴びせた。
キャンサーの短い悲鳴が上がる。
光成は咄嗟に目をつむり、砂から逃れるよう身を翻す。
「走れ!」
短い一言と共に二人は走り出す。光成は彼女を庇うように腰に手を回して並走した。
「砂をかけてやったんだ。多少の時間稼ぎになる」
「何をしたの?」と問いたい彼女の心情を察したように言った。キャンサーから距離をとることに必死でしばらくは沈黙を保っていたが、光成は再び口を開く。
「カグヤから聞いたんだ」
それは彼女を安心させる為の一言だったかもしれない。ぼやけた視界の中、彼女は首を縦に動かした。
「何故、キャンサーは来たのか。どうして来られたのか。アイツが言うには、月の人間は誰でも地球に来られるわけじゃない。特殊な人物のみが、地球と月を往来するための鍵を使って訪れる事が出来る」
その特殊な人物こそ、四賢者の一人。キャンサーである。
「おそらく、彼の鍵はあのドリルの手。カグヤは左右のどちらかが鍵だ。って断言していた。彼の言う通り。あのドリルが鍵。鍵で扉は開き、オレ達は地球から隔離された」
重ねてカグヤは言った。キャンサーは必ず光成と彼女の目の前で鍵を使う。人間の存在が及ばない超常現象を見せつけ、生き物の「格の違い」を知らしめる。その部分は彼女には伝えなかった。だが、彼の予想は当たった。
カグヤの予想に従い念のため、目くらましの砂を拾い上げた。その目くらましも光成の予想通りの効果を上げている。
「タイムリミットはこの場所が月と同化すること。悪いけれど、残り時間がどれだけか。なんてオレには分からない。いや、この場にいる生き物、誰だって知らないんだ」
少し誇らしげに語る男の横顔。その姿を見つめる女の顔には痛みの色が浮かんでいた。
無理もない。なんとかして喰らい落とした腕は、実はキャンサーにとってどうでも良い腕だったのだ。腕を喰らい落としても、ニヤニヤと人を小馬鹿にする表情で彼女を見つめ反撃に転じた。一矢報いたと思い込んだ自分を恥じ、顔を下に向ける。
足元から米粒程度の光が瞬いている。恥じらう乙女を慰めるはずはなく、月の人間と同じようにせせら笑うのだ。
「あと、先に一つだけ謝っておく」
光成は彼女から視線を外して言った。
「目くらましは古典的な手法で有用だけど、長時間の効果は望めない」
光成の言葉に続き甲高くガラスが割れる音が聞こえた。耳障りで「もう使い物にならない」そう思わせる音がもう一度聞こえた。
一回
二回
音は回を重ねるごとに大きくなっていく。
音は回を重ねるごとに間隔が狭くなっていく。
二人は背後を振り返らない。
(キャンサーだ)
音から逃げるよう必死に走り回る。間に合え 間に合え。 祈るように二人は走り続けた。光成も縋る思いで約束の場所へ向ける。
ガラスが割れた五回目の音。
耳障りな音はすぐ後ろで聞こえた。
「地を離れし人間よ。君たちは土から離れて生きることは出来るのかい?」
二人の足音が止まる。足を止めようとする彼女に、力強く「走れ」と叫んだ。「ヒッ」と息を飲み彼女は走る。大きくなる水たまりに滴が落ちる音が無駄に大きく聞こえる。ねばりつく音を振りはない彼女は光成をおいてまっすぐ走り続けた。その後ろ姿に願いを込め、黒目を動かした。
光成の肩にかかる重さ。耳に生温かい息がかかる。
「増見さん。前から思っていたんですよ」
光成の手は自分の身体を貫くドリルを掴んだ。
「貴方、女性の前で良い格好したがりますね」
「当たり前だよ。良い格好しなきゃ……。いや、良い格好をしたいんだよ」
キャンサーはドリルをグリグリとねじり、穴を大きく拡げていく。
「何を言いますか。貴方は十分格好悪いですよ。同じ過ちを繰り返し、浅慮に溺れてしまうなんて」
光成の身体はドリルを根本まで加えこんだ。
「あぁ。でもこれで安心です。もう、地球の制約はカグヤに及ばない。これで安心して貴方を殺し、カグヤを連れて帰られる。今までの大役、お疲れさま。でした」




