ウブはキスを拒絶する
「――ッ!! バカグヤ! いい加減にしろ」
悲鳴に近い怒声の後、ボコンと鈍い音がした。
「いってぇな! 殴るこたぁねぇだろ!」
「煩い。オレは吸っていいって言ったのは400mlだけだって」
光成の反論にカグヤは「知らねぇよ」と独言つ。ブツブツと文句を垂れ、今しがた殴られた頭頂部を慰めるように撫でた。
何かを言いたげな光成とカグヤ。互いに目を細めてにらみ合う。視線を逸らしたのはカグヤが先。「勝った」と内心ほくそえみ、光成もフンと荒々しく鼻息を漏らした。
そして、今し方目の前に吸われた腕を見つめる。
カグヤの性格よろしく、荒々しく吸われた部位は青黒いシミとなっていた。痕に残らぬよう吸われた部位を揉んではみた。残念ながらあと数日は、いけないクスリの注射跡みたくなるだろう。
(白い目で見られるのは、生きていても死んでいても同じ)
光成は破れた服に身を包み鼻息を落とした。
「なぁ、コウナ。本当にあの作戦で行くのか?」
カグヤは光成の顔を見ずに言った。カグヤに血を吸われている最中、彼はカグヤにあることを提案した。難色を示していたが、彼に対案は無く消去法的に受け入れた。こうやって消去法的に尋ねるのは、自分の中にある不安を潰したいからだろう。
「アレは作戦っていうより基本方針。僕のサポートをしてくれた彼女が生きていれば成功率が高くなる。もしもダメな場合はオレが彼女の代わりを務める。だけど、彼女ほどキャンサーを足止め出来る時間はそれほど多くない。だから、カグヤ。君の迅速に行動をしてくれ。早ければ早いほど勝率は高くなる」
「わぁったよ。俺は特にそこらへんの頭はねぇ。その基本往診?」
「きほん ほうしん」
「ソレだ。ソレに従ってやる」
「そうだね。君はそのままが良いよ。失敗してもオレの責任だ。責任取ってオレは死ぬ。君は月に帰る。君には悪いけどそれで丁度いい」
喉までせり上がった「脳筋至上主義者」という言葉は吸った息と共に飲み込んだ。言えば、キャンサーの前に彼が殺される。
二人が合流して長い時間が立った。ケダモノの声は聞こえてこない。それどころか、カグヤの匂いに誘われてやってくる月駒の姿は無かった。異常なほど静かすぎる平穏。嵐の前の静けさとはまさにこのことであろう。
(オレは死にたくない。身体を取り戻すまで死ぬもんか)
奥歯を噛みしめ覚悟を決める。泣いても笑っても、キャンサーを相手にするのはこれが最後になる。キャンサーかカグヤ・光成。どちらかが死に、どちらかが生きる。これは揺るぎない未来なのだ。
「生」を確実にする為、対キャンサーの要 カグヤの全身状態を確認する。
呼吸・血色 良好
腰を下ろし、彼の手首に触れる。
脈拍・体温 異常なし。
「カグヤ、体調はどうだ? 違和感とか」
次は痛みの確認だ。
「おうよ!」
残念ながら彼は光成の意図が読めなかった。緩やかに立ち上がると、庇っていた右手を振り上げる。近くの細い木に拳を叩きつけた。
木は右へ左へ大きく揺れる。ギィギィと低くしなり、メリメリッ メリメリッ内側から筋が千切れる音を漏らす。そして、ギチギチ メリメリ ギチギチ と様々な音を織り交ぜながら、樹木は後ろのめりに倒れていった。
「まっ、こんなもんさな」
土埃の舞う中、得意げな顔をして自分の力こぶを見せつける。そうして、ニィと子供のような無邪気な笑顔を湛えるのだ。
「……。痛みはどうか? ってオレは聞きたかっただけなんだけどさ」
「なんだよ。それならちゃんと言えよ」
光成の冷たい視線を気に留めることなく、彼は再び興奮気味に口を開いた。
「あれだけの血じゃ足りねぇな。でもな、キャンサーをぶっ殺すだけなら十分だ。アイツの禿げ頭にキスマークでも付けてぶっ殺してやる」
激しく残虐闘志を隠さない。おそらく「それぐらい」で無ければ嫦娥の器に値しないのだろう。光成はそこから先、考えるのをやめた。月の人間達がいう通り、「そこから先」は「月の領域」の問題なのだ。
光成は大きく頷き「じゃぁ、目標ポイントで」と言ってその場を後にしようとした時だった。
「コウナ!」
走り去ろうとする彼をカグヤは止めた。
「ちょっと待て」
片腕を掴むと、力強く自分の身体へ引き寄せる。土と血と汗の匂いが混じった体臭が鼻孔をくすぐる。顔を上げて「どうした?」と問いかける前に、額に優しい感触が触れた。粗暴なカグヤとは思えないほど柔らかなキス。ついばむ音と自分はカグヤにキスをされたと認識しただけで、体中の血液が一気に湧き上がる。脳天を突き破り噴出する勢いで血液が駆け巡る。思考を司る脳みそは血液の熱さに負けてドロドロに蕩けてしまった。
「んな、んな、んなあああああああああああああ」
顔を赤くしながら叫びカグヤを突き飛ばした。「お前、お前お前えええ」と人差し指を突き立ててわめきたてる。そんな光成の様子を見て合点がいかないのはカグヤのほうだ。「あれ?」と首を傾げて再び光成に近づく。
「ち、ち、オ、オ、オレに近寄るなああああああ」
「うるせぇよ。たったアレぐらいでガタガタわめきたてんなよ。アレって地球の人間だと挨拶みたいなもんだろ」
「そっ。そソソソソそそそれは違う国の話だ! ここは日本! 日本人はそ、そ、そういうキ、キキキキキェェェェええええ!」
猿のような奇声にカグヤは耳の穴をほじくりながら呆れかえる。
「キスだろ。なんだコウナ。たったアレシコの血を吸われただけで二文字も言えない程イカれちまったんか?」
「んがああああああ」
髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き乱す。キスやハグをどう説明したもんかと約5秒、恋愛経験の乏しい頭で考えた。だが結論は出なかった。
「キ、キスはだな……。カグヤ。大切なもんだ。に、日本でキスをすると」
「すると?」
「……。こ、こ、こ。子供が出来るん……だ」
どうしようもない答えに声が小さくなる。あまりにもレベルの低い答え。この答えは自分の愛するゲームの答えだ。あまりにもレベルの低い答え。そのような答えしか言えない恋愛偏差値35以下の自分がイヤになり、どんな羞恥プレイなんだと心の中で罵倒した。
チラッチラッとカグヤの反応を見たが、彼は特に反応がない。
その反応すら自分の羞恥心に灯油を投げ込み激しく燃え上がらせる。「恥」の一文字が頭の塗りつぶし、とうとうカグヤの顔すらまともに見られなくなった。
彼は逃げるようにこの場を去った。この戦いを持って、先程までの出来事が一緒に消えますようにと心の奥底から願うのである。
小さくなる光成の背中を見て、カグヤは光成の答えを考えた。しばらく考えた後、手を叩いた。
「なるほど! 人間ってそうやって子供を作るのか!」
納得したが再び疑問が浮かび上がる。
「うん? じゃぁなんで日本って人間が少ないんだ? いーっぱいキスしている奴いるのに」
月の人間の疑問は深まるばかりである。




