希望の上で語るワルトトイフェル 02
「驚きましたねぇ。なぁんで戻ってきたんですか?」
公園の中心に彼はいた。ベンチの背に手を投げ出したまま、言葉に合わせて驚いた顔を作る。「困った困った」と言葉を重ねるも、言動と感情は直結していなかった。短い足をよっこらしょっ。掛け声と共に組み、芋虫みたいな指を膝の上に重ねる。「困った。困った」彼は同じ言葉を繰り返すと細い目を更に細め、二人を見つめる。黒目の奥からギラリと放つ光。射貫く光は周囲に佇む月駒を震えあがらせる。もちろん、光成の横に立つ女も、だ。小さな悲鳴をあげ、自分の身体を抱きしめブルリと体を震わせた。光成は察し、彼女をかばうように前に出た。
「おや、女性をかばうなんて男らしい」
「関係ない。オレはヒトだから、そうしただけなんだ」
「いやいやいやぁ。素晴らしい。実に素晴らしい。ヒトの優しさに心が震えますよ。貴方の優しさに触れて、体も震えてしまいます。寒いから震えたのか、貴方の素晴らしい心がけに震えたのかサッパリサッパリ。けれども、はい。素晴らしい事なので、きっと名言なはず。ヒトを捨てたイキモノにもぜひとも聞かせてあげたいものですねぇ」
もちろん、その中には彼女も含まれていることだろう。彼は彼女の動きをなぞる様に彼女を見つめる。だが、彼女はキャンサーからあえて視線を外した。キャンサーはもちろんのこと、彼女の意識は周囲の月駒にあった。キャンサーの周囲にいるのは能力の高い月駒だ。キャンサーの指先一つの合図で彼らは動く。彼女は光成に近寄らせまい。傷つけさせまいとあえて牙をむき出しにして睨みを利かせて威圧した。
「増見さん、貴方が庇いだてしているのはタダの女じゃないですよ」
「知っている。彼女から聞いた。そして、アンタがオレに渡した薬がどういう性質のものかも教えてもらった」
「それなら、話しは早いですね」
キャンサーは薄笑いを浮かべ目の高さまで片手を上げた。優雅に指を鳴らすと、棒立ちになっていた月駒達は「ギギギギ」「キャッ。キキキ」と甲高い声を上げて首を左右に振り騒ぎ出した。声は彼らの合図なのだろう。言葉の意味を察した女は急いで光成を「どいて」と勢いよく突き飛ばす。円の外に放り出された光成。円の内にいる女。月駒達の狙いは光成ではない。彼らは一歩 二歩 ゆらゆらと彼女との距離を詰める。男たちが歩いた跡には足跡と唾液の滴が残されている。互いの香ばしい体臭が嗅ぎ取れるまで距離を縮めると彼らは彼女に襲い掛かった。
まず、一人の月駒が彼女の顔を殴る。殴られた事に対して彼女も殴り返す。彼女は、光成が聞いたことのない低い唸り声を上げた。彼女の声に、男たちの落ちくぼんだ眼に光が宿る。
目の前にいる生き物は同族で、敵で、食餌だ。彼らも彼女もカグヤを探すことに夢中でなかなか食餌にありつけなかった。久々に相まみえる暴力。久々に食餌にありつけることで喜びのあまり感情のリミッターは振り切れている。
彼女は自分を殴った男の首(に喰らついた。顎の力だけで男の体を盾にして振り回す。遠心力により男の首の皮はミチミチミチッと剥がれだし、肉と脂肪が露出する。ブチッと皮が完全にめくりあがると、男の身体はポーンと吹っ飛んだ。
(美味しい)
前菜を数度咀嚼し飲み込むと、別の男が彼女の目を潰すように指を伸ばす。
(これはショートパスタ)
ジュルリと舌なめずりをし、差し出されたた指を噛みちぎった。
一方、彼らとてやられっぱなしではない。人の頭ほどの大きさの石を彼女の肩口に叩きつた。ヨロヨロとバランスを崩すと握りこぶしを鼻頭に浴びせる。「女だから」という枠は存在しない。多数の月駒が一人の月駒に暴力行為を行っているだけにすぎない。一見すると、一方的で彼女には不利に思える。しかし、月駒の単体の性質で言えば彼女が勝る。また、暴力行為の質が違うのだ。男たちは女を痛めつけるように殴る。だが、彼女は彼らを殺すため、急所を噛みちぎっている。数を削ぎ堕としていけば戦況は変化していくのだ。
「どうですか?ヒトならざるモノのイサカイは」
彼女に突き飛ばされ、尻もちをついたまま光成は月駒の戦いを見つめ、吐き捨てるように言った。
「イサカイ? 冗談じゃない」
目の前にある戦いは有史から培われた人の戦いではない。ましてや、獣の戦いでもない。獣は生きるために戦うが、月駒は果たして何の為に戦っているのだろう。彼女のように「カグヤに会う」という意思はない。意味もなく繰り広げられる気つけあう行為はこの上ない時間への侮辱行為に見えた。
「こんなもん、ただの醜悪な人形劇だよ」
口に出したが、月駒は人形にも劣る。人形はイキモノを模して作られる。月駒の姿・形は人間に似ているが、人間でも動物でもない。イキモノではないのだ。故にイキモノではない彼らは人形に当たらない。ただ、人間を捨て、月に堕とされた者の憐れみと侮蔑を込めて、あえてそう表現したのだ。
「醜美の感覚は人それぞれですよ」
キャンサーの答えに、光成は鼻で笑った。腰をあげ、臀部についたこびりついた砂を手で払い落す。
(こいつは、人間の弱さを弄んでいる。)
キャンサーは人間の弱さを熟知している。弱い人間にどんな言葉をかければ、コロッと自分に靡くかを理解し弱みを吐き出させる。彼女は自分が弱いからと、自分を責めてキャンサーの行為を完全に否定しない。そのような人間の弱みに漬け込み、自分の都合の良いように壊して 壊して 壊して 壊して 自分の興味の赴くまま人をヒトからヒトナラザル者へ堕としていく。手に残った者は、選ばれたモルモットとして使い潰されていくのだ。
キャンサーに生み出された月駒という存在に同情と侮蔑の感情が混在する。また、恐怖もあった。光成も、時と場所が異なれば彼らと同じように人の位置から転落する可能性が会ったのだ。鼻で笑っても、彼らの姿はありえたかもしれない自分の姿。
暗い将来に昏い瞳で見つめていた少年時代の心が、今の自分を通して氷のような静かな怒りを湛えていた。
「キャンサー、カグヤはどこだ」
低い声に、キャンサーはコケティッシュな笑顔を浮かべ「うーん」とわざとらしく甲高い声をあげた。
「私ぃ、あなたに言いましたよねぇ。月の領域の問題に関わるなって」
舌足らずな言い方に顔一つ変えず、光成は質問を繰り返す。
「答えろ、カグヤはどこだ」
「最初の問いに貴方は答えていないのに、どーぉして私が答えなければならないのですか?」
ニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべて彼は質問を突き返す。光成は会話の順序に納得し、彼の質問に答えた。
「それは悪かった」
しかし、光成の険しい表情に変化はない。
「カグヤとあんたの問題は、月の問題だ。でも、オレがいる。オレという異物があんた達の問題に入りこんだ」
そういうと、光成は服の裾をめくり腹の穴を見せつけた。
「これは、月の人間達が行った仕打ちだ。問題は月とか地球とかそんなもんじゃない。オレとあんた。オレとカグヤ。いるのは、加害者と被害者。ただそれだけだ」
腹に穿たれた穴は、普通の穴ではない。地球の医学でも「奇病」扱いされる特別な傷。この傷が癒えない限り光成に平穏な日々は訪れない。
「地球は、罪に対して罰を与える。アンタもカグヤもオレをこんな風にした罰を受けなければならない。そして、アンタもオレを巻き込んだことに対する罰を受けてもらう。いいや、それだけじゃない。あんたは人の弱みに漬け込み地球の人間を壊しつづけた。ほんの少ししか時間を共有していないけれど、あんたは、自己都合で壊した日常を償わなければならない。カグヤもあんたも、自分の犯した罪を償わない限り、月に戻る(罰を逃れる)ことは許さない」
キャンサーは「おやおや」ととぼけた声を上げ、ゆっくりと立ち上がる。一歩 二歩とにじり寄る。距離が狭まると、周囲の地面を踏みしめる足が少し また少しとのめり込んでいく。彼は笑いながら見えない重圧をかけて線の細い体を押しつぶす。
彼は禿げ上がった自分の額をペチンと叩く。わざとらしく驚いた様子を見せると、突然声をあげて笑い出した。息と笑いが入り混じり、呼吸のバランスが崩壊する。ひとしきりギャハハギャハハと腹を抱えて笑うと流してもいない目尻を拭った。
「増見さん、言葉は大切に。地を這う地球の民が、頭上に戴く月の民に罪を造る理由はない。もちろん、我々が罰を受ける理由はどこにもない。私と君たちとでは立つ位置が異なる。我々に罪と罰など言えない。そもそも、君たちは本来我々に触れる事が出来ない関係にあるんだ。それに何故気づかない」
「気づきなよキャンサー。俺たちは地球の民は1969年、あんたたちの顔に足跡を残したんだ。月は、地球に一度キズモノにされ堕とされたんだ。オレ達はあんたたちに触れることはもう出来るんだ」
1969年7月20日 アポロ11号が月面に着陸した。月面に残した足跡の疑惑は持たれつつも、歴史に刻み続けられている。
あの日以降、月は地球の手の届く惑星に落ちてしまったのだ。
月面着陸は月でどう認識されているか、光成の想像は及ばない。だが、あの時の出来事を口にしたことでキャンサーの纏う空気は明らかに変わった。余裕綽々の色は消え失せ、耳たぶが赤く染まり、眼球の中で黒目が落ち着きをなくし駆け回っている。
「かつて、一人の月の女が地球の人間を利用したように、地球の人間は利用されれば良い。たった一度の成功で粋がるな。地球人」
「いやだね。利用されるだけで終わらない。ここで終わってしまえば、終わった人間の意味が無くなる。カグヤの理由を聞かなきゃ。お前は何の為にココに来てどうしてこうなったのか。それを聞かなきゃ、アイツを殴る事すら出来ない。」
「カグヤを殴れれば満足ですか? 罰は終了しますか? それぐらいなら目を瞑ってやってもいいですよ」
キャンサーの問いに光成は首を横に振る。
「まさか。そんなもんでワリに合うと思ってるの?」
理由は言わなかった。すべてを知らせる義務は光成にはない。彼の決意の激しさは、背後で荒れ狂う女が代弁してくれた。
彼女は地面に叩きつけられたが、弾かれるように立ち上がる。自分を傷つけた月駒の首を掴み、お返しとばかりに舌を引っこ抜いた。彼女は生きるために戦う。光成は知るために対峙する。全てはカグヤに会い、自分を取り戻す。自分たちは人間としてあるべき姿を示す為、地の上に立つのだ。
「詫び状は月には届きませんよ」
光成は最後通牒を突っぱねた。和議はご破算。散り散りになった未来(平和)をせせら笑うように言葉を突きつける。
「大丈夫。アンタの死亡診断書はカグヤに頼んで月に届けてもらうから」
キャンサーは、「そうですか」と静かに返した。額をポンと叩く。両腕をダラリと下ろした。唇を動かさずボソボソと耳障りな言葉を漏らした。すると肘から下だけがガクガクブルルと激しく揺れ始めた。カクカクと関節のクリック音ではなく、スマホのバイブ音を思わせる音も聞こえている。壊れたマリオネットのように激しく不気味に鼓動する腕。光成は奇妙な光景に目が釘付けとなる。
「あ゛ぁ゛。あ゛、あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛」
キャンサーは天を仰ぎ喘ぎ、声を漏らす。声に合わせ、前腕の可動範囲が広くなる。200°は優に超えていた。肘関節は脱臼が予想される。だが、肘関節の脱臼は、伸ばした腕から落ちる転倒でよく見受けられると聞く。あのようにただの前腕前後運動による脱臼は考えにくい。
(ホント、まどかちゃんのいう通りまじめに勉強しておけばよかった)
にわかに信じがたい現象はまだ続く。
前腕がグルリと三百六十度回転した時だった。
体操選手の鉄棒種目の着地のように、ボトンと両肘から地面に落ちた。
血の色を失った青く透き通った肘までの腕。白い骨も赤黒い血管も黄ばんだ脂肪も。人体模型の断面図を模したゴム手袋が落ちたとしか認識できなかった。
「久々ですねぇ」
腕が落ちたにも関わらず、キャンサーの声は清々しくサッパリとしている。大きな溜息をつくと、切断面からニチャニチャとミンチをこねくり回す音を立てながら青白い棒がニョキニョキと生えだした。
(あぁ。腕だ。腕なんだ。肘から生えているのは前腕で……。じゃぁ、なんで、なんで?)
腕が生える。手首まできれいに生えた。しかし、五指はない。左手は歯科で見るふくらはぎ程の掘削用のドリル。右手は、人の太ももの大きさのある奇妙なペンチ。
「おや、私の腕が何か?」
言葉を言うや否や、キャンサーは飛び上がり、光成の胴体を掴んだ。ペンチの圧に体内からいやな音が響く。おまけにペンチの内側には不規則に鋭い突起が生えている。突起が肉に食い込む痛みに、光成は呻くような声をあげた。眉間に皺を寄せ痛みから逃れるよう顎をあげる。
「おやまぁ。自分の体一つ満足に環境に適応出来ないだなんて。地球の生き物は悲しいイキモノですねぇ」
「残念だな。地球ではそういうイキモノを変態って言うんだ」
痛みから逃れるよう強がりを返す。キャンサーから言葉による回答はない。
その代わり、ペンチに更なる力を加え、棘をさらに深く体に食い込ませた。




