プライベートエネミー(3)
人間の舌が透明なエメラルドグリーン色に変色するなど聞いたことがない。人間が生きる上でエメラルドグリーンという特殊な色は不要だ。頭の中でグルグルめぐるのは人間の細胞と植物の細胞の違い。現実から一歩でも逃れるための思考。だが、浅学な彼は、すぐさま知識の壁にゴツンとぶつかり、再び現実に戻される。
手で顔を覆い、逃れる光成に、彼女は悲しそうに笑う。
「私、みたいになりますよ。あの薬を飲むと」
重ねて言う彼女の言葉を聞き、光成は薬をコンクリートに叩きつけた。短くパサッと乾いた音が跳ねる。明確な拒絶だ。彼女は彼が捨てた薬を拾い上げ、うなだれる光成を見つめる。
げんなりと悲しみに耽る彼から視線を反らす。この男は、彼女の言葉を最後まで聞くその一瞬まで、一抹程キャンサーを信じていた。だが、善意の皮を被り、渡したものの正体を知れば、事は明らかになる。
とどのつまり、彼は薬を飲もうが飲むまいが、月のしがらみに囚われ続ける。
暗澹たる袋小路に、髪をワシャワシャと下記見出し、彼女の腕をつかんだ。
「なんでオレだったんだ! どうして。どうしてオレが狙われてこんな目にあわないといけないんだ! オレは何もしていない。オレは関わりたいと思ってない。オレはあいつに助けてと救いを求めたことすらない。でも、どうしてなんだ。君も、アイツラもどうしてオレをおかしなことに巻き込もうとするんだ」
「――。ごめんなさい。確かに貴方は被害者です。本来なら、私は貴女にカグヤを守れ。と願うのはおかしい。でも。でも……。貴方はもう被害者面できる立場はとっくの昔に過ぎているんですよ!」
彼女は光成の腕を払うと、血で汚れた彼のシャツをまくりあげた。
「貴方だって気づいていたんでしょう? 自分はもう戻れないって。自分はもう普通じゃない。それを知っておきながら知らないフリをして。現実から逃れて。のらりくらりと今まで生きてきただけじゃないですか!」
薄いシャツから現れたのは、腹部に空いた穴。後ろの景色をはっきり捉える事ができる大きさだ。光成はめくられたシャツを引き下ろし、ヒステリックに叫ぶ彼女をにらみつける。
「どうして、知ってるんだよぉ」
腹部に穿たれた穴は、誰が見ても「生きていることが不思議な」穴である。あるべき内臓の一部もブチンと切れていた。
光成も、この穴に気づいたときは気が狂ってしまいそうなほど動転した。なぜ。なぜと見えない過去に問いかけるも、記憶ははっきりとしない。母親の証言。周囲の証言。前後の記憶と照らし合わせても原因ははっきりとわからなかった。「不明」この二文字に翻弄され、理性が焼ききれんばかりの恐怖に怯え、のたうち回った。
唯一わかることは「何もしなければ死ぬ」だが、「知られれば、日常は戻ってこない」
光成は、傷口にばい菌が入らぬよう、フィルム保護を施し、日々の体の状態を日記に記していた。食欲の変化。排泄回数。感染兆候の有無。手技の反省。出来るだけ、日常を過ごせるよう、出来る限りの事を心がけた。
そして、キャンサーと出会い、自分の見えない過去に触れたことで傷の原因がうっすらと理解できた。しかし、核心部分は未だに濃い霧に包まれている。
光成は、穴をかばうように立ち、彼女を睨む。
「なんで、知ってたんだよ」
同じ問いに、冷ややかな目は端的に答えた。
「だって、貴方のソコから、カグヤの匂いがしますから」
彼女の言葉とともに、フィルムの端から血がにじみ出る。毒々しい赤色。ビリリと走る痛みに、自然と体が曲がる。
(なんで、どうして……。そんな事。オレとカグヤは……)
血液は服に赤い花を散らす。繊維が吸い込み切れないほど沢山の蜜を流し、彼の白い手を汚した。
自分の血液でありながら、とても良い色をしている。コスモスレッドの血液は自分に触れてと囁き始めている。素手で血液に触れてはいけない。鉄則だ。だが、血液の色があまりにも美しかったので触れてしまった。汚れた血液は不潔である。舐めることも厳しく禁じられているが、とても良い匂いがしたので、舌の上に乗せてみた。ビリリと走る電気信号は、一口 二口で舐る度に濃くなっていく。電気は光成の霧を薄くし霧散した。
眼前に現れる走査線。女の姿もザザッ ザザッと砂嵐とともにくの字に歪んで消えいく。代わりに現れたのは、質の悪いVHSに録画された記憶。赤い月がかかる夜の出来事。見知らぬ男に腹部を穿たれ、「死」を予見した。それでも、「生きたい」と願ったやっとの思いで言えた一言。彼は、笑顔を浮かべると、何かを言った。「何?」と問い返すより、温かな唇が降ってくる。鉄臭いキスの味にクラクラと酔わされ、グラグラと地と空が溶け合っていく。
(カグヤ、君は……)
マーブル状に溶けた記憶は過去を経てようやく彼の元へ戻ってきた。
「大丈夫ですか?」
女は膝をついている彼に何度も声をかけた。目の焦点が合い、意識を取り戻した時、ようやく自分の中にある霧 違和感が氷解した。
「あいつは……」
光成は、腹部を見る。出血はおさまった。痛みもない。それは“カグヤ”のおかげだ。
「オレに自分の命を分け与えたんだ」
月の血と地球の血が混ざりあった存在。それが今の増見 光成。カグヤを月の人間・そして彼女のような存在が血眼になって探している今、光成は絶好のエサだ。光成はカグヤの代替品になる可能性を持っている。カグヤは光成のプロフィールを隠れ蓑にしたが、同時に彼を守っていた。言えば混乱する。己を秘匿し、夜な夜な徘徊する彼はどのような思いでいたのだろう。
(前提が違うかもしれないけれど、結果として彼はオレを守っていた)
「君がオレからカグヤの匂いがするのはあたりまえだよ。オレの中にはカグヤの血が入っている」
「えぇ。だから、巻き込まれたのです。貴方の吹き出す血は、あまりにもカグヤの香りが強すぎる。いえ、生きているだけでもカグヤの匂いがするぐらいです。巻き込まれるには相応の理由です。被害者だけれど、きっと月の人間には関係のないことでしょうね」
二人は沈黙する。光成は被害者。口に出したが、舞台に引きずり出された以上、逃げることは叶わない。重苦しい空気に光成は何度目かの溜息をつく。
「オレがカグヤに味方をすれば君は助かるのかい?」
「わかりません。ですが、助かる術は知っているかもしれません」
光成は再び黙り込む。キャンサーとカグヤは敵対関係にある。キャンサーは「証拠隠滅」の意味を込め、必ず殺しに来る。自分が殺されないために、キャンサーに対してカグヤは抑止力として効果的だ。対キャンサー という構図の中でカグヤは有効である。
問題は、それ以降の事である。キャンサーという敵対関係がなくなれば、彼はどうするだろう。光成の頭の中で、命を分け与えた者が、命を取り戻す光景が目に浮かぶ。腹部を穿たれた時以上の恐怖が待っている。想像しただけで、彼の体はガタガタと震えだした。
「大丈夫ですよ」
そう声をかけたのは彼女だった。背後から抱きしめ、耳元で優しくささやく。柔らかな石鹸の香りに、光成の眼球が白い手を捉える。
「カグヤは、貴方を傷つけない」
「なんで、そんな事言えるんだよ」
「――。彼には良心なんてありません。でも、彼は自分を傷つけない限り、自ら率先して傷つけようとはしません。それに、貴方を見たときのカグヤは――」
そこで言葉を止める。
光成を見つけたときのカグヤの横顔はとても嬉しそうだった。失くした物を見つけた子供のように破顔し、言葉を交わしただけで飛び上がるほど喜んでいた。
良心のないカグヤがどうして彼に執着するのか、彼女は知らない。しかし、カグヤが見せた思いは真実のように見えた。
「ねぇ、貴方にとってカグヤってどんな人?」
「どんなって、カグヤは月の――」
「月の人間とか、だました人間とか、そういうのは抜きにして」
答えを言うまで離さないと言いたげに、彼女は光成を抱きしめる。背中に当たる柔らかい感触に「おぉぉう」と声が漏れてしまいそうだった。あくまで平静を装い、胸の感触を味わう。理性で答えようとするより、口が早い。言葉は、ポロリと零れ落ちた。
「ワガママ。すっごくワガママな子供」
自然と出た一言に表情が緩んでいく。
「好きも嫌いも激しいし、大人しい顔して無知を装っても、絶対に無茶を通そうとする。でも、アイツはそれが“ワガママ”って事を理解していない。なんで、ワガママがいけないのかも知らない。自分の中にある感情に振り回されて、わからないまま何でも口にしてしまう」
知らないことを知り、「そうか!」と喜ぶ顔をみた。夜の街は危ない。という説明に目を輝かせて聞いている。知らないことだらけで刺激を受ける彼は本当に「子供」なのだ。
「あいつは、子供。大人になる事を強要された子供」
カグヤの笑顔がよぎる。心の底から思った。
「もう一度、カグヤに会いたい」
「……」
「カグヤにあって、もう一度話をしたい。お前は何者で、何の為に地球にきて、お前は何をしたいのか。お前は何を望んでいるのか。どうしたら、オレは元に戻れるのか。オレは、カグヤに会って話したい。会わなきゃ、何も変わらない。会わなきゃ、オレは終わってしまうんだ!」
光成を拘束していた腕がほどかれる。そして、差し出された手の先にある笑顔は光成の言葉を理解した。
「会いましょう。カグヤに。私を取り戻すために」
「あぁ。会いに行こう。カグヤに。彼を知るために」
二人は大路に背を向け駆け出した。
禁じられた月との再会。戻れる道に緞帳が落ちた。