プライベートエネミー(2)
曰く。
彼女は勉強が全くできなかった。引っ込み思案で友達も少ない。二つのマイナスが重なり合い、教室の隅でいつもうつむいていた。「高卒だけでは」と言う親の懇願を受け名前を書けば合格する専門学校へ進学するも、そんなレベルの低い専門学校ですらなじめず、流されるように就職活動を始める。「やりがい」「魅力」などわからず、なんとなく活動をして、内定がきた企業に就職した。
仕事の仲間にも恵まれず、仕事で時間をつぶし日々が過ぎていく。「なんとなく」過ぎていく日々。感情を満たす趣味は無く、「なんとなく」出来た彼氏に鬱々とした感情を吐き出すが、「お前が悪いんだろう」の一言で会話が終わる。
「わたしってなぁに?」
出口の見えない暗闇の中、日々募る劣等感。「人の足を引っ張る仕事」にいそしみ、人に合わせられず詰られる。「何をするべきだったのか」がわからず、罵倒される。誰からも理解されない。他人は自分の住みやすい世界があるのに、どうして自分はないのだろう。他人を羨むより、自分の無力さがいやになる。
「どうして自分は世界になじめず、つま弾きになるのだろう」
その疑問が声となった日、暗闇の中から声がかかる。「貴女はかわいそうな人ですねぇ」
そういって差し出された外法の手。「何を」と彼女は言うが、「誰からも認められない貴女がかわいそう」と彼は言う。
彼は、「辛いですよね」「かわいそうですね」それだけを言う。
そう言って差し出された手に彼女は思わず縋りついてしまった。
「貴女はかわいそう」その一言が欲しかった。言葉は荒んだ彼女を慰める。もっと「慰めて」「もっと憐れんで」と泣きじゃくる彼女に、彼は頭を優しくなで、ある薬を差し出した。
差し出された薬を見て、彼女は「これは危ない薬だ」と理解した。
「イヤなことを忘れたいのでしょう? 安心なさい。何も怖くはありません。この薬は、貴女の悪夢から救い出してくれるのですよ。」
甘美な一言に抗えない。震える手で薬を受け取ると、その場でむさぼり泣きながら飲み干した。すると、閉じられた世界にまばゆい光が差し込む。
光は、彼女の有能ぶりをささやき、開かれた世界は彼女を誉めたてる。
変容する感覚は心地よい。自分は何におびえ、何を恐れていたのかわからなくなった。
ただ、なんとなく、
「私を認めない社会は愚かだ」
「私を認めない会社は害悪だ」
「私を見下した彼氏が極悪だ」
親が子供を教育するよう、彼女は悪いことをした存在にバツを与えた。
いやな仕事を押し付けてきた先輩に、大きなケガをさせた。
彼女を「知的障碍者」に仕立て上げ補助金をせしめようとした会社は社会的に消えてもらった。
彼女の話をまともに聞かなかった彼氏は、彼女の事を良く知るよう、頭からバリボリと食べた。
壊したことで得られる満足感
傷つけることで得られる征服感
失った事で気づく罪悪感
消えた事で知った後悔の念
彼女は日に日に増大する感情におびえ、日にちに比例して、薬を服用する回数も量も増えた。小さな喉仏が上下するたび、天から声が聞こえてくる。
「カグヤを探せ」
「? カグヤってだぁれ?」
そう質問しても答えは出ない。
薬と問答を繰り返し、とうとう彼女の手持ちの薬は底をついた。彼女は仕方なく、キャンサーを求めて夜の街を徘徊する。同じ匂いのする人間から薬を奪いその場で飲み干し、また薬を奪う。彼女の薬を狙う輩は、「正当防衛」の名の下で頭からバリボリと命をいただいた。
奪い 殺し また奪う。
血で汚れた先、キャンサーの下にたどり着くと、彼は彼女の努力をほめたたえた。
「貴女はやればできる子」
「貴女はとても賢い子」
「頑張り屋さんの貴女は大好きです」
彼は微笑み、彼女に新しい薬を渡して神託を告げる。
「カグヤを探せ。カグヤはすべてを満たす。カグヤを探せ。差し出したモノには月の褒美が与えられるだろう」
キャンサーの言葉は水琴窟のように響きしみわたる。
コトン(カグヤ) ポチャン コトンポッチャ
カグヤがどのような人間か知らないが、なんとなく「何者か」を理解した。いや、薬を飲み続ければ飲み続けるほど、カグヤの存在をはっきりと捉えることが出来た。
その境地に至ったとき、彼女の体は地球のモノからはずれ理性も地から浮いていた。
「カグヤを初めて見たとき、あの人言葉が理解できました。彼は、あの人の言う通り、私たちを助ける力があるって。その一方で、あの人の品格の無さに呆れかえってしまいました」
「まぁ、そこは否定しないよ」
「私は、あの人には感謝しています。私の叫びに気づいてくれたのはあの人だけです。だから、私はあの人に恩義を感じます。ただ……」
彼女の眦から暖かい液体が珠のように零れ落ちる。涙を止めようと目じりを拭うも、感情は止まらない。
「どうして、私だったんですか? 私は、ただ普通でいたかった。みんなと同じように、幸せな世界を持っていたかっただけなんです」
軽い気持ちで始めた薬は違法薬物と同じ結末をたどる。
日常では味わえない破壊の快楽を知った脳を正常に戻すのは不可能だ。壊れた脳を「正常」であるかのように演じるのは鋼のような精神力を要する。残念ながら、彼女は鋼鉄の精神力は有していない。
だが、彼女の極端に運が悪かった。「助けて」を忘れた彼女に「助けて」を教える人間はおらず、「助けて」を言えたのは手の付けられない状況下だ。授業で聞かされた「不幸な終末期」によく似ている。
「一番悪いのは私です。あの薬に手を出した私です。だから、覚えていてください。あの薬を飲んだ者の末路がどのようになるのか」
彼女は口の端に指を突っ込む。引き上げた口角からダラリと長いエメラルドグリーン色の舌を見せつける。
血と肉と骨を堪能した舌には無数の切り傷が見受けられる。ハリと弾力のある舌がプルンと震えた。
光成は目を見開き、世闇を引き裂く叫び声をあげる。
鋭い声は、彼女の頬を涙で濡らした。