プライベートエネミー(1)
「ありがとうございます。ここまでで結構です」
光成の目の前にようやく見慣れた景色が現れた。時計を見ると新しい日にちになっている。大通りを歩く人影は無く、制限速度を無視する車もない。街燈は、光と影の境界線をぼやかす。それは、悪夢と現実を示しているようである。寂しい光景であったがようやく訪れた日常の風景に光成の心に光が差した。
「タクシーを拾いますけど、君は?」
「えっ?」
彼女は光成と目を合わせる。公園からずーっとつないだ手と彼の顔を交互に見合わせ、慌てて手を払いのけ、シャツに手汗を押し付けた。
「わ、わ、わ、私は戻ります。き、きっとあの人が待ってますし……」
「……。あのー、一つ聞いて?」
「な、なんですか?」
「もしかして、君もやっぱり月の人間だったりする?」
光成の問いに、彼女は「ギャー」っと大きな声をあげ、光成の腕をペチペチと叩き出した。
「違います! 違いますって! 私はあの人たちとちーがーいーまーすぅぅぅ。私は、あの人たちと違います。首をガーッって切られれば普通に死んでしまいます。だから、普通に死んじゃう人間なんですううう」
頬を膨らませ、プリプリとおこる表情を見て、彼女は自分と同じ人間だと確信した。漫画で見る仕草を同世代の人間が行うと、かなりイタイが、日常の空気に近い。普段が戻りつつある空気に、頬が緩む。
「じゃぁ、あいつらと一緒にいる意味はないんじゃ……。あいつら、月の領域の問題に口を出すな。って言ったじゃないか」
「ぐ、ぐぬぬぬぬぬぅ。それはそうですけどぉ」
「本当に帰るの? 本当に良いの?」
「うっ。うううううう……」
彼女の本音はすぐそこまで見えている。「自分も逃げ出したい」だが、逃げればどうなるかも理解している。彼女の心は未だにキャンサーの手の内だ。しきりに周囲を見渡し、見えない監視者におびえている。小路から大路へ一歩を踏み出す勇気も踏ん切りもつかないでいた。
「あ、貴方は帰っても大丈夫だと思ってるんですか?」
「うーん……。あの二人にも言われたし、オレの役目も終わった。君だって、君の役目は終わったはずでしょ?」
彼女の役目。それは、カグヤをあの場所へ連れていき、光成を送り届けること。キャンサーは別れ際、二人に「お気をつけ」と声をかけた。何に気を付けるのか。詳細は不明だが、光成には無事を。送迎役の彼女には「彼の安全を」念押しにかけた言葉だと踏んでいる。
「君はこれ以上、彼に関わる必要はないよ。今は、オレを送り届けるだけで済んでいるけれど、これ以上はわからない。今なら、まだ間に合うよ」
饒舌な光成の口調。悪の道へ転がり落ちる姫を救うシチュエーションというのは心地よいものだ。彼女はきっと自分の手を取る。そのような夢想は、童帝らしく甘ったれた考えである。甘ったるい考えは普段では口にしないような言葉まで軽々しく発してしまう。
「それに、オレは君に生きて欲しい」
「わ、私に?」
「そうだよ。そうじゃなきゃ、俺は君に責任を果たせないんだ」
そういうと、彼女のスカートを指さした。そこには、濃いシミと食餌残渣がベッチャリと付着した濃いシミ。光成が内容物の痕跡だった。彼が嘔吐し時間が経つ。汚されたスカートを見るだけで、間近で据えた匂いを嗅がされた錯覚に陥る。汚されたスカートの明日はゴミ箱行きだ。
「ゴメン。君に迷惑をかけるつもりはなかったんだ」
彼女は汚されたスカートを凝視する。彼女は“今”気づいたような表情で、目を大きく見開いた。小さく「あっ」とつぶやくと、少し物憂げな表情で彼を見つめる。
「弁償、してくれるんですか?」
「可能な限り対応するつもりだよ」
その姿勢は誠実な姿勢だ。と彼女は思った。誠実な姿は夜でも光り輝く。街燈の光もかすむまばゆい光に目を細めてしまう。光が目に刺さる。ズキズキと眼球を射貫く痛みに声を押し殺す。呼吸を意識し、胸に手を重ねる。唇をまっすぐ噛み、喉からせりあがる感情を一つ一つ解きほぐす。何度も何度も唾液を飲み干し、喉が潤ったところでようやく言葉がスルリとこぼれ出た。
「なら、貴方はカグヤの味方でいて下さい。それでスカート代はチャラです。」
悪の道に転がった姫は、王子の淡い夢をボロボロにちぎり捨てる。
淡い未来の先に見えたのはカグヤの姿。「関わるな」と言われ「関わらないと宣言したが、彼女の願いは、月と地球の意思を無視するもの。突然の申し出に混乱するのはもちろんだ。光成はへばりついた笑顔をかなぐり捨て「なんでえええ」と叫びだす。
「んな、んな……。なんでカグヤが出てくるんだよ! カグヤは関係ないはずでしょ? それに一体どうしてオレがカグヤを守らないといけないんだよ!」
「だって、私に生きてほしいって言ったのは貴方じゃないですか。それに、私も少しの間でしたがカグヤと話をしましたよ。短時間だったけど。彼には針の先程の良心は無いなぁって思いましたし、ハッキリ言って苦手なタイプです」
(小指の先ぐらいの良心はあるよ。カグヤは)
「それに、あの人は私も貴方も生かすつもりはないです。形はどうであれ、彼は私たちを殺します。今は逃げられても、あの人がいる限り私たちは安心してベットの上で死ぬことはないでしょう」
彼女の強い口調に反論できなかった。彼女の言う通りである。二人は存在してはならない月の手垢がついた存在だ。当人たちが「何も喋らない」といっても信用度は皆無。秘匿されるべき月の存在を知った以上、自ずから手を下すのは自明の理。誰だってそうする。様々なエサを躊躇なくまき散らし、活用できるものは片っ端から使いつぶす。そんな彼が光成達を信じ見逃すわけがない。世界は甘くない。知恵なきモノは真っ先に食われる。光成がカグヤに言った言葉だ。月の人間と関わった以上、「逃げる」か「死ぬ」かの選択肢しかない。
逃げられる。と都合よく考えていたのは現実からの逃避。これ以上「死」を予見することには関わりたくない防御反応である。しかし、彼女は逃げようとする彼を逃しはしない。どれだけ現実から目をそむけても、彼女は彼を生かすため、言葉を重ねる。「このままでは必ず死ぬ」と繰り返し説き伏せた。
「なんで……。なんでそこまでわかっていながら君は関わったんだ。オレは、カグヤを知ったから巻き込まれただけで。でも、君は……。君は彼の性格を把握するまでどうして関わったんだ」
男の絞り出す声に促されるよう、彼女はスカートのポケットからあるモノを取り出した。それは、切手程の大きさで肌色をしている。見覚えのある代物に、彼は息を飲み込み慌ててズボンに手を突っ込み、隙間から中を覗き込む。彼の手中にあるもの。それは彼女と同じもの。キャンサーが渡した「すべてを忘れる薬」だ。
「すべてを忘れる薬。らしいですね。私のは、イやな事を忘れる薬って言っていました。どちらにしろ、手を出してはいけない薬です」
そして、一拍の間を置き、口を開く。
「だけど、私みたいな人には、救いにもなる薬です」
彼女は薬を握りしめる。一度捨てる仕草を見せたが、かざした拳はスカートの中へ隠れていく。
最後の一歩がまた踏み出せない。自分の意気地のなさに嫌気がさしたのか彼女は悔しそうに目を細める。
「昔から思っていたんです。私は社会になじみにくいつま弾きモノだって」
彼女は自虐的に笑う。そして、滔々と語り始めた。彼女とクスリ。そして月の人間との出会いについてだった。




