カッコウのタマゴ(2)
静まり返った公園の空気が震える。突如として現われた新たな気配。
ソレは振り向いても眼で捉えることの出来ない透明で強大な存在。光成は、呼び起こしてはいけない存在を呼び出したことに気づいた。ソレは、彼らが生まれるずーっと前から存在し、彼らが気づく前からこの場所、いや、瓜破市、日本、地球全体。ありとあらゆる場所で根付いている。人々の会話、行動を全てを見守っていた。
彼は、えもいえぬ存在と国造りの巨人「ダイダラボッチ」を重ね合わせた。
ダイダラボッチは耳をそばだて、光成の言葉を待っている。もう一度、言ってみろと空気を震わせ伝えている。
光成は息を吸い、成らばとその言葉を重ねて言った。
「カグヤ、君は月の人間だったんだね」
言葉の後、再び静寂が広がる。ただ、その静寂を透明なダイダラボッチは噛み締めると、空気が一変する。
無味乾燥であるはずの空気は形を変え、どこもかしこ、糸電話の糸が震えるようにブルブルブルと振動を始めた。ダイダラボッチが動いた。そう思った矢先、カグヤは悲鳴をあげ、その場にうつぶせに倒れこんでいた。
ダイダラボッチの大きな足の指先はカグヤの体を地面に押さえつけている。
「やっ、や――」
カグヤは振り向き、振り返る。ダイダラボッチは両足首を掴むと、紙でも裂くように彼の体を真っ二つに引き離し始めた。
「あっあああああああああああああああああ」
それはまさしく「股裂き」だ。七転八倒の苦しみに悶え、体を捻るようにのた打ち回る。「逃げたい」「助けて」の言葉より悲鳴が零れ落ちる。仕方があるまい。この場で彼を助けるものは誰もいない。もし、カグヤが手をさし伸ばしたとしても、彼の目の前に立つ男や月駒達は腕を払うか、もしくは、折るか。それしかない。伸ばしかけた手を引っ込め、代わりに砂を掴む。歯と歯の隙間から男とも女とも判別のつかない唸り声を上げ、助けの言葉をかみ殺していった。
(あぁそうだ。助けなんてありえない。助けてもらえるなんてありっこない。元々俺は一人なんだ)
救いを期待してはいけない。幼い頃から自分に言い聞かせ、生き延びてきた言葉だ。
救いを求めても「カグヤ」だから救ってはいけない。哀れみたくとも哀れんではいけない。救われたくても「カグヤ」を求めてはいけない。彼は「カグヤ」なのだ。「カグヤ」はイキモノであり、全てが違う。救いを与えるのは不敬。救いを求めることも不敬。
例え女の体から零れ落ちた命でも、「カグヤ」の名を戴いた以上月で助けを望むことは許されない。
そのような環境下で、彼は月から逃げ出した。
月と地球は異なる。何も知らない地球の人間ならば、自分を救ってくれるかもしれない。そして、自分に「助けて」と救いを求めるかもしれない。
救い 救われ。そうしてやっと自分は痛み以外で自己を認識できる。と思った。
カグヤの考えは当たった。何も知らない地球人は、カグヤに「助けて」と救いの手を伸ばした。
だが、前者は果たされることの無い夢だったのだ。
(そうだよなぁ。俺はコウナを利用した。コウナを騙したうえで、救ってほしい。だなんて都合が良すぎるよなぁ)
強烈な傷みが引いていく。足は麻酔がかかったようにポカポカ、フワフワとしており、うまく力が入らない。腕に力を込めるも、見えぬ重石が乗っている。
(あぁ、涙が出るぐらい情けねぇなぁ。俺)
痛みでおかしくなったのか、カグヤは顔を地に伏せ「ヒヒッ」と自虐的な笑い声を零していた。
「お分かりになりましたかぁ? 増見 光成さん」
光成の背後から声がした。砂を掴むカグヤの手も止まった。月駒の輪が途切れ、皺だらけのスーツを自慢げに見せる男が現われた。
「あなたは――」
キャンサーは光成にウィンクを送ると肩に手を回し、馴れ馴れしく頭頂部に顎を乗せた。
「いかがでしたか? 私の言ったとおりだったでしょう? 『カグヤは月の人間だ』と言えば、面白いものが見れますヨって」
頭上から降り注ぐ声に、ようやくカグヤの顔が上がる。
「増見さん、どうでしたか? アナタを裏切った人間の醜態は。スカっとしたでしょう? ホッと安心したでしょう」
「それは……」
光成はカグヤから視線をそらす。裏切り者が処罰を受ける。当たり前のことだ。そして、自分を騙し続けていた男が苦しむ姿は、自分が虐げられたお返しに十分。自分の代わりにアレが罰してくれたと安堵する半面、どこか釈然としなかった。
「キャンーーサァ……」
地の底から這い出した声。二人は息を荒げる彼に視線を移した。
「てめぇ、ソイツに何を言いやがった」
自分の呼び方が「コウナ兄さん」から「ソイツ」へ変化していた。コウナは、彼が自分のイトコではなかった事実に不思議とズキンと胸を痛めた。
「何を――。って、アナタの事を少ぉぉしお話しただけの事ですよ」
キャンサーは勢いよく光成の肩を再び掴んだ。パンッと乾いた音に「ウワッ」とマヌケな声が飛び出した。
「イケません。イケません。お世話になった人に何も教えていないなんて。大体あなたはミステリアスな柄じゃないでしょう?」
光成はカグヤから目を背ける。彼を知ってしまった以上、目を合わせづらいのだ。
「だから教えてあげました。彼は月の人間カグヤ。彼は、月で与えられた研究を放棄して地球へ逃げてきた」
キャンサは光成から離れカグヤに近づいた。いまだに立ち上がれない彼を見下ろし、薄汚れたビジネスシューズで頭を踏みつけた。
「彼の逃亡は月の損害です。彼は、研究の過程で二つの能力を手に入れたのです。一つは人ならざる強力。もう一つは、記憶を変造する暗示。この力は、月の為に、正しく使われるべきものなのですが、悪知恵は働くようでね、地球の方々に自分の力を悪用して傍若無人にふるまったようで。いやぁ、本当にご迷惑をおかけしました」
「ンだよ。それ。反吐が出る内容じゃねけぇか。キャンさ――」
叫びと共に顔を持ち上げたが、反抗はむなしく再びつま先で押しつぶされた。ベシャッと嫌な音を立て顔が地面に落ちる。やや暫くすると、顔の輪郭からタラタラと血液があふれ出し、地面を汚し始めた。
光成は「ヒィ」と悲鳴をあげたじろぐ。カグヤを連れてきた女の月駒は、彼を逃がさないよう、腕に絡みつく。腕に当たる柔らかい肉質。滅多と味わえない弾力を感じる余裕は無かった。
「正直ここまでしても、貴方は我々をに月の人間だと思わないでしょう。仮にカグヤが言っても同じ事。ですので、私達を見てください。増見さん。きっと、コレを見れば、私の言っている事も信じてもらえるし、これからの事も信じてもらえるでしょう」
そう言うや否や空気が鋭く裂かれた。目にも止まらぬ速さで彼はカグヤの首に触れた。彼の首はパックリと割れ、石榴の剥き身のような断面が見えた。白い骨と赤い肉。血液は壊れたスプリンクラーのように周囲を汚していく。あの傷では死ぬ。素人目にみても明らかだ。ザァザァと降る血の雨はカグヤの体を濡らし、そして止んだ。
雨が止まると虹がかかり、カグヤの首は何も無かったかの世に元通りになる。パックリと裂かれた傷跡はもうそこには無かった。
大量の血液を短時間で失い、気分はさいあく。痛くも無い首筋に手をあてるのは、あんぐりと口を開け声を失った光成に「俺にはまだ人間らしい側面がある」と伝えたかったからだ。一方、こんな状況でも生きている自分に失望もしていた。
「おっと、驚くのはこれだけではございません。もちろん、私だって」
キャンサーは光成に振り向き、自分の首を掻っ切った。カグヤよりも傷は浅い。だが、それでも死を予感させる傷の深さであった。
人の首が切られる二度目の現場。力なくその場にしわりこむと、光成の腕を掴んでいる女も釣られるように腰を落した。彼の頭はプスンと音を立て、思考は事実を遮断する。溢れかえった情報は胃袋に詰まった夕食の残渣へ姿をかえる。ボトボトと音を立て、口から吐き出された吐しゃ物は、ホカホカと湯気を立て光成と女の衣服を汚してしていた。
「刺激、強かったですかねぇ?」
自らの首を刎ねた男は千切れた首を正して何事も無かったようにその場に立つ。
「お気に入りのスーツだったんですよ。コレ」
形だけ汚れを血で汚れたスーツが再び自分の役割を果たすことは無いだろう。
「もういいよ。分かったよ。アンタも、カグヤも月の人間って分かったから。言わないから……。頼むから、頼むから……。オレを返してくれよぉ。オレは普通の生活を送りたいだけなんだ。普通でいたいだけなんだよ。……――。助けてくれよぉ――」
吐しゃ物を気にせず光成は泣きながら地面に伏せる。すすり泣く声に、同調する者はいない。鼻水を啜り助けを懇願する声に、キャンサーはあきれ返るばかりだ。
「ついでです。増見さん、もう一つ良い事を教えてあげましょう。これを聞いてくれれば貴方を解放しましょう」
光成は頭上にかかる声に振り向けなかった。
「私はどうして貴方に『カグヤは月の人間である』と言いなさい。って言ったかわかりますか?」
「……」
「カグヤはですね、自分の身を守る為にある事を地球と約束したのです」
カグヤも光成も同時に唾液を飲み込んだ。
「一つ。地球の人間を殺さない。二つ。自分が月の人間である事を知られてはいけない」
光成の中で時が止まった。瞬きすることを忘れ、キャンサーの言葉を反芻させる。言葉の意味を理解した時、自分の言った言葉の重さに気づく。早鐘を打つ心臓は勢いが余って光成の喉から飛び出しそうになった。
「もしも約束を違えてしまったら――地球は彼に罰を与えます。貴方も感じたでしょう? あの存在感に」
彼は感じた。「ダイダラボッチ」を思わせる強大で無慈悲な威圧感。
「天罰は甘い訳はないですよねぇ。ダメでしょ。メッ! で終わるわけありません。きっと、その身を裂き、生きる術を奪うような、罰……だったら良いですね」
カグヤののた打ち回る姿。起き上がることも辛そうで、ただ一方的な痛みに喘ぐ様子。光成が言われるがまま言った言葉は、本人の想像を超えた結果を与える。罰を与え、苦しめられるカグヤに安堵した自分を恥じた。裏切り行為に罰を与えられても、この結末は光成の望んだものではない。
「ありがとうございます。増見さん。貴方の協力のお陰で、カグヤを御せるようになりました。無力なカグヤです。死を前に座すカグヤ。えぇ。無事に月に戻すことが出来るでしょう!」
座り込んだままの光成を無理やりに立ち上がらせた。彼は、スーツのうちポケットから切手程の大きさのペーパーを光成に握らせる。鼻頭と鼻頭が引っ付くほど顔を近づけ、クチから零れる臭気に光成は顔を背けそうになった。
「帰りなさい。そして忘れなさい。コレを必ず飲んで忘れろ。地球の人間がこれ以上月の領域に足を踏み入れる事は許されない」
彼はソレだけを言うと、荒々しく光成を突き放す。そして「出口はあちら」と外灯が照らす看板を指差した。「出て行け」彼の命令に従うべきだろう。理性を飛ばした顔のモノ達は、光成が出て行くのをじっと見ている。敵意はまだ無い。だが、キャンサーの言葉一つで、彼らが光成に敵意を向けるのは明らかな結果である。もちろん。彼を拘束している女もだ。
「そうだぜコウナ。キャンサーの言うとおりだ」
そして、彼の背後より違う声がする。カグヤは生まれたての子羊のように足を震わせやっとの思いで立ち上がる。大きく息を吐くとまっすぐ彼の顔を見た。顔色不良。生気の乏しい顔。元々薄い顔立ちの彼だったが、目は窪み陰影がはっきりとしている。死を連想させる青白い顔。「生命力」をそがれたイキモノというのはこのような顔つきになるのか。と初めて知った。
「お前はもう十分だよ。これ以上コッチの事情に関わる必要は無い。ココから先は生命の保証は出来ないぜ」
そう言うと、ゲホゲホと咽び、パリパリと張り付いた唾液をしみこませる。
「帰れ。お前は、お前の居場所に。そうじゃないと、俺は――」
(こんな俺じゃぁきっと、お前を守れない)
ニィと歯を見せるカグヤ。そんな彼が作った表情は精一杯の強がり。
泣けば、キャンサーが笑う。
怒れば、月駒が喜ぶ。
ならば、笑えばきっと光成は怒って自分から距離を置くと思ったのだ。