カッコウのタマゴ(1)
(くそったれ)
時刻は十時三十分を過ぎている。待ち合わせの時間になっても光成は現れなかった。スマホを弄るもすぐに飽きてしまう。タバコも底を尽きた。サイフは部屋に置きっぱなし。時間とともにできることはなくなる。仕方なく改札口へ行き、何度目かの電光掲示板を確認した。
十時四十五分発 普通柏原行き
この単語も何度も見た。一番最後だったのだが、とうとう電光掲示板のてっぺんにたどり着き、その下には、鉄道会社のアナウンスがペラペラと流れていく。
(何してんだ?アイツ)
心の中でぼやいていると、背後から冷たい風が吹き込んできた。思わず首を縮め、背中を丸めて風除けの自動販売機に身を隠す。
冷気が当たるだけでキャンサーに痛めつけられた右手がキャンキャンとしびれる。数日間、寝ることで体力回復に注力していたので、痛みは引いた。だが、いまだにボワッと熱の膜が張った感覚が残っている。痛覚が鈍く力は思うように入らない。不注意に右腕を当ててしまうと眉間に深いしわを刻むほどだ。
(本当に帰ろうかな? アイツを置いて。連絡一本寄越さず俺を放置するなんてクソだ。外道だ。鬼畜だあああああああ)
子供のようにじだんだを踏み、キーキーといきり立つ。不注意に右手を自販機にぶつけてしまい「キーッ」と甲高い声を上げその場にうずくまる。
比較的無事な手で哀れな右手をさすり、ガックリと肩を落すと、頭上から影が落ちた。
(光成?)
一人芝居を見られたと思い、細い顎から頭のてっぺんまで湯気が立ち上がり熱くなる。どう言い訳をしようか考えてみたが、結論は「こんなに待たせた光成が悪い」に奇麗に収まった。相手が悪い。そう思うだけでカグヤの火照った体に冷静さが戻る。
彼は顔を挙げ、「光成」と呼んだ。
しかし、目の前に立っているのは見知らぬ人間。
マスタードカラーのベレー帽に茶色のボブヘアー。丸顔の背の低い若い女性だった。
「お待たせしてごめんなさい」
彼女はクセなのか、耳に髪をかけ、申し訳が無さそうにカグヤと視線を合わせる。
今までカグヤを不審そうに見ていた駅員は、現われた女性が彼女と思い込み、事務室の奥へと引っ込んでいく。
「私、時間を見間違えて……。本当にごめんなさい」
女はペコリと体を曲げ、ベレー帽を押さえながら謝罪をした。
突然の事で何度か瞬きをした。
何の事か。と戸惑いつつも彼女の正体はすぐにつかめた。
カグヤを置き去りにし一方的に話す女。ハキハキと話すものだから、香水の臭いにまぎれて、嗅いではいけない匂いをすぐに捉えた。白色の外灯からあぶり出される弾力のあるエメラルドグリーンの舌。
光成は現われず、月駒が現われた。そこの意味するところは、全てを語らずとも分かることだ。
「あぁ、すげー待ったぜ。このツケをどう払ってくれるんだ」
カグヤは立ち上がると、女は目を細めて笑った。
「もぉ……。分かってるくせに」
彼女は自ら彼の左腕に自分の腕を巻きつけた。「行こっ」と歩みを進め、駅から離れていく。
左腕の自由は奪われた。残された腕で女一人対処する事は可能だろうか。そのような事を考えると、潤んだ瞳で彼を見上げた。
「手、冷たいね。寒い中待たせてしまって本当にゴメン」
(本来なら、光成が言うべき言葉なんだけどなぁ)
冷たい手を温めるように、彼女は彼の左手を両手で包み込む。左腕に自分の体を押し当て、服の匂いを嗅いでは「いいにおいー」と心地良さそうに胸を押し付けてきた。
体の弾力に口元を緩めるカグヤ。
彼の反応を楽しむ女。
そのような二人を見て、通り過ぎる者は皆「よくいるカップル」と思ったに違いない。そして、二人が行く先は飲み屋街裏のラブホ街だろう。と下世話な事を考えたかもしれない。
「楽しい夜になるといいね」
「あぁ。………月が明るいうちは楽しい夜になるさ」
カグヤが月駒に連れてこられた場所は、住宅街の中にある比較的大きな公園。彼女の歩くスピードが落ち着く。いまだに腕を放すそぶりは見せない。彼は周囲を見渡す。人の姿はない。もちろん、人の気配もほとんど感じられない。
「おいおい。お前、ラブホじゃなくて外が好きなのか? アブノーマルな女め」
ベレー帽の女を見下すように言うが、彼女から反応は返ってこない。
「それとも、アレか? ここはそういうプレイの性地ってか?」
下卑な笑いを飛ばすが、言葉にして反論しない。だが、彼の言葉はとても不愉快なのだろう。目尻には歳不相応、無数のちりめんじわを刻み、まっすぐ前を見つめている。
彼の嫌がらせの言葉を必死に受け流し、苦虫をつぶした顔を浮かべ、二人は公園の中心地へ到達した。ベンチが三つ。等間隔に並んでいる。真ん中のベンチでは横たわる光成の姿があった。
「コウナ」
小さくつぶやくように名前を呼ぶと、彼は女を引き剥がそうと腕を振るう。けれども、女は彼の腕にしがみつき離れようとはしない。
「コウナ兄さん!」
彼はもう一度叫ぶ。離れない女に舌打ちをし、足を払って腕を振りほどくと「コウナ兄さん!」と叫び彼に近づいた。
「兄さん。兄さん! コウナ兄さん。コウナ兄さん!」
コウナの頬をペチペチとたたく。だが、彼は「うーん」とうめき声を上げ、手を払うだけ。
生きているしぐさに安心したものの、それもつかの間。右脇腹が赤く染まっていた。
(誰かに傷つけられたのか?――いや――)
その部位の傷に心当たりがある。キャンサーだ。彼は、光成の脇腹に腕を突っ込み道路に放り投げた。もし、同じ事が繰り返されたとなれば……。
(今のオレに、光成を救う力は――)
カグヤは頭をふり、光成の名前を呼びかける。彼が「コウナ」と叫ぶとどこからともなく一人の月駒が。また光成の名前を呼べば、新たな月駒がカグヤを逃がさまいとゆったり、円を作るように取り囲み始めた。
「ちっ……」
周囲を見渡し、時間の少なさを悟った。彼はようやく覚悟を決める。
「起きろ。って言ってんだよ。こうなああああああああああ!」
頬に一発、しなるムチが柔肌を切り裂くようにたたきつけられた。鋭く激しい一発に「たまらん」と光成は起き上がる。ぶたれた頬を押さえ、顔を左右に動かす。
「何がしたいんだ。ゴラアアアアアアアアア」
あまりの絶叫っぷりにカグヤの耳はビンビンとしびれ、取り囲んでいた月駒達も理性を取り戻したように足を止める。
目を強くつむり、片目をゆっくり開く。光成の反応に鼻で笑うと、光成もようやく犯人の正体を理解した。
「か、カグヤ?」
「あぁ。そうだよ。何してんだ……ですか。本当に」
カグヤが安心したように深い息を漏らすと、つられて光成も笑った。ハハッと笑い声は重なるも、そのようなアンドの時間は長くない。
月駒達の瞳に理性が戻ったのはほんの一瞬。彼らの理性は再びどこかへ消えてしまい、足の進みを始めていた。
「光成兄さん、帰りましょう。ここは危ない」
そう言って、カグヤは光成の手を引く。しかし、彼の尻は接着剤が付着しているかのように重く、動く気配がない。手を引っ張るも動かない彼に、光成の前である事を忘れ苛立ちをあらわにした。
「逃げよ――」
「オレは逃げないよ。カグヤ」
予想外の言葉。光成の顔つきは今まで見たことのない険しい顔つきになっている。鋭い視線。本能的に、耳をふさぎたくなった。全てを言わずとも、言いようのない後悔がカグヤを襲い始める。逃げろ。逃げよう。言うな。気づくな。四つの感情がグチャグチャに混ざり合いのど元をはい上がる。
「オレは君を信じない」
つないだ手はほどかれ、冷淡に言葉が放たれる。
「だってカグヤ。君はオレを騙していたんだろう」
静かな水面を思わせる冷ややかな瞳。「ち、ちが――」と弁解しようとと口を開いた。だが、弁解の言葉は言えないのだ。なぜそうしたのか。どうしてそうなったのか。うなだれる彼に、光成は小馬鹿にした笑みを浮かべ、更に追い打ちをかける。
「君、オレをだましたことは否定しないんだな」
「いや……。だました、というか」
「じゃぁ何?」
また口をつむぐ。二人は同時に咽仏を上下させた。
「分かってる。分かってるさ。君は理由をいえない。いえない。だって、君は……」
光成は立ち上がり、カグヤの左肩をドンと押す。よろめく彼の背後にかすみがかる月が映る。砂埃にまみれた、薄汚い月であった。
「カグヤ、君は月の人間なんだろ」
夜のしじまに漂う臭気の中、口元をいびつにゆがませ、光成はカグヤにトドメをさした。
感情をたっぷりと込め、きちんと呪われるようはっきりと口にする。
自分を欺いたものに天罰を。自分を利用したものに災厄を。祈願する先は神。いや、神より身近で遠い存在だった。