カナリアン・ラブソティー (2)
「まどかちゃん」
「何かしら」
「笑わないで聞いてくれる?」
彼女は「待って」と一言制すると立ち上がり、ピロティー奥に鎮座している自動販売機に向かった。
微かな電子音の後、ガタンと落下する音が響いた。金額を表示する液晶は0 6 8 と7つの棒を組み合わせて数字を作っていく。取り出し口からペットボトルを取り出すと、4桁の数字がピッタリと9を揃え、販売機のボタンを全て赤く点滅させていた。
彼女は、唇に指を当て、もう一度同じ商品を選択した。
ガタンという音と共に再びスロットが始まる。幸運は二度もない。まどかはスロット結果を確認せず、二本目のペットボトルを手にし、テーブルに戻る。自動販売機の液晶が三回点滅すると何事も無かったように光は消えてしまった。
「こう言うときはね、温かい飲み物を飲むことよ。増見君」
手渡されたミルクティーのペットボトル。オレンジ色のキャップはまどかの体温が残っている。光成は代金を支払おうとするも、彼女は「良いから」と手を掴んだ。
「私は、貴方の話を聞きたいの」
男女の目が重なる。心臓の脈打つ音が相手に伝わっているのでは。と錯覚するほど大きな音。光成の漏らす溜息も熱っぽい。
「今でも、あやふやなんだけれど」
そう切り出すと、彼女の手が離れる。彼の彷徨う手はまどかではなく、ペットボトルに収まった。
「記憶が、無いんだ」
「何について?」
光成は一度息を飲む。一瞬ためらいをみせたが、まっすぐ見つめる彼女の視線を拒む事は出来ない。口を開いて 閉じてを繰り返し、光成は声を発した。
「――。カグヤが、本当にオレのイトコかどうかがわからないんだ」
母親に「イトコのカグヤ」と紹介された時、母親が言うなら彼はイトコだろうと決め付けた。しかし、一日一日と日が経つにつれ、各章は疑念へと代わる。思い出す過去はすべてあやふや。保存状態の悪いVHSビデオを見ている感覚でぼんやりとカグヤとの過去を思い出す。自分と一緒に遊んだあの少年はカグヤだったのか。と問われれば「多分」としか答えようが無い。思い出そう。思い出そうとすればするほど、少年の顔に今のカグヤの顔がへばりついてくる。グロテスクな光景に目を隠し、記憶を隠す。「カグヤはイトコ」と無理やり思い込み、思考に蓋をする。
そのような蓋もいつしか、蓋のフチからあわ立つ感情を抑えきれなくなっていた。
「お袋もカグヤはイトコって言うんだ。多分、そうなんだと思う。でも、カグヤを見ると実感はないし……。なんか他人でもないような……。こう……。母親に『あんたが大切にしていた哺乳瓶よ』って言われて新しい哺乳瓶を突きつけられている感覚」
最後の例えは失敗した。と自分ながらに思い、彼女に目配せをした。目に映る彼女は、普段のように上品でおしとやかな表情ではなく、難問に挑む真剣さがある。その表情を見るや否や、自分はおかしな事を言ったと思い、慌てて両手を振った。「なんでもない。なんでもない」と言うが言葉は消しゴムでは消せない。消しゴムで消せないのなら塗りつぶしてしまえとわざとらしく笑って見せたが、笑えば笑うほど心がむなしくなってくる。乾いた笑いも小さくなり、彼の身体はしゅんと萎み縮こまる。もう光成は口を開かない。耐え難い沈黙。耳障りと思っていた騒がしい学生の声もとんと聞こえなくなっていた。
自動販売機のモーター音と空調の音だけがこの場を支配する。重い沈黙の後、湿った溜息を漏らし、ようやくまどかは口を開いた。
「ねぇ、増見君」
彼女の視線は光成から天井へ向く。
「人間の記憶ってね、いい加減なものよ」
落ちてくるは髪をすくい上げ、続きを語る。
「人間の頭はね、全てを捉えられない。記憶もすべては覚えられない。だから、自分にとって都合の良い部分だけを先に切り取って、それを記憶にしちゃうの」
そう言うと彼女は自分の米神を指で軽く叩いた。
「そうして、私達は自分にとって都合よく出来た記憶を正しい記憶として認識して生きていくわけ。その手の事で私達はたえずぶつかるし、苦労してしまうの」
心当たり。と付け足し、彼女の視線は光成に戻る。彼女の言葉に光成は首を縦に振った。彼が思い出したのは特に高校時代の英単語テスト。覚えたはずのスペルが間違っていて答案が悪いほうに真っ赤に染まっていた。大学生になっても間違いは続く。今では立派な外国語アレルギーを発症し、履修中のドイツ語の先は暗い。
「記憶はね、理性的なこと。将来の行動を見越して覚えたことを保持しなくちゃいけないからね……」
彼女は自分の頭を指差し、そして指を光成に向けた。
「でも、増見君。貴方は理性である自分の記憶に疑義を呈しているわ。理性ではなく、増見 光成。貴方が生まれて培った本能が記憶を疑ってるの。わかる?」
まどかの身体が一歩近寄る。覗き込みたくなる黒々とした瞳が光成を離さない。彼女の瞳の中にある光は、理性か。それとも本能か。
「私はね、人間は理性的な生き物なんかじゃない。って思うわ。私達の理性は本能によって支えられている。主は本能。従が理性。主が従を否定しているなら、質すしかない。探るしかない。本当にカグヤがイトコなのかどうかは、行動でしか証明されない。行動という個性は。理性の僕。増見君、貴方は。貴方という個性は、理性に。本能に、この違和感をどう説明するの?」
天井の空調がゴォゴォと唸り声を上げる。天井から注がれる生暖かい風。水分を奪い取る風を受け、光成の米神から流れた汗が引いていく。
違和感、いやもはや警鐘だ。何かが間違っている。見過ごせば、取り返しのつかないこととなる計画。カグヤがイトコではない。ということだけなのか。それとも……。
「オレは――」
まどかは光成ににじり寄る。目を細め開いた口から漏れた息は砂糖をタップリ吹くんだ甘ったるい香りがする。
「答えはいつでも良い。私に感謝しているなら、バイト先に遊びに来てお金を落してよ」
そう言うと立ち上がり、自分の美しさを知らしめるよう、大きく髪をかきあげた。
「最近のお客さんは物足りないから。増見君みたいな人がいないとやる気にならないわ」
彼女のバイト先はアイドル喫茶。そして彼女はクール担当。曰く、最近の客は彼女の冷淡さについていけず固定客が減ってきているらしい。今ではコアなファンが彼女を支えている。よくしつけられた客は、一週間に一度、彼女お手製の手こねハンバーグ丼を「あら、私の手垢ハンバーグそんなに美味しい?」と耳元で囁かれながら食べる事を生きがいにしてお店にくるらしい。もちろん、光成もその一人である。
「それじゃぁ、増見君。ごきげんよう」
彼女が背を向けると、ワンテンポ遅れて黒髪がレースのように広がる。ふわりと揺れ動くスカート。もう少し上がれば細く長い脚から下着がチラリと見えたことだろう。ゴクリと飲み込む生唾。カツカツと響かせるハイヒールの音は光成の心臓の音と重なる。
自分の心臓に手を当て、彼はまどかの言葉を思い出す。
(本能と)
机の上に広げた中学生向けの参考書。
(理性)
彼女の言葉がいやに耳に響いていた。
夜は暮れ、時計の針は十時を過ぎている。駅へ続く大通りを光成は全速力で走っていた。
(ひいいいいい。死ぬ。しぬううううううう)
小学校から現在に至るまで、体育は大嫌いな授業である。動きはドン臭く跳び箱だって4段も飛べない。未だに逆上がりも出来ない。ランニング・長距離走は苦行で事あるごとに避けてきた。そして、そのツケは一挙に押し寄せ、心も身体も沸騰寸前だ。
(なんで。なんでこんな時にいいいいい)
玲奈の授業は予想以上に長引いた。期末試験が近いため、時間が延長されると予想していたが、彼女の食いつきは予想以上で光成の予習範囲を大幅に超えていた。しどろもどろの回答も原因なのだが、時計を見たときは「ヤベッ」と声を出してしまった。
「早く帰らなきゃ」というオーラを隠すこともせず、母親の「タクシーを」との言葉を振り切り、転がるように玲奈の家を飛び出した。のだが、百メートル走っただけで息はたえだえ。ゼーハーゼーハーと喘息に似た息を漏らし、早歩きのペースで、駅へ続く大通りに出た。
幹線道路を見たときは涙が止まらなかった。最寄り駅はもうまもなく。そして、連続失踪事件のお陰で面倒な居酒屋のキャッチもいなかった。
光成は目尻に溜まった液体を拭い取り、大きく息を吸い再び走り出した。
ドタドタと無様で落ち着きの無い走り方。ずり落ちそうになるリュックサックを背負いなおし、前のめりになりながら走る。途中、光成のように家路を急ぐ者とすれ違い、方をぶつけてしまった。片手で謝意を示すが、再び足を止めてしまう。
(カグヤ、ごめん)
前屈みになり、ゼーハーと荒い呼吸を繰り返す。咽から逆流した息は血の臭いがした。
時計を見ると、十時十五分をさしている。電話をしようかとも思ったが、その時間も惜しかった。
(怒っているよなぁ)
怒られるのは一度で良い。と思い、口元を拭い身体に活を入れて再び走り出す。
(今日はカグヤに聞くことが沢山あるんだ。だから、今ここでカグヤの機嫌を損ねるのは止めておきたい)
思い返すのはまどかとの会話。疑っている事を質せ。端的に言えばこれである。だが、会話の入り口が難しい。苦し紛れに数パターン考えてみたがどれもこれもスッキリしない。
そうこう考えているうちに、また足が止まる。
膝の上に手をついて、背中から息を吸って吐いてを繰り返す。眼球を動かすと、ちょうど住宅街へ続く曲がり角で足を止めていた。
目を凝らせば、こちらに一つ濃い影が伸びている。人影だ。明らかに不自然でなかったことにしようと処理をしかけるも、とある教授の言葉が引っかかる。「あからさまな不自然には理由がある」
(外 夜 人影……)
この三つの単語から彼が導いたのは
(休病人?)
単語にしてみると、背筋がピンと正される。カグヤを待たせている事も考えたが、数秒の志向の末、彼は住宅街へ足を進めた。
暗がりの視界。歩けばすぐに人影が見えた。スーツ姿の男。うめき声を上げて膝を抱えて座り込んでいる。
(やっぱり急病人か!)
光成は「大丈夫ですか」と声をかけながら近づいていく。そして四回目。彼は男の肩を掴んだ。
「大丈夫――」
「今晩は」
男は顔を挙げ、黄ばんだ歯を見せて笑っている。禿げ上がった中年男性。テラテラと濡れた唇から臭い息が漏れだした。
「――あっ――」
細い目は、彼に触れても無いのに激しい衝撃を与える。頭の先からつま先まで、ビリリと走る稲妻に光成は自分の身体を抱きしめた。
(増見君。貴方が生まれて培った本能が記憶を疑ってるの。)
まどかの声が脳内に響く。彼女の言うとおり、疑いだした本能は背中を押されたように記憶の扉を引き剥がしていく。扉の隙間から見える過去。断片的に、カグヤがナニモノかを薄らと察していく。だが、対価は痛み。全身を貫く痛みに、喘ぎ声を上げるのは光成のほうだ。
空気が冷たい十一月。針と冷えた空気は光成の記憶の扉をもう一枚と剥がす。扉の軋む音は右脇腹の傷を開いていく。生暖かい赤い液体は、白いシャツを汚していた。