カナリアン・ラブソティー (1)
「じゃぁカグヤ。10時に梅野駅まで迎えに来てね」
スマホの終話ボタンを押すと、深い溜息が聞こえた。在原 まどかである。光成の真正面に座りテーブルに肘をついて、重ねた手甲に細い顎を乗せていた。大きな目から注がれる冷ややかな視線。おずおずと腰をおろし、彼は怒られた犬のように彼女を見つめると、彼女はようやく口を開いた。
「増見君」
低い彼女の声に、思わず身を竦めた。むき出しのコンクリートとアイボリーカラーのテーブルが誂えられた図書館入り口前のピロティ。
大声で話すこと。寝ること。飲食すること。図書館の禁じ手はこの場所では許されている。犯罪行為以外が許されたこの場所で、通話することが咎められるわけはない。
光成は身体を引き、おどおどと彼女を見つめる。
「カグヤ、って誰かしら」
光成とまどかしかいないガランとしたピロティ。静かな空間で彼女の声が響き渡る。
六限目は遠の昔に終わり、ガラス越しに外灯の光が差し込む。冷たい白い光の下、「アハハ」と声をあげて女学生たちは校内を駆けていく。大学発のスクールバス最終便はもうまもなく発車の時間である。
まどかは、女学生の声につられて立ち上がろうとする光成の手を強く握り締めた。
「逃げることは許さない」
光成は、鋭い眼光に伸ばした首をすぐに引っ込め慌てて横に振った。
「に、逃げないよ」
中腰気味の光成は椅子に腰を下ろすと、彼女は手を話した。だが、意志の強い大きな瞳は、目に見えない腕で光成の胸倉を掴んでいる。胸元まで伸びた黒々とした髪を荒々しくかきあげ、下瞼を痙攣させている姿は、いつも以上に迫力があった。
「で、誰? カグヤって」
「誰って、前に話したイトコだよ」
取り繕うように光成は答えたが、まどかは釈然としない様子である。
「あのスペインから来たイトコさん?」
彼女の語尾はまだ強い。
光成はコンビニ袋から紙パックの1リットルミルクティーの注ぎ口にストローを突っ込む。泥水のようなミルクティーを一口吸うと「そう」とだけ返した。まどかもペットボトルのキャップを開き、底に僅かに残っている緑茶を口に含んだ。
「なんで迎えを要請したの? 男の子なら一人で帰れるじゃない」
「帰れるけど、バイト先の親御さんがね、連続失踪事件を気にして家までタクシーを出すって言うんだ。知人が迎えにきている。って口実があれば撒けるでしょ」
光成は椅子にもたれかかりストローの吸い口を潰し、紙パックを持ち上げた。
「優しい方ね。増見君も甘えられるなら甘えればいいのに」
彼女は飲み干したペットボトルのフィルムを剥がしグシャグシャと耳障りな音を立て、光成のコンビニ袋に突っ込んだ。普段であれば言葉で返す彼だが、彼女の言葉に反応しない。あえて視線を外し、ガラス越しの景色を見つめている。
「えぇ。それが出来れば増見君は、カグヤさんに電話なんてしなかったのに」
彼女は頬杖をつき彼と同じ方角を見つめた。
彼は自分に対する「思いやり」を重く感じるきらいがある。優しくしてもらう。労わり。同情。有難いことなのだが、自分を過剰に評価されムズムズとした居心地の悪さを覚える。「あなたの為を思って」そのような感情が表に出された場合、裸足で逃げ出したくなる。玲奈の母親はまさにその手の人物。彼を「思いやれ」ばやるほど、彼の心を頑なにする。
まどかはそのような彼の性格を知っている。「甘えればよい」という言葉は彼に対する嫌がらせ。いや、彼女が会ったこともないカグヤなる女性を懇意にしていることへの罰なのだ。
眉間に薄い皺をよせて面倒くさそうな表情を浮かべる光成を見て、彼女は笑った。嫌がらせはこれにて終了だ。
「でも、親御さんの心配は無駄ね。連続失踪事件は外で発生しているとは限らないのよ」
光成の唇がストローから離れる。驚いた表情に、彼女の唇は先ほどと違った形に歪んだ。新鮮な反応は彼女に更なる喜びを与えるのだ。
「そうねぇ」
みずみずしいコーラルカラーの唇。温かみのある唇は、誰かに優し言葉を紡ぐためにあるのではない。薄ら寒い連続失踪事件について語り始めた。
「増見君は事件のことをどこまで知ってる?」
「どこまで、って。接点のない人々がいなくなっていることと。あと人通りの少ない場所、あるいは夜遅くに忽然と姿を消す。証拠になりそうなものはなくてーー」
「そう。そこまでなのね」
まどかの唇から青白い歯が見える。
「それはね、昔の話。今は状況が変化してきてね。今では屋内でも人が消えるわ」
「屋内で、人がぁ?」
光成の裏返る声に彼女は「そう」と言って首を縦にふった。
「数としては一件ないし二件程度。私が聞いた限りではね。面白いのが、被害者は、家族との夕食の最中に突然悶え苦しみ、自分の口の中に手を突っ込み、舌を引き千切ってでそのまま姿を消した。なんていうこともあるわ」
足元から頭のてっぺんまでゾワゾワと気持ち悪さが走り抜けた。理解が追いつかない。人は舌を噛み千切っただけでは死なない。舌を噛み切った際、血液が気管に吸い込まれ、気管内で凝固して窒息死するのだ。では、舌を引っこ抜けば人は死ぬのか。
光成のレベルでは「死ねる」と断言できない。であってもだ。舌を引っこ抜いただけで人の身体は消えるのだろうか。いや、そもそもそのような失くなり方は普通の死に方ではない。
そして、その現場をみた家族もだ。目の前で忽然と消えた家族。いなくなった事=「死」と取り扱う事は出来ない。彼らの心情を察するだけで悪寒が襲い掛かる。
二人しかいないピロティで、空調がゴォゴォと音を立て稼動する。電気の無駄遣いに等しい稼動なのだが、光成の指先は冷たい。指先の冷たさは心まで締め上げる。温かなペットボトルで体温を取り戻そうとするも、冷たさが軽減することは無かった。
「きっと、残された者は思い続けるでしょうね。些細な事。無関係な事ですら失踪。ないし死のきっかけだったんじゃないかって」
まどかの言うとおりだ。残された家族は、消えること無い罪悪感を死ぬまで抱え込むだろう。
「そしてタイミングが悪いわね。カグヤさんも。こんな事件がおこっている瓜破市に戻ってこなくて良いのに」
「そうだね、でも。カグヤは舌を引っこ抜くようなことはしないよ」
「どうしてそんな事、言えるのかしら」
「だって、アイツ腕をケガしてるんだもん」
大きな溜息を零し吐き捨てた一言。事実だ。カグヤは光成の知らないところで右腕を負傷した。彼は「こけただけ」と答えたが、嘘だと気づいている。ゴミ袋にうち捨てられたパーカーが証拠だ。大量の血と土が付着したパーカー。誰かに暴行を加えられたのではないか。と光成が思うほど酷いものである。
きっとケガも酷いのだろう。寝ている最中も右手を庇う素振りを見せる。
そして、彼は食事とトイレ以外起きることは無い。その姿はまるで生命を維持させるため、必要最小限の行動以外を拒絶しているようだった。
(それでも電話には出たんだ。多少はよくなってきてるんだろう)
光成はそう自分に言い聞かせミルクティーを飲み込んだ。
「それで良いの? 増見君は。腕を負傷したカグヤさんを放っておいて。スペイン出身でカグヤ。さぞかしエキゾチックで黒髪が似合う女性なんでしょう? そんな彼女を放っておく増見君って、冷淡な人ね」
会話は連続失踪事件から大きくカーブする。キョトンとした表情の光成に、彼女はわざとサラサラの黒髪の毛をかきあげてみせる。首元からふんわりとホワイトムスクの香りが漂う。脳みそを優しく撫でる蠱惑的な香りに光成は慌てて手を振った。
「ち、ち、ち違うよ、まどかちゃん」
顔を赤らめて何かを必死に抵抗する光成。彼は「違うんだ」と言いながら彼女の顔を見る。予想外の表情に、彼女の目が一瞬大きくなった。
(な、な、なんでそこで顔を赤くするのよ。増見君!)
どの部分が否定されたのかと想像し、導いた答えにポンっと湯気が立つ。
(やだ。増見君。いつからそんな高等なくどき文句を覚えたの。やめてよ。私がエキゾチックで黒髪が似合う女性だなんて。知っているけれど、あなたの口からそんな――)
「カグヤは男なんだ」
光成の回答にまどかの心と身体は一気に冷めてしまう。
(ふざけんなよ。この野郎)
手の甲にかかった黒髪がサラリと落ち、彼女の目から光が消えた。
「ふ、ふーん……。珍しいわね。男にメアリー。ってつけているものよ。貴方の身内がよくそんな名前を許したものよ。私には違和感しかないし、そんな名前をつけた子を手放しで歓迎出来ないわ」
抑揚の無い口調。光成はワンテンポ遅れて「うん」と答えた。キラキラネーム世代の光成・まどか達であるが、男性にカグヤという名前は強烈な違和感を持つ。カグヤと言えば、かぐや姫だ。女性のイメージが強い名前。それでも、オジは彼に「カグヤ」と名前をつけた。強烈な個性を持たぬ常識的なオジが、どうしてその名前をつけたのか。
その考えが始まると終わりが見えなくなる。
現実が思考に揃わない。不揃いな端切れの上を歩かされている感覚。無理やり過去と現実を当てはめたちぐはぐなカンジ。まさしく、カグヤという存在も、今の増見家を取り巻く環境も彼女の言うとおり「違和感」でしかないのだ。思考も一度そこで止まる。
(まどかちゃんの言うとおり、違和感でしかないんだ。カグヤの名前も。カグヤという存在も)




