金色の時計
カタリと何かが音を立てて落ちた。
慌てて拾おうと手を伸ばしたけれど、風を切るほどの速さの中で呆気なく見失ってしまう。
とても大切なものなのだ。幾人もの兄弟たちが長い年月をかけて僕に渡してくれたものだというのに。
こんなところで失うわけにはいかないと、僕は風神が運ぶ輿を飛び降りた。
気がつくと誰もいないスクランブル交差点の真ん中に立っていた。騒がしいほどの人の気配もクラクションの音も何も聞こえない。
見上げるほどに高いビル群はのっぺりとした灰色で点滅する信号機の色も灰色。鮮やかなはずの広告塔までも色を失っている。
まるで世界が時を止めてしまったかのようだ。
「誰かいませんか!」
不安に駆られて叫んでみても声はコンクリートに反射して響くこともなく灰色にくすんだ空に溶けた。当然のように返事はあるわけもなく、自分の声すら返ってはこない。
どこを向いても見えるのは灰色に静まり返った街だけ。
僕はその中心でポツリと立っている。
耳が痛くなるほどの静寂に僕は怖くなってもう一度叫んだ。
「誰かいませんか!」
シンと静まり返った世界はまるで僕を消し去ろうとしているようにも思えた。そのときだ。
「落し物は見つかりましたか?」
唐突に聞こえた声が朗々と響いた。
声の主を振り返ると、そこには小さな男の子が立っていた。鮮やかな色の衣冠を身にまとっている。灰色に染まった世界に突然現れた色がまぶしくて思わず目を瞬かせる。
なによりも自分のほかに人がいたことが嬉しくて大股で男の子に近寄った。
「良かった。誰もいないから不安だったんだ。みんなどこへ行ってしまったんだい?」
問いかけると、男の子は少し困った表情で僕を見上げた。
「あなたの手の内から落ちてしまったもののせいで世界は時間を止めてしまったのです」
「僕の手の中から?」
彼の言葉に僕は首をかしげた。
なぜだろう。とても大切なことのような気がするのに思い出そうとすると頭に靄がかかる。そもそも僕はどうしてこんなところにいたのだろう。
「思い出せないのですね」
その言葉に僕は正直にうなずいた。
「きっと輿から飛び降りた衝撃のせいです」
「僕に何があったか知っているの?」
「知っています。けれど、私が教えたのでは意味がありません。あなた自身が思い出さなければならないのです」
「どうすれば思い出せる?」
問い返すと、男の子はわからないというように俯いて首を振った。
「けれど、私がお手伝いいたします。あなたが本来のあなたを取り戻せるように」
そういうと柔らかそうな頬にえくぼを作って微笑んだ。
男の子は自らをメイと名乗った。メイは朗らかでよく笑う男の子だった。
「風神が操る輿はなによりも早く遠くへ行けるのです」
袖を大きく揺らしながらメイはくるくると走り回る。
「そんなにすごいのか。そんなところから落ちて僕はよく無事だったよね」
自分の丈夫さに呆れるように笑うと、メイは当然だというように僕を見上げた。
「無事でいてもらわなければなりません。あなたはとてもとても大事なお方なのですから」
「僕は偉い人だったのかな?」
冗談めかして聞くとメイは首を振った。
「決して偉いというわけではありません。けれど、この世界でたった一人唯一無二のお方なのです」
そう言いながらメイはぐんぐんとビル郡の合間を抜けていく。
「大切にされていたの?」
「それは人によって違うと思います。大切にしている方も居られれば、そうでない方も居られる」
「まるで謎々だね」
笑うとメイは振り返って申し訳なさそうに僕を見た。
「的を得ない言い方で申し訳ありません。けれど、」
「僕が自分で思い出さないと意味がないんだろう?」
メイの言葉を引き継いだ。
「僕は急いでどこへ行こうとしていたんだい?」
「自らが居られる場所に」
「僕がいる場所?」
メイは古ぼけたビルの階段を登り始めた。
「はい。あなたが居られなければ始まらない場所です」
「それは大切な場所?」
「とても。少なくとも私たちにとっては」
「僕がなくしたものと関係があるの?」
「あります。あなたが失くしたものは、その場所へ行くための大切な鍵なのです」
「家の鍵を失くしたってこと?」
「そういうことになりますね。けれど、それはとても大切な鍵です」
「大切な鍵? 作り直せないの?」
そういうとメイはとんでもないというように目を大きく見開いた。
「まさか! そんなことは出来ません。その鍵はあなたに続く幾人ものご兄弟が受け継いできたものです。本来であれば、あなたのお兄様から直接受け渡されるはずでした」
「兄さんから直接?」
「はい。ですが、今回は事情が違っていたのです。御殿から動くことの出来ないお兄様が先に鍵をあなたの元に送られたのです。お兄様は最後の夜に祝いの宴を開こうとなさっておいででした」
「祝いの宴を?」
「そうです。本来であれば祝うことなど決してあってはならない夜に」
「兄さんは何を考えていたのかな。そんな日にわざわざ宴なんて」
屋上へ出ると思われるドアの前でメイが振り返る。
「お兄様のお気持ちもわかります。お名前を与えられて自我を持ったあなたに一足でも早く会いたいと思われたのでしょう」
ギギギと錆びた音を立ててドアが開く。その向こうには相変わらず灰色に染まった街が見えた。
「メイ、どこへ行くんだい?」
「私の持つ記憶をたどります」
「記憶?」
「今はもう、このような方法しか取れませんが」
そういうとメイは僕の手をとって走り出した。引っ張れて走り出す僕の目の前にはフェンスも何もない屋上の端が見えている。
「待って!」
「荒療治ですが、これが一番手っ取り早いのです」
メイの声が聞こえたかと思った次の瞬間、僕は彼とともに屋上から飛び降りていた。
声にならない叫び声をあげながら、僕は必死でメイの手を握った。
灰色の空はねっとりとした重い空気で、吹き上がる風は鉛のように重たい。
「大丈夫です」
メイの声が聞こえる。
「目を開けてください」
言われるがまま恐る恐る目を開けると、そこには色のある世界が広がっていた。
走馬灯のように駆け抜ける景色の中を僕たちは真っ逆さまに落ちている。
風圧の中で目を凝らしていると、ふと歓声が上がった。
「あなたが名付けれれたときのことです。誰もが喜びました。そして職を辞するお兄様を労ったのです」
目の中に飛び込んでくる景色はそのまま僕の脳に焼き付いていく。一つ、二つと飛び出してくる記憶はメイの見せているものなのか、それとも僕自身のものなのか。
次の瞬間、僕は不思議な浮遊感の中にいた。暗闇の中でふわふわと漂っていると誰かが僕を呼ぶのが聞こえてくる。
僕の名前?
「覚えていますか? ここはあなたの生まれた場所です」
メイの声が聞こえた。
「覚えているよ」
自然と言葉が出た。
「たくさんの兄弟たちと時間のない空間の中で僕たちは漂っていたんだ」
そう。自らの時間を与えられるときまで僕たちはずっとここにいた。母のお腹の中のような優しいゆりかごの中に。
居心地のいい暗闇の中に一筋の光が差して、僕はまばゆい日差しの中に呼び出された。そして鍵を託されたのだ。遠い御殿に住む兄が僕に託した鍵はとても小さくて、それでいてとても重たかった。幾人もの兄弟たちが繋げてきた時間がそこには込められていたから。
突然やってきた大役は気が重たかった。僕に役目が果たせるのか不安で、だから大切な鍵を持つ手が緩んでしまったのだ。
あの時、神代から時間を越えて僕を運ぶ輿の上から大切な鍵を落としてしまった。時間の狭間に失くした鍵は一体どこにあるのだろう。
「メイ! 早く鍵を探しに行かないと!」
僕は力いっぱい叫んだ。
「鍵の在り処は見当がついています」
メイの声が暗闇に響いた。
そこには大きな梅の大木があった。年老いた梅の樹の根元に小さな鍵は落ちていた。それを拾い上げるとずしりとした重みが手に伝わった。
僕たちが【鍵】と呼ぶもの。それは永遠のときを刻む金色の時計だ。
「この樹はあなたの守り主です。あなたがこの世界に生を受けるとわかったときから、時を越えてあなたを守ってきたのです。私もそうでした」
「私も?」
メイ言葉を反芻する。
「ねえ、君はもしかして……」
呼びかけると、メイはえくぼを作って笑う。
「私の出番は終わりです。さあ、お兄様が御殿でお待ちですよ」
「メイ、君もおいでよ。きっと兄さんも喜ぶよ」
メイがどこかに消えてしまいそうで、僕は慌ててその手を握った。
「私は過去の産物です。あなたとともに御殿に上がることは出来ないのです」
少し困ったように微笑んで、メイは煙のようにふっと姿を消した。
御殿の門をくぐると、そこに待ちわびた様子の兄さんがいた。
「ずいぶん遅かったじゃないか。祝いの宴に間に合わないかと思ったぞ」
兄さんは僕の背中を豪快にたたく。
「あのね兄さん、何代か前のお兄さんに会ったんだ」
そういうと兄さんは含むように笑って目を輝かせた。
「それは一晩で足りる話か?」
おかしなものを書いてしまいました。