第六話 渡辺 良太
「ねぇ先生、子どもはなぜ結婚できないの? お母さんが言ってたの、あなたと良太くんがどれだけ好き同士でも、結婚は大人にならないと出来ないんだよって」
天野から放たれる思春期特有の甘酸っぱさ、真っ直ぐさはとても美しく、藤川はストレスに満ちた自分が恥ずかしくなり、思わず目線を反らしてしまう。
「天野さん、お母さんの言う通り。結婚はね、大人になってからするものなの。ねぇ、そんなに渡辺良太くんが好き?」
藤川のその言葉に、天野は嬉しそうにワンピースのスカートをくるりとひるがえし藤川に言う。
「うん、好きだよ。わたし、良太くんが大好き。でね、良太くんもわたしのことが好きなの。だって、良太くんとは小さい時からずっと一緒なんだよ。だから、これかも、わたしたちずっとずっと一緒なの。」
「……そう」
「うん、だからね、こないだ、お母さんたちには内緒で、湖で二人で結婚式をあげようって話をしたの」
「結婚式!?」
「うん、ここでね、みんなには内緒でキスをしようって計画をしたんだ。だって、大人たちは結婚式でキスをするんでしょ。だから、わたしたちも、これからもずっと一緒にいようねって、キスをしようとしたの。そしたら……」
「そしたら……!?」
「良太くん、足を滑らせちゃって、湖に中に……。あんな事になっちゃって……。やっぱり、お母さんの言うこと聞かずに二人でキスしようとしたから、バチがあたっちゃったのかな」
そう言って涙ぐむ天野を、藤川はそっと抱きしめる。
「もういいわ、天野さん。ごめんね、変なこと聞いちゃって」
「違うの、先生! 聞いて欲しいの!」
天野は、藤川の腕の中で今までの愛らしい表情とは一転、高ぶった感情を抑えられないような顔つきで藤川に言う。
「湖で溺れたあと、良太くんに、わたし言われたの!」
「わたし……、わたし……どうしたらいいか分かんないよ、先生」
天野は大きな目からぽろぽろと涙を流し藤川に訴える。
「君とは、お土産が違うので結婚できないって!」
「僕には、探さなきゃいけない人がいるけど、それは君じゃないんだって!」
……探さなきゃいけない人!?
藤川は、ちょっとでも触れてしまえば壊れそうな、あまりにも真っ直ぐでちいさな恋を、優しく包み込むかのように天野を抱きしめる。
そして、目の前に広がる湖を見つめながら、あるひとつの仮定を想像する。
渡辺良太は、湖で溺れて臨死体験をした時に、やはり人間が生まれる前の『未来の国』を覗いてしまったのだろう。
そして、もしかすると、そこには自分が生まれる前に仲良くしていた女の子がいて、その子を探さなきゃいけないと言っているのかもしれない。
藤川は、ふと天野が持っていた英語のテキストに目をやる。
First Of May
「若葉の頃」
天野の音読をしていた英文は、どこか聞き覚えがあるものだと思っていたら、ビージーズが思春期の恋を歌った名曲の歌詞だった。
思春期の恋は、けがれなく透き通るほど美しい。
そして
ーー叶わない。
ーーSome one else moved in from far away
天野舞と渡辺良太の『ちいさな恋』にも、どこか遠くから邪魔者が入ったのかもしれない。
そう、それは遠く、遠く、果てしなく遠い。
渡辺良太が生まれてくる前の……
前世の恋人ーー。
When I was small, and Christmas trees were tall
We used to love while others used to play
Don't ask me why, but time has passed us by
Some one else moved in from far away
Now we are tall, and Christmas trees are small
And you don't ask the time of day
But you and I, our love will never die
But guess we'll cry come first of May
「First Of May 〜若葉の頃〜」
曲 the beegees
◇
天野の小さな恋の光が消えてしまわぬよう、天野を優しく抱きしめる藤川は、ふと自分の背中に人の気配を感じたので振り返ってみる。
「おはようございます、先生……」
「り、良太くん!」
少年が藤川を呼ぶ声と、天野の声が重なる。
「わ、渡辺……良太くん!?」
そして、突然姿を現した渡辺良太とおぼしき少年に、驚きを隠せない藤川の声があとを追う。
「今朝ね、家の前で、舞ちゃんのお母さんに会ってね、舞ちゃんが湖に行ったって言うから来てみた」
「……なんで、なんで私を探してるの! 良太くんが探して人はわたしじゃないんでしょ!」
天野は、藤川の背中から顔を出し渡辺良太に高ぶった感情をぶつける。
それは、愛らしい十二歳の少女というより、恋する女の顔である。
天野は、聡明で愛らしくとても可愛げのある少女だ。
しかし、恋に対しては一転、まるで大人の女のように情緒的で艶っぽい表情を見せる。
そんな天野の姿に、普段はあまり感情を表に出すことはない藤川も、渡辺良太に少し声を荒げてしまう。
「渡辺くん、天野さんをあんまり刺激しないで。……なんか、天野さんや色んな生徒に、お土産がどうのとか、超能力者みたいな事言ってるけど、あなたおかしいんじゃないの!」
「……大人はみんなそう言う。父さんも、母さんも、誰も僕の言うことなんか信じてくれない。でも、本当だよ、僕の言うことは。先生は聞きたい? 自分が、どんなお土産を持ってこの世に生まれてきたか」
渡辺良太は、眉ひとつ動かさず、冷静な口調で藤川に話しかける。
やはり、この少年はおかしい。
藤川は、渡辺良太から放たれる不思議な雰囲気に、思わず後ずさりをしてしまう。
そう、それは、まるでこの世の摂理でも分かっているかような自信に満ちた目、そして、逆に全ての摂理が分かっているからこそ何かに失望しているような淋しい目……。
渡辺良太にはこの上ない自信と救いようのない虚無感が顕在しているように、藤川は感じるのだ。
「渡辺くん……。あなた、湖で溺れた時、見てきたの? この世の……あちら側を」
「……」
藤川は、渡辺良太の不思議な雰囲気に飲み込まれないよう、ひとつひとつの言葉を噛み締め口を開く。
そして、二人の視線は静かに重なり合う。
ーーその時。
突然、藤川と渡辺良太の視界が歪み始めた。
青空に向かい真っ直ぐと雄々しく伸びる木々が、二人にはどんどんと歪んでゆくように見えるのだ。
そして、生命に満ち溢れているかのように美しく色ずいていた湖畔の景色が、セピア色に変わり始め、二人の視界からは、やがて色が抜け始めてゆく。
二人の視界がモノクロームになり、気持ちが悪いように歪みきったかと思うと、次は聴覚を刺激するかのように耳障りな音が聞こえ始める。
それは、まるで音という概念からは逸脱した、この世のものとは思えないような不快な音だ。
その音は、二人を覆い包むように、藤川と渡辺良太の聴覚を襲う。
堪り兼ねた藤川と渡辺良太は、思わず耳を押さえて叫んでしまう。
「い、いやぁあああああああ!」
「あ、ああ、あああああああ!」
天野は、突然、自分の目の前で、うずくまるように苦しみ始めた藤川と渡辺良太に、一体何が起こったのか分からず、二人を見てただ怯え絶句していた。