第四話 遠い夏の記憶
初ブックマークありがとうございます。
頑張ります。
今回のお話しは、少し過激な描写があります。
苦手な方はご注意下さいませ。
「今日はえらく疲れてるみたいだね」
寝室のベッドで、寝苦しそうに何度も寝返りをうつ藤川に、隣で横になる夫は優しく語りかけた。
「ごめんなさい……起こしちゃった?」
「大丈夫、君が寝れないのなら、ずっとこうしとく……」
藤川の夫は、藤川を優しく後ろから抱きしめ、藤川の頭をそっと撫でる。
今日一日、ずっと神経が高ぶっていた藤川は、夫の優しさに、思わず涙をこぼしてしまう。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私……」
小さく震える藤川を、夫は何も言わず身体全体で包み込むように抱きしめる。
「今日ね、生理が来たの……。また今月もダメだったみたい」
藤川の頬に、悔し涙がつたう。
夫は、そっと藤川の涙を自分の指でぬぐい、藤川の身体を自分の方に向け、自分の額を藤川の額にくっつけて優しく応える。
「……また、今月頑張ったらいいじゃん、焦らずゆっくり行こう」
「……うん」
藤川は、何度夫のこの言葉に救われただろう。
幼き頃、両親を事故で亡くした藤川は、物心ついた頃から家族というものに憧れがあった。
もちろん、優しい祖父母に育てられ、とても幸せではあったが、実の母からの愛情をほとんど受けていない藤川は、母と子というものへの憧れが強く、早く自分が母親になりたかった。
だから、大学を卒業後、緑ヶ丘小学校へ赴任するとともに、祖父からの紹介で市の職員である今の夫と結婚した。
五歳年上の穏やかな性格の夫も、子供が大好きで、早く子供が欲しいねと藤川と二人でよく話していた。
しかし、結婚して四年、いまだ子供を授かることが出来なかった。
ある時、藤川は夫と二人で、不妊の検査をしたが、二人ともこれと言った異常は全くなかった。
そこで、この一年間はずっとタイミング療法で頑張ってきた。
しかし、ここ最近、藤川の教師という仕事のストレスから、生理が乱れてしまい、そのタイミングも取りづらくなってきたのである。
だからこそ、藤川は、この夏休みを利用して心身ともにリラックスして過ごし、生理を整えて、しっかりとタイミングを図りたかったのだ。
藤川は、心の底から、早く母親になり、我が子に精一杯の愛情をそそぎたかった。
そして、それは、家族への憧れとともに、ある『償い』でもあった。
ーー償い。
藤川はそっと目を閉じ、遠い夏の記憶を辿る。
◇
十二年前ーー。
高校二年生の十六歳の夏。
藤川は、妊娠した。
当時、付き合っていた先輩との子供である。
藤川は、昔からストレスによる生理不順がひどく、生理がこなくてもまた遅れているくらいにしか思っておらず、つわりもひどくなかったため、妊娠に気づいたのはだいぶ後からだった。
何より身体の変化もほとんど感じられなかった。
結局、気づいたのは、もうすぐ22週にさしかかろうとした時。
お腹の中では、小さな命がしっかりと人の形をなし、手足を動かしたり元気に動き回る時期である。
それはーー。
中絶の限界の週でもあった。
22週を超えてしまえば、中絶は出来なくなる。
生むか堕ろすか、すぐにでも決めなければいけない。
藤川のことを愛してやまない祖父母も、さすがに高校生の藤川に、もう22週と言えども出産を勧める事は出来なかった。
結局、藤川の祖父母、そして相手方の家族ともよく相談して、中絶する方向へ話はすすんだ。
ただひとり、藤川をのぞいて。
まだ高校生の藤川にも、妊娠する事でお腹の子への母性が芽生えていたのだ。
祖父母や相手方の家族が、生むか堕ろすか話をしている間にも、藤川のお腹の赤ちゃんは毎日元気に動き、ポコッポコッと藤川はお腹に胎動を感じていた。
藤川には、それが愛おしくてたまらなかった。
そんな愛すべき我が子を、まわりはなぜ堕ろせと言うのだ。
藤川は、お腹の子を両手で包み込むようにお腹に手をあて、毎日泣いていた。
しかし、藤川の願いも虚しく、中絶の準備はどんどんとすすめられ、藤川は自分の意思とは反し、気がつけば産婦人科に入院させられた。
22週ギリギリの中絶は、中期中絶と言われ、ほぼ普通の出産と変わらない。
3時間おきに陣痛促進剤を打ち、母体に無理矢理陣痛を起こさせ、胎児を出産するのだ。
しかし、生まれてきた胎児は、まだ体外では呼吸が出来きない時期なので、生まれてしばらくすると呼吸が止まり死んでしまうという。
その後、市へ死亡届を出し、胎児を火葬する事になる。
産婦人科では、嫌がる藤川を祖父母や相手方の家族が押さえ込み、藤川に陣痛促進剤が打たれる。
促進剤により、藤川の身体に起こされる人工的な陣痛は、気が狂うくらいに藤川の身体中に痛みを走らせた。
「いやっ、いやっ、あああああああ!」
産婦人科に、藤川の獣のような叫び声が上がる。
そしてーー。
二度目の促進剤を打った時、藤川は気を失ってしまった。
目を覚ましたときには、胎児は既に出産され、何もかもがもう終わっていた。
両手でお腹を撫でても、昨日まで元気に動いていた我が子はそこにはいない。
「ああ、あああ……」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
藤川は、お腹を抱きしめ三日三晩泣き続けた。
藤川は中絶をすすめた祖父母や周りの大人たちへではなく、生まれてくる小さな命を、まだ生み育てることの覚悟が出来なかった自分に対して悔しくて、悲しくて堪らなかった。
藤川の祖父母は、そんな藤川へ今まで以上の愛情を注ぎ、ずっと優しく見守るしか出来なかった。
◇
夫の眠る横で、藤川はそっと両手で自分の腹を撫でる。
遠い夏の日に、別れた我が子に想いを馳せた。
『ごめんなさい……』
願わくば、天国で元気で過ごしていて欲しい。
あなたも、もう十二歳。
来年、中学生だね。
藤川は心でそう呟く。
そして、今日出会った少年から聞いた、渡辺良太の話を思い出す。
メーテルリンクは、「青い鳥」で、人が生まれて来る前の世界を「未来の国」、そして死後の世界を「思い出の国」として描いている。
チルチルとミチルは、「思い出の国」で、亡くなった優しい祖父母に出会っている。
そして、「未来の国」では、これから生まれてくる弟に出会っている。
もしも、渡辺良太が、メーテルリンクと同じような経験をしたと言うのなら、藤川は彼に聞きたい事がある。
私が別れたかわいい子供は、「思い出の国」で元気にしてますか?
そして、「未来の国」からまた私のもとに元気な子供はやってきてくれますか?
◇
その夜、藤川は夢を見た。
いや……夢というより、もしかしたら過去の記憶だったのではと思うほど、それはやけにリアルで生々しい。
高校二年生の夏、妊娠騒動で周りの大人たちがざわめく中、藤川はひとり雑木林を歩いていた。
身体中が重い、そして気だるい。
髪を振り乱し、はぁはぁと肩で息をしている。
あまりにも倦怠感が強く、藤川は雑木林の中にしゃがみこむ。
すると、藤川は自分が着ている洋服が血だらけになっている事に気づく。
いや……洋服だけでない。
まるで、人殺しでもしたかのように、両手も、足元も、身体中が血だらけになっていた。
しかし、不思議なことに藤川は、血だらけの自分を見ても全く恐怖感はなく、むしろ清々しいような気持ちにさえなっていた。
ふふふ……。
ふふふふふ……。
大きく満ちた月明かりが、全身を血で染め、ひとり薄ら笑いを浮かべる藤川を妖しく照らし出していたーー。