第二話 藤川 紘子
東京都、奥多摩の山間部にある緑ヶ丘市。
見渡せば美しい山々に、清涼な水がきらめくように流れる川や湖がある。
豊かな自然が溢れた緑ヶ丘は、まるで生命の息吹に満ちているような地域である。
緑ヶ丘市に、唯一ある小学校。
緑ヶ丘小学校の理事長室には、夏の風に揺れる緑の木々の隙間から、眩しいほどに溢れた陽光が、窓から鋭く射し込んでいた。
そして、次第に激しさを増す蝉の鳴き声は、先ほどから理事長室で対峙する二人を嘲笑うかのように、二人がいる部屋に響いていた。
「藤川君、いい加減に聞き分けてくれよ」
頭が少し禿げ上がった男は、自分の目の前に対峙する、まだ二十代半ばの若い女に、困ったように口を開く。
理事長室で、頭を抱え困惑するこの男は、この緑ヶ丘小学校の理事長。
そして、その理事長を睨むつけるかように彼の前で腕組みする女は、藤川紘子ーー。
この小学校で、6年2組を担任する教師だ。
藤川は、スラリとした細身のスタイルが美しく、肩先まで真っ直ぐ伸びた黒髪と、まるで自己主張の強さを表すかのような、キリリとした目元が印象的な女性である。
一見すると、おおよそ教師というよりは、どこか華やかな世界の最前線で活躍していそうな雰囲気の女性である。
「理事長、何度も言いましたが、今は夏休み中です。なんで、私がそんな事をしなければならなんですか」
「君の担任のクラスの生徒が起こした問題だ。分かってくれよ、藤川君」
「理事長、私のクラスの生徒の問題といっても、悪いのは生徒たちです。勝手に夜の校舎に忍び込み、突然過呼吸で倒れこんだからって、何で一人一人の生徒の家に私が謝りに行かなきゃなんないですか!」
藤川は、自分の左手の薬指に光る細いリングを右手でそっと撫で、理事長に詰め寄る。
藤川にとって最悪の夏休みの幕開けだった。
何が悲しくて、自分の担任の生徒だからと言う理由だけで、勤務時間外の子供の悪戯の後始末を自分がしなきゃならないんだ。
藤川は天を仰ぎため息を漏らす。
ことの経緯はこうだ。
終業式が終わった昨夜、藤川のクラスの男子生徒五人は、夜の校舎に勝手に忍び込み、図書室へ続く廊下で、原因不明の過呼吸で倒れていたというのだ。
結局は、たまたま宿直についていた警備員が、校舎を見回りしている時に彼らを発見したことで、ことなきを得たが、もし少年たちの発見が少し遅れていれば、呼吸困難で重体になっていたらしい。
しかし、一命はとりとめたものの、今も原因不明の高熱が続く少年たちの五人の母親たちは、夜間にも関わらず、簡単に校舎に忍び込める学校側の管理はずさんなのではないかと、学校側の管理不行き届けとして、今朝方この学校に乗り込んできた。
そこで、困り果てた理事長としては、少年たちの担任である藤川に、少年たち一人一人の家庭を訪問して、学校側としての誠意を見せ、ことの収束を図ろうと考えたのだ。
「いやです。今月こそ私は……」
「……藤川君! 」
一瞬、何かを言いかけ口をつぐんだ藤川にはお構いなしに、理事長はたたみかけるように言葉を続けた。
「頼むからお願いだ、藤川君。家庭訪問をしてくれ……。そして、少年たちに話を聞いて欲しいんだ。見回りの警備員が言うには、少年たちは『少女の霊を見た……』と、ずっと口々に呟いていたそうだ。そんなものはどこの学校にもある噂話として片ずけてしまえば大丈夫だろうが、今はSNSでの情報社会だ。万が一にでも、そんな噂話がこの街に広まってしまえば、この学校への来年度の志願者は減ってしまうだろう。理事長の私が言うのもおかしな話だが、ただでさえ、少子化の余波を受け、毎年志願者を募るのに頭を悩ませているのに、こんな馬鹿げた噂話で志願者が減ってしまい廃校にでもなってしまば、一緒にこの学校を建てた君の祖父の藤川にも顔向けが出来なくなる」
「……!」
幼い頃、両親を亡くし、祖父母に育てたられた藤川は、今まで育ててくれた祖父母の話にはめっぽう弱い。
そもそも、この緑ヶ丘小学校の建設は、藤川の祖父であった藤川義偉の悲願でもあった。
もともと、この緑ヶ丘には小学校はなく、小学生たちは四十分かけて山を下り、都市部の小学校に通学していたのだ。
そこで、同級生同士だったこの理事と藤川の祖父は、緑ヶ丘に小学校を建てる計画を行い、今から十二年前の夏、当時国交省の役人だった藤川の祖父の手腕で、この土地を国から破格の値段で払い下げる事に成功して、緑ヶ丘小学校が建設されるにいたった。
当時は、マスコミから国有地の不当な払い下げだと散々叩かれていた藤川の祖父と理事だったが、緑ヶ丘に住む人間にとっては、この二人は緑ヶ丘に小学校を建ててくれた英雄のような存在だった。
そして、藤川にとっても尊敬してやまない祖父。
そんな祖父の名前を出されては、藤川も為すすべがなくなり困ってしまう。
教師とはストレスのたまる仕事で、藤川はここのところホルモンバランスを崩しており、毎月生理が乱れていた。
だからこそ、夏休みは、教師という仕事から少しでも離れ、自分の精神をゆっくりと休ませて、健康状態を整えようとしていた矢先の出来事だけに、藤川は大きなため息をつき黙り込んだ。
「じいちゃん……」
理事長の言葉に、藤川は、久しぶりに祖父と過ごした日々に想いを巡らせた時だった。
突然ーー。
藤川の耳に、外から聞こえていた蝉の鳴き声が、生まれたばかりの赤子の泣き声に変わってゆくように聞こえはじめた。最初は、ただの錯覚かと思っていた藤川も、次第にうめき声のように大きくなってゆく赤子の泣き声に、薄気味悪さを感じ身体中に悪寒が走る。
堪り兼ねた藤川は、その声を打ち消そうと両手で耳を塞ぎ、首を何度も何度も大きく左右に振り始める。
しかし、その泣き声は止むどころか、むしろ直接藤川の聴覚に訴えかけるように、どんどん大きくなる。
藤川は、身体全体をくねらせもがきはじめる。
「ふ、藤川君!」
この忌まわしき赤子の泣き声は、藤川にしか聞こえていなのだろう。
突然の藤川の豹変に驚いた理事長は、藤川のもとに駆け寄り、彼女の肩に手をあて大声で呼びかける。
「だ、大丈夫か藤川くん!」
すると、その理事長の声に呼応するかのように、赤子の泣き声はぴたりと止まった。
「大丈夫です、理事長」
はぁはぁと、肩で息をする藤川は、乱れた髪を手ぐしで整えながら校長に言う。
「少女の霊……? でしたっけ、理事長」
「あぁ。まぁ、でもどこの学校にでもある噂話的なものだと思うんだがね」
「……」
藤川は、両手でそっと腹部を撫でるように動かし、うつむき加減で校長に答えた。
「子供たちの件、分かりました。明日にでも、各家庭へ訪問します」
藤川は、自分のストレスともう少し戦いながらも、自分を育ててくれた祖父のこの学校への思いを守ろうと思った。
いつに間にか、あれほど騒がしかった蝉の音は、ぴたりと止んでいた。