第8話 二章 時期外れの転入生「本田雪弥」
六月二十日月曜日、受験生が転入して来ると白鴎学園高等部は湧き立っていた。
白鴎学園は私立の進学校である。新しい市に建つ有名な学園だったが、四国山地に囲まれた県の奥地にあるため、他県からの転入生は初めてのことだった。
転入生は東京にあった国立高校から来たらしい、とどこからか情報が流れだし、三階の最上階にある三学年フロアでは、その話題で一層盛り上がっていた。
白鴎学園は、少人数制教育をモットーとしている。もともと少子化地方であったこともあり、市の人口が増えたといっても一学年四クラスの二十四人で構成されていた。比率は男女半々であるが、大抵女子の数が男子より一人二人ほど上回ることが多い。
朝の八時、ほとんどの生徒たちが登校してくると、三学年では転入生に関して様々な憶測が交わされた。
進学争いの激しい国立で挫折した、テレビで聞くような壮絶な苛めに遭っていた、などあったが、東京の高級住宅街の住人で両親がお金を持っており、好きに学校を変えられる立場であるという意見が見事に一致していた。
「うちのクラスだ!」
いつもは遅刻をするはずの男子生徒が、三年四組の教室に飛び込んで来たのは、学校の時計が八時二十分を打ったときであった。
教室内は一瞬ざわめいたが、信憑性のない話だと女子生徒たちが批判した。「またいつものホラでしょ」とある女子生徒がいって教室がよそよそしい空気に包まれると、その男子生徒は負けじと声を張り上げてこう言った。
「職員室で確かに聞いたぜ、本当だって! しかも、転入生もいたんだ! 男だった!」
その男子生徒が鞄を置く暇もなく、教室にいた女子生徒の半分が詰め寄った。
どんな少年だったのか聞こうと、彼女たちは口々に疑問を投げかける。彼に歩み寄らなかった女子生徒たちや、その様子を伺っている男子生徒たちも興味津々で見守っていた。
「後ろ姿しか見えなかったけど、男にしては綺麗な髪してたな。ちょっと異国の血が入ってるっぽい感じで色素が薄くて、身長は低くない……真新しいうちの制服着てて……うん、なんか普通に真面目そうな感じ!」
男子生徒がそう述べたとき、突然大きな音が上がって教室が静まり返った。窓側から二列目の、最後尾の席に座っていた男子生徒に注目が集まる。
そこにいたのは、明かりで赤く映える短髪に、金のピアスをつけた少年だった。彼はブルーのブレザーではなく、黒の学ランを着用していた。高校指定の白から赤いシャツが覗き、一人だけ白鴎学園の生徒ではないような雰囲気を漂わせている。
少年は鍛えられた引き締まった身体をしており、教室に入る生徒たちの平均よりも高い背丈をしていた。今にも噛みつきそうな鋭い瞳で一同を見渡す彼の机は、蹴られた衝撃で誰も座っていなかった前の席を押し上げている。
「お前ら、いちいち煩ぇぞ。ちったぁ静かにしろ」
嫌悪感剥き出しの少年に、言葉もないまま生徒たちが息を呑んだ。
彼の名前は金島暁也。素行が悪いと評判で、三学年生の中で唯一の不良である。高校二年生の頃、高知県高知市にある高校で問題を起こして転入してきた。
彼が着ている学ランは、前に通っていた高校の物である。彼の父は高知県警本部長であり、コネで入って来たという噂が今でも絶えないでいた。編入試験では満点を叩きだしていたが、生徒たちはどこか疑うように遠巻きだった。
暁也は天性の運動派でもあった。前の高校では、陸上競技大会においても優秀な成績を収めていた。それでも常に騒ぎを起こす問題児であったことに変わりはなく、転入早々「クソつまらない連中ばかりしか居やしねぇ」と発言し、喧嘩になった先輩たちを全員病院送りにしたという事件が起こった。それ以来、ある一人の生徒を除いて誰も彼には近寄らないのだ。
遅刻の常連である暁也が、朝のホームルームが始まる礼前の教室にいることを不思議に思いながらも、生徒たちは細々と会話をして席に戻った。暁也は「ふん」と鼻を鳴らして、蹴り飛ばした机を足で元の位置に引き寄せる。
暁也も他の生徒たちと同じように、東京からの転入生とあって「少しは骨がある奴が来るのではないか」と小さいながらに期待していた。しかし、話を聞いてその可能性がないことに気付いたのが、彼には面白くなかった。
「まぁまぁ、落ちつけよ、暁也」
隣の席に座っていた少年が、暁也の苛立ちを気にする様子もなく声を掛けた。芯からスポーツ少年である比嘉修一だ。
修一はクラスの人気者で、勉強はいまいち出来ないが運動神経はずば抜けていた。受験生になった今年、先週行われた試合を最後にサッカー部を引退し、最近はスポーツ誌を読むことにはまっている。
というのも、修一はあまりの成績の低さを心配され、両親と教師の判断から、いち早く部活動から卒業させられたのだ。本人も成績結果を受け入れた素振りは見せたものの、「まぁ卒業してもサッカーはするし」とどこか開き直ってもいた。
一匹狼のような暁也も、修一の事は嫌いではなかった。茉莉海市に引っ越す事に嫌気が差していたが、白鴎学園で修一と出会ってから、ここに暮らして学園に通うことへの感じ方が少し変わった。
二年生の頃は別々のクラスだったが、三年生で同じクラスになってからは、サボらずほぼ毎日登校することが続いている。体育や課外授業にも参加しなかった暁也が、「俺行くんだけど、お前も行くよな」という修一の一言で参加が決定するパターンも多かった。
暁也は修一の言葉に鼻を鳴らしただけで、何も答えなかった。修一は不機嫌そうな彼の地顔を真っ直ぐに見つめ、その表情とは裏腹の心情をあっさり見破ったように「お前も、転入生気になるよな」と小麦色の顔に無邪気な笑みを浮かべ、右側の八重歯を覗かせた。
「別に、興味ねぇよ」
暁也は机に足を乗せ、椅子に背をもたれながら無愛想に答えた。修一はその態度にもこれといって気まずさは見せず、「俺は楽しみだけどなぁ」と言ってスポーツ誌の続きを読み始める。
修一のおかげで緊張がほぐれた教室に、普段と変わらない音量の会話が戻り始めた。先程と同じ話題だが、馬鹿騒ぎのレベルではない。
「……おい」
そんな教室の様子を眺めながら、暁也がぶっきらぼうに口を開いて友人を呼んだ。片手で持ってきたパンを器用に引き出しに入れていた修一が、「何?」と答えて振り返る。
「…………読み終わったやつ、貸せ」
「ああ、いいぜ」
修一は気前よく笑って、パンを押し込んだ引き出しに積み上げられている雑誌を一つ取り出した。スポーツに興味がある人間に悪い奴はいない、というのが彼のモットーであった。
そんな単純な思考と行動力を持ち、スポーツと食べ物以外興味を示さない修一の引き出しは、すっかりスポーツ雑誌と食べ物入れに成り果てていた。教科書やノートは、いつも彼の足元に積み上げられている状況だ。
その現状を目の当たりにするたび教師が嘆くという、教師泣かせの机は、三年四組にはもう一つある。まるで誰の席でもないかのような、何も入っていない机を所有している暁也である。
稀に修一からもらった食べ物が入っているが、暁也の勉強道具は、鞄と一緒にロッカーに詰め込まれていた。上下二つ分のロッカーに押しやられた教材たちを見て、教師たちが眩暈と悲しみを同時に覚える傑作が、そこには仕上がっていた。
学園の時計が八時三十五分を打ったとき、始業開始の予鈴が鳴り響いた。
すっかり聞き慣れた音が止むまで、しばし教室の会話が途切れた。まるで教会の鐘だと感じる生徒もいて、重々しい鐘の音が鳴り響く数十秒間は、なんとなく口を閉ざしてしまう。
まるで懺悔の時間のよう。ただ重々しい音に、そう黙りこむ者が大半だった。
「なんだか、沈んだ気分になるよね」
「そうかなぁ」
女子生徒たちが話しを再開したとき、片足をかばうような聞き慣れた足音とともに教室の扉が開けられた。
今年三十八になる担任の矢部が、相変わらずの青白い顔で教壇に上がった。細身の長身は教師の中でも高かったが、俯き加減の猫背で影も薄くなっているような男だった。
瞳は癖の入った前髪に埋もれて正面からは見えず、時々髪の間から見えるそれは、見ている方が気力を削がれるほど力がない。体力や気力、自信すらもないようにワンテンポ行動が遅れ、言葉を発する時は、いつも咳払いをした。
不健康そうな外見ながら、三十八歳にしては白髪一つない弾力のある髪をした矢部は、学園創立時から教師として勤めている古株だった。
職員室の廊下には、開校を祝ったおりの集合写真が貼られており、今よりも十年若い時代の彼が写っている。その写真は目尻の皺が今より少ないだけで、特に変化は見られない。髪型も落ちた肩も、目を覆うような前髪も今のままである。
左足が少し不自由な矢部が、その足をわずかに引きずるように早足に歩く癖は、全校生徒たちが知っていた。
無気力で自信もなさそうな雰囲気を持っているものの、歩く時だけはその背中がピンと伸び、歩みがゆっくりとなったときや立ち止まると猫背になる。一番地味だが特徴ある教師であり、学校で一番覚えやすい名も加えて、知名度は校長よりもあった。
矢部は教壇に立つと、自然と猫背になって名簿表に視線を落とした。もともと彼の声が小さい事を知っている生徒たちは、静まり返って矢部が話し出すのを待つ。
咳払いを一つした矢部は、その小さな咳払いよりもはるかに少量の声を発した。
「えー、皆さんおはようございます。今日このクラスに新しい生徒が……」
ぼそぼそ、と口元をわずかに動かせるように矢部が話し出したが、後半部分では吐息交じりになり、やがて聞こえなくなった。
頼むから大事な報告だけでも声を張り上げてくれ。生徒たちが再三の事を思いながら、息がもれるような声から言葉を汲み取ろうと真剣な表情で身体を乗り出す中、最後尾の席にいた暁也が欠伸を一つした。
矢部は再び小さな咳払いを一つして、教室のグリーンの引き戸式扉へと顔を向けた。
「入ってきなさい」
どうも、と遠慮するように告げられた小さな言葉のあと、ゆっくりと扉が開いて一人の少年が入って来た。静まり返っていた教室が、にわかに騒がしくなる。
真新しい白鴎学園高等部の制服を着込んだ少年は、三学年のうちでも背の高い暁也や修一と変わらぬ背丈をしていた。身体の線は細く華奢だが、すっかり出来あがった大人の体躯に見えない事もない。女性のように白い肌と柔らかな髪は、生徒たちに育ちの良さを印象付けた。
少年の色素の薄い髪は、そよ風にもふわりと揺れた。教壇に立つと、彼は悪意を感じさせない整った顔に、はにかむような笑みを浮かべる。
どこかしっかりとした雰囲気をまとったものの、その細い身体や表情もどこか中世的だ。「どうも」とぎこちなく返した声も澄んでいて綺麗で、特に女子生徒達が賑やかさを二割増しで強くした。
生徒たちは、新しいクラスメイトに好印象を抱いて騒ぎ出した。その後ろで期待外れの落胆を覚えていた暁也は、ふと胸の奥がざわめくのを感じた。理由も分からず転入生を眺めると、目があったわけでもなく、矢部の隣に立った少年が浮くような黒い瞳をぎこちなく細めた。
ああ、そうか。髪の色に対して瞳が真っ黒だ。
思った瞬間、暁也はなぜか全身を冷たい物が走って行く錯覚に捕らわれた。印象強いその黒く大きな瞳の奥にどこまでも暗黒な闇があり、そこに自分の身体が落ちていくようで――
しかし、はっと我に返ったとき、彼はすっかりその事を忘れていた。湧き上がった興味が、期待を背負って彼の中に戻って来たのだ。
あの少年の髪は、陽の光で蒼色とも灰色ともとれない色合いを帯びている。強く染髪した髪は黒に戻しにくいこともあり、そうだとすると、少年は東京の学校で荒々しい問題を起こしてこの学校へ転入してきた可能性もあるのだろうか。
あの柔和な雰囲気からすると、元は不良だったという想像も付かない。いや、本当に髪の色だけ、色素が薄く生まれてしまったのかもしれないけれど。
でも、本当はそんな事、――構わないのだ。
意外にも元不良で度胸があり、問題を起こした事がある生徒なのかもしれない、という小さな期待が心の中で芽生えるのもあったが、そんなこじつけは大きな要点ではなくなっていた。
まとっている空気や雰囲気は悪くなかった。ただ純粋に、暁也は初めて修一と出会った時のような心持ちで、彼に興味を引かれるものがあったのだった。
※※※
「本田雪弥です。……その、よろしく」
雪弥はぎこちなく挨拶をした。
制服を着てマンションを出たときから、彼は緊張で胃がねじれる思いだった。この学園に足を踏み入れてからは、胸やけに加えてひどい胃痛を感じていた。常に突き刺さる、学生たちの強い視線のせいである。
いざ若い子供たちの中に飛び込んでみると、自分がどれだけ浮いた存在であるのか再認識出来た。一人の大人として、子供たちの中でその存在が目立っているのである。
教壇に立っている間、彼は込み上げる震えと逃げ出したい衝動を堪えるのに精いっぱいだった。男女合計二十四名が見渡せる場所で、雪弥は強く思った。
二十四歳が十七、八歳の振りなんて絶対に無理がある、と。
そのとき、一段と教室が騒がしさを増した。驚く雪弥をよそに、次々に生徒たちが口を開く。
「どこの高校から来たの?」
「すごく綺麗な髪ねぇ」
「部活とかやってた?」
「彼女とか、もういるのか?」
え、え? …………えぇぇぇええええええ!
雪弥は驚きを隠せなかった。今にも立ち上がりそうな勢いの若者たちを前に、黒板側へと一歩後ずさる。
ばれてない! しかも、嬉しいんだか悲しいんだか全然疑われてない!
「はいはい、質問は授業時間以外に……」
弱々しい咳払いを一つした矢部がぼそぼそと言い、雪弥は我に返って、ぎこちない微笑みを浮かべ直した。今にも引き攣りそうな顔を、どうにか笑みで塗り替える努力をする。
「じゃあ、そうですね……案内役がてら、修一君の後ろに席を用意しましょうかね……」
「よっしゃ!」
修一は、座ったままガッツポーズをした。一目見て、転入生がまとう自然で穏やかな雰囲気が気に入ったからである。絶対良い友人になるぞ、と修一は動物的勘でそう思っていた。
まずはどんなスポーツに興味があるのか聞こう、と考えている彼の隣で、暁也はじっと雪弥を観察する。矢部と話している転入生は、普通の学生に見えて「やっぱり遺伝的な髪色なのか……?」と呟き、威嚇するように顔を顰めて腕を組む。
矢部から「生徒たちへのサプライズで席を用意していなかった」とようやく聞き出せた雪弥は、強い視線を感じて教室の後ろへと目をやり、こちらを凝視する一人の少年に気付いた。
色が抑えられた赤い短髪に着崩した他校の制服を見て、この教室には不良がいる事を認識した。新参者が来たことに対する不良の行動を予測したとき、つい困惑の表情を浮かべてしまう。
もし喧嘩を吹っ掛けられたり、リンチされそうになったらどうしよう。
昔から、自分の力は少々強いらしい、とは分かっている。
しかし頭では分かっていても、なぜか自動反撃に出てしまうのも少なくはないので、関係もない生徒を病院送りにするわけにはいかないしなぁ、と雪弥は悩んだ。
その隣で矢部がぼそぼそと指示を出していたが、何人もの生徒たちが主張して来た「聞こえない」という言葉もあって、そばにいた雪弥の耳からも、矢部の声がかき消えてしまった。