第7話 二章 私立白鴎学園と潜入前の準備
四国の南側に位置する高知県は、四国山地に囲まれた県である。晴れの日が続くことが多く、雨が降る時は一気に降り注ぐといった気候であった。水量豊富な河川が多くあり、海沿いの山地ではあるが国内有数の清流を持っている。
囲まれた山地から海沿いに下ると少ない平地が続き、帆堀町と伊野川村が合併して新設された茉莉海市があった。旧帆堀町に新しい学校が建てられた事によって、地域の発展を促そうと都市計画を県が立ち上げたのだ。
大型船が荷物を運搬する港を残し、防波堤から山地へと続く荒ら地を県が急ピッチで開拓。高知県の路面電車と四国電車の線がこの土地まで伸びたのは、学校を建てた男が、莫大な私財を県と市町村に投資したからだといわれている。
区画整理がなされた新しい都市は、これまで農村地帯にはなかった多くの企業が入った。学園を中心に住宅街が広がり、大通りには、これまで都会にしかなかった店が多く集まった。
圧倒的に飲食店が多いのは、地元住民のニーズに業者が対応したためである。パチンコやカラオケなどの娯楽は一つずつしかなく、幅広い年齢客が求める品を取り揃えたショッピングセンターが人気だった。
荒ら地の間にぽつりぽつりとあった農家は、県の支援を得て新たな農地を与えられていた。地元産の果物や野菜は茉莉海市では安く販売され、業者や他の市町村へは右肩上がりで流れている。交通機関が整備されたことによって、物資の運搬が円滑になっているためだ。学生たちのデザインを取り入れた茉莉海市役所は、農地と町の境にあり、常に地元民と身近にあり続ける活動を積極的に行っている。
六月の十七日、雪弥は質素なシャツとスポーツウェアの軽装で電車に乗り込んだ。途中から路面電車へと乗り換え、最後はバスに乗って茉莉海市へとやってきた。
高知県警察本部のヘリポートを使えば便利だったのだが、怪しまれずに学園で潜入しなければならなかったので、彼らと接触はしなかった。学生という偽造身分を携え、車やバイク、またクレジットカードも無しにやって来たので、到着したときは午後二時を回っていた。
雪弥が務める機関が確保していたのは、茉莉海市にまだ三件しか建っていない高層マンションだった。東京や特殊機関本部がある西大都市に比べるとやや低めだが、学園に近い住宅街に建てられたそれは、単身用の小さな間取りの部屋と一世帯用の二種類の部屋が備え付けられていた。彼が持っていた鍵は、1LDKの最上階にある部屋の物だ。
つい先程まで誰かがいたように、最上階の部屋は換気がされていた。学園の制服が、ボリュームのある一人用ベッドに置かれている。その隣には拳銃が二丁と替え用の弾、そして隠しナイフが十本並べられてあった。
あとは若者向けの服が埋め込み収納棚に詰められているだけで他の家具はなく、代わりに本部から送られてきた荷物がダンボールのまま置かれていた。
普段何気なく使っているバイクや車の有り難さを思いながら、雪弥はベッドから物を下ろした。約七年前着た以来の学生服やその他の荷物に、精神的な疲労を感じてそのままベッドに横になった。
※※※
翌日の土曜日、雪弥は早朝一番に風呂を澄ませると、こっそりと送らせていた缶ビールを冷蔵庫に入れた。
持ってきた食品は、すべて常温でも大丈夫なものばかりである。空いている戸棚スペースは多くあったものの、短い間世話になる場所でいちいち仕分けする事もなく、彼は非常食やお菓子をまとめて、キッチンの一番下にある大きな引き出しにしまった。
冷蔵庫には缶ビールのみが並び、結局使用されたのは一つの引き出しと冷蔵庫のみだった。面倒だった雪弥は、他の引き出しや戸棚すら開けないまま飲食の収納を終えた。
ここまで大雑把なナンバーズ・エージェントは、彼くらいなものである。他のエージェントは短い間の寝泊まり場所とはいえ、冷蔵庫やキッチンには最低限の物をきちんと分け入れている――というより、本来そういった全ての事まで整えてもらうものだ。
上位ナンバーのエージェントは、下の者に全てやってもらうことが普通だった。しかし、雪弥は前もって準備された部屋を宛がわれた際、「なんかどこに何があるのかも探さなくちゃいけなかったし、次からはダンボールのまま置いといて下さい」といってナンバー1を驚かせたという、異例の上位ナンバーエージェントとしても知られていた。
雪弥はベッドの脇に腰かけると、残りのダンボール箱を開けた。学園必需品の靴や指定鞄を含めた物をすぐそばにまとめて置き、組み立て式台に機関から送られてきたノートパソコンと盗聴防止機具を設置する。
小型電源にチャンネル帯の違う三台の無線機をセットして調整をすませ、そのそばに用意されていた武器を、今一度確認しながら並べた。隠しナイフを磨き直したあと、素早く銃をバラして整備しあっという間に組み立てた。
すべて片付いたところで、雪弥は久々の休日を部屋で満喫するため、冷蔵庫から冷えた缶ビールを取った。
今日食べる分の非常食とお菓子を部屋の中央に置き、テーブルがないことに違和感もないまま缶ビールを開けて口にした。ようやくそれに気付いたのは、口からそれを離したときである。
このままだと、床にビールを置く事になる。
「全く、テーブルもないんだもんなぁ」
ちゃっかり機材の分だけは用意するくせに、と雪弥は愚痴ったが、それも彼自身が招いた事である。「どうせ寝るくらいしか用がないし、テーブルとか要らなくないですか? というか、僕は男なのに、なんで部屋に化粧台とか設置しているわけ?」という事を、彼がナンバー1とリザに言ったことが原因だった。
二回目に口元で缶ビールを傾けた後、雪弥は開いた窓から見える空を見やった。生温いではあるが吹き込む風は心地よく、時々清々しいほどの晴天を感じさせる突風が起こってカーテンを打つ。
さすが最上階だ、と雪弥は感心しながら部屋の中央に腰を下ろした。
無造作に手に取ったのは、一緒に送られてきた今回の任務に関わる書類である。これから入学する事になるのは、私立白鴎学園高等部だった。この地域ばかりではなく、高知県が誇る進学校ともなっている。
エージェントから転職した尾崎という男が建てたこの学園は、教員免許取得率百パーセントという数字を叩き出した当大学をはじめ、目を見張るほどの立派な設備と進学率を誇る高校があった。学生たちに金銭面の支援をするための財団を立ち上げるなど、尾崎の行動は幅広い。
「放課後に、大学生による塾、か…………」
雪弥は呟いて、缶ビールを半分喉に流し込んだ。それを口から離すとお菓子を開け、つまみながら書類へと視線を戻す。
東京で起こっている事件は、ヘロインを含む薬物の調合を行っている組織がいるというものだ。調合の仕方が巧妙でこれまで例を見ないタイプのものであり、身体の組織がアンバランスに発達した被害者の写真も載せられている。
ナンバー1が指揮を執る警視庁がマークしているのは、東京にある大手金融会社だった。榎林財閥の子会社でありながら、大きく成長し続けている企業である。
皆殺しにされていた麻薬卸し業者の近くに設置されていた防犯カメラが、大型乗用車を運転するその会社の幹部の姿を残していた。同じ車が茉莉海市に入ったのは、卸し業者の死体が発見された後の五月上旬である――と文面には記載されている。
缶ビールを飲み干したところで、穏やかな風の乗って鳥のさえずりが聞こえてきて、雪弥は窓へと視線を向けた。
彼の鮮やかな碧眼は、今は見事な黒い瞳になっていた。先日までは、瞳孔周りに本来の色が滲んでしまっていたが、一昨日技術班から支給された新しい黒のコンタクトレンズは、彼の瞳を自然な黒に変えてくれている。
雪弥は、これまでに一度だって自分の瞳の色を気にした事がなかった。時々光っているみたいに見えるというか……あまり人に見せない方がいい、と深刻そうに言った上位ナンバーエージェントたちに対して、なんの冗談だろうと思って笑った。
珍しいブルー色なので印象に残りやすく、通常のカラーコンタクトで隠れない特異な色をしているので隠して欲しい……そうやたらナンバー1たちや技術班に頼まれてしまい、ひとまずは指示があった時は黒のカラーコンタクトを入れるようにしている。
鏡で見慣れた自分の瞳が目立っているなど、雪弥は今でさえ実感がないのでつけ忘れることも多い。返って黒い瞳の自分を鏡で見ると、たまらず違和感を覚えた。
どうしたものかなぁと呟きながら、雪弥は視線を手元へと戻した。
大学生の中には、すでに覚せい剤の使用者が出始めている。これはまたヘロインなどの麻薬とは別物だ。同じ場所に二つの薬物が持ちこまれる事は普通はなく、敵側の意図や目的といった推測もあまり立てられない現状であった。
情報収集しながら待機する事が任務であったが、指示によっては強硬手段に出ることもある。また『完全なる学生として溶け込み内部の情報収集を』という文面で、彼は頭を抱えた。
「それこそ無理だって……」
まだ東京の現場がいいなぁ、と続けて雪弥は書類を足上に落とした。何気なく辺りを見回し、高校生セットの小道具側に置かれいた白鴎学園のパンフレットを拾い上げる。
そこには白い綺麗な建物をバックに、青い制服を着た生徒たちが並んで映っていた。校内で出回っているらしい覚せい剤とは、全く縁がなさそうな少年少女である。パンフレットをめくっていくと、弾けんばかりの笑顔で映る学生たちの写真が載っていた。
大半の使用者が大学生であり、高校生の中からもそういった者が出てくる、とナンバー1が語ったことを雪弥は思い出した。
密輸業者、東京の金融会社と関係を持った学園関係者が、そう簡単に学生に配ることへの利点が雪弥には理解出来ない。覚せい剤よりも、ヘロインをさばいたほうが大金にもなる。
二つの薬物の件を置いても、大人に配った方が確実に利益に繋がるだろう。学生だと、覚せい剤の存在がばれてしまう可能性もあるからだ。
報告書に記載されている尾崎の意見によると、ヘロインも覚せい剤も町には出回っていないとの事だった。新しく茉莉海市が出来る前から、学園一帯にはこれまで薬物の検挙例は一つとしてない。これから足りない情報を集めるのは、雪弥の役目である。
ヘロインと覚せい剤の動き、事の全容究明と共犯者、常用者や使用者の把握。
外からでは調べられない情報を生徒に紛れ込んで得ると同時に、警視庁が動き出す際ナンバー1から出る指示を待機する……どういった最終決断がくだされるのかは、調べていかないと雪弥にも推測が難しかった。
犯人を抹殺処分するのか、警視庁との協力体制のもと取り押さえるのか。麻薬に手を染めた人間に関しても法的な処分と治療を施すのか、特殊機関のやりかたで対応するのか、現時点でそれを予想することは出来ない。
「抹殺以外の仕事が僕に回って来ることも滅多にないんだけど……そう考えてみると、厄介な事件になるかもしれないしなぁ…………学園自体が元エージェントのものだから、穏便に行くかどうもか分からないし」
東京で起こっている事件は、書類を見ても確かにこれまでとは違っていた。
精密に記憶が改ざんされ、彼らが連れられてきた被害者だと分かった時点で、国は特殊機関に要請を出している。国を脅かす事に発展しかねない事態の全容解明を急ぎ、それを一掃することを国は特殊機関に求めていた。
白鴎学園に出回っている覚せい剤と、持ちこまれている大量のヘロイン。大量のヘロインだけでも一番重い処罰だが、首謀者たちの目的用途によっては、特殊機関から相応な処置がされるだろう、と雪弥は悟っていた。
書類にはナンバー1に直属している国家特殊機動部隊暗殺機構の導入案や、一定に集まった標的を閉じ込める、電力発動機器である「鉄壁の檻」を使用する旨が書かれている。それは中の人間を外に出さないためのものであり、突入したエージェントが閉じ込めた標的を皆殺しにする際に使用するものだった。
警察の介入を許さず、特殊機関が独自に権限を行使する。処分されたことも世には出ない。つまり、もし「鉄壁の檻」が使用されるような決断が下された場合は、ナンバー4にとって珍しくない「殺戮」がここで行われるのだ。
雪弥は、お菓子を口にして立ち上がった。新鮮な空気を吸いたくなってベランダに出ると、暖かい日差しが身体を照らした。
見慣れない小さな茉莉海市は高い建物が少ない分、一番高さのあるこのマンションからの見晴らしは良かった。西側に、一番広い敷地を持った白く立派な建物の白鴎学園が見える。
尾崎の偉業は、支援団体や寄付、投資に止まらず学園にも強くあった。お金がない子供に対して、彼は優遇制度という独自の方法を用いて、彼らに学びの場を提供していた。勉学を希望する者には誰でも同じようにチャンスがある、として彼自身が資金を提供して入学させている子供たちも多くいた。
「そんな子たちが覚せい剤とかやってたら、尾崎って人、すごく悲しむだろうなぁ……」
学園のパンフレットや保護者向けの資料には、「未来がある子供たち」という言葉がいくつも出てくる。これまで聞かされた話や資料からすると、尾崎という男が、どれほど子供を大切にして教育にあたっているのかが分かる。
とはいえ、スピードやシャブといった言葉で薬物の危険性を見落とし、大きな事件とは知らずに巻き込まれる学生が多いのも事実なのだ。
最も多くの覚せい剤検挙者が出た、二〇〇五年の一万三五四九人のうち、未青年者は四三五人いた。中学生から無職まで幅はあるが、最も多いのが高校生と大学生である。
今回の事件は、最終的に警視庁を中心に事件が収拾するのかも分からないので、出来るだけそんな生徒が出ないことを望んでしまう。もし、特殊機関側が最後を締めるとしたならば、一掃という言葉の中には「抹殺処分」も含まれるからだ。
雪弥は部屋に戻ると、書類を拾い上げてページをめくった。
「本田」と書かれた自分の偽名字をちらりと頭に入れ、その下の欄へと視線を滑らせる。
本来、潜入捜査はフルネームごと偽名になるのだが、「別に雪弥でも構わないでしょう」と彼が面倒臭がってから名字だけがそうなった。ニックネームを名として使用する者もおり、本当の名を記載していても返って「偽名だろう」と思われるので、特に争論にはならなかったのだ。
「……情報収集にいられる立場の確保、学園で覚せい剤を配っている者がいる可能性があるので、共犯者から情報を収集するため声を掛けられやすい生徒の設定……国立高校から転入し勉学に関して悩みを抱いている学生を演じる…………」
しばらく、考えるような素振りで雪弥は黙り込んだ。
意味もなく書類を前後に揺らし、自分が演じるべき学生像を思い浮かべる。学力を偽ることは平気だったが、平均的な運動神経という点があまり理解出来なかった。
「……まぁ、周りの子たちを見て、同じようなレベルに合わせればいいか」
そう考えて、雪弥は指示が記載されたページを再確認した。
学園で尾崎理事――高等部の校長である尾崎とは、面識があるような行動を見せてはならない。指示があるまで自身の携帯電話や機器は持ちこまないこと。支給してある携帯電話に登録してある『グレイ』という人間はナンバー1を指し示す。指示によって行動を起こす場合、開始の合図は『夜が降りる』。
文面には、常に「指示を待て」が記されていた。
雪弥は吐息とともに肩をすくめ、茉莉海市と学園の見取り図を広げた。学園の倉庫と同じように、茉莉海市の地図にも赤い印が入っている。そこはコンテナが置かれている港で、定期的に大型船が来るばかりの場所だった。綺麗に整備されたといっても、そこは茉莉海市ができる前とあまり変わってはいない。
国外からの麻薬密輸。中国経由。
地図には赤い字で、そう走り書きされていた。