第21話 五章 その血族×異端(3)食後と桃宮と、そして三人
夕食は、夕刻を過ぎたばかりという早い時刻に設定されていたのだが、日が暮れて早々に、デザートを食べ終えたアリスが、椅子座ったまま寝入ってしまった。
桃宮の家では、普段から日が暮れる頃には、食事の片付けも済んでいる状態なのだそうだ。椅子で器用に眠っている娘を見た桃宮勝昭が、一旦部屋に運ぶ事を蒼慶に伝えてから、「やれやれ」と席を立った。
全員が食事を終えている状況の中、雪弥は一人黙々と食べ物を口に運び続けていた。後ろにいた宵月に、デザートのケーキが乗った皿を手渡されて、流れ作業のように食べ進めながら、娘に歩み寄った桃宮が、彼女を抱き上げる様子を見つめる。
「さぁ、行こうアリス」
そう優しく声を掛ける様子が、どうしてか目を引いた。今日共に過ごした中で、はじめて素の感情が滲んだ、彼の父親らしい声を聞いたような気がする。
それを見届けた蒼慶が、テンションが高くなったあと、結局は三十分足らずで眠ってしまった緋菜を、やってきた使用人の提案を断って寝室へと運んでいった。すぐに戻ってきた彼に、紗江子がアリスのを部屋に一人にするも可哀想なので戻ると言い、入れ違うようにして退出した。
飲み仲間である彼女がいなくなってから、亜樹子は黙って酒を飲み続けていた。桃宮勝昭が、妻の紗江子と入れ違うようにして戻ってきた頃、お告げか何かしらの電波かでも拾ったような表情で、唐突に立ち上がって真面目にこう宣言した。
「寝てくる。じゃ、おやすみ」
凛々しい表情で、亜希子がキッパリとそう告げて寝室へと向かい始めた。食後の珈琲をゆっくり味わっていた蒼慶が、かなり飲んでいた事を考慮して「おい」と呼び止める。
「宵月を貸そうか?」
「いらないわよ。というか、可愛くもない顔面に見送られてベッドに入るとか、イヤ」
その会話を聞いていた桃宮が、珈琲カップを持ち上げた姿勢のまま、チラリと当執事の様子を見やる。
「さすがは奥様。蒼慶様と同じく、容赦がありませんね」
そう口の中で呟いた宵月は、相変わらずの無表情だった。
亜希子は、その声を完全に無視していた。くるりとこちらを振り返ると、に~っこりと笑って「雪弥君、おやすみ!」と元気たっぷりに言う。
雪弥は、テーブルに残された大皿のホールケーキを一人で食べ進めながら、なんとも言えずに彼女を見送った。出ていくのを見届けたところで、ようやくポツリと口にする。
「なんだか、すごく清々しいというか……」
ケーキの山を食べ進めている彼の隣で、蒼慶が呆れつつも「いつもは、もっと手間がかかる」と答えながら、ジロリと見やって愚痴る。
「貴様こそ、一体どんな胃袋をしている?」
「へ? 何が?」
必要のなくなった食器が片付けられた食卓には、今や三人しか座っていなかった。大皿のケーキを雪弥が食べている以外は、向かいの席に桃宮勝昭を残すだけとなっている。
桃宮は部屋に戻るわけでもなく、もう一度読み返すようにして新聞を広げていた。戻って来た際、新しく淹れ直された珈琲からは、まだ湯気が立ち昇っており、カップに口を付ける時、かけられた老眼鏡が少し曇った。
彼は新聞を読んでいるというよりは、記事をただ眺めているようにも見えた。一人で何かをじっと考えている様子にも思えて、雪弥は兄の突っ込みに疑問を抱かないまま、ケーキをゆっくりと口に運びながらじっと窺ってしまう。
「雪弥様、胃薬をお持ちいたしました」
どこから取ってきたのか、一旦足早にそばを離れた宵月が、手に薬瓶を持って戻り恭しく差し出してきた。
それを見た瞬間、雪弥は丸めたフキンを彼に投げ放っていた。それが顔面に当たるのを見届けた蒼慶が、「馬鹿か、お前も何をしているんだ」と眉を顰める。この時ばかりは兄と共感出来た彼は、舌打ちを一つして「宵月さん」と低い声で言った。
「いなくなっているなと思ったら、胃薬かよ」
力加減がされたフキンを、しばし顔面に乗せていた宵月が、薬瓶を差し出すように二人の間に突き出したまま沈黙した。フキンがずるり、とゆっくり下に落ちると、ようやく無表情な顔が現れたところで口を開く。
「これはもう、病気だと思いましたので」
「真顔でなんて事いうんだよ。僕のどこが変だと言うんですか?」
「ですから、胃袋ですよ、雪弥様」
「僕の胃袋は普通だ」
雪弥は、すかさず二回目のフキンを放っていた。まるで女性のような反応のそれを、避けもせず近くから喰らった宵月が、薬瓶を掲げて見せたままこう続ける。
「容赦のない顔面フキン、とても良いと思います」
「やめろよ、そういう『この無礼者ッ』みたいな対応を僕に求めるなよ……。というか、あんたドMでもない癖に、なんで厳しい対応を好むんですか」
「わたくし、こう見えて組み敷く側ですが。ですので、普段味わえない対応を『忠実なる犬』として受けるのが新せ――」
「それ以上言わせるかッ、そして顔を近づけるな!」
雪弥は続いて、兄の方にあったフキンを投げつけた。
蒼慶がそれを見て「あ」と声を上げるそばで、宵月がひらりとかわした。その後ろを歩いていた若い男性給仕の頭に、フキンが直撃して「うわっ」と小さな悲鳴が上がる。
「ですので、雪弥様は胃薬が必要なのですよ」
「そこで話を戻さないでくださいよ、何度も言いますけど普通ですから。――というか、あの、そこの人、当ててしまってすみませんでした」
自分と兄の席の間に立つ宵月の向こうを覗きこんで、雪弥は謝った。しかし、奴がすっと身体を移動してきて遮られてしまい、ピキリと青筋を立てて、その執事のいかつい無表情を見上げる。
「雪弥様の胃袋のあたりには、確実にブラックホールか何かが――」
「わざわざそれ言うために覗きこんでくるなッ」
んなのねぇよ! と続けて叱り付けた。話が全く通じてくれなくて、泣きたくなった。この席にいるの、正直もう嫌過ぎる。
雪弥は、心外だと愚痴りつつも座り直した。再びケーキを口に運ぼうとしたところで、自分に向けられている蒼慶の視線に気付いた。目を向けてみると、兄の顔に「病気ではないのか」というような表情が浮かんでいて、どいつもこいつも、とイラッとした。
そもそも雪弥は、あまり満腹というものを感じた事がない。腹が減らなければ、食べなくてもぶっ通しで戦っていられるし、差し出されればいくらでも食べ続けられるのも生まれつきだ。だから、それを自分で異常だと思った事は一度もない。
兄弟は黙りこんだまま、互いの顔を怪訝そうに見つめ合っていた。宵月がしばらく見守っていると、二人の向かいに座っていた桃宮が、唐突に小さな笑い声を上げた。
「本当に、ご兄弟なんですね。そっくりです」
その言葉を聞いた雪弥は、蒼慶とほぼ同時に振り返った。兄は思い切り顔を顰め、弟の雪弥も不服だと言わんばかりの視線を送る。
「ふん、私がコレと同じ阿保面なわけがないだろう」
「言ってくれますね、兄さん。――桃宮さん、僕はこんなにひどい仏頂面ではないです」
雪弥は、隣から軽く睨みつけられたものの、蒼慶の眼差しは普段の数分の一くらいの威力だったので、平気な顔で残りのケーキへとフォークを向けた。呆気に取られていた桃宮が「本当によく食べますねぇ」と不思議そうに呟いてから、再び新聞紙を広げた。
大皿のケーキが全てなくなると、給仕が空いた皿を下げに来た。三十代半ばくらいの彼が、珈琲を飲む横顔から覗く『見慣れない黒い瞳』をチラリと見やる。
その視線に遅れて気付いた雪弥は、何も考えないまま見つめ返していた。給仕の男の方が「あ」と口の形を作るのが見えて、幼少期に嫌がられていた思い出があるから視線を合わせないようにしていたのに、と遅れて思い出した。
「えぇと、その……なんか、すみません」
どう対応すれいいのか分からなくなって、困ったすえ、口から出たのは謝罪だった。自分は客人ではなく、かといって家族以外からは、本家の一員として歓迎されていない身であるとは知っていたからだ。
すると、声を掛けられた給仕の男が、慌てたように「いいえ、坊ちゃま」と言った。
「どうか謝らないでくださいませ。あなた様は、謝罪されるような事は何もしておりません」
「うーん、食器を下げさせるのも、そういえば悪いなぁと……」
「そんな事はございませんよ。これが、わたくしの仕事であります」
仕事を増やしてしまっている、という申し訳なさから、雪弥は答えながら目をそらしてしまっていた。少し遅れて、ふと、坊ちゃまという慣れない呼ばれ方をされたんだが、と思考がそちらへと傾いて、呑気に首を傾げる。
呆れたように秀麗な眉を寄せた蒼慶が、給仕の男の向こうにいる彼へ視線を投げた。
「おい、何をぶつぶつ言っている? そもそも彼らの仕事だ、邪魔をしてやるな」
「あれ? 僕が邪魔した感じになっているんですか?」
「目が合っただけで勝手に緊張して、謝罪するとは情けない。――わざわざ配慮して、人数を減らして人選もしているというのに、コレときたら」
「兄さんこそ、何をぶつぶつ言ってるんですか。珈琲に何か怨みがあるのか、っていう感じの怖い表情になってますけど、カップを睨んでどうしたの」
「私はお前に対して、この表情をしているんだ」
敬語を外している時は、大抵本心からストレートに尋ねる場合である。
そう知っている蒼慶は、言いながら形のいい額の隅にピキリと青筋を立てていた。再び雪弥へと視線を向けつつ、こう続ける。
「そもそも、何故カップを睨みつけていると解釈するんだ?」
「だって、あれやこれやと全部に機嫌を損ねる、難しい性格をしているじゃないですか」
「言っておくが、そんな性格をした覚えはない。それに昔から貴様が指摘している『怖い顔』とやらは、私の地顔だ」
高圧的に睨み下ろす蒼慶に対して、緊張を忘れて雪弥がずけずけと物を言う。
自分を挟んで唐突に始まった兄弟同士の言い合いを前に、給仕の男が仕事をしていいのか、待った方がいいのかと視線を往復させた。それを見た宵月が、そっと退出を許可して促すと、彼はその様子にチラチラと目を向けながらも、大皿を下げていった。
しばし兄とやりとりしていた雪弥は、新聞をめくる音に気付いて、そちらへ目を向けた。そこには座っている桃宮がいて、ぼんやりとした様子で新聞を眺め続けている。
先程と同じく、やはり文字を読み込んでいる気配はなく、どこか物想いに耽るようにして周りの声も聞こえていないみたいだった。疲れきったような目元の皺は、今日で一気に増えたような気がする。
「桃宮様。こちらまでは長旅だったようですから、お疲れではございませんか?」
兄弟らしい言い合いが終了したのを確認したところで、宵月が不自然ではない切り出しで声を掛けた。問われた桃宮が、我に返ったように顔を上げて、取り繕うようなぎこちない笑みを浮かべた。
「そうですね。少しばかり、疲れてしまったかもしれません」
「紗江子婦人から、スケジュールはハードだったと伺っている。他の用事を済ませたあと、町の旅館で家族と合流したものの、数時間も休めなかったとか」
珈琲カップを手に取りながら、蒼慶が美麗な薄笑いを浮かべて言う。
まるでさりげなく探るみたいだなぁ、と雪弥は『兄がようやく妥協して出来るみたいな社交上の愛想笑い』を見ていた。桃宮が考える時間を稼ぐように、視線を手元へと落として、新聞紙をゆっくりと畳む。
「…………彼女は、そんな事を言っていましたか」
そう確認するように呟くと、彼は畳んだ新聞紙をテーブルへと置いた。どこか疲れ切った無表情だったものの、再び蒼慶へと目を戻した時には、取り繕うように小さく微笑えんでいた。
「旅館に到着したあと、少し温泉で身を休めたのですが、スケジュールの都合上で二時間も眠れなかったものですから」
「つまり旅館に着いたのは、日付けも変わっていた時刻だったのか。それは大変だったな」
「え。――あ、その、はい。すっかり夜も深い時刻でした。妻が遅くまで起きていて、申し訳なかったのを覚えています」
自分に言い聞かせるように言いながら、桃宮が視線をそらして立ち上がった。まるでこれ以上詳細を問われるのを恐れるように、別れの言葉を述べて足早に出ていった。
夕食を終えた広々とした部屋には、雪弥と蒼慶、宵月の三人だけが残された。離れていく足音が遠くなって聞こえなくなると、辺りは途端に静かになった。
「静かですね」
やけに静かすぎるようにも感じて、雪弥は宵月を振り返った。耳を澄ませても使用人の動く気配がしなくて、これが普通なのだろうかと目で問う。
蒼慶が読めない表情で、組み合わせた手に顎を当てる。その様子をチラリと見やってから、宵月が胸ポケットから懐中時計を取り出して、時刻を確認した。
「従業員の方々は皆、宿舎に戻っている時間ですね。朝が早いもので」
その懐中時計は、蒼慶の左胸につけられている銀の装飾品と同じ柄が入っていた。彼は既に屋敷内の全てを任されているので、もしかしたら、蒼緋蔵家の中で与えられた地位を示すものなのかもしれない、とそんな推測が脳裏を過ぎった。
それからしばらく、誰も何も言わない時間が続いた。雪弥は、壁に掛かっている大時計を眺めながら、時間が経つのが遅い事をぼんやりと考えていた。
空になった蒼慶の珈琲カップを、宵月がさげて、代わりに冷水の入ったグラスを一つ置いた。長い間秒針の音に耳を澄ましていた雪弥は、自分達の間の後ろに彼が待機し直す気配を見届けたところで、楽に腰かけたまま兄へと声を投げた。
「兄さん、書斎室に戻ったりしないんですか?」
「書斎室には用がない」
腕を組んで思案顔をテーブルへと向けていた蒼慶が、顰め面でそう答える。戻れとも動けとも許可されていない雪弥は、これからどう出るつもりなのだろうかと思いつつも、きっとそれを考えているんだろうなぁと推測して「なるほど」とだけ相槌を返した。
窓がガラスの向こうには、夜空が広がっていた。広大な屋敷の周囲には街灯かりがないせいか、ここからだと星がとても綺麗に見える事が思い出された。
「……そういえば、泊まった時、よく三人で寝転がって眺めていたっけ」
幼い頃の風景が脳裏に浮かんで、つい、ぽつりと口の中で呟いた。発案者は緋菜で、消灯後に彼女に引っ張られて、兄と共にこっそり屋敷を抜け出した。そして、彼女を間に挟んで星空観賞をしたのだ。
幼かった緋菜の計画は、いつも大人達にバレていた。星空を眺めている間も当然のように宵月がいたし、リビングでは温かいココアが用意されていて、子供達の星空観賞会が終わるのを両親が待っていたのである。
彼女が、そこに疑問を覚えないのが不思議だった。『わぁ、ココア大好き!』と笑う隣で、雪弥と蒼慶は知らぬ振りをしてココアタイムも付き合ったのだが、全部口に出てるんだよなぁ……と二人は思っていた。妹の将来が少し心配だった。
そんな頃を思い返していたら、蒼慶が「ようやく来たか」とスーツの胸ポケットから携帯電話を取り出した。どうやらメッセージでも入ったようで、それを確認するなり、嫌悪感を露わにして眉を顰めた。
「――やはり、そうか」
蒼慶が、そう呟いて立ち上がった。宵月が静かに主人の動向を見守る中、雪弥は腰かけたまま、こちらを見下ろした彼を見つめ返した。気のせいか、兄の顔には、珍しくどこか悲しみが帯びているようにも思えた。
「どうやら推測道り、今夜の『開封の儀』はただで済みそうにもない。これまでは動物だったが、とうとう人間の被害者が出た」
そう告げられた言葉と共に、携帯電話の画面を見せられた。
雪弥は、そこに表示されている写真を見て、小さく目を見開いた。それは、薄暗い室内に黒ずんだ赤が広がった殺人現場だった。
四肢をねじ切られた複数分の死体が、画面に収まらない悲惨な『現場の一部』を写し出している。半分はほとんどの水分を抜き取られたような肉片であるようだが、床には多くの血溜りがあった。
「これは、もはや惨殺だ」
こちらが黙って見つめていると、蒼慶が確認するようにそう言った。続いて写真を見せられた宵月が、「恐れていた事態になりましたね」と緊張を含んだ声で意見する。
「まるで遊んでいるみたいだ」
雪弥は、感じた第一印象を呟いて、静かな怒りを帯び始めた目を落とした。先に喰い散らかされた、という訳の分からない強い嫌悪感を覚えていた。
ざわりと殺気立った気配を察知した宵月が、一つ頷いて「確かに『遊んでいるよう』でもありますな」と相槌を打った。立ち上がる彼に、無表情のまま冷静な眼差しを向けて、こう続ける。
「雪弥様、落ち着いてくださいませ」
「僕は落ち着いているよ、宵月。――だから『それ』は、お前の勝手な憶測だ」
同じく冷静な表情ながらも、当然のような口調でそう語りながら、雪弥の高圧的な眼差しが宵月へと向いた。軽く手ぶりを交えて話す様子は、次期当主の弟として、蒼緋蔵本家ナンバー2の立場にいるに相応しい物言いと雰囲気だった。
「僕が勝手に『処分』にかかるわけがないだろう。兄の命令に従う」
雪弥は、誰もいない方へチラリと流し目を向けた。スーツの袖口を整えながら、興味もなさそうに「そもそも」と独り言のように続ける。
「お前に僕への命令権はないはずだが、立場を忘れたのか、宵月。実際の戦闘になったら、こちらの指示に従ってもらう」
「承知しております。気分を害されたのでしたら、申し訳ございません」
宵月がそう答えた時、携帯電話をしまった蒼慶が雪弥へと向き直った。
「隠し扉は、蒼緋蔵邸の東側にある。緋菜達がいるのは西側だ。恐らく『例の本』や、次期当主である私をさし置いて、先に彼女達を手にかける事はないだろう、とは推測している」
「そうでしょうね。これだけ殺しに自信があるのなら、わざわざ人質を取ったりといった面倒な事もしないでしょうし。そもそも、僕が相手の立場だったとしたら、そうする」
雪弥は、つらつらと考えながらキッパリと答えた。その『開封の儀』とやらで、兄に危険が迫るとしたのなら、本家の敷地内に侵入した敵にヤられる前に、こちらが先に殺すだけだ。
すると、蒼慶が少し強い声で「雪弥」と呼んできた。
久しぶりに、アレだとかコレだとか以外、はじめて名を呼ばれたような気がして、雪弥は緊張感も抜けてしまい「へ?」と振り返った。
「相手に話す余地があった場合については、覚えているな?」
「出来るだけ物騒を避ける形で話し合う、とかいうやつでしょう? あの写真がどこの組織か機関経由かは知りませんけど、現場の感じを見る限り、そうは思えないんですけど……だって、兄さんの推測だと、その犯人が侵入者と同一人物って事なんでしょ?」
そもそも話し合う余地はないんじゃ、と雪弥は困ったように口にした。しかし、蒼慶が「どうなんだ」と腕を組んで見下ろしてきたので、降参するように両手を軽く上げて見せた。
「勿論分かってますよ。僕だって『殺生はできるだけ避けたいと思っていますから』ね」
そう答えたら、蒼慶が眉間の皺を浅くして、視線をやや落とした。
「…………お前は、いつも阿呆なくらいに呑気だ」
「まぁ、のんびりとは言われますけど、ここにきてなんで阿呆なんですか?」
「私だったら、避けられない殺生に関しては覚悟を決める」
「突然なんですか。物騒だなぁ兄さんは」
雪弥は、ちょっと笑って見せた。どうしてか、視線を返してこちらを見つめてきた蒼慶が、ふっと苦笑を浮かべた。相変わらずの仏頂面ではあったものの、眼差しはどこか想い遣りが滲んで悲しげにも見えた。
けれど兄は、すぐに表情を戻して踵を返して歩き出してしまう。多分気のせいなのかなと思って、雪弥は宵月と共にその後に続いた。




