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第9話 二章 蒼緋蔵邸の訪問者(3)

「先程は、本当に申し訳ございませんでした」


 急きょ服を着替えた桃宮勝昭(ももみやかつあき)に、雪弥はまだ少し湿っている上着のスーツをつけたまま、深々と謝った。宵月が風呂に入って着替える事を勧めたが、それを断って桃宮家が応接間にやってくるのを待っていたのである。


 黒い長ソファの中央に腰かけた桃宮勝昭は、少し困ったように柔らかく笑って「いいんですよ」と言った。シャワーを借りてスーツも替えていた。ドライヤーをあてたばかりの白髪混じりの髪は、整髪剤を付け忘れたのか、ふわふわとしている。


「どうしても金魚と一緒に来たいといった、娘の我がままを聞いてしまったのは、私ですから。金魚も無事でしたし、部屋に用意して頂いた水槽の中で、元気に泳いでいますよ」

「あなたこそ大丈夫? 風邪を引かないうちに、乾かしたほうがいいわ」


 隣にいた桃宮婦人が、ぶつかってきた雪弥の体調を気遣った。中学一年生になったという娘のアリスも、少し落ち着いて反省したように肩を竦めとおり、「金魚ちゃんなら、大丈夫です」と小さな声で言って、恥ずかしそうに視線をそらした。


 後で会う約束をして、雪弥は騒ぎを知ってやって来た亜希子と緋菜に、その場を任せて一旦部屋を出た。


 扉を閉める宵月の向こうから、桃宮婦人の「お久しぶりです、随分前にあった緋菜様の誕生日以来ですわ」という、嬉しそうな響きの声が聞こえた。部屋を出たところで、つい賑やかな声を遮った扉を振り返る。


「以前は、よくここに足を運んでいたご夫婦だったんですね。亜希子さんも、すごく嬉しそうだ」

「あなた様も昔、桃宮夫婦と、その上のお子様方と、少なくとも数回はお会いしているはずなのですがね」


 宵月に確認されて、雪弥は記憶を辿ってみた。まるで覚えがなく、小首を傾げてしまう。


「う~ん、覚えてないなぁ……あんなに優しそうな夫婦の事なら、覚えていそうなんだけど」


 考えるそばで、宵月がふっと気付いた様子で鼻を寄せてきた。


「水槽の水にしては、匂いがないですね」

「ああ、確かに」


 そういえば淡水魚独特の匂いはないな、と雪弥は湿ったスーツの袖を嗅いだ。水槽は、持ち運び用に考慮されたシンプルなものであったし、水も入れ替えたばかりだったと桃宮の主人も口にしていた。


「水もキレイだったし、ちょっとかぶった程度です。帰ったらどうせ風呂に入りますから、僕はこのままでいいですよ。宵月さんの仕事を、色々と増やすわけにもいかないですし」


 だから風呂と着替えは必要ないと伝えたところで、雪弥は蒼慶の事を思い出した。外にいた亜希子と緋菜にも、この騒ぎが知られているという事は、すでにそれは二階の書斎室にいる蒼慶の耳にも入っている可能性が高い。


 しばらく考えた雪弥は、視線を落としたまま「あの、宵月さん」と、テンションの下がった声を発した。


「言いたい事は言ったし、このまま帰っちゃ駄目ですかね……?」

「桃宮様にご迷惑を掛けたまま、帰られるというのならオススメしませんね。後でお話しをしましょうと、そんな約束もされておりましたでしょう。そもそも、わたくしは蒼慶様から『帰すな』と指示を頂いております」


 そうだった。忘れかけていたが、彼は見張りのようなものである。


 相変わらず痛いところをついてくる執事だ。しかし、桃宮にそう約束したのは自分からであるのも確かなので、雪弥はその手前強くも言えず、視線を泳がせて頬をかいた。


「迷惑を掛けたのは、申し訳ないとは思っているんですけど、なんでぶつかってしまったのか、実はよく覚えていないんですよねぇ……」


 どうしてだっけ、と、雪弥は口の中で呟いた。宵月が目を細めて何か言いかけ、不意に口を噤む。それから、ある方向へ身体を向けて恭しく声を掛けた。


「蒼慶様」


 その声を聞いて、雪弥は思考を中断した。恐る恐るそちらへ目を向けてみると、階段の上に兄の蒼慶が立っていた。


 忌々しげにこちらを見下ろしてくる視線を受け止めて、思わず口許が引き攣るのを感じた。宵月が一礼して後ろへと下がる中、蒼慶が厳しい非難を浴びせるような表情で階段を降り始める。


 ツカツカと足早に向かってくる兄を見て、雪弥は慌てて言い訳になりそうな言葉を探した。蒼緋蔵家の遠縁であり、本日来訪予定があったという客人の桃宮一家に迷惑を掛けたのは事実なので、まずは謝ろうと思った。


「兄さん、その――」


 頭を下げようとした時、すぐ正面まで来た蒼慶が、こちらの湿ったネクタイを掴んで引き寄せた。突然の事態に「うわッ」と声を上げるのも構わず、奥歯で罵倒を押し潰すような皺を目尻に作って、口を開く。


「なんだ、これは」


 たった二言、彼はそう言って睨みつけてきた。訳が分からないと視線を返したら、続けざまに更にネクタイを引き寄せて「これは、なんだ」と、先程より強く尋ねてくる。

 雪弥はそこでようやく、蒼慶の色素の薄い鳶色の目が、真っ直ぐ自分の瞳を睨みつけている事に気付いた。今はファッション感覚でやっている人もいるから、珍しくはないはずだけれど、と不思議に思いながら答える。


「カラーコンタクトですよ」


 すると、蒼慶の眉間の皺が、ますます深くなった。彼は怒りを押し殺した声で言う。


「あの食えん狸ジジィの言いつけか。黒のコンタクトをしろと、そう言われたのか?」

「……あの、さっきも思ったんですけど、どうして兄さんは僕の上司を知っているんですか。付けているほうが溶け込みやすいだろうって言われて、わざわざ『別部署の同僚』が作ってくれたんですよ」


 雪弥は、この特注のコンタクトを用意してくれた、総本部の研究班を思い出しながらそう答えた。ナンバー1や他の面々の話だと、どうも自分の瞳の『青』は明るさが過ぎるらしい。潜入捜査では目立つのだとか、なんとか。


 蒼慶は忌々しいと言わんばかりの表情を浮かべると、ふん、と鼻を鳴らしてネクタイから手を離した。ようやく自由になった雪弥は、顔を顰めつつネクタイを直し、その様子を仁王立ちで見下ろしてくる兄を見つめていた。


「言っておくが、今のお前は、視界に入れるのも拒みたいほどに酷い」

「兄さん、いきなり真面目な顔でなんてこと言うんですか」


 僕の何が悪いというんだ、と雪弥は頬を引き攣らせた。どうやらカラーコンタクトの話が続いているらしいと気付いたのは、蒼慶が続けてこう言ってきたからだ。


「目が真っ黒でバランスが悪い、気味が悪い、はたから見たら誰だか分からん。本当に私が知っているアレなのかと、疑うばかりだ」


 アレ、という言葉を聞いて溜息がこぼれそうになった。蒼慶はいつも名前ではなく、こちらの事を「アレ」だとか「お前」だとか「貴様」と呼んだりする――まぁいいけどね、と雪弥は昔から変わらない兄の特徴の一つを思った。


 そもそも、カラーコンタクト一つでこんなに言われるとは、予想外である。むんずと黙りこんだ蒼慶を見やって、「兄さん、あのですね」と声を掛けた。


「誰だか分からないなんてこと、あるわけないじゃないですか。この顔も背丈も変わっていないし、緋菜や亜希子さんだって、一目で僕だと分かって、これといってコンタクトについては指摘してきませんでしたよ。目の色が違うだけです」


 キッパリと教えてあげたら、蒼慶が腕を組んで、鋭い瞳を真っ直ぐ向けてきた。


「それを取れ」


 一言、彼が低くそう告げる。


 雪弥は二秒半遅れて、その言葉を理解した。なんでそんなに嫌がっているんだよ、とまたしても表情が引き攣りそうになった。


「いやいやいやいや、急にそんな事を言われても」

「なんだ。取りたくない理由でもあるのか?」


 問われて、雪弥は顰め面を作った。特に理由はないけれど、一方的に似合わないから取れと言われたら、それこそ取る必要はあるのかと思ってしまう。


 顔を伏せて、兄から隠した表情に疑問を浮かべた。彼がコンタクト嫌いだというのは聞いた事がないし、そもそも付けるのも付けないのも、これといって自分自身には強い理由もないから、うまい返し言葉が見つからず首を捻る。



「堂々としていればいい。何故隠すのか、私には皆目見当もつかん」



 そんな声が聞こえて、雪弥は「ん?」と直前まで考えていた事が、頭の中から飛んだ。訝しんで顔を上げると、感情の読めない蒼慶と目が合った。


「ウチの人間に、何かしら言われて予防を張った。もしくは、誰かにおかしいと指摘されたわけではないのだな?」

「そんなこと言われていませんよ。だって、青い目なんて『普通』でしょう」

「その通りだ」


 だから、と顔面を全く変えないまま蒼慶が、高圧的にくいっと顎を少し上げてこう続ける。


「今すぐ似合わないソレを取れ。不愉快だ」

「なんでその結論に達するんですか……。横暴過ぎませんか、兄さん」


 呆気に取られて、雪弥は唖然として見つめ返してしまっていた。


 その時、騒がしい足音が聞こえてきた。「ちょっとお母様」と少し慌てたような甲高い声がしたと思うと、応接間の大扉から紗江子が現われた。


「まぁ、こちらにいらしたのね」


 こちらの姿を見つけるなり、彼女が歩み寄りながらそう言って、穏やかな微笑みを浮かべた。父方に西洋の血が流れているせいか、よくよく見れば、丸い瞳は明く薄いブラウンである。


 目の前に立った桃宮婦人が、優雅に会釈をした。穏やかな眼差しを一度雪弥に向けて、それから蒼慶へと向き直った。


「蒼慶様、本日はお世話になります、桃宮紗江子にございます。近いうちにある就任式には参加出来ませんので、少しお早い祝いの言葉を記載した手紙と、お祝いの品を先にお持ち致しました。明日の朝お渡し致しますので、どうか式の当日にお開けくださいませ」

「当主である父からも、その話は聞いている。わざわざご足労感謝する。それよりも、先程はアレが迷惑をかけたようで、済まなかった」


 アレ、と名指しされた雪弥は、つい乾いた笑みを浮かべた。半ば諦めたような心境で進み出て、けれど迷惑を掛けた事については、しっかり反省して謝った。


「本当にすみませんでした……。僕よりも、桃宮様の方がびしょ濡れになってしまって、本当に申し訳ないです」

「いいえ、そんなに謝らないで。どちらにも水槽がぶつからなくて、良かったですわ」


 桃宮婦人がそう言った時、その向こう側で動く人影があった。気付いた雪弥は、蒼慶と宵月と共に、ほぼ同時にそちらへと顔を向けていた。


 続いて応接間の方から出てきたのは、彼女の夫である旧蒼緋蔵勝昭、現桃宮勝昭と、その後ろに少し恥ずかしそうに隠れている末娘のアリス。そしてそこには、先程まで談笑を楽しんでいた亜希子と緋菜の姿もあった。


「桃宮おじ様が、是非お兄様とお話がしたいそうよ」

「アメリカへ行く前に、話を聞きたいのですって」


 緋菜に続いて、亜樹子が片手を軽く振って、明るい調子で言う。


 蒼慶は、答える代りに短い息を吐いた。ちらりと目配せされた雪弥は、お前はどうすると問われているような気がして、慣れない合図に戸惑いつつも、兄から視線をはずして少し考えた。


 彼らにとっては遠い親戚にあたるし、それと同時に、会社を経営している者同士だ。恐らくは、社交上の付き合いもかねての茶会のようになるのだろう。そんな彼らの話の輪に加わるというのも、いささか自分には難しそうな気がする。


 よし、断ろう。


 雪弥は、物の数秒でそう決めた。この場をしのげる言い訳が、ちょうどいいタイミングでピンと浮かんで口を開く。


「これからシャワーを浴びるから、僕はあとで合流するよ」

「そういえば、雪弥君はまだスーツも乾かしていないんだったわね」


 亜希子が気付いて、それから「いなくならないんだったらいいのよ」と、少し弱気な微笑みを浮かべた。逃亡するわけじゃないんだから、と思って雪弥は苦笑を返した。むしろ、兄に無断で帰ったら、絶対に報復が怖い。


「好きにするがいい」


 蒼慶が了承したように言って、踵を返しながら「こちらへどうぞ」と桃山勝昭らを招いた。その後に、亜希子と婦人が会話を始めながら続く。


 少し遅れて、その後ろをついて行こうとした緋菜が、「あら」と足を止めて自身の左腕を見やった。彼女の細い腕には、手を伸ばした桃宮アリスがくっついてしまっていた。

 緋菜の後ろに身を隠すようにして、アリスがもじもじとした様子で雪弥を見上げた。ウェーブがかった長い金髪が、ヴェールのように小さな背中をすっぽりと覆っている。


「あの、お初にお目に掛かります。桃宮アリスです」

「へ? ああ、えっと初めまして。雪弥です」


 まさか、ここにきてきちんと挨拶をされるとは思っていなかったから、雪弥は慣れないぎこちなさで言葉を返した。アリスが、嬉しそうに頬を赤らめて目を落とし、会話がプツリと途切れる。


 こういう時、何か言葉を繋いだ方がいいのだろうか。


 しばし互いの間に流れる沈黙を聞きながら、雪弥は笑顔を強張らせていた。引き続き何か言いたそうな様子で、身じろぎしてそわそわしているアリスを前に困ってしまう。

 すると緋菜が「今年で十三歳になるのよ」とフォローのように口を挟み、相手は子供なんだから、という視線を送ってきた。こういう事は正直言って苦手なんだよなぁ、と雪弥は頬をかいた。


「えぇっと、確か中学生になったばかりだと、桃宮さん達が言っていたね」


 どうやって話しを繋げればいいのか分からず、とりあえず腰を屈めて尋ねてみた。アリスがぎゅっと緋菜の腕にしがみついて、それからチラリとこちらを見つめ返して頷く。またすぐに目を伏せながら、彼女が口を開いた。


「中学校で、私だけ髪の色が違うの。みんな黒髪だけど、お爺様と同じ金髪ねって、お父様もお母様もそう言ってくれるのよ」


 幼い頃は、同級生に何かしら言われる事もあって悩んでいたという。けれど、だから今はこうして伸ばしているのだと、アリスは思い出すように微笑んだ。


 祖父と同じ髪色が、今では誇らしいのだという話を聞いて、緋菜の顔も自然とほころんでいた。雪弥だけが「そうなんだ」と、ぎこちなく相槌を打って立ち尽くしていた。

 すると、アリスが再びチラリとこちらを見上げてきた。パチリと目が合ったので「何?」と尋ねてみたら、どうしてか白い肌をほんのり赤面させて、緋菜の後ろへ隠れられてしまう。


「…………あの、僕、なんかしたっけ?」

「違うのよ。この子、入口でお兄様を見た時からそうなの。こうして出てきたのも、蒼慶お兄様じゃなくて、雪弥お兄様に会いたかったからなのですって」


 緋菜がそう続けて、確認するように目を向ける。


 腰にしがみついていたアリスが、そうだと答えるように何度も頷いた。隠れている緋菜の細い背中から、そろりと顔を覗かせて熱がこもった瞳で雪弥を見上げると、目をそらす事も忘れて、ほうっと夢心地に息をついた。


「雪弥様は、アリスの妖精さんですか……?」


 なんだか、これまでで一番よく分からない問いをされた。


 その瞬間、雪弥は一時的に表情ごと硬直した。しばし逡巡し、そのままの姿勢でゆっくりと妹の緋菜を見やる。

 一体、この子が何を言っているのか分からないんだが、説明してくれないか。そう動揺する兄の視線を受け止めて、緋菜は少し困ったような笑みを浮かべた。


「アリスちゃんって、ちょっと夢見る女の子というか……」


 少しだけ変わっているの、と緋菜が溜息交じりにぽつりと呟いた。雪弥は「うん、そうか」と答えながらも、これからどうすればいいんだ、と問うように妹を見つめ続けていた。


「……綺麗な人」


 熱がこもったアリスの囁きが、兄妹の間に落ちた静けさに広がり、余韻を残すようにして消えていった。

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