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第6話 一章 「ナンバー4」の里帰り(5)兄との再会

「一つ、先に言っておかなければならない事があります」


 階段を上がった宵月が、二階の広い廊下を進みながら、唐突にそう切り出した。


 久しぶりに見る蒼緋蔵邸の本館内部の様子を眺めていた雪弥は、何だろうと彼を見つめ返して、続く言葉を待った。


「今、蒼慶様は訪問されている方とお会いしている最中です」

「えッ」


 驚いて立ち止まると、宵月が少し眉を寄せて、こちらを振り返ってきた。


「何か問題でも?」

「いやいやいや十分に問題でしょう。なんで来客中の兄さんのところに、僕らは向かっているんですか!?」


 強めに上げた声が廊下に反響するのを聞いて、雪弥は一度口を閉じた。続いて、声を落として「これも兄さんの指示ですか?」と確認してみると、宵月が「はい」と頷き返してくる。


 一体、兄さんは何を考えているんだ? 話している相手が、もし蒼緋蔵家の関係者だったら、実に嫌な鉢合わせになるじゃないか。


 雪弥は、そう思って頭を抱えた。他の人間に知られないよう、こっそり話をつけて帰るつもりで前もって知らせまで出したというのに、来客があるとは予想外だ。このまま窓から出て逃走したくなった。


 宵月は、そんな彼から視線をそらすと、背筋をぴんと伸ばしたまま歩き出した。つられて歩き出そうとした雪弥は、彼の次の言葉を聞いて、完全に足を止めた。



「お相手は、蒼緋蔵家の縁者の方々です」



 え、という声も出なかった。

 脳裏に浮かんだのは、幼い頃から母が他界するまで見てきた親族達との記憶だった。それを思い返した彼の口許には、自然と皮肉気な笑みが浮かんだ。


「…………兄さんは、僕が嫌われていると知っていて、わざと彼らと鉢合わせをさせるつもりなんですか?」


 もしそうだったとしたら、来て早々とんでもない嫌がらせだ、と雪弥は低く呟いた。タイミングとしては、まるで計ったかのように最悪である。

 

 少し先まで歩いた宵月が、立ち止まって、そんな雪弥をじっと観察するように見つめた。


「雪弥様は、蒼緋蔵家の人間が、お嫌いですか?」


 しばらくして、囁くように宵月が尋ねてきた。雪弥は、顰め面で視線をそらすと「好きじゃない」と、拗ねるようにして正直に答えていた。


「顔を合わせるのも、お嫌ですか?」

「それもあるけど、……僕がここに足を踏み入れた、なんて事が分家の人達に知られたら、またあの頃みたいに父さん達が、あれやこれやと色々言われるわけじゃないですか。…………父さんや兄さん達を、困らせたくない」


 雪弥は、まるで自分がここにいたくない理由を探しているような気もしてきて、言葉を切った。蒼緋蔵家の人間に会いたくない事を、父達を言い訳に遠ざけているだけではないのかと、そんな事を思ってしまう。


 チラリと見つめ返してみたら、質問をどうぞ、と言わんばかりの宵月と視線がぶつかった。


「……これもまた、兄さんの指示なんですか? 来客中であっても通せと?」

「はい。次期当主、蒼慶様がお決めになった事です。『客人が先にいるが構わず中へ引き入れろ』、との事でした」


 つまり、当初から来客の予定が入っていながら、自分を迎えに行かせたのか?


 雪弥はしばらく悩んだ。よく分からないけれど、そもそも兄の考えている事を理解するのが難しいのだ。だから、このまま書斎室へ向かう事を決めた。ここで断ってしまうと、あとが怖いような気もする。


 再び廊下を進み出しながら、死角さえ見当たらない完璧な君主という兄像である、蒼慶の幼い頃の事をぼんやりと思い返した。


 初めて会った時、彼は顰め面で無口だったが、好奇心多盛でドジな妹を守る、頼もしい兄だったのを覚えている。あの頃、雪弥が人見知りをして母の影に隠れている中、走り回る妹に付いて、あちらこちらを行ったり来たりしていたものだ。


「う~ん、あの頃はまだ可愛げが――あ、いや、やっぱりないな。うん、使用人を顎で使っていたし……」

「何かおっしゃいましたか?」


 足音ばかりの静かな廊下に、その独り言と宵月の問いが響き渡った。絶対聞こえていただろうと思いながらも、雪弥は「なんでもないです」と言って溜息を吐いた。


 右側の壁に、窓と絵画が交互に並んでいる廊下が、しばらく続いた。左側には時折、デザインが微妙に異なる扉が現れては、進行方向とは逆の方へと遠ざかっていく。

 窓から差し込む日差しで廊下は明るく、二人の革靴音だけがコツコツと響いていた。それからしばらくすると、宵月が金細工の装飾が施された扉の前で立ち止まった。


 雪弥は、扉の向こうに複数の人間の気配を察した。話し声の方ではなく、無意識に『生きている人間』の心音を探り、兄以外の人数と位置を割り出していたら、宵月が扉をノックした。


「蒼慶様、雪弥様をお連れ致しました」

「許可する。入れ」


 ナンバー1とは違い、声は若くてしっかりとしていたが、それでも厳しい印象があって威圧感を覚えるものだった。


 電話で何度も聞いている声とはいえ、今日はまた一段と機嫌が悪そうだ。そう感じた雪弥は「面倒だなぁ」「嫌だなぁ」とぼんやり思いながら、最後は諦めの心境で肩を落とした。浅い呼吸を二回、瞬き一回で心の準備は整った。


 蒼慶に会うだけなら、ここまで気が重くなる事はないだろう。先に来ている客人の反応を想像し、そこで蒼慶の威信を傷つけないよう配慮しなければならない事が、負担になっている。


 宵月が身を引いたのを感じ、雪弥は伏せていた視線を上げた。なるようになれ、と投げやりな気持ちで、兄の書斎室のドアノブに手を伸ばした。


「失礼します」


 そう言って扉を開けると、広々とした室内が現れた。そこには、重々しい書斎机に腰を落ち着けた蒼慶と、ソファに腰を降ろす四人のスーツの男達の姿があった。


 四人は、三十代後半から五十代ほどの面々で、身に付けている腕時計やネクタイピンなどの高級品が目に留まった。嗅覚を意識的に遮断しなければならない香水の匂いが鼻をついて、一歩踏み込んだ位置で立ち止まると、気付いた彼らが一斉にこちらを向いてきた。


 新たな客人へと目を向けた一同が、そこに雪弥の姿を認めて、ハッとしたように目を見張った。長椅子に深く腰かけていた蒼慶が、片手を上げてざわつき始めた場を鎮め、上体を椅子の背から離して雪弥を見やる。


 彫りの深い目元、鼻筋まですっと整った美しい顔。それは男性神と象徴されてもおかしくはない美貌で、持ち前の、見方を変えれば凶悪にも思える仏頂面でも美麗さが薄まる事はなく、雪弥は男性として完璧な容姿をした兄を見つめ返した。


 現当主と同じ赤みかかった少しだけ癖のある髪に、ラインの入った高級スーツから覗くすらりとした長身の肢体。顔立ちだけでなく、ちょっとした仕草の何もかもが西洋の貴族を思わせたが、彼の背負う威圧感は、室内に更なる緊張した空気を溢れさせている。


 久しぶりだ、という言葉を掛ける事もなく、兄弟はしばらく見つめ合っていた。無愛想な蒼慶が、秀麗な眉を顰めるのを合図に、雪弥は会釈をして緊張の感じられない表情で口を開いた。


「お話しの途中、失礼します。本日は、先日に電話で伺った、あなたの提案を『お断り』するべく参りました」


 ほんとはこのタイミングで入りたくなかったんだよ、という気持ちが滲んだほぼ棒読みの言葉が、静まり返った室内に響き渡った。


 その途端、室内の緊張が一気にぴりぴりと張り詰めた。こめかみにピキリと青筋を立てた蒼慶が、「ほぉ?」と問う低い呟きを上げて、僅かに片頬を引き攣らせる。

 四人の男達が、今にも気圧されて死にそうな顔で小さく震えた。雪弥は彼らからやや遅れて、兄がひどく怒っている事に気付いた。


 兄さんは、一体何を怒っているんだ? 僕は当然の事を言っただけじゃないか。


 雪弥は小さく溜息をこぼすと、ソファに腰かけている四人の人間をチラリと見やった。彼らがビクリと肩を震わせ、その緊迫した顔色が薄紅色に染まり始めたが、それが自分に対する怒りなのか、蒼慶への畏れなのか分からなかった。


 失礼のないようにと思ったんだけど、何か間違った言い方でもしてしまったのだろうか。雪弥はそう思いつつも、自分の発言が原因で、温度が五度下がっている蒼慶へと向き直る。

 現在起こっている問題に対して、分家である彼らも納得して、全て穏便に片づく方法を知っていた。だから冷静にこう説いた。


「相続といった権限がないのに、蒼緋蔵家の方々が納得してくれていない現状もありますから。もう色々と面倒なので、僕としては手っ取り早く『この名』を、蒼緋蔵家にお返ししたいと思いっています――いかがでしょうか?」

 

 そう提案を返してみた。


 簡単に言えば、与えられている家名を、母方の名字に変える提案だった。そうすれば、形上は完全なよそ者になるため、一族に関わる『役職』に組み入れられる権利を失う。

 この場の空気や、考えて口にした自分の発言にも疲れてしまい、雪弥は緊張し続けるのも面倒になって、肩から力を抜いた。ソファに座っていた男達が、ぎょっとしたように目を見張るのを見て、何を今更、と訝ってしまう。


 自分が『蒼緋蔵』という家名を与えられている事に関しては、分家の人間がずっと撤回を求めてきた事だった。母の葬儀の日にも、彼らはわざわざその話をしにやってきたくらいなのだ。なのになんで、まさか、という顔をするのだろうか?


 そう考えたところで、ふと、突き刺さる殺意を感じてギクリとした。恐る恐る兄へと視線を戻してみると、蒼慶の顔には、睨みつけるような厳しい表情が浮かんでいる。


 目が合っても、彼は珍しく黙ったままでいた。図太い神経も持ち合せている雪弥は、それを良いように解釈すると、説得を続ける事にして「何度も言っていますけど」と改めて切り出した。


「僕は、蒼緋蔵家の権利だったり、そういうのは何一つ求めていません。兄さんの立ち場を脅かすつもりだってないし、蒼緋蔵家の運営について口を挟む気も全くないんです。それでも納得してくれないのであれば、僕から蒼緋蔵の名前を完全に取り去って欲しい。父さんは、僕の養育費のためにとも言っていたけれど、もう必要ないはずだ」


 家族だから家名を、という理由があったのは知っている。けれど、幼かった頃と違って、雪弥は離れていたとしても『家族』という形がある事を理解していたから、名字への未練はもうなかった。


 肌を刺すような室内の空気に耐えきれず、一人の男が息を呑んだ。静まり返った室内で、蒼慶が机の上で手を組んで口許に押し当てる。その顔には、今にも机をひっくり返して暴言を吐きそうな表情が浮かんでいた。


「それが、お前の答えか?」


 しばらく経った後、蒼慶が低く言った。ソファに腰かけている男達が、チラリとその顔色を窺い、再び雪弥へと目を向ける。その探るような眼差しには、どこか焦りも浮かんでいるように見えた。


 分家の男達の反応を見て、雪弥は変だなと思った。


 一体、何がどうなっているのか分からない。てっきり分家の彼らは、こちらの提案を喜んで押してくるだろうとばかり思っていたから、まるで引き留めなければ、と困惑しているような様子には、強い疑問を覚えてしまう。


「そうです。それが、僕の答えだ」


 雪弥は、ハッキリとそう返した。面と向かって口にするとスッキリしてしまい、ふと、兄の書斎机の右手の窓の向こうに鳥がいる事に気付いて、興味がそちらに移ってしまう。


 鳥って、どこまでも自由そうでいいよなぁ……。


 この場と全く関係ない事を考えていると勘付いて、蒼慶の眉間に、こいつは相変わらず、と言うような更に深い皺が刻まれた。鳥がゆっくりと空を飛び去っていった後で、雪弥はそれに気付いて、あ、まずい、と思った。


「――出て行け」


 目が合った直後、蒼慶が冷たく言い放った。


 恐らく正論だったから、受理するつもりなんだろう。そう思った雪弥は、問題解決とばかりに肩を竦めて、「はいはい」と呟きながら踵を返した。


 開いたままの扉の先には、こちらが出てくるのを待っている宵月がいた。言う事は言ったし、そのまま帰ろうかな――そう考えながら、宵月のもとに向かって室内を出た雪弥は、不意に後ろから蒼慶の声が上がるのを聞いた。


「宵月、そいつをこの屋敷から出すな」


 その声を耳にした瞬間、思わず「はぁッ?」と素っ頓狂な声を上げて振り返った。いつの間に椅子から立ち上がったのか、扉の前には蒼慶が立っていて、一睨みされたかと思ったら、勢いよく扉を閉められてしまった。


 激しい閉音と共に、強い風が顔を打った。それからコンマ数秒遅れで、雪弥は慌てて遮られた戸を叩いた。


「ちょッ、待ってよ兄さん! 出て行けって言ったのに、なんで帰っちゃ駄目なのさ?」

「黙れ、決めるのはこの私だ」


 扉の向こうから、蒼慶が素早く言葉を返してきて、雪弥は続く文句を喉の奥に押し込んだ。十言った罵倒は、百になって返ってくるのだ。


「今すぐ退出する事は許さん。今日仕事が入っていない事は、お前の上司とやらに確認済みだ。もし今日中に戻ってくるような事があっとしても、ヘリに押しこんででも、こちらへ連れてこいと言ってある」

「はぁ? 兄さん、どうして僕の上司を知っているわけ?」

「私は、あんな忌々しい狸大将みたいな野郎は知らん」


 狸大将って……的を射ている。


 つまり、めちゃくちゃ知っているじゃないか……というか、どうして兄が、ナンバー1を知っているんだ?


 質問を投げかけようとしたものの、部屋の中から男達が話し出す声を耳にして、蒼慶が彼らとの話し合いを再開してしまったと知った。開きかけた口を閉じて、扉に添えていた手をどけた。


 そのまま、ここを出て行くことは容易だったが、後が怖いので雪弥はその作戦を諦める事にした。肩を落として項垂れる後ろで、眉一つ動かさないままでいた宵月が「さて」と言う。


「一階へ参りましょう。美味しい紅茶を仕入れてありますので」

「まるで、はじめからこうなると分かっていたくらい、用意がいいですね……」


 思わず扉に額を押しつけると、優秀な執事が「ケーキもご用意してあります」と、すかさず間違った方向のフォローをしてきた。こいつ、めちゃくちゃムカツクな、と雪弥は思った。


「苺とたっぷりクリームの物もございますよ。昔、よく『口に放り込んで』おられたでしょう」

「……あのさ。僕、もういい歳した二十四ですよ……」

「それから、チョコケーキもございます」

「…………」


 こいつは、きっと僕の返答なんて聞いていないに違いない。子供じゃないんだから、と、雪弥は諦めた心境で口の中に呟きを落とした。

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