第45話 八章 ブロッド・パーティー~藤村×李~
富川が、きいきい声で話す尾賀から海外にある別荘の件を聞かされ始めた頃、李と藤村は、大学構内へと足を踏み入れていた。
「ここに詳しいのか?」
「何度もお邪魔してますよ」
疑うような李の視線を背中に受け、藤村は歩きながら即答した。
藤村は覚せい剤に手を出していた女子大生と何度が校内で会っていたので、大学校舎には詳しくなっていた。ヘロインを倉庫へとしまうついでに、常盤と高等部校舎を散策したこともあり、どちらも歩き慣れている。
二階へと続く階段を上がれば、学生たちが集まっている教室までもう少しである。しかし、階段を上がりながら李は「もう少し早く歩けんのか」と藤村を叱った。老体だと気を使っていた藤村は、口を開けば愚痴が飛び出そうだったので、大股歩行で応えた。
階段を上がると、全校舎に共通している白い床が続いていた。革靴の底を響かせる硬い床は、磨かれた表面が滑らかに反射する真新しさが残っている。
校舎床はほとんどすべて、滑り止めのような薬剤が塗られているため、水に濡れても滑らないという優れ物だった。藤村は富川からその話を聞かされていたのだが、興味もなかったので、どんな加工がほどこされた物かは覚えていなかった。
尾崎という理事が、かなりお金を掛けてこの学園を建てたらしいことは記憶している。子供が学ぶ場所に関して、その安全性や学びの環境には徹底してこだわっていたという。
二人の進路方向である廊下の先には、一点だけ光が漏れている場所があった。蛍光灯で照らし出された廊下が、月明かりも霞むほど白く浮かび上がって見える。
藤村の後ろで、李が顔を輝かせた。「早く進まんか」と急かすこともせず、李はにやけて皺だらけの手を擦り合わせる。
「どんな活きのいい実験体ちゃんがいるのか、楽しみじゃのぉ」
女の身体を見て欲情するような声を上げると、李は小さな唇を舐めた。
この変態が、と藤村は思い掛けたところで、ふと、小さな違和感に気付いた。普段パーティーが始まったとき聞こえていた、あの独特の賑わいが一つもないのだ。そして、常盤の様子を見に行ったときと雰囲気というか、向こうから漂ってくる空気も違っている気がする。
藤村は、一時間前と違う異様な雰囲気に促され、明るい教室の光りが差す廊下先へ目を向けた。廊下に差す教室の明かりは、明るい黄色ではなくなっていた。所々が淡く影って見える。
一体なんだろうな、と彼が廊下に気をとられていると、後ろにいた李が「なんてことだ!」と突然喚いた。弾かれるように顔を上げた藤村は、走り出した彼を追って明るい教室を見た瞬間に絶句した。
教室に面する全ての窓ガラスが、血飛沫で真っ赤に染まっていた。
室内の白い床や壁には大量の血液が飛び散り、死体からは生々しい赤が溢れて血溜まりを広げ続けている。
開いたままの扉に駆け寄り、李が真っ先に室内へと飛び込んだ。続いて入った藤村は、むせるような強い匂いを充満させた生温かい空気に顔を顰めた。四方に散った血液はまだ乾燥しておらず、むっと立ちこめる生臭さがそこにはあった。
教室いっぱいに無残な死体が転がっている。
滴り続ける血は、惨殺されてからまだ時間が経っていないことを物語っていた。逃げ惑って壁際に追い込まれたであろう生徒たちは、そこで頭部を潰され内臓を撒き散らされていた。
高さのある天井が赤く染まっていることに気付いた藤村は、すぐそばにぼとりと落ちた物を見てぎょっとした。それは遺体の一部分だった。
藤村は、吐き気を堪えて辺りを見回した。中央にいる生徒の数人は、彼が見慣れた銃殺死体だった。扉の出入り口そばに転がっていた生徒たちは身体の原型が残っていたが、鋭利な刃物で首の半分がかき切れられている。
うつ伏せに倒れている男子生徒は、捻じられた首が忌々しそうな目をして藤村の方に向いていた。それと目が合ってしまい、彼は喉から混み上がり掛けた悲鳴を咄嗟に抑え込むと、中央まで進んだ李を追うように、そろりと足を踏み出した。
床が足の踏み場もないほど血で染まっている様子を見降ろし、慎重に足を運んだ藤村は途中で「ひっ」と声を上げてしまった。
力の入らない足を持ち上げようとして触れてしまった生首が、嫌な音を立ててぐしゃりと崩れたのである。切断面が分からないほど綺麗に切られており、切断面が滑り落ちる光景に悪寒が走り抜けた。
視線を逃がそうとした時、広がった赤い液体の行方を追った藤村は、そこに腹部から切断されている男子生徒の姿を見つけた。倒れこんでいる下半身は、ばらばらに切り裂かれている。
藤村は、生々しい殺戮現場に四肢から力が抜け、思わず足を止めてゆっくりと室内を見回した。
どこもかしこも真っ赤だった。散乱する肉片は誰の物であるのかも分からない。室内の奥の死体は、すでに人の形を成しておらず、壁や天井に張り付いた肉片が血と共に滴り落ちていく。
藤村はこれまで、多くの人間が殺される現場を見てきた。彼自身も実際に人間を殺したことがある。しかし、これほどまで悪夢のような惨劇の光景は初めてだった。
込み上げる吐き気と格闘する藤村の前で、李は怒りに震えていた。小さな身体を強張らせ、深く息をつきながら再び室内の様子を確認して吠える。
「許さん! 許さんぞ!」
怒号し、李は怒り狂った。胴体から切り離された青年の首を蹴り飛ばし、血溜まりにある遺体の一部を足で何度も踏み潰した。白衣の懐から鋭利な光りを反射させるメスを取り出すと、下半身のない死体に馬乗りになってその顔面に「畜生」と怨念を吐き捨てて刺し続ける。
何もかもが異常だった。
人間はこんな風に死ぬべきではない、死んだ人間を更に殺すべきでもない。
惨殺死体の中にいると、藤村の常識は曖昧に霞んだ。今まで自分が行ってきた殺しこそが陳腐に思え始めたとき、突然の怒号に彼は我に返った。
「ネズミを殺せ! ネズミを殺すのじゃ! 切り刻んで犬の餌にしてくれる!」
茫然と立ち尽くした藤村を、李が血のついた手で押しのけて、薄暗い大学校舎の奥へと消えていった。
藤村はゆっくりと視線を巡らせて、李が平気でやつ当たりした死体を振り返った。唾を呑みこむとゆっくりと後退する。震える足をどうにか動かそうと身をよじった際、どの部位にある肉片かも分からない物を踏んでしまい、ひゅっと息を吸い込んだ。
「……こんなの、人間がやることじゃねぇ」
藤村は、恐怖に押し潰されそうになった。けれど視界に入っていた死体の数々に、彼の思考と感覚は麻痺してしまっていた。
「人間って、こんなにも簡単に死ぬものなんだよなぁ」
自分でも分からない笑みが込み上げて、しゃっくりに似た声が上がった。喉からヒュウヒュウと抜ける笑いは、静まり返った廊下に反響する。
そうだ、どうせ皆死んじまうんだったら、俺が殺してやらぁ。
藤村はおぼつかない足で身体を支えると、銃を二丁取り出して一歩、二歩と足を踏み出した。
自分の身体が、不自然に揺れるだけで笑いが止まらなかった。死体をめった刺しにしていた李も、悪夢のような死体を作り出したネズミもどうでもよかった。ただ、無性に殺したくてたまらない。
ああ、なんて息苦しいんだ。
藤村は両手に銃を持ったまま、一番近い人間をまずは殺してやろうと、あの小さな白衣の老人を追ってアンバランスに左右の足を進めて駆け出した。