第43話 八章 放送室の少年たち 下
放送室の出入り口に立った青年の顔を目に留めた瞬間、常盤がわけも分からないといった様子でじりじりと後退した。警戒心から反射的に銃を構えるが、それに対して反応を返す人間はいなかった。
暁也と修一は、異様な空気を纏った雪弥に釘付けになっていた。漆黒に身を包んだ青年は無表情で、銃を向けられても眉一つ動かさないでいる。
革靴がこちらに向かって床を一歩踏みしめたとき、常盤が「お前何なんだよ!」と狼狽した声を上げ、その足がピタリと止まった。死神のような黒に覆われた人間に恐怖を覚えたのか、常盤は助けを求めるように廊下に立つ少年の雪弥を見る。
暁也は、修一を庇うように後ずさった。青年が再び足を動かせたことに気付いて、そこへ視線を戻した常盤が、後ずさりながら上ずった声を発した。
「お前いったいッ――」
「常盤聡史、リスト対象者として処分する」
続く質問を遮るように発せられた青年の声は、彼らが知る雪弥のものだった。処分という単語に慄いた常盤が、恐怖にかられたかのように反射的に銃の引き金を置いた指に力入れる。
室内の奥で暁也たちが「ここで撃つのかよ!」と身を強張らせた瞬間、視線の先で、立っていた残像線をのこして常盤が目の前から消えていた。
発砲音は上がらなかった。何故なら常盤が引き金に指を掛けた瞬間、雪弥はその銃口を素早く左手で切り落としていたからだ。そして、驚異的な速さで彼の顔を右手で掴むと、二人の少年からは見えない放送室扉の横の壁に、容赦なく常盤の後頭部を叩きつけていた。
それは、呆気ないほど一瞬に終わった『処分』だった。
強度の強い壁に打ち付けられ、常盤の頭蓋骨は嫌な音を立てて砕けていた。それは壁と雪弥の白い指の間で弾け、噴き出した血が薄暗い壁を勢いよく染め上げる。常盤の華奢な身体から溢れ続ける潜血は、窓がしめきられた廊下だけでなく、すぐそばの狭い包装室内にもむせるような生温かい匂いを充満させた。
常盤の死亡を直接目撃したわけではないが、開いた扉から見えた血飛沫の一部と、映画で見るような人体が潰れる音、そして独特の死の匂いと、――なにより常盤の声がピタリと聞こえなくなった静けさから、行われたであろう事の一連を想像するのは容易だった。
未だに続く血飛沫の一端を前に、修一が膝をついて、耐えきれず胃液を吐き出した。暁也は呼吸を止めることで嘔吐感を堪え、瞬きもしないで硬直していた。
雪弥は、放送室から聞こえてくる吐瀉音を聞きながら、赤く染まった手を無造作に引き離した。ほとんど頭部を失った常盤の身体が、ずるりと床に滑り落ちる。
「下がれ」
「御意」
雪弥の顔をした少年が、少女の声色を低くしたような声で答えて姿を消した。廊下から人の気配が消えると、雪弥は赤く染まった右手で携帯電話を取り出して耳に当てた。
「夜が降りる」
瞬間、校舎全体が震えた。振動する空気に叩かれるように、外に面している窓ガラスがいっせいに鳴り響いて――一瞬の後にぴたりと鳴り止む。
携帯電話をコートの内側にしまって、声も出ない二人の少年が座りこんだままでいる放送室に耳を澄ませた。「話しかけるのは返って負担を掛ける、か……」と呟き、急きょ用意させたスーツケースを見やる。
「……使う事はないかもしれないな…………」
もしかしたら、彼らはしばらく、放送室から外に出てくる事もないかもしれない。ならば、ここまま通り過ぎてさよならをしよう、と、誰に言う訳でもなく口の中に囁きを落として、雪弥は血に染まった手をコートの外ポケットに入れて歩き出した。
暁也は、身体を動かせることが出来なかった。
開いた扉の向こうの廊下を、ダークスーツとブラックコートに身を包んだ大人にしか見えない雪弥が通り過ぎて行くのも、呼び止められなかった。
修一の嗚咽にようやく気付き、守らなくてはと、暁也は自身を奮い立たせて渇いた喉を濡らした。あいつは雪弥なんかじゃない、学園に集まっている人間すべてが敵だと思えばいい……そう考えると今の状況だろうと動ける気がした。
しかし、そう身構えた途端、暁也は自分の決意がすぐに崩壊するのを感じて、その顔をくしゃりと歪めた。
※※※
結局そのまま通り過ぎる事が出来なかった雪弥は、手についた血を拭い落し、すぐに引き返してきてしまった。暁也が珍しく泣きそうな顔をしているのを見て、血飛沫は見えてしまったのだろうな、と心の中で謝りながら放送室に入る。
酷いショック状態で荒い呼吸を繰り返す修一の前で片膝を折ると、血の跡がない左手で彼の背中をさすった。修一は余裕がないせいか、こちらの動きに対して拒絶するような怯えは見えなかった。
「可哀そうに。……君たちが学園に来ないよう計らったのに、どうして言うことを聞いて大人しくしていられなかったの?」
宥めるような声で、雪弥はそう問い掛けた。しかし、それは回答を求めていない、どこか諦めが交じった独り言のようでもあった。
「過呼吸になってしまうから、ゆっくり息を吐き出して」
発作に似た荒い呼吸のまま、修一がどうにか応えるように頷き返した。
しばらくもしないうちに彼の呼吸が少し落ち着いて、顔色に生気が戻ったことを確認してから、雪弥はゆっくりと立ち上がった。
「さて、どうしたものかなぁ」
そう独り言を呟き、部下の一人が残していった荷物へ視線を滑らせる。入口に立て掛けられたその黒いスーツケースを手に取ったところで、雪弥はふっと思い出して「暁也」と名を呼んで振り返った。
暁也は反射的に身を強張らせてしまい、そうやってしまったあとに後悔した。こちらを気遣ったのだろうと察して、雪弥は困ったような笑みを浮かべた。
「ここは、これから戦場になる。この部屋の外には『さっきまで君たちと話していた生徒』の死体があって……今以上のものを見せないためにも、二人には屋上へ避難してもらう。いいね?」
殺してしたのは自分であり、すぐそこに死体もある。そうきちんと伝えたうえで、雪弥は言い聞かせるようにそう告げた。
暁也は、精いっぱいの強がりで怪訝そうな顔を作ったが、握りしめた拳は無意識に震えていた。知らない世界に放りだされたような自分の恐怖感が煩わしく、しっかりしろよと叱責するように舌打ちした後、「わけ分かんねぇよ」と喉から絞り出した。
「……お前、高校生には見えねぇし」
「今年で二十四になるよ」
即答され、暁也はまじまじと雪弥を見た。修一がよろりと立ち上がり、廊下に広がる赤から目をそらすように口元を拭う中、彼は続けて問い掛ける。
「…………一体、何が起こってんのか俺たちに説明してくれねぇか。常盤が取引のことを言ってた。それに……お前は、俺たちの知っている雪弥なのか?」
「名字は違うけれど、僕は確かに、君たちと五日間を過ごした雪弥だよ」
雪弥は、それだけ答えて口を閉ざした。高校生だという事も年齢も何もかも嘘で、そのうえ彼らの同級生を殺したのだ。取り繕うような言葉も、言い訳も必要ないだろうと判断していた。
生きる世界が違う。
彼らもそれを知って、きっとここでお別れしてくれるだろう。
そう考えて、元々自分には必要のないスーツケースに目を落としたとき、「雪弥は雪弥じゃん」と修一が頬に涙の痕を残したままそう言った。
「俺、何が起こったか分からないけどさ……困ったように笑う顔も、優しいとこも雪弥のまんまだって思う。お前は俺の友だちの、雪弥のまんまだよな?」
そのままの、僕――
問われて、雪弥はふっと唇を開きかけた。しかし、彼はどんな言葉が出てこようとしていたのかも分からずに、よく分からなくなって沈黙した。
そのとき、ようやく雪弥の碧眼に気付いた修一が、緊張をすっ飛ばした表情を見せた。いつもの空気を読まないのんびりとした様子で、「あれ? なんでブルー」と言い掛けた彼の口を、暁也が素早く塞いだ。
どうやら修一のおかげで、暁也は普段の気力と調子を取り戻しつつあるようだ。話をややこしくしないためだろうと察して、雪弥は賢くて強い子だと、わずかに頬を緩めた。修一からも、必死に問題と向き合おうとしている姿勢が窺える。
悠長にしている時間はないのも確かだ。
既に学園は封鎖されてしまったのだから、『檻』の存在に気付いた敵も動き出してくる。雪弥は思案しながら、少年たちに向き直った。
「白鴎学園は完全に封鎖された。何者も終わるまで敷地内から出ることは許されない。君たちが入ってしまったのは計算外だけど、僕は集まった犯罪者を一掃するために、ここにいる」
常盤もその一人だった、と雪弥は声を控えめに続けた。
次々と思い浮かぶ疑問を口にしようとしていた少年組は、一掃、という言葉の意味を半ば悟ったかのように口をつぐんだ。しばし暁也と見つめ合った後、修一が恐る恐る「それって、常盤みたいに……?」と尋ねてきたので、雪弥は頷き返してみせた。
「詳細を教えることはできないけれど、警察とは違う『専門機関』がこの事件を受け持った。僕はその機関から寄越されて、学生の振りをしていた――。君たちには酷かもしれないけど、でも今度はちゃんと従って欲しい。ここは戦場になる。きっと一番安全なのは屋上だから、大人しくそこで待っていて」
語り聞かせる雪弥の顔は、どこか幼い子供に諭すようでもあった。
でも、と修一がうろたえた。思わず言葉が途切れた彼に視線を寄越されて、暁也が前に進み出て代わりに口を開いた。
「つまり、ここで犯罪的な取引が行われようとしているのは事実で、それは親父たちの手にも負えない事件ってことか?」
「そうだね。ここで放っておくと、もっとたくさんの民間人が被害に遭う危険性がある」
「…………というか、お前もしかして、俺たちが立ち聞きしてたの知ってたのか?」
暁也は、事件についてはこれ以上追及するのを聡くやめ、質問しても問題なさそうだと判断した話題を放り込んだ。思い出すと若干苛立ちも込み上げて、不服そうに腕を組む。
「俺、おかげで二階の窓から脱走したんだけど?」
自分の家なのに泥棒になった気分だった、と暁也は不満だった。
それを聞いた修一が、思い出したように「あっ、俺も!」といつもの調子で手を挙げてこう言った。
「家に刑事が来てさ、玄関に立って外に出られなくなったから、下とその下の階のベランダ伝って脱出した」
「お前すげぇな、それって三階からってことだろ?」
「割と簡単だぜ。前までちょくちょくやってたし」
すっかり自分たちの話しを始めた二人を見て、雪弥は困ったように微笑んだ。
「うん、ごめんね」
それ以外の言葉は出て来なかった。刑事を使ってまで家から出すなとは命令していないが、夜狐伝えで、暁也と修一が家にとどまってくれるよう金島本部長に指示したのは確かだ。目の前で常盤を殺してしまったこともあり、雪弥はもう一度「ごめんね」と謝った。
暁也は「謝んなよ」と視線をそらしかけて、ギクリとした。視界の片隅に映り込んだ廊下に、赤黒い色が浮かんでいる。
雪弥以外を見ないようにしている修一を見習うように、暁也はすぐ視線を戻した。真っ黒の瞳だった時には違和感を覚えていたが、碧眼だと髪色に対しても不自然さがないなと、改めてまじまじと見つめてしまう。
そこでようやく、二人が血生臭い現場を見ないようにしているのだと気付いて、雪弥は済まなそうな顔をした。早く場所を移動してもらう方がいいと判断し、スーツケースを開いて見せながら話しを切り出す。
「僕は耳に小型無線マイクをはめている、君たちにトランシーバーを渡しておくから、何かあればこれでやりとりしよう」
スーツケースには、トランシーバーの他にノートパソコンも入っていた。しかし、暁也と修一はそこに一緒に入っていた黒い装飾銃を見付けて、つい顔を強張らせてしまった。
二人からやりきれない想いを察知した雪弥は、「やれやれ」と息をついた。護身用にと初心者でも扱える銃を用意したつもりだったが、自衛させるのは難しいらしいと判断する。
ならば、もしもの場合を考えて、自分が同時に彼らの安全を把握し守れるような線でいこう。雪弥は数秒で考えをまとめると、彼らが素直に従ってくれそうな提案内容に切り替えた。
「――じゃあ、少しだけ僕に協力してもらおうかな。君たちは、敵の位置情報を屋上から伝えるんだ」
現在、白鴎学園上空には特殊機関の偵察機が待機していた。現場に入ったエージェントに標的の数と居場所を鮮明に伝え、学園を取り囲む暗殺部隊が封鎖された内部の現状を把握することに役立っている。
雪弥は元々、生きている者の気配を敏感に追えるので、こういった機材はほぼ必要としていなかった。スーツケースに用意されたコレは、自分たちのいる屋上に敵が迫ったら教えて、と暁也と修一に防衛一点で渡すつもりだったものだ。
彼らの今の様子からすると、何かしら気をそらすような目的や作業を与えて、常に連絡出来る環境であるほうが精神的にも安定しそうだ。だから雪弥は、『敵の位置情報を伝える』がいかにもメインであるように、これらの道具を使うことを説明する形を取る事にしたのである。
小型のノートパソコンは開くと自動で電源が入り、黒い背景に立体化された白鴎学園見取図が緑の線で描かれた画面が浮かび上がった。そこには、動く赤い人型が映し出されている。
「これは、熱探知機のモニター映像だよ。タッチパネル式になってるから、触れれば画面内部の視聴角度を変えられる」
乗り気がしないのは、高度な熱探知機であるため人の姿形をしていることだ。鮮明に温度を映し出す偵察機は、廊下に集まる雪弥たちの姿もはっきりと捉えている。
雪弥は数秒ほど考え、画像の解析度を出来るだけ下げることにした。視覚野が広がった映像は学園全体までカメラ位置が上がり、赤く浮かぶ人の形はずいぶんと小さくなった。四肢に動きはあるものの、ほぼマスコットサイズほどに縮んだこともあって、生々しさは半減されている。
暁也と修一は、物珍しそうにノートパソコンを覗きこんだ。ぼんやりとした黄色い人影があることに気付いて、「赤色じゃないのがある」と修一が目を留めて疑問を口にする。
「僕のコートにはちょっとした仕掛けがあって、標的と識別出来るようになっているんだ」
雪弥がそう教えると、彼らは「「なるほどなぁ」」と声を揃えた。
怖くないといったら嘘になるが、暁也と修一の不安や恐怖は、不思議と少しだけ身を潜めていた。芽生えた小さな勇気は、少年たちを元気づけた。
「いい? 僕のことよりも、常に自分たちのことを考えるんだよ。屋上に近づく人影があれば、自分たちの身を守ることを最優先に考えて僕に教えて欲しい。派手に暴れるからこちらに注意は引けるだろうと思うけど――もしものときのために、それだけは念頭に置いていて」
真面目に頷いた暁也の隣で、修一はノートパソコンに興味津々だった。彼は「人が動いてるのが分かる」と陽気に言ったが、暁也に「ゲームじゃねぇんだぜ」と咎められて口をつぐむ。
雪弥は小さく苦笑し、こう言った。
「――これはゲームじゃない。でも、そうだね。君たちにはゲーム画面だと思ってもらった方が楽かもしれない。嫌だったら、途中で無線を切って、画面を閉じてしまっても全然かまわないから」
少年たちは顔を見合わせたが、肯定や否定といった明確な態度は示さなかった。
※※※
その場で腰を降ろしてざっと使い方の説明を受けたあと、修一がスーツケースを閉じる隣で、ようやく暁也が仏頂面を雪弥へと向けた。おもむろに「おい」と言葉を吐き出して立ち上がつたかと思うと、彼は苛立ったようにして顎を持ち上げる。
「俺の適応能力なめんなよ。あとでいろいろと聞きだしてやるからな」
この役目はきっちり果たしてやる、と暁也の眼差しは語っていた。
自分の今の判断に一抹の不安を覚えていた雪弥は、想定外の言葉に不意を突かれた。スーツケースを持って立ち上がった修一も、曖昧に笑みを濁しつつ八重歯を覗かせてきた。
「俺、頭悪いからよく分かんねぇけど、ようは暁也の親父さんみたいな職に就いてるってことだろ? あとでいろいろ教えてくれよな」
雪弥はしばし困ったように微笑み、それから場の空気を少しほぐすように「金島本部長に聞くといいよ」と答えた。
すると、二人の少年たちは、廊下の死体を出来るだけ見ないよう屋上へと駆け出しながら「奴に訊くとかヤなこった」「雪弥のおごりでラーメン食いながらでもいいじゃん」と言葉を残して走り去っていった。
彼らを見送った雪弥の顔から、ふっと表情が消えた。
遠くなっていく足音の余韻の中、その碧眼から温度が失われて、これからの標的を定めたかのように煌々とした冷たさを帯びた。