第42話 八章 放送室の少年たち 上
少年たちのいる放送室に、その足音が一歩ずつ近づいてくる。
それは濃密な空気を鈍く震わせ、静けさに食われていくようにくぐもった。廊下に差しこむやけに眩しい月明かりが、出迎えるように放送室の入口に立った常磐の白い肌を、ぼんやりと浮きたたせていた。
暁也と修一は、息を殺して身構えていた。廊下の向こうから聞こえていた足音が、やがて放送室の前で止まると、一人の少年が常盤の前に立った。
やってきたのは雪弥だった。彼は常盤に向かい合うと、一度その瞳を伏せるように閉じてすうっと開く。青白い光を逆行に受けたその顔は、恐怖も緊張もなくひどく落ち着いていた。
「こんばんは」
遠慮がちに上がった声は、凛と柔らかく耳についた。息を静めていた常盤が、興奮したように呼吸を荒上げて「やぁ、雪弥。会いたかったよ」と一息で告げる。
暁也と修一は、揃って奇妙な違和感を覚えて、無意識に警戒心を強めてしまった。見知った顔がそこにいるはずなのに、なぜか掛ける言葉が出て来ない。
月明かりのせいか、雪弥の髪は栗色に透けているように見えた。きょとんとした黒い瞳は前髪で少し隠れ、伸縮性の黒いニット服からは身体の細い線が覗いていて、その手には小型の黒いスーツケースがある。
常盤と向きあう雪弥の小奇麗な顔が、不意に、人懐っこい柔かな印象で笑んだ。いつもとは違う独特の雰囲気を感じた暁也は警戒の色を強め、修一は薄暗がりで「どこか変」と呟いて目を凝らす。
「俺が渡した麻薬、使ってみた?」
「使ってみたよ。君の話が聞きたいな」
スーツケースを入口に立て掛けながら、雪弥が自然な仕草でそう尋ねた。
常盤は質量感のある鞄を目で追っていたが、話が聞きたいといった言葉に反応した。思い出したように銃を前に出して、「見てよ」と声を弾ませる。彼はその荷物について訊くタイミングを逃したことも忘れ、雪弥にそれを自慢した。
「すごいだろ、これ本物の銃なんだぜ」
「へえ、君の物なの?」
放送室にいる二人のクラスメイトにも目を向けず、まるで自分にだけ興味があるとばかりにすぐ尋ね返された常盤は、嬉しくなって「そうだよ」と自信たっぷりに頷いた。
「仲間も皆持ってるんだ。あとで雪弥にも一つあげるよ」
「それは嬉しいね。で、撃ったことはあるの?」
「あるよ。まだ人間に試したことはないけどね」
常盤は笑みを歪ませた。向かい合う雪弥は邪気のない表情を浮かべ、彼の手にある銃をしげしげと眺めている。しかし、その横顔は見慣れた物を見下ろすように、どこか冷ややかだった。
「……なんか雪弥、変じゃね?」
修一は、隣の友人に聞こえる声量でこっそり呟いた。二回目となる私服姿の雪弥をまじまじと見て、やはり理由は分からないが違和感がある、というような顔で眉を顰める。親しさの窺える二人の様子を眺めていた暁也も、考えるように間を置いて「俺もそう思う」と小さな声で相槌を打った。
雪弥はこちらも見ず、常盤の意見や考えに賛同するようにも聞こえる言葉を返し、話し続けていた。まるで知らない転入生がそこに立っているようにも感じる。
そもそも、常盤が渡した麻薬を、彼は本当に試したのか?
嘘を吐いているようにも見えないくらい自然体だったから、暁也と修一は、真っ向からそれを否定できず困惑した。この状況が理解出来ない。雪弥自身に問いただそうにも、いつものように話しかけられない疎外感を覚えていた。
「雪弥、俺は残虐非道の悪党になるのが夢なんだ」
右手の銃を持ち上げ、常盤が嬉しそうに切り出した。早口になりかけた語尾を緩め、自身を落ち着かせるように二、三度慌ただしく呼吸を繰り返すと乾いた唇を舐める。
「冷酷で残忍な人間は、残虐な行為を賢く楽しむべきだろ? 押し付けられるルールも法律も、悪行を楽しむ特権を持っている俺たちを止めることなんて出来ないよ。俺は酒も麻薬も女もやってるけど、それだけじゃ物足りない。お前と同じ高みに立ちたいんだ」
何もかもぶち壊すくらいの事をやって、自分の手でも人間を殺めてみたい、と常盤は銃に目を落とした。
そのとき、その隙にとばかりに、雪弥が目だけをちらりと向けてきた。
その眼差しは含みがあるようでもあり、こちらの様子や動きをただチェックしているという感じでもあって、心情や思考といったことを読み取ることは出来なかった。何しろ、彼はずっときょとんとした無害な表情をしていて、常盤と犯罪の話をしていることが不思議なくらい落ち着いていたからだ。
暁也と修一が訝しむ中、雪弥の視線がそのまま常盤へと戻る。
「あの二人は殺さないの?」
唐突に、常盤の話しを遮るように雪弥がそう尋ねた。
他人事のように実にあっさりとした様子で告げられた言葉は、まるでなんでもない内容を語るように軽く、暁也は「は」と唖然と口を開けてしまった。修一も「え」と、鳥が喉を詰まらせたような声を上げて目を丸くする。
いきなり問われた常盤自身も、不意を突かれたような表情を浮かべた。
「えっと、その、暁也は殺すなって言われてるんだ」
「ふうん。じゃあもう一人は?」
せっかく銃を持っているのに、と雪弥は無害な表情で小首を傾げる。
「その銃で殺してみたくないの? 人間に試したこと、ないんでしょう?」
幼い声色にも聞こえるあどけなさで言ってあと、彼が顔をほころばせた。まるでそれを誘うように常盤を覗きこむ瞳は、無垢を感じさせるほどあどけない。
言葉を失う暁也と修一の前で、常盤が全身を震わせた。持っている銃を見下ろすと、口元をにやぁっとつり上げ、それから目の前の彼へと視線を戻して口を開いた。
「……雪弥、お前最高だよ。ははっ、あははははははははは!」
狂った高笑いが静寂を破った。空気が一変し、禍々しい狂気が場に満ちた。
まさか雪弥がそんなひどいことを口にするはずがない、と疑うように観察していた修一が、常盤の絶叫するような笑い声を聞いて飛び上がった。暁也も肌で異常性を感じ取り、思わず反射的に息を止めてしまう。
もはや正気ではないのだと悟らされ、頭の片隅にあった、同級生が人を殺すはずがないという楽観視も吹き飛んだ。どこで狂ってしまったのか。もしかしたら、薬物で頭の中を溶かされたのかもしれないが……説得は不可能だということだけは分かった。
銃や違法薬物を扱い、人を攫うことも平気でやってのける大人たちと行動している。彼らの仲間に加わっているのも常盤自身の意思であり、学園で起こっているらしい大きな事件についても、彼が自分から動いて深いところまで関わってしまっているのかもしれない。
もう、彼は引き返すことが出来ないのだ。
「……そのうち、本当に人を殺すかもしれないな」
暁也は苦々しく呟いた。修一は「俺はバカだからよく分かんないけど……かなりまずい、感じがする……」と唾を呑み込んだ。
常盤はひとしきり笑ったあと、携帯電話で時刻を確認した。肩をすくめると「もう一人の方については、あとで考えるよ」と冷静さを装った。
「実は相手方が早めに到着しているんだ。先に見せてあげるよ。大量のヘロインはきっと壮観だと思う」
そのあとに人間だって取引されるんだ、と常盤は続ける。
そのとき、あるところへ視線を移した修一の表情から、ふっと驚きがかき消えた。小首を傾げ「あれ?」と控えめに出された声は、室内に満ちる重圧をすっかり忘れてしまっている。
「……なぁ、暁也」
常盤がヘロインがしまわれている旧地下倉庫について語る中、修一が服をつまんで引っ張った。調子が狂うようなマイペースさのおかげで、少し呼吸が楽になった暁也は、緊張を漂わせながらも「なんだよ」と答える。
修一は雪弥を凝視したまま、内緒話をするように暁也に頭を近づけた。
「…………雪弥ってさ、もう少し身長なかったっけ?」
「は? お前、いきなり何言って――」
「昼間に雪弥と喋ってんの見た時、常盤って華奢なんだなって思ってたんだけど」
でも俺は常盤をあまり知らないし、と修一は少し自信がなくなったように語尾を弱くした。ひとまず見てくれと促された暁也は、訝って二人の方へ人を戻したところで――それに気付いて息を呑んだ。
一緒に校内を出歩くようになってから、暁也は長身の自分より、雪弥の背丈の方が高いことを知っていた。雪弥は確かに細身であったが、意外と鍛えられたたくましい身体を持っていたのである。
昨年までは同じクラスであったし、校内でたまに見掛けることもあったので、常盤の身長が低いとは把握していた。
それなのに、目の前にいる今の雪弥は、向かい合う常盤とあまり変わらない背丈をしていた。いや、よくよく見てみると、なんだかずいぶんと細く幼い体系をしているような気もする。
改めてその姿の違和感を認めると、いよいよ全くの別人に見えてきた。細い身体は無駄な肉が一つもないほど鍛えられているが、顔から下だけを見ると、放送室にいる三人よりも年下の少年がそこに立っていると錯覚してしまう。
一度その事実に気付いてしまうと、自分たちよりも小さいことは明らかで疑いようがなかった。どうして雪弥の身長が低くなったのか分からないし、逆にいえば、どうして雪弥と同じ顔をしているのか、とまで考えてしまって、暁也と修一は声も出なくなった。
常盤が話しを続ける最中、ふと、目の前の雪弥がこちらへ視線を滑らせてきた。
一体何がどうなっているんだという訴えを察したのか、雪弥が何かを伝えるかのように、ゆっくりとその黒い瞳で視線の先を誘導した。疑問を覚えて彼と同じ方向へ目を向けた暁也と修一は、口から出そうになった叫びを慌てて喉に押しとどめた。
彼らの前にいる雪弥は、金具がついた黒いブーツを履いていた。靴底がひどく分厚い、身長を底上げするタイプの物である。
その手の靴をいくつか知っていた暁也は、呆気に取られた。
どんだけ小さいんだ、とうっかり場違いな感想を抱いてしまう。
すると「雪弥」が、ネタバラしはしたよ、と言わんばかりに笑んで、ゆっくりと唇前に人差し指を運んで「しぃ」という形を作った。その黒い瞳は、どこか残酷でありながら悪戯っ子のように楽しげだ。
「…………厚底でも、あいつより低いッ」
修一がうっかり口に出してしまい、常盤が話しを切って怪訝そうに眉を寄せた。彼は「あいつ何言ってんだろうね」と疑問の声を上げて銃を触り、雪弥がとぼけたように「さぁ」と答える。
「じゃあ、今すぐ二人は殺さないんだね」
先程と同じ口調で雪弥は尋ねた。確認するような口調だとも気付かないまま、常盤が「そうだよ」と言って「雪弥も取引を見たいだろう?」と急かせる。
自分たちが人質扱であるらしいことを改めて自己解釈し、暁也と修一は、一先ず今すぐに殺されるような事はないらしいと互いの目で語り合った。しかし、今は攫われてきた理由についてよりも、新たに発覚した事実に緊張は強まっていくばかりだった。
雪弥の顔をしているこいつは、いったい誰だ?
確かに別人だと考えれば、常盤と犯罪じみたやりとりをして、まるであまり交流がない人間のようにこちらを注目しないのも頷ける――ような気はする。しかし、そもそも、顔を全く同じにするなんて、そんな馬鹿なことはありえないと思うのだ。
「午後十時五十八分」
不意に、雪弥の顔をした少年が耳に手をあてたかと思うと、誰に言う訳でもなく時刻を口にした。疑問を覚えた常盤に微笑みかけたかと思うと、彼は後ろ手で扉を全開にし、そのまま床を蹴って一つ飛びで廊下へと後退した。
そのとき、一組の靴音が廊下の奥から響き渡った。
聞き慣れないその足音は、シューズから発せられるものではなく、固い革靴の底がカツンとあたるものだった。
常盤は、雪弥に対して「どうしたの」と言葉を掛ける余裕もなく、身を強張らせて銃の安全装置を外した。低い声色で「富川学長か? 藤村さんか?」と呟くが、その緊張した面持ちは別の想定に身を構えているようだった。
放送室の中から、廊下に佇んだ「雪弥」が恭しく一礼する様子が見えた。彼は片方の手を胸に当て、頭を下げる。
近づいてきた足音が、放送室前で止まった。
薄暗い視界に溶け込む黒いその人物が、開かれた扉を塞ぐようにゆっくりとこちらを振り返ったとき、室内にいた三人は同時に驚愕した。
そこに立ったのは、一人の青年だった。引き締まった身体にきっちりと黒スーツを着込み、六月という季節感もなく黒のロングコートに身を包んでいる姿が、背に受けている月明かりに照らし出されている。
色素の薄い柔らかな髪は、その月明かりにブルーともグレーとも分からない色を放っていた。小奇麗な顔にかかる髪先から覗く碧眼は、凍えるほど明るく澄んでいて、月明かりの逆光があるせいか、発光して鈍い光を宿しているようにも見えた。
その青年は、三人の少年が知っている「本田雪弥」の顔をしていた。




