第3話 一章 ナンバー4と呼ばれた彼 下
ナンバー4と呼ばれる青年の名は、蒼緋蔵雪弥といった。今年で二十四になるとは思えないほど童顔な青年である。とても温厚でおっとりとしており、エージェントの中では珍しくのんびり屋だった。
国家特殊機動部隊には、暗殺部隊を除いて本当の名と家族がある。彼らは同僚にも本名は明かしておらず、与えられたナンバーの他、仲間内では自分でつけたニックネームを使用しているが、その中で唯一とくにこだわる事もなく「雪弥です」と名乗る異例のエージェントは彼一人だった。
ナンバー三十番から上の者は、数字の高さによって権力のある職と肩書きを持っているが、異例のエージェント雪弥は、とことん権力に興味を示さなかった。
外で彼を見かけた際、「普通のサラリーマンをしています」と語っているところを目撃した仲間たちが震え上がった、という話は、ここでは有名である。
異例なエージェント、雪弥は少し特殊な生い立ちをしていた。蒼緋蔵家といえば本家、分家ともに大手の企業会社を持ち、弁護士、裁判官、医者、国会議員などを多く排出する一族で、広大な土地を持った国内有数の大富豪である。しかし、彼は蒼緋蔵現当主の正妻の子ではなく愛人の子だった。
奇妙なのは、そんな雪弥と蒼緋蔵家の関係である。蒼緋蔵現当主の正妻である亜希子は、夫の愛人である紗奈恵をあっさりと受け入れたのだ。
紗奈恵は仲は良くても、蒼緋蔵家の豪邸に住まう事はしなかった。出身県の隣にある、埼玉県の安アパートに住んでいた。不憫に思った当主と亜希子の提案は以前からあったが、四年経ってようやく紗奈恵が妥協し、雪弥たちは東京に建てられた一軒家に住む事になった。
住宅街にある、小さな庭ばかりがついた二階建てのこじんまりとした家だった。紗奈恵はそこで、普通の子供として雪弥を育てた。
雪弥が歩き回れるようになった頃から、蒼緋蔵家と紗奈恵の交流は、より一層深くなった。彼女は雪弥が四歳になると、遠出も大丈夫だと判断して彼を連れて蒼緋蔵邸に行くようになった。
亜希子には雪弥より四つ年上の息子と、三つ年下の娘がいたが、当初雪弥は紗奈恵のそばから離れず、遠目で彼らを見ているだけだった。
幼いながらに蒼緋蔵家関係者からよそよそしい雰囲気を肌で感じて、愛人の子である意味を理解していたのである。そんな雪弥を見て、亜希子の子供たちも、はじめは遠慮して遠目から見ているといった様子だった。
一緒に過ごす中で、三人の関係はしだいに変わり始めた。
雪弥は「兄」と「妹」が紗奈恵と接するのを見て、彼らが自分の母を「もう一人の母親」として想ってくれている事に気付いた。家族なんだ、という実感が込み上げたときには彼らが特別な存在になっていて、それから亜希子の息子は「兄さん」、娘の方は「可愛い妹」になった。
雪弥が兄弟たちと話せるようになってしばらく経った頃。双方とも子育てが忙しくなり、当主の仕事が増えていたとき紗奈恵が病に倒れた。診察の結果は、悪性の癌だった。当主と亜希子は、蒼緋蔵家の主治医がいる設備が整った病院を紹介したが、紗奈恵はそれを断って地元の病院に入院した。
当時小学生だった雪弥は、既に中学生までの勉強を終わらせていたほど賢かったから、医者から話を聞いて母が長くない事を悟った。「母が望むことを」と心に決めて、紗奈恵が抗癌治療を希望しなかった時もそれを受け入れた。
懇願し「長く生きていて」するよりも、最後まで自分らしく生きたいといった紗奈恵に「じゃあ僕の出来る事をせいいっぱいする」と子供らしかぬ考えを持っていた。
紗奈恵は数カ月に一度だけ、家に帰れるばかりで、それ以外はずっと病室での入院を強いられた。それでも、雪弥は常に母の傍に寄り添い続けた。早朝一番に顔を出し、学校が終わるとすぐに病院へと向かった。
面会時間が終わるまで紗奈恵と過ごす日課は、中学生になっても変わらなかった。たった一人残された家での家事疲れもあったが、彼は一度だって弱音を吐かずにそれを続けた。当主が週に二回、仕事の時間を削って会いに来たときの紗奈恵の嬉しそうな顔を見るだけで、雪弥は満足だった。
紗奈恵の医療代は、決して少ない金額ではなかった。中学一年生の春、病室に訪れてきた蒼緋蔵家の見知らぬ人間たちが、突然一方的に話を切り出した。雪弥は大富豪の家と、愛人となった自分たちの立場の難しさを実感した。
多くの分家や親族繋がりが存在し、当主に可愛がられている愛人とその子供として自分達は確かに嫌われているのだ、という事を知った。それだけではなく、この先もしかしたら、父や亜希子や兄妹たちに迷惑を掛けてしまう恐れがある事にも、雪弥は気付かされた。
「最低限の生活費や治療費は入れてやる。しかし、これ以上当主と私たちに関わらないで頂こう」
前触れもなく訪れた男たちに対する嫌悪感よりも、家族に迷惑をかけたくないという想いから、蒼緋蔵家と縁を切る事を決意した。雪弥は母に代わって、二度と蒼緋蔵家の敷地内に足を踏み入れない事、彼らと今後一切関わらない事を男たちに告げた。
決意しながらも、「これで良かったのよね」と言いながら紗奈恵は泣いた。父は苦渋したが、二人の覚悟を最後は受け入れて「けれど、どうか名字だけは残させて欲しい」としてその手続きを行い、形式上縁を切ったと公言しながらも病院に見舞いに来続けた。
雪弥は自分の母に対する彼の想いの深さを感じながらも、父がしだいにやつれている事に気付いた。完全に蒼緋蔵家を断ちきるためにも、頑張って早く就職しようと決心した。
そんな焦燥を引き連れたまま、季節は急くように流れて行き、雪弥が中学二年生になった春、母である紗奈恵が三十三歳の若さで亡くなった。
紗奈恵の葬式は、十四歳の誕生日もまだ迎えていない雪弥の希望により、自宅でひっそりと行われた。蒼緋蔵家の人間は来ないようにと釘を刺した家は、数少ない紗奈恵の知人が時折来るばかりだった。
一日泣いただけで、雪弥は恐ろしい精神力で立ち直った。その頃から、紗奈恵と一緒にいた時は感じた事がなかった、これまでにない苛立ちに似た感情を覚え始めた。
それを紛らわすため、彼は学校の運動部に時々顔を出しては暴れた。今まで以上に勉学に励み、貪るように知識を詰め込んだ。睡眠もほとんど取らずに行動し続けるその姿は、まるで獣のようだった。
雪弥は高校入試で全科目満点の数字を叩きだし、奨学金をもらって都内で有名な高校へと進学した。以前のような落ち着きは戻っていたが、どこか荒々しい一面が浮かぶようになっていた。
ぶつかりそうになった学生を反射的に叩き伏せてしまったり、外で素行の悪い他校生にからまれた少年少女を見かけた時は、構わず声を掛けて、一人で十数人の不良を再起不能にする事も多くなった。
多くの者たちは、雪弥に足か腕一つで地面に叩きつけられる。不良の間では「かなりの強者だ」とひそかに恐れられたが、彼自身は、ほんの少し力を入れて払っただけにすぎなかった。
中学二年生の夏にカツアゲを仕掛けてきた大男を、腕一本で持ち上げた時も「運動部で暴れていたせいだろう」と彼は疑問を覚えなかった。なぜか無性に腹が立った中学三年生の秋、試しにコンクリート塀に拳を突き出して砕き割った時に初めて、力を十分に制御するよう努めた。
自分では鍛えているつもりはなかったが、高校生になって一カ月もしないうちに、指二本でコンクリートを粉々に出来るまでになっていた。
通学中に曲がり角から突っ込んできたトラックを腕一本で止めた彼が、「急ぐと危ないよ」と呆れたように告げた運転手は、しばらく中道のまん中で停車したまま放心状態だった。それを向かい側から見ていた原付バイクの中年女性が、ようやく気付いたように「今男の子が車に轢かれそうになった!?」と叫んだ声は、朝の住宅街に響き渡った。
高校生になった雪弥は、本格的に蒼緋蔵家からの資金援助を断つため、バイトを始めていた。奨学金が降りているとはいえ、一軒家で一人暮らしするためには到底足りなかった。
年齢的にも高額時給の仕事は出来ず、とりあえず夏休みに出来る限りのバイトを入れる事にした。原付免許を取って週七日、五つのバイト先を見つけ小刻みの日程で動き回ったが、不思議と疲れを感じなかった。
自宅に戻るのは風呂の時ばかりで、彼はほとんど外で仮眠と食事をすませていた。出前のバイトをしていたさい出会ったそば屋の老店主と仲良くなり、三つのバイトを切って早朝から深夜までそこで働きだしたのは、夏休みに入って一週間目のことだ。
小さなそば屋は、たった一人の従業員を失って半年目だった。老店主を手伝いたいと思った雪弥は、「仮眠と食事をつけてくれるんなら、安い給料でも構わない」と提案したのである。九月からは学校が始まるので、その時までに昼間働いてくれる従業員を探す事も課題だった。
十五もない客席を持ったかなり老朽化した小さな店だったが、決まった時間になると、それ以上の客が流れ込んだ。忙しくない時間帯は配達もある。職人技で次々に料理を仕上げる店主に、雪弥は一人とは思えないほど円滑に仕事を進めた。
注文を取って料理を運び、レジを打って空いた席から皿を下げながら、テーブルを綺麗にすると同時に店主の仕事を素早くサポートした。客足が引くと、くたくたになった彼を尻目に、配達分のそばをバイクに乗せて「いってきまぁす」と陽気にバイクを走らせた。
原付の免許のみしか持っていなかったが、このとき雪弥が乗っていたのは、十数年前からそば配達に使われているギアバイクだった。彼はコツを店主に教わっただけで、まるでこれまでずっとそうしていたかのような慣れた手つきでバイクを操った。警察に見つかったらどうしよう、といった不安はちっとも感じていなかった。
何故なら雪弥は、片手で配達先の住所をチェックしながらでも、飛び出してきた車を避けられた。道路に車が渋滞していようがお構いなしに突き進み、老店主の美味しいそばを早く届けようという思いから近道を使った。
オンボロバイクが住宅街の間に流れている川を飛んだ、――という困った悪戯電話に、交番の警察官が悩まされていたのもこの頃である。
土日祝祭日以外、午後三時までに、そば屋の売上金を銀行に預ける仕事も雪弥が担っていた。夏休みも中盤を迎えた頃には、すっかりそば屋のバイトに慣れた。
この日も、銀行の窓口時間がギリギリだった。いつものように反対側の道に出るため、民家の十センチ塀にバイクを乗り上げて走行し、いつもの道まで最短距離の近道で出たところで、予想外にもいつもの着地点の歩道に乗り上げて停まっている車があった。
後部座席を黒いガラスに塗り替えられた高級車のフロント部分から、正装した運転手と目が合ったとき、雪弥の乗ったバイクは前輪が既に塀から飛び出していた。
運転手の男が「そんな馬鹿な!」という表情で引き攣ったが、雪弥のほうは至って冷静だった。そのまま勢いをつけてアクセルを回すと、バイクごと跳躍するように身体を動かした。
細いタイヤを一度バウンドさせた後輪が塀から離れ、車を飛び越えたところで前輪から着地すると、雪弥はブレーキを踏んで後ろタイヤを滑らせて、進行方向へとバイクの向きを変えたのである。
「上手いな」
車内から低い声が聞こえたが、雪弥は興味がなかったので「どうも」と適当に答えて、そのままそこをあとにしようと――
したところで、後ろから「ひったくりよ!」という声が聞こえた。バイクのミラーでちらりと確認するや否や右手を動かせていて、素早く伸びた雪弥の右手が、横を通過しようとしたバイクに乗っていた男の襟首を見事に捕えた。
速度が出始めた原付バイクであったにも関わらず、男がまるで壁にでもひっかかったように、首元を固定したまま両足を振りこのように前方に大きく降って呻く。宙を浮いた男の足もとをバイクが離れ、歩道の上に乗り上げると同時に転倒して地面の上を滑った。
十六歳の細い右腕一本に、成人男性が宙づりになっている状況であった。
そのあと駆けつけた女性と、騒ぎに集まってきた大人たちに男を押しつけ、雪弥は「しまったッこんなことをしている場合じゃなかったんだった!」と慌てて銀行へと急いだ。
残り五分というところで間に合ったのだが、何故か時間があるにも関わらず、目の前で銀行のシャッターが下り始めた。息をつく間もないままバイクを降りて走り、ぎりぎりで銀行に滑り込めて「セーフ」と思った矢先、「動くな!」という怒号とともに五人の覆面男たちに銃を突きつけられていた。
今日に限って、本当に色々とついていないな、と思った。
いつも通り老店主の元を出たはずなのに、雪弥は予想外ばかりに遭遇している現状に「なんだかなぁ」と呟いてしまった。
飛び込んだ店内は、今まさに銀行強盗が行われるところであったのだ。男女構わず白い床にうつぶせになって両手を頭の後ろに組まされていたが、雪弥は恐怖よりも先に犯人の一人が発した言葉に苛立った。「金目の物を出せ」と脅されたからである。
「おじさんが頑張って稼いだお金を、なんで渡さなくちゃならないのさ」
銀行の金庫ばかりではなく、客の財布からも現金を抜いていた犯人に苛立った雪弥は、近くにいた覆面男を一瞬にして叩きのめすと、素早く銃を構え直した四人の武器を素手で打ち払った。
数発銃弾を発砲されたが、冷静に視界で銃弾を捕えていた雪弥は、それをすっと避け、一分もかからずに犯人たちを一網打尽にした。
たまたまそこに居合わせていたのが、特殊機関ナンバー1の男だったのである。雪弥がバイクで飛び越えた車が、連続銀行強盗事件の助太刀に入ったエージェントトップクラス専用車だったのだ。
「そのシャツにそば屋山星と書いてあるが、ずいぶん鍛えられる仕事なのか?」
「うーん、まぁ結構人手不足で忙しいとは思いますけど……」
「ふうん。実は、そばが食べたいと思っていたところだ。そのそば屋は美味いか?」
ダークスーツを着込んだ大男の唐突な問いかけに戸惑いながらも、雪弥はそば屋の場所を教えた。
それが、雪弥と国家特殊機動部隊総本部トップの出会いだった。ナンバー1は客の振りをしてそば屋に入った後、十六歳だった雪弥に高時給のアルバイトを持ちかけたのだ。
電話番号だけをもらったその数日後に、なぜかタイミングよく優秀な従業員が二人入り、夜遅くまで勤務しなくてもいい事になった。どうも胡散臭いような気配を覚えたが、時給の高さに負けてそのバイトを引き受ける事にした。
他に掛け持ちをしている夜の仕事を切っても、じゅうぶんすぎる給料を手にする事が出来たからだ。雪弥は、それがエージェント補佐の仕事であるとは知らずに、しばらくは警察の手伝いだと信じたまま、彼らの仕事をサポートする事になった。
その後、高校生にして正式に国家特殊機動部隊総本部に務めると、雪弥は早急に地位を確立していった。そして高校二年生への進学を控えた頃、彼は気付くと、ナンバー4の地位に就いていたのである。
※※※
とはいえ、お互いの過去や経歴を明かす事が少ないのが、特殊機関という場所だった。他のエージェントたちにとって彼は、「雪弥」という本名を明かしているだけの得体の知れない上官でしかなかったのだ。
ただ呟いただけなのに、技術室が緊張感が強まったのもそのせいである。
周りの研究員やエージェントたちがうろたえる中、当の雪弥は、昨日蒼緋蔵家当主である父から連絡を受けた後、仕事の報告後に電話を入れるつもりだったことを思い出していた。
目の前で力の差を見せつけられた二桁台のエージェントは、開発途中の小型銃を持ち上げたまま、ナンバー4が浮かべる気が抜けそうな表情を見て「裏があるのではないか」と息を呑む。
「性能はいいと思うよ」
雪弥は、振り返って研究者たちに言うと、自然な動きで大型の銃をテーブルの上に置いた。くぐもるような余韻を持った重々しい音が室内に響き渡り、それがかなりの重量を持った武器であった事を研究員たちは再確認した。
そもそも、彼が軽々と片手で持ち上げていた開発途中の大型銃は、本来は手で持つべきものではない。専用の土台に設置し、そこから標的めがけて発砲するのが理想のスタイルなのだ。
なんか、いつも活気がないよなぁと思いながら、雪弥は静まり返った部屋を出た。入る前はいつも賑やかなのだが、なぜか扉を開けると、そこには調子が悪そうな空気ばかりが漂っているのである。
小首を傾げた廊下で携帯電話を手に取ろうとした雪弥は、ふと顔を上げて立ち止まった。内部放送で、自分のナンバーが呼ばれたのを聞いたのだ。
「次の仕事の話かな」
雪弥は明日の天気でも言うように呟き、慣れたように白い廊下を進み始めた。