第38話 七章 少年たちは動き出す 下 ~修一vs警察~
修一の家は、第三住宅街の北側にあった。そこは賃金が安く、高さの低いアパートやマンションが並ぶ一帯である。
修一が家族と三人で住んでいるアパートは大通りの近くにあり、玄関からは茉莉海市ショッピングセンター、ベランダからは北西向けに白鴎学園の校舎がちらりと見えた。
三階建てのアパート「エンジェル留美」は、一つの階に四世帯の、合計十二世帯が入居している。こじんまりとした台所と、畳部屋がついた2LDKの三〇二号室が修一の住まいだ。
真下の階に当たる二〇二号室には、高校二年生まで同じクラスだった幼馴染の武田弘志が父と二人で暮らしている。彼の父は運送会社で帰りが遅く、修一は武田と一緒に過ごすことが多かった。
暇になればお互いの部屋を行ったり来たりと過ごし、大抵夕飯は修一の部屋で共に食べる。武田の父と修一の両親は仲が良く、プライベードでの付き合いも多々あったからだ。
修一にとって、ドラマや映画、ニュースの中だけだと思っていた違法薬物を、常盤が持っていたことは大きな驚きだった。この前見たドラマの影響で「保険の先生が麻薬をやってるかも」と勘違いしたときと比べ物にならないほど、本物がやりとりされている現場には緊張した。
まるで、自分の方が悪いことをしているようにドキドキが止まらなかった。常盤が動いた際、弾かれるようにその場を飛び出したのは、度胸が据わった冷静沈着な暁也も同じである。
なんというか、直感的に、あれはダメな物だと思った。
はじめて「明美先生」のことを暁也に相談したとき、修一は「そんな安易な代物じゃないんだぜ」と言われた。常盤が本物の薬物を雪弥に押し付けるのを見て、その言葉の意味がなんとなく分かった。違法薬物は実物を見たこともない修一でも、想像以上に危険な存在感を放っていたからだ。
覚せい剤や麻薬は身体をボロボロにする、やめさせなきゃ。
修一は常盤も助けるつもりだった。雪弥が同じように薬物に溺れることは考えられなかったが、暁也が「もしもの事を考えると」といつになく食らいついてきたので、今夜学校へ行くことを決めていた。雪弥が常盤と顔を合わせる前に、暁也と修一で乗り込む作戦である。
「雪弥は頭良いもん。薬で成績上げようとか、絶対思わないって」
今夜の作戦は、雪弥が夜の学校で常盤に会うことが前提で計画立てられていた。修一には、雪弥がわさわざ薬物の件で夜の学校に忍び込むとも想像できなかったから、そこにはやや不満を覚えていた。
しかし、もやもやとした嫌な気持ちは、帰宅した際にテーブルに置かれていたハンバーグを見て吹き飛んだ。
鞄を持ったまま、小さな食卓に駆け寄って本日の夕食メニューを覗きこむ。
野菜サラダとジャガバター、特大サイズのハンバーグが平皿を三色に彩っていた。置き手紙には「スープは温めて飲むように、冷蔵庫にプリンが入っています」との旨が書かれていた。
「今日は俺の好物ばっかりじゃん!」
修一は喜んだ。午後六時を過ぎていたので、昼食で膨れていたはずの腹は空腹を覚え始めていた。カラオケ店では飲み物も進まなかったのだから、腹が減るのも当然だ。
夕飯を作っていった母と、修一は擦れ違いになったようだった。スープもハンバーグもまだ温かかった。野菜たっぷりのスープをどんぶり茶碗に入れ、ご飯は山盛りにしてテーブルに並べた。途中暁也からメールが来たので、返事をして残りを食べ進めた。
雪弥には友だちとして強い好感を抱いていた。時々見せる年上のような物腰の柔らかさも、穏やかでふわふわとした空気も好きだ。サッカー経験がないことには衝撃を受けたが、彼がふとした時に見せる予想外の騒動も楽しかった。
なんとなく彼と過ごしたことを振り返り、修一は一人でムフフと笑った。
体育の授業でサッカーの試合を行ったとき、雪弥にボールを奪われた三組の西田が、今までで一番の間抜け面だったことを思い出す。あの日以来、雪弥がボールを受ける度に、西田が「仕返ししてやる」と走ったが、あっさりとフェイントをかわされ撃沈していた。
雪弥は面白いやつだ。本人が「内気で人見知り」と語った性格なだけに、彼はクラスメイトと溶け込めないといった様子で静かに席についていることが多い。しかし、修一たちの予想を越える行動力を彼は持っていたのだ。
ふとした拍子に雪弥が発言する言葉は、キレイに的を射ていることもあった。けれど教師と違って後味が良い。そして、騒ぎを遠ざけるタイプかと思えば、自分から突っ込んでいったりする。
廊下で遊んでいた三組の男子生徒が足を滑らせた際、雪弥は廊下に面した窓からひょいと身を乗り出して彼の転倒を防いだ。方向を誤ったボール先に生徒たちが気付いたとき、いつの間にかいた雪弥がタイミング良くボールをキャッチし、女子生徒は強打を免れた。
クラスメイトの男子生徒と女子生徒が口喧嘩をしていると、遠巻きに見る生徒たちに構わず、雪弥はあっという間に仲裁に入って場を丸く収めてしまう。
雪弥は優しくて、とてもいい奴だ。
修一は、ますます彼が気に入っていた。来週こそはカラオケに誘おうと考えて、バリバリなロックを歌う彼を想像して思わず声を上げて笑った。
一緒にカラオケに行くところを思い浮かべると、極端に上手か、有り得ないほど音痴のド下手かのどちからしか考えられなかったのだ。雪弥は普段から修一の予想を越えていたので、そんな推測しか立てられなかった。
育ちが良い「お坊ちゃん」かと思いきや家事上手、頭脳派かと思えば意外にも行動派であったりする。大人しいと思っていたら、修一たちが絡まれた酔っぱらい男を、微塵も躊躇せず一発で組み伏せて助けてくれた。
思い出すと、過ごした日々は濃厚だった。
それでも、雪弥が転入してまだ五日しか経っていないのだ。
修一はなぜか、とても長く一緒にいるような錯覚を受けた。今では暁也と修一、雪弥の三人で一緒に過ごしていることが当たり前になっている。
一時間目の授業が始まる前から暁也がいて、修一が授業の合間につまむパンやお菓子を三等分する光景も珍しくない。暁也が机に足もおかず修一と雪弥へ向き、言葉を交わす光景もすっかり教室に馴染んでいた。
修一はサッカーTシャツとスポーツウェアに着替え、何をするわけでもなく食卓の椅子に腰かけた。
腹はすっかり満たされていたが、ここ一週間を振り返っていると小腹がすくような、しっくりとこない違和感を覚えた。その正体を探ろうと考え込んでみたものの、まるで宿題をやっているような倦怠感に欠伸が込み上げた。
「…………やべ、俺やっぱ頭脳派じゃないわ」
途中で思考を放り投げると、修一は何気なくベランダに出た。
白鴎学園の姿は、夜に埋もれて見えなくなっていた。ぽつりぽつりと建物の明かりが見えたが、今日はやけに明かりの数がない。町は、静けさに包まれた闇に沈んでいるようだった。
温くもなく冷たくもない、湿気が混じった風が漂っていた。先程まで吹いていた心地よい風が、ぴたりと止んでしまっている。町に人の気配だけを残し、世界がひっそりと息を潜めているようだと修一は思った。
しばらくベランダから茉莉海市の西側方面を眺め、修一はふと違和感の正体に行き当たった。一人で「あれ?」と首を傾げ、再度ここ一週間の記憶を辿って、ますますおかしいぞと呟く。
修一は雪弥のことをよく分かっているはずなのに「本田雪弥」のことを何も知らないでいる事に気付いた。
「進学校から来て、英語とスポーツが出来て……」
家族兄弟、食べ物や趣味の好き嫌い、他の誰よりも彼と話していたはずなのにそれが一つも分からなかった。記憶を辿るほど、修一の中にある「本田雪弥」がおぼろげになっていく。
思い返してみれば雪弥は話を聞くことが多く、自分のことに関してはほとんど話していないような気もする。
「んー……内気で人見知りって、そういうことなのか?」
自分のことをなかなか話せないタイプということなのだろうか、と彼はよく分からないまま結論を出した。そういうことにしとこう、と思考を続けることを諦める。
暁也とは、茉莉海市ショッピングセンター前で待ち合わせをしていた。修一は午後七時から始まったお笑い番組を見たが、ちっとも頭に入らなかった。午後九時からは大好きな刑事ドラマが放送されたが、気が乗らずオープニングと同時に電源を切った。勉強や宿題の代わりに触っているゲーム機も、この時ばかりは時間潰しにもならなかった。
静まり返った部屋で、修一は一人じっと座っていた。自分でも珍しいと思うほど、時計の秒針が打つだけの静けさを聞いていた。
ここに暁也と雪弥がいたらなぁ、と考えると少し楽になり、メモ用紙にハンバーグの感想と外出の言い訳を書いて食卓に置いた。
午後九時五十分を回った頃、修一がどこかに置いたはずの家の鍵を探していたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
部屋の奥から耳を澄ませた修一は、続いて急かされるように玄関がノックされて顔を顰めた。「もう、せっかちだなぁ」と立ち上がった拍子に、テーブルに置かれた菓子入れの中に放り投げられていた鍵の存在を思い出し、それをポケットに詰めて玄関へと走った。
修一は無防備に扉を押し開けて「どちら様ですか」と問いかけた矢先、片眉を引き上げた。比嘉家の玄関先には、スーツ姿のいかつい男が二人立っていたのだ。彼らは手慣れたように警察手帳を開き、「茉莉海警察署の者ですが」と告げた。
え、警察? つか、スーツってことは刑事か?
なぜうちを尋ねてきたのだろう、と修一は訝しがった。ドラマの刑事に憧れを抱いていたが、口から飛び出たのは露骨に怪訝そうな言葉だった。
「うちに何の用ですか? こんな遅い時間から」
思わず、修一は押し売りを断る母の口調で唇を尖らせた。すると、顰め面に口をへの字に曲げた男が、「修一君だね?」と愛想もなく尋ねてきた。
無精髭を生やした四十代の彼は、修一がドラマで見るようなよれよれのスーツにノーネクタイ姿であった。強いニコチンの匂いを漂わせていたが、隣の若い男はびしっと着込んだスーツ姿で毅然として立っている。
修一は、だらしなく立った無精髭の男をしばらく見上げ、ぶっきらぼうに「そうですけど」と答えた。
「あ~……俺は捜査一課の澤部、で、こっちが」
言い掛けて、澤部と名乗った男は、霞む視界を凝らすように隣の男を見た。まるで、同じ署で働いていながら全く面識がないといった様子である。
若い風貌の男は、緊張したように澤部から視線をそらすと、真っ直ぐに修一へと向き直って胸を張るように背筋を伸ばした。
「同じく、茉莉海署の新田岸であります!」
新しく配属された部下なのかな、と修一は思いながら「はぁ、そうなんですか」と上辺で返した。新田岸の声を煩わしそうに聞いた澤部が、視線を落としながら少し薄くなった頭部へと手を伸ばして「あ~」とぎこちなく言葉を繋いだ。
「この辺に俺たちが追ってる容疑者がいて、なんか変わった様子とかなかったかな」
「特にないですけど」
「そうか、うん、さっきみたいに誰かも確認せずに開けないようにな。犯人確保までしばらく外出は控えて欲しいんだが、今からどこかに行こうなんて考えちゃいないよな?」
おう、深夜徘徊はいかんぞー、と男はほとんど棒読みで言った。
言い方はぶっきらぼうで投げやりだったが、耳に障るような声色ではない。修一は悪い人ではないのだなと思い、二言三言適当に答えて扉を閉めた。警察が行った後に家を出ればいいか、と楽観視して携帯電話と鍵をポケットに入れた。
しかし、数分後、玄関の覗き穴を見た彼は「どうしよう」と悩んだ。
男たちはこちらに背を向け、囁き合って立ち話をしていたのだ。澤部と名乗った男の方は、はすぐに煙草をくわえて去っていったのだが、新田岸は動く様子もなく比嘉家の扉前に立った。まるで見張られているような気もしたが、多分、気のせいなのかもしれない。
「うん、だって俺の玄関前を張る意味なんてないもん」
単純思考でそう思った。ならば何故、新米刑事のような彼が玄関前で、こちらに背を向けて直立不動しているのだろうかといえば分からない。自分は刑事ではないのだから、そんなこと分かるはずないじゃん――というのが修一の感想だった。
とはいえ理解している事は一つある。
彼らは事件を追う正義の味方で、だから、ここは素直に従った方がいいのだろう。
修一は、一般市民の安全性を考慮しているであろう刑事を思って、のそのそと部屋へ引き返した。二十四時間頑張ってるんだもんなぁ、とドラマを思い出して携帯電話を取り出す。
暁也に「今日は出られそうにないかも」とメールを打とうとしたとき、突然着信が入った。修一が慌てて通話ボタンを押すと、けたたましい音がワンコールも鳴らずにぷつりと切れた。
「うん、俺だけど」
『お前んところに、警察来てるか?』
「暁也のところにも来てるのか?」
修一は部屋の奥へと自然に足を進めながら、ふと思い出して彼に話を振った。
「なぁなぁ、暁也。お前雪弥のこと何か知ってるか?」
数秒遅れで暁也が『は?』と怪訝そうな声を上げたが、修一は構わずに「俺さ」と続けた。
「雪弥のこと何も知らないなぁって事に気付いてさ。好きな事とか嫌いな事とか、趣味とか家族の事とか」
『…………そういえば、俺も分からねぇな』
修一がベランダ前で足を止めたとき、暁也が『そんなことより』と低く囁いた。誰にも聞かれたくないように潜められる声は、痺れを切らしたようにこう続けた。
『お前、大人しく家で待機しようとか思うんじゃねぇぞ。抜け出せ。俺たちにはやらなくちゃいけない事があるんだ。容疑者が逃げてるっつっても、外出歩いてる人間が巻き込まれるなんて、あんま聞いたことねぇだろ』
「お前、まだ雪弥のこと疑ってんの? どうせ常盤の待ちぼうけで終わるって」
『なんだよ、お前は常盤にクスリ止めろっていうんじゃなかったか?』
そう言われて使命感に似た気力が蘇り、修一の頭にスイッチが入った。
雪弥は優しくていい奴だ。常盤のことはよく知らないけれど、話し合って悪いことをやめさせられるのなら、それにこした事はない。
そう考えながら、修一は「うん、そうだよ」と断言した。なんだ暁也も同じ気持ちだったのかと、平和な単純思考で勝手に解釈し、意気揚々と答える。
「勿論そうするに決まってるじゃん」
『よし、その意気だぜ、修一。ひとまずは家を抜け出して合流しよう。学校行くまでに色々と話して決めようぜ』
暁也と会話を終えると、修一は思い立ったら即行動の長所を発揮した。
携帯電話を操作すると耳に当てて、ベランダに出て下の階にあるベランダを覗きこんだ。そこからトルコ行進曲が聞こえることを確認すると、電話が繋がるまでしばらく待つ。
数秒のコール音が続いた後、聞き慣れた声が陽気に『よお、どうした?』と応えた。それは下の階にいる幼馴染の武田で、その声は相変わらず弾むような心地よさで耳に入ってくる。
「ベランダ伝って、お前んとこに降りてもいいか? ついでに、その下の階のベランダにもお世話になりたいんだけど」
『お、去年見つかって封印したあの技を今解禁するつもりか? 俺は勿論いいけどよ、トモ兄んところもか?』
「裏から出たいなぁと思ってさ」
そう答えている間にも、下のベランダに人影が覗いた。筋肉で引き締まった長身の少年が、ベランダから修一を見上げてくる。
小麦色の肌に堀りの深い顔を持った彼は、武田だった。やや吊り上がった大きな瞳で二回ほど瞬きをすると、『別に理由は聞かねぇけどさ』と逆立った髪を力なくかき、『でもよ』と言って彼は続けた。
『トモ兄、コンビニのバイトだから今いないぜ? まっ、彼女からもらったプランター壊さなきゃオーケーだろ。俺んところは親父もお袋もまだ帰ってきてねぇから、いつでも来いよ。外に出るんだったら靴も忘れんなよ』
「おう、感謝するぜ」
『いいってことよ』
二人は、同時に歯を見せて親指を立てる仕草をした。笑んだ顔には陽気さが覗き、その瞳は悪戯好きの活気を溢れさせてきらきらとしていた。