第31話 五章・閉幕~そして一人の少年が走り去った~
これまで、こんなに走った事はないというくらいに駆けた。高級車BMW5シリーズを一台、車道から斜めに停められている黒色アルフォードのバンを一台、それらを無我夢中で追い越した。
全力疾走だった。
ドキドキと鼓動する心臓は、今にも破裂しそうだ。
常盤は興奮収まらぬまま走り続け、一直線に藤村組事務所に飛び込むと、二階の簡易ベッドの毛布にくるまって、落ち着かない様子で身体を揺すった。
総人数八人の藤村組は、茉莉海市の港から二百メートルの距離に事務所を構えていた。農地に隣接した老朽化が目立つ旧商業地にあり、運営しているのも怪しいほど外観が古く錆びれている、解体された廃車が広い敷地内に積み上げられている中古車販売会社や、大型トラックが並ぶ物流会社も近くにはあった。
九畳という狭い敷地に建てられた三階建ての鉄筋建築物が、現在の藤村組の事務所だ。車庫兼作業場となっている一階は、常にシャッターが降ろされている。建物の裏手には外付けされた鉄階段があり、外から直接二階、三階に出入り可能な鉄扉も付いていた。
三階は応接間兼オフィスとなっており、そこは今年四十八を迎える藤村悳義の部屋だ。彼は、剃り上がった頭をした巨体の男であった。
リーダーである彼は今、常盤が駆け込んだ簡易ベッドのある二階の共同部屋にいた。
部屋の中央には麻雀の台が置かれ、こじんまりとしたキッチンにはスペースを取る冷蔵庫が佇んでいる。四方を古びたソファが囲み、例の簡易ベッドが一つだけ横付けにされているのだ。
シマと理香が車で町へと出かけ、車庫には趣味のバイクをいじるメンバーが三人いた。二階の部屋には、リーダー藤村を含む残りの四人がいて麻雀を楽しんでいたのだが、先程から集中力が若干欠けてしまっている。
というのも、どこか慌ただしく飛び込んできた常盤が気にかかり、さっきからチラチラと大人たちが目をやっている状況だったからだ。
「おい、どうした? 腹でも痛いんか?」
常盤がベッドの毛布に身を潜めて十五分が経った頃、狐目のひょろりとした男が、飛び出た歯を覗かせながら声を掛けた。
時刻は、もう午後五時を回っていた。ベッドの膨らみが落ち着きなく揺れているにもかかわらず、黙り続けているという常盤の様子に痺れを切らしたその男は、常盤が「間抜けな声」と評する平圓だった。
平圓は恐ろしいほど体力がなく、風邪や感染症によく苦しむ男だった。しかし、手先が器用で藤村組の家事を切り盛りする古株であり、藤村組では一番目の人員でもある。
茉莉海市に移ってきた当初、藤村組は金に困っていた。大きな詐欺も働けず、貯金が半分を切ったとき尾賀から儲け話を受けた。
六月にまとまった金が入ると分かり、車庫を部屋として改装したのは先月のことである。取引が成功したあとには、立派な事務所を作る計画も立てていた。
四人の気持ちを代表したように問い掛けた平圓の呼びかけを聞いて、藤村たちは、麻雀の手を止めて耳を澄ませた。しかし、常盤は被ったシーツの中で身体を揺するのをやめただけで、何も答えない。
「ほっとけ、そのうち出てくるだろ」
別の男がいって、藤村たちが麻雀台へと向き直る。しかし、平圓だけが振り返ったままベッドの膨らみを見つめていた。頭髪が薄い男が「閉じてるみてぇな眼で、見えているのかも怪しいよな」と仲間たちに目配せし、そのうちの一人が「寝てる時も同じ目してんだぜ」といつもの相槌を打つ。
そんな仲間内のやりとりも聞こえない様子で、平圓がなよなよと身をよじって続けて「常盤」と声を掛けた。
「腹下したんか? だから昨日、残り物のハンバーグには手を出すなって忠告したやんけ」
「下してないしちゃんと温めたし」
トイレに結び付くような誤解だけはさせるかと、常盤はすぐに強く言い返した。
噛み付くような言い方だったが、何を勘違いしたのか平圓が「安心したわぁ」と言い、「腹が減ったら言いなぁ」と気が抜けそうな独特の鈍りで告げて麻雀に戻った。常盤は「帰ったら家の夕飯食わなきゃいけないから、いい」と珍しく一呼吸で言いきって口をつぐんだ。
常盤は先程、旧帆堀町会所で白鴎学園の高校生が、見たこともない他所の組の男たちを惨殺する光景を見ていた。あの建物内部を覗きこんですぐ、目の前で首が引きちぎられて真っ赤な潜血が噴き出したのだ。続いて男の顔面が銃弾で潰れたとき、常盤は耐えきれず、その場から逃げだしたのである。
走りながら汗を拭ったとき、常盤は自分の顔に、血飛沫が掛かっていることに気付いた。全身が熱に震えて、途中何度も足をもつらせて転びそうになった。
現場を覗きこんでいた短い時間だけで、常盤はぞっとする悪意と殺気を放った少年に心奪われた。ベッドに潜り込んでからずっと、彼の脳裏では、何度も生で見た殺しの光景が流れている。
震えは止まっても、その映像を思い出すだけで武者震いが走った。恐怖に歪みそうになる顔に浮かぶのは、引き攣った最高の笑みであった。彼は今、人生で初めて強い歓喜に心が打ち震えるのを感じていた。
常盤は冷静さを取り戻そうと、ベッドの中で深呼吸を繰り返すものの、自分でも驚くほど高揚してにやつく笑みが堪え切れない。
パートナーとなれる最高の人間を見つけたのだ。
最高だ、最高だ、最高だ!
常盤は興奮し総毛立った。残虐な行為を楽しむかのような少年の姿を、彼はあの一瞬で脳裏に刻みつけていた。
ふわりと揺れる髪は色素が薄く、蒼色とも灰色とも見て取れる色合いをしていた。男の顔面に銃弾を撃ち込む際覗いた横顔は小奇麗で、白い肌に映える返り血と、殺気立った冷たい瞳が、常盤の中に焼き付いて離れない。
見覚えのない上品な容姿は、常盤に転入生の存在を思い起こさせた。今週の月曜日、三年四組に来たという優等生だろうか、とそんな推測が脳裏を過ぎる。
乾いた唇を舐め、常盤は急く思いで親指の爪をかじった。
憧れの凶悪犯たちが彼の脳裏を一斉に流れたが、もう何の感動も興奮も覚えなかった。渇望するのは、もはや茉莉海市にやってきたその「転入生らしい少年」だけだった。
暴力や詐欺を働く藤村、東京にある大きな組織の尾賀、貪欲で賢さの欠片もない富川という面々の中で、容姿の美しさに不釣り合いな凶暴さを秘めたその少年の存在感は、より一層際立った。
声を掛けなれば。でも、どう話しかけようか?
そう考えたところで、常盤は明日が絶好の日であることに思い至った。
明日の二十三時には取引が行われる。話を持ちかけるだけでなく、実際に現場を見せてあげることも出来るのだ。
常盤は想像して酔いしれた。再び彼の悪に焦がれる心に火がついて、居ても立ってもいられなくなり、ベッドから起き上がって鞄に入れていた凶悪犯罪について書かれている本を手に取った。
「お、もういいんか?」
大丈夫か、というニュアンスで平圓が尋ねた。「だから腹が痛いわけじゃないんだってば」と答える常盤の顔には笑みが絶えない。「またいつもの本かぁ」と別の男が呟き、目が痛くならないのかと不思議そうに一同が首を捻る。
そんな中、藤村が麻雀の牌を押し上げ「いつものことだろ」と揃った手駒を眺めた。