第30話 五章 旧帆堀町会所の惨劇 下
怖いもの見たさでもあったのか、鴨津原が階段の上で向けられた銃に身体を強張らせていた。
どうしてじっと待っていられなかったのかと、雪弥は再び浅く溜息をこぼしてしまう。自分がなんとかするから、下が静かになるまで出てきてはいけないと告げたのは先程のことである。
「…………とんでもねぇガキだな」
そんな雪弥の様子を警戒したように見つめていた佐々木原が、ゆっくりとそう口にしながら、下がったサングラスを押し上げて銃を手に持った。その隣では、榎林がみっともないほど震え、蒼白した顔で小さな目を見開いている。
一人口ごもって思案を続ける榎林を無視し、佐々木原が二秒半後に指示を出した。
「あいつらは後で病院だ。谷、那口、お前らは上のガキ連れて来い」
茫然と立ち尽くしていた二人の男が、名を呼ばれて数秒遅れで動き出した。懐から銃を取り出したその二人が階段を登り始め、鴨津原が膝を震わせながら足元おぼつかず奥へと引っ込む。
柿下はすぐ雪弥へと銃口を向け、緊張に表情を歪めてもう一度「動くなよ」と告げた。
「お前、本当に何者だ? 倉市さんたちを一瞬で――」
「薬と俺たちのことを知っていた口ぶりだな、理由を聞かせてもらおうか」
冷静を装った佐々木原が、柿下の言葉を遮るように発言した。
鴨津原が自身で銃弾を避けることが難しいことを考えていた雪弥は、「先輩想いの、ただの高校生ですよ」と返しながら、残った人間に目を走らせた。サングラスの男、銃を向ける男……そして榎林に改めて目を向けたようやく、彼が異様に怯えている様子に気付いた。
榎林が黄色い歯を覗かせて、わなわなと口を開いた。
「……秀でた身体能力、天性の戦闘本能…………お前、特殊筋の者か!」
聞き慣れない言葉を浴びせられ、雪弥は眉を潜めた。
「僕が聞きたいのは、レッドドリームとあなたたちの目的であって」
思わず本音でそう続ける雪弥の言葉も聞かず、榎林が「名字は何だ」と鋭く尋ねてきた。
榎林の意図が分からず、雪弥は探るように彼を見つめ返して「本田ですよ」とぶっきらぼうに思い付くま答えた。すると榎林は「嘘だ!」と過剰に憤り、「特殊筋に本田という名字はない!」と雪弥が知らないことを叫んだ。
「表の奴らがもう嗅ぎ付けたのかッ? 世界対戦が終わってからはろくに機能していなかったはずだろう!」
『落ちつきたまえ、榎林君。一概に決めつけるのは良くない』
機械音を耳にしたところで、雪弥は初めてスピーカーの存在に気付いた。大男が吐き出すような低音は低く鼓膜を叩き、ナンバー1よりも澄んだ声色に、嫌な響きを覚えて身構える。
榎林は「夜蜘羅さん」とうろたえ、緑のランプを小さく灯すビデオカメラを振り返った。
「夜蜘羅さん、しかしッ――」
『楽しいものが見られそうじゃないか。実に興味深いよ』
そのとき、鴨津原の泣き声交じりの悲鳴が聞こえて、雪弥と柿下はほぼ同時に二階上部へと目を向けた。
階段には、鴨津原と、彼を連れて来いと命令された二人の男の姿はなかった。どうやら彼は怯えるまま二階の奥へと逃げてしまい、それを二人の男も追ったようだ。
男たちは、鴨津原を引っ張り出そうとでもしているらしい。「撃たないからって手を出さないわけじゃねぇんだぜ」と苛立った声が聞こえたかと思うと、拳が肉体を叩く音とともに、鴨津原の苦痛の声がこちらまで届いた。
おいおい、ここにきて殴る必要があるのか?
先程の怯えきった様子の鴨津原を思い出す限り、恐らくもう精神面は子供ほどにも抵抗力がない気がする。耳をすませると「嫌だ」「行きたくない」と、どこか語彙力のつたない彼の悲鳴混じりの声も聞こえた。
「鴨津原さ――」
「おっと、動くなよ!」
そんなに離れていない距離から銃を構える音が聞こえて、雪弥は、行動を邪魔された事に強い殺意を覚えた。
柿下を瞬殺して二階へ行こう。そう思って右手を構えようとしたが――不意に、その思考が止まった。同じく異変に気付いた柿下が、にやにやと浮かんでいた笑みを引っ込めて、訝った表情を階段上へと目を向ける。
鴨津原の「嫌だ」と続くみっともない子供みたいな悲鳴を、心地よさそうに聞いていた佐々木原も、ふっと笑みを消して一歩前に踏み出した。どうした、と目配せする榎林を見ず、彼は階段上を凝視したまま警戒したように神経を研ぎ澄ませる。
一同がピタリと動きを止めた一階に、殴りつける音が響き渡っていた。十秒後には血が交じり打つものに変わって、複数の人間が動き回るような気配もないまま、鴨津原青年のくぐもる呻きだけが下へと響いてくる。
ふっと、前触れもなく暴力的な音が止んだ。
二階からは、嗚咽する一人分の気配しか感じなくなった。幽霊屋敷といわれてもおかしくない不気味な空気が、嫌な生温さを孕んで一階へと降りてくる。
階段の三段目と四段目に足を置いていた雪弥は、一呼吸置いて、呼び掛けた。
「鴨津原さん……?」
すると、大人とも少年ともつかない泣き声が小さくなり、ひどい嗚咽が鼻をすする音に変わった。ごとり、と重々しい物を拾い上げる振動音を察して、柿下が警戒したように身構え、佐々木原がゆっくりとサングラスを取って銃を構え直す。
二階から、靴底が鈍くコンクリートを擦る音が上がった。
「俺、やっぱり変だ」
そう鼻にかかる囁きが降りてきたとき、階段の上部にゆらりと姿を現した鴨津原は、肩を落として俯いていた。短髪の下から覗く横顔や、白のタンクトップは浴びたばかりの返り血に染まり、黒い銃を持った手には大量の血液が付着している。
どうして、そう口を開きかけたが、声が出てこなかった。
ああ、二人の男を殴り殺したのかと、雪弥も理解してはいた。
鴨津原が、ふっと顔を上げてこちらを見つめ返してきた。人の気配や呼吸音すら途絶えてしまった階上の静けさを背景に、その泣き顔に引き攣るような笑みを浮かべて、彼の右手の銃がゆっくりと雪弥たちに向けられた。
彼が片手で構える銃は、銃口が定まらないほどぶるぶると震えていた。
「俺、誰も傷つけたくねぇのに、殺したくてたまんねぇんだ」
不安定な声色が途絶えた直後、鴨津原の顔がくしゃりと歪んだ。「助けて」とその口が言い掛けたとき、不意に彼の身体が痙攣するように跳ね上がった。
左手で反射的に口を覆った鴨津原は、そのまま嘔吐するように赤い液体を吐き出した。大量のどす黒い血液がコンクリートへ叩きつけられ、赤い血飛沫を広げながらゆっくりと階段を下る。
雪弥は一瞬、榎林や佐々木原、柿下と同様に動くことを忘れていた。
ひどい夢を見ているんじゃないか、と瞬きも忘れてその光景に見入っているしかなかった。
鴨津原が背を折り曲げて二、三度地面へと吐き出した鮮血は、まるでバケツをひっくり返したような重量感だった。数秒ほどの時間が長さを増し、ゆらりと身体をふらつかせた彼の動きもひどく鈍いように感じてしまう。
再び顔を上げた鴨津原が、口元を赤く染めながら苦痛の表情で雪弥を見た。涙と吐血は止まらず、彼が言葉を紡ぐために開かれた口からは、またしてもねっとりとした赤が溢れる。
「…………雪弥、俺、誰も殺したくない……」
くぐもる言葉のあと、鴨津原の手から銃が滑り落ちた。前触れもなく彼の身体が崩れ、榎林が弾くように「早くレッドドリームを!」と喚く。
「早くレッドドリームを飲ませろ! せっかくの実験体なんだぞ! 早く飲ませて実験を――」
瞬間、榎林の語尾がひしゃげた。
上ずった言葉が行き先を見失い、力なく語尾の「お」の言葉を乗せた呼吸が傾斜して、その声が不自然に潰れる。
頭部がなくなった短身の身体から、勢いよく血液が噴き出していた。宙を浮いた榎林の顔は、一瞬の絶命でだらしなく頬肉を垂れ下げている。彼の身体の後ろには、瞬間的に回り込んだ雪弥がいて、俯いたまま彼の胴体から捻り取った頭部を左手で掴み上げていた。
ぐらりと榎林の身体が揺れて、司令塔を失った両手足がおぼつかないまま数歩前進した。
首を失った短身の男が、隣にいた佐々木原の腹部から顔に細かい赤を散布させて、ぐしゃりと崩れ落ちた。その際、止まらぬ血飛沫が柿下の顔面から下を染め上げ、この世のものとは思えない光景に、彼の細い喉から甲高い女の悲鳴が上がった。
『素晴らしい!』
スピーカーから、そんな場違いな声がもれた。
僅かな放心状態の直後、驚異的な精神力で恐怖を押し殺した佐々木原が、「くそぉ!」と銃を構えたがもう遅かった。瞬時に銃を取り出した雪弥が、持っていた首をコンクリートへ向けたまま、至近距離から佐々木原の顔に銃口を向けたのだ。
三発の銃弾が佐々木原の顔を抉った矢先、瞬時に銃先が向きを変えて、続いて柿下に向けられて容赦なく残りの銃弾か放たれた。
連続して発砲音が上がったあと、銃のレバーを引き続けていた雪弥の指元から、カチカチカチカチ、としばらく乾いた音が続いた。ようやく弾がなくなったと気付いたように、静まり返った静寂を聞いた彼の手から榎林の首が落ちる。
ごとん、と音を立てて転がった首は、コンクリートに大きな血の印を押しつけた。銃を降ろした雪弥の足が、前触れもなくそれを踏み砕いて血肉を飛び散らせた。
それを見下ろす雪弥の黒いコンタクトレンズが入った瞳は、蒼く色づいて見開かれていた。血だまりに足をねじりこんだ彼の顔には、表情がない。
『そうか、あの学生が呼んだなが正しいとすると――なるほど、君が蒼緋蔵家の雪弥だったわけだ』
スピーカー越しに名を呼ばれ、雪弥はじろりと目を動かせた。
「蒼緋蔵がここで関係ありますか」
問い掛ける声は怒りが滲んで低い。相手からの返答を待つ数秒の沈黙の間に、雪弥はその声の主が「夜蜘羅」と呼ばれていたことを思い出した。
『蒼緋蔵家の番犬、いや、副当主の事となると話は違ってくる、か。また場を改めて――』
その瞬間、スピーカーに弾のなくなった銃がめり込んだ。機器を砕いて貫通した銃が、そのまま壁に突き刺さり、鉄の棒で組み立てられた台が滑り落ちて室内の空気を甲高く震わせた。
衝撃で舞い上がった埃の中で、振動を受けた台から小さなビデオカメラが落ちた。埃と落ち葉に溶け込むように、そのレンズを一階広間へと向けたまま、自動調節機能が働いてジーッという稼働音を立てる。
ここへ来て、蒼緋蔵家か。
雪弥は、踵を返して歩き出した。目にも止まらぬ速さで残酷な殺され方をされた榎林の死に対して、男たちがホラー映画のワンシーンのような、この世のものとは思えない恐怖に頭の整理が追い付かないで見守る中、真っすぐ階段を上る。
最上段に血まみれになった腕を力なく落とした鴨津原が、雪弥の姿に気付いて重々しく目を動かせた。彼はどうにかといった様子で唇を開いたが、血液まみれで言葉は出て来なかった。
その唇が、自分の名を刻んだと知って、雪弥はそばで膝を落とした。
もはや顔の半分まで血まみれになった鴨津原を、けれど躊躇することなくそっと引き寄せて、曲げた足に彼の頭を乗せる。そして、近くから静かな瞳で見つめ返し「鴨津原さん」と囁きかけた。
今や鴨津原は虫の息だった。浅い呼吸が続き、血の匂いと共に湿った空気を吐き出す。涙と血に濡れた彼の顔が、それでも求めるように雪弥を見上げて、近くから視線が合った瞬間、不意に表情を歪めた。
途端、鴨津原が喉の奥から吹き上がる血液に咳き込み、再び激しく吐血して、自身の口と雪弥の膝上に血を湿らせた。
「鴨津原さん、苦しいですか……?」
助ける術などなかった。彼の身体が、どんどん死に向かっているのが分かった。雪弥には、今の彼の苦痛を取り除く方法が一つしか浮かばず、これ以上の問い掛ける言葉もなく口を閉じる。
鴨津原が力なく頭を預けて、「俺、死ぬのか」と潰れた声でぼやいた。涙は止まらず、骨ばった頬を流れ続けている。
雪弥は沈黙を貫いたまま、彼の腹部にゆっくりと触れて、宥めるようにさすった。触れた指先が、ぐしゃり、と内臓が一人でに崩壊する感触を伝えてきて、ただ、お互い言葉もなく見つめ合う。
「――そうか、俺は死ぬのか」
ふと、鴨津原が泣き顔のまま唇を引き上げて、誰の返答を受けたわけでもないのに、正しく悟ったようにそう呟いた。くぐもる音の羅列は、どこか安堵するかのようにも聞こえた。
彼がぐっと身体に力を入れた。これだけは伝えなければというように、力の入らなくなった瞼を震わせながら、雪弥を真っ直ぐ見つめ返した。
「俺……あのとき、お前を殺したくて……だから、銃を」
途切れ途切れに言葉が続いた。だから先程、殺したくないと彼が告げたのだと理解して、雪弥は「あんなの、すぐに避けられますよ」と彼の気持ちを解すように冗談を言った。けれど、その笑みはぎこちなく歪んでいた。
すると、鴨津原が「違うんだ、そんな顔しないでくれ」と言った。
俺は今、俺が死ぬことに安心してんだ、と虫の息で囁く。
鴨津原の瞳から、すぅっと光が消えていった。彼は真っ暗闇で雪弥を探すように、その瞳孔を少し揺らせたが「これで、よかったんだ」と、そう吐息交じりに言葉を吐き出したかと思うと、抗う事をやめたかのようにゆっくりと目を閉じた。
「……俺、これ以上殺さないでいいんだなぁ…………」
そう言い残した鴨津原の身体から、ふっと力が抜けた。閉じた瞳から静かに涙がこぼれ落ちて、最後の一呼吸分が口元から抜けていったあと、彼が再び息を吸うことはなかった。
場違いとも思える穏やかな死に顔をした鴨津原の頭を、雪弥は曲げた膝の上に置いたまま、ゆっくりと視線を持ち上げた。二階には、無残にも殴り殺された二つの死体が横たわっていた。
雪弥は、血が付いた手で携帯電話を取り出し、それを耳に当てて頭上を仰いだ。
「……こちらナンバー4、現在、旧帆堀町会所。処理班を回して下さい」
電話の向こうにいるナンバー1が、かすれるような沈んだ声色と、背景の静寂からじりじりと後退するような男たちのみじろぎを聞いて、状況を察したように沈黙した。
雪弥はぼんやりと、色もわからない天上を眺めて言葉を続けた。
「…………すみません、ナンバー1。聞き出す前に榎林を殺してしまいました。他にも部下らしき男たちが残っていますが、全て処分させてください」
『話を聞かなくていいのか』
「いりません。今事件に関わった容疑者、ブルードリーム使用者すべての抹殺処分を求めます」
『……そうか、先程、こちらでも同じ決定が下った』
雪弥はナンバー1の声を耳にしながら、「ナンバー1、頼みがあります」と言った。
黒いコンタクトレンズのフィルター越しに、その碧眼が淡く輝いて正面を見据える。ナンバー1は『なんだ』と声を潜めたが、その問いに対する答えを知っているように言葉を切った。
「ナンバー4として、僕が現場の指揮を執ります。明日二十三時白鴎学園を完全封鎖。集まった事件関係者を一掃します」
止まっていた風が室内を吹き抜けるのを感じながら、雪弥は静かな声色でそう述べ、ここに残っている男たちを殺すべく携帯電話をしまった。




