第29話 五章 旧帆堀町会所の惨劇 上
常盤少年が、一発目の発砲音を聞く少し前の事。
榎林は、旧帆堀町会所の開けた一階部分に設置したビデオカメラの横で、短い足を開くようにして立っていた。荒れ果てて古びた廃墟内は、窓ガラスも扉も外されて外の光が差している。
廃墟の中央には直射日光が届かないため、薄暗さと黴臭さが健在していた。足で簡単にこの葉やゴミが退かされただけの片隅には、電化製品の紙箱が投げ捨てられ、組み立て式の細い鉄筋台下の冷たさを帯びるコンクリートに、茉莉海市に来る途中購入した黒いスピーカーが置かれている。
「夜蜘羅さん、聞こえますか?」
配線がセットされてすぐ、榎林はふてぶてしい面持ちを階段に向け、スピーカーへと耳を澄ませた。足元にスーツケースを置いた佐々木原は入口に立ち塞り、小さな赤い錠剤の入った小袋を大きな指先で触れている。
室内には、他に六人の男たちがいた。殺風景としたその場で金や赤、黄色や紫といったシャツが目立つ。
だらしなく着こなしたその男たちは、佐々木原の部下である。三十代後半のその面々は、彼が組頭となった頃からのメンバーであり、佐々木原にとって信頼のおける仲間だ。今回は秘密裏に動くこともあり、特に口が硬い人員を選んでいた。
『聞こえているよ。ああ、でもこちらの方で少し調整が必要みたいだ』
スピーカーから野太い声が上がり、ぷつりと途切れた。
上の階からようやく物音が聞こえてくると、そちらを見つめながら榎林が囁いた。
「佐々木原、明美の口止めは出来たんだろうな?」
「明日の取引まで、他言しないようにと伝えましたよ」
社内の様子とは違い、答える佐々木原の顔には殺気を張りつかせた笑みが浮かんでいた。長い鼻筋の下で大きな唇が引き伸び、悪意に歪んだ目を隠すように、黒いサングラスがかけられている。
榎林は夜蜘羅から、李にはすでにこの件を伝えてあると聞かされていた。取引に使う大学生を富川たちは把握していたので、後でこの件は自身の口から尾賀にも伝えておくと夜蜘羅は語った。
富川たちは、ブロッドクロスで進む「強化兵」の計画を知らない。尾賀がそれらしい言い訳を伝えるだろう、と榎林は彼任せにする事に決めた。何せ闇取引こそが、尾賀の本来の領分だからである。
尾賀はもともと、榎林がブロッドクロスに迎え入れられた際に紹介された人物だった。東京に根を降ろす大手闇グループの一つであり、その正体を巧妙に隠すほどの力を持っている。資金調達の目的もあってついでとばかりに闇金業者もやっていたが、会社経営に関しては弱い部分があった。
そこで、経営に関してはずる賢く一流である榎林が、尾賀の表上の立場と資金繰りを引っ張る形で「丸咲金融第一支店」という名ばかりの子会社が誕生したのである。
それはブロッドクロス側が推薦し組ませたものだったが、尾賀は闇活動を、表にもパイプを沢山持った榎林がそれを補いつつ経営をみるという、互いの利害が一致した結果でもあった。
『李が作り直した薬は、私たちが持っている物より質が良さそうだろう? レッドドリームによる『進化』にも耐えられるんじゃないかな、と思ってね』
今回の急な『お願い』は、新しいタイプのブルードリームを摂取した人間にレッドドリームを試したことがないから見てみたい、というものだった。夜蜘羅が成果を見る前に、期待できるんじゃないかな、と褒めることも珍しい。
しかし、榎林はその疑問を認識する前に、『そのまま実験の二段階目に突入出来そうだね』といった言葉を聞いて目が眩んだ。ここで成果を見せることが出来れば、ブロッドクロスで進む「強化兵」計画の第一人者の一人になれるのではないかと欲深く考えた。
ブロッドクロスの特殊筋が欲しているのは、殺意を持った新しい駒である。彼らが抱える、人智を越えた能力と素質を持った人材は稀だ。人間を理想の殺人兵器に改造し、少しでも特殊筋が抱える人間と近い戦士を、意図的に量産出来るようになるのが「強化兵」の目指す理想の形だった。
榎林の指示を受けた佐々木原は、茉莉海市に入る前明美に連絡を取った。はじめに彼は、「そちらは順調に進んでいるか」とさりげなく話題を切り出した。
李に引き渡す学生が服用している薬を覚せい剤だと疑わない明美は、「取引きに支障をきたすような中毒者がいるのなら一人引き取りたいが」と尋ねた佐々木原に、ならばと一人の生徒を提案した。
明美は覚せい剤を使用している中でも、使用日数が長い「鴨津原健」を佐々木原に語った。鴨津原は、火曜日辺りからどうも調子が悪く、友人に会いたいという気持ちすらないのだと、自身が精神不安定であることを明美に相談していた。
話を聞くと、どうやらその大学生は、水曜日にはじっと授業を聞くことも出来ず、今朝には喧嘩を起こして学校を飛び出したのだという。
そしてその直後、彼が騒ぎを起こしたという通報があったのだ。
榎林たちにとっては、なんとも良いタイミングであった。ついでにこちらで引き取ると明美には都合良く伝えて、けれどその件に関しては、尾賀の方から話が出るまで黙っているようにとも指示した。
一般人と警察に暴力をふるって逃走していた鴨津原を、佐々木原の部下が乗った二台の車で追わせた。町外れで見つけたものの、身体能力がある程度向上しているのか、距離はなかなか縮まらなかった。
二台のバンで取引の近くまで追いかけてようやく、そのうちの一台が走る彼に追いついた。車で道を塞ぎ、確保するため佐々木原の部下が車から飛び出したが、冷静を失った鴨津原に投げ飛ばされたのだ。
それは、車体に損傷を与えるほどの威力だった。両サイドを刈り上げた金髪の柿下は、同じような過ちを繰り返すものかと、先程の失態を振り返って銃を片手に階段を睨みつける。
「鴨津腹健、そこにいるんだろう? 素直に降りてくれば手荒なことはしない、降りて来い!」
そう早口に告げる柿下の額には、ピクピクと青筋が立っていた。骨ばった細い身体にフィットする彼の黄色いシャツの背中には、数か所に傷が入り血が滲んでいる。
しばらくすると、一組の足音が階段から響いた。
薬で精神状態が不安定とはいえ、相手はたかが大学生である。「ようやく来たか」と顔を上げた榎林は、その矢先、他の面々と同じように顔を顰めた。
「誰だお前は!」
瞬間、柿下が苛立ったように銃を構え、忌々しい鴨津原健とは違うその顔を睨みつけた。
それは、白鴎学園高等部の真新しい制服を着た十七歳前後に見える少年で、佐々木原がサングラスを押し上げながら「可哀そうだが、見られちまったからには処分しなくちゃね」と呟いたのを、榎林だけが聞いていた。
※※※
二階に鴨津原に待っているよう告げた雪弥は、階段の中腹で足を止め、敵の数を改めて視認でも把握しながら「榎林さんはどなたですか?」と一同を眺めた。
すると、スーツの男たちの中で背丈が低い、薄くなった頭部をした年配の男が、驚いたように顔を強張らせて「どこで私の名を聞いた」とうろたえたようにまくしたててきた。
「……なるほど、あなたが榎林さんですか」
雪弥は、一番小さな中肉中背の男を一瞥した。
首の後ろに痺れるような違和感を覚えたかのように、榎林は警戒の表情を浮かべて、階段中腹で足を止める少年を凝視した。太陽の光が反射するだけの室内で、少年の柔らかい髪は、青と灰色が溶け込むような色合いにも見える。
榎林は、ブラッドクロスで聞いていた「蒼緋蔵家の番犬」を、なんとなく思い出してしまった。
似たような特徴を思いながら、まさかとかぶりを振る。当主、副当主、秘書から始まる役席に未青年はつけないのだ。次期当主である本家の長男を除いて、すべての家系でそう定められていた。
「おい、クソガキ。痛い目に遭いたくなかったら、そっちにいる男を呼びな」
柿下は独特の早口でそう言いながら、銃を上下に揺らしてそう言った。榎林を除く男たちが下品な笑みを浮かべる中、サングラスをした佐々木原が、いびつな愛想笑いで「鴨津原健は、君の先輩にあたるのかな」と茶化す。
痛い目に遭わす気満々のくせに、そう心の中で呟きながら雪弥は階段を降り始めた。柿下が「お前じゃねぇんだよ! 上にいる野郎を呼べ!」と、耳障りな早口で喚いたので足を止める。
嫌悪感を冷静に抑え込んだ雪弥の瞳は、そんな柿下にちらりと向いただけで、すぐ榎林に戻った。
「いったい何が目的ですか?」
「具合が悪い彼を助けてあげようと思ってね」
雪弥は腕を組むと蔑むように目を細め、額の汗をぬぐう榎林を見下ろした。ほんの僅かな眼差しの変化で、まとっていた空気が威圧感を帯びたような錯覚を受けて、一同が緊張を覚えたように身体を強張らせる。
榎林は風がぴたりと止んだその一瞬、少年の瞳が碧眼である、という錯覚を覚えた。「落ちつけ、あれは黒い目じゃないか」と自身に言い聞かせるように呟いたが、どうしても「蒼緋蔵家の番犬」の特徴が拭い切れなかった。
少年の目が、まるで夜蜘羅やブロッドクロスの幹部たちに見据えられた瞳と重な。榎林は十代の少年に恐怖を感じて委縮したのを隠すように、表情を引き締めた。
しかし、鋭い眼差しをした雪弥の口から、次の尋問のような言葉が出してそれはあっさりと崩された。
「こちらへ来た目的はなんですか? 持ち込んだレッドドリームと、鴨津原健が無関係ではないような用件なのでしょうか?」
「お前ッ、それをどこで聞いた!?」
榎林は冷静でいられなくなって、弾くように反応した。その怯えの理由を、秘密事項が知られているとあっては自分たちの立場が悪くなる、と受け取った佐々木原が、二人の部下に顎で合図した。
体格の太い二人の男が「了解、ボス」と言って歩き出す。佐々木原の大きく薄い唇が歪み、「いろいろと話を聞きたいねぇ」とその頬を殺気で引き攣らせた。
二人の男が脇を通り過ぎるのを横目に、柿下も慎重に動き出した。しかし、彼は雪弥よりも、未だ姿を見せない大学生の方への怒りが収まらず、階段の上へと銃を構えて「出て来い大学生!」と怒鳴った。
柿下の銃が危なっかしく揺れ動いても、屈強な二人の男が歩み始めていても、それを冷静に見据えている雪弥に気付いて、榎林の顔に緊張が走った。
「……お前、何者だ?」
榎林が低く呟いたとき、全員に少年だと思われている雪弥の口元に笑みが浮かんだ。「ただの高校生ですよ」と述べた彼は、手の届く範囲まで近づいた二人組のうちの一人の男の腕を素早く掴むと、間髪入れず振り降ろしていた。
一秒足らずでコンクリートに叩きつけられた男が、苦痛の声を上げて喚いた。うつ伏せになった彼の右腕は折れ、曲がるはずのない方向へ捻じれている。それを見たもう一人の男が「この野郎!」と拳を突き出したが、威勢ある声が途中で細くなった。
殴りかかってきた拳を、雪弥は右手の指一本で止めた。男が目を見開いて動きを止めた刹那、おもむろに左腕を持ち上げて何気ない仕草で男の腕を払う。
瞬間、バットで打ち払われたように男の腕が弾かれて、鈍い音を立てて折れクの字を作った。彼が痛みを訴える声も許さず、雪弥はその脇腹へと狙いを定め――
そのとき、一発の銃声音がけたたましく鼓膜を打ち、雪弥は右足を地面から浮かせた状態でぴたりと動きを止めた。
放たれた銃弾は、壁に小さな溝を開けてめり込んでいた。発砲先にいたのは怒りに顔を赤らめた柿下で、構えた銃口からは硝煙が上がっている。腕を折られた男は、呼吸にすら痛みを覚えるよう様子で崩れ落ちて身を丸めた。
「動くなよ、動くと上の奴を撃つぜ!」
まさか出てくるとは思っていなかった。
雪弥は小さく吐息をこぼすと、呻き転がる二人の男の前で後ろを振り返った。そこには階段上部から姿を見せていた鴨津原がいた。




