第28話 五章 惨劇へと繋がる旧帆堀町会所 下 ~常盤聡史~
保健室で明美と話した後、十分な睡眠を取った常盤は、午後の授業を終えても気力が残っている状態だった。騒がしい教室に気が散ることもなく最後の授業が終わり、担任である女教師の話を聞いてあと、いつも通りすぐに教室を出た。
木曜日の放課後も、教室の外には相変わらずの光景が広がっていた。
廊下で教師を捕まえて勉強や進路の話しをする者や、他愛ないお喋りを続けながら歩くたくさんの生徒の姿があった。受験生であることを忘れたようにはしゃぐ男子生徒が、駆け出した廊下でクラスメイトや教師に叱られる光景も、すっかり見慣れてしまった光景だ。
常盤は「馬鹿じゃないか」という言葉を覚えたが、いつも以上にゆっくりとした歩調で歩いた。目に映るものを静かに捕え、耳に入る音を無意識に追う。
彼の足が不意に止まったのは、三組の教室から暁也が出てきたときだった。
二年の頃に同じクラスだったが、暁也が彼を嫌うように、常盤も彼の姿が視界に入ると条件反射のように顔を歪める。何故なら、悪党になれそうな奴だと抱いた第一印象を砕かれて以来、常盤は暁也を毛嫌いするようになっていたからだ。
初めて暁也を見たとき、体力と喧嘩に優れ、リーダーに信頼を寄せる悪党になれるだろうと常盤は思った。しかし、暁也は群れることを嫌い、編入当日の喧嘩以来大きな問題も起こさなかった。
学校生活に問題があることは不良らしかったが、学年主席の常盤に二点差の成績を叩きだしていた。しばらく彼を観察した結果、正義感と真っ直ぐな根を持っていると気付いた時の常盤の失望感は大きかった。
一匹狼の不良みたいである癖に、暁也には迷いがないのだと分かった。
彼は自分の中に、確立した正義を持っている少年だったのだ。
昨年町で見掛けた際、信号もない横断歩道をのろのろと歩く老婆が、数組の自動車に迷惑がられている光景に遭遇した事がある。そこに一台のバイクが通りかかって近くで停まり、車のクラクションを鳴らす大人たちを叱り付けて老婆の荷物運びを手伝った。それが、当時高校二年生だった暁也だった。
三学年に上がってからしばらく距離を置いたせいか、常盤は今の暁也を見つめていても、ひどい苛立ちを感じないことに気付いた。
ただ意味のなく騒いではしゃぐような、ガキみたいな馬鹿よりはマシか……。
そう、らしくないことを考えて歩き出したとき、数学教師の矢部と共に、暁也を追って修一が教室から廊下へと出てくるのが見えた。
勉強は出来ないが運動神経抜群で仲間想いの比嘉修一は、常盤の理想とする手下像に近いものを持っていた。信頼と絆を大切にし、考えることをすべてリーダーに任せて、指示に従いそうな人間になりうる可能性がある人材だ。
しかし、彼は落ち込んでいる生徒の話を、飽きずに延々と聞くほどのお人好しなので、悪党になるのは難しいことを常盤は悟っていた。それでも、裏表ない修一は嫌いではなかった。
廊下に出た暁也が、修一のそばにいる担任教師を見て「うげっ」と言い、げんなりとした表情をする。
「今日もかよ、あんたもいちいちしつこいなぁ」
「暁也君が逃げるから……」
四組の担任は、数学教師をしている矢部だ。彼は、校内でも有名なほど口ごもった話し方をする。数学の授業があるたび、常盤はさぼりたくなる衝動を堪えた。つい「矢部先生の声どうにかなんないの」と、彼と面識がない大学の富川学長にもらす事もあった。
そんな矢部と、暁也と修一の組み合わせを前に、常盤は冷静を装いゆっくりと歩いた。片足をかばうようにせかせかと進む矢部に対して、渋々付き合う事にした暁也の隣で、修一が「俺、特に希望する大学も職業もないんだよ先生」と告げる。
矢部は普段は少々背を丸めているものの、歩くときは背筋がぴんと伸びた。長身を誇張するように歩けばいいのに、と小柄な常盤は羨ましく思ってしまう。自分は長身で、威圧感を持った悪党になりたいのだ。
会話を始めた三人組を、常盤は歩調を上げて追い越した。途中暁也が怪訝そうな顔を向けてきたが、彼は気付かない振りで通り過ぎた。そのとき――
「僕は真っ直ぐ帰るから、二人とも頑張ってね」
やけに澄んだ声色を耳にして、常盤は足を止めかけた。しかしすぐに、「ちぇッ、他人事にのんきかましやがってよ」と暁也の声を聞いて先を急ぐ。
聖歌隊とかにいそうな声だったな。
常盤は何気なく思った。しっかりと出来あがった大人の声色に近いが、この葉の囁きのように身に沁み込むような心地よさがある。それは、矢部と正反対のものだと思った。
※※※
「やぁ、常盤君」
学校を出たところで、常盤は里久にそう声を掛けられた。一見すると眼鏡の好青年にしか見えないが、彼も覚せい剤に手を染めている一人である。
正門で待っているなんて珍しいな、と常盤は思ったが、ふと明日のことで今朝にメールで連絡した一件を思い出した。そもそも彼の場合は、先週渡した薬がなくなる頃合いでもあるので、早めに欲しいのだろうかと思って口を開く。
「里久先輩、メールくれれば持っていきましたよ」
下校中の生徒たちの中で、常盤は自然に話しを切り出した。
里久が困ったように笑って「ごめん」と述べた。平均的ではあるが細身の体は、今日は珍しく黒いニットをつけているせいか、普段よりも小柄に見えた。
そういえば、火曜日の夜にゲームセンターに向かう際に見掛けて以来だったから、二日ぶりだなと気付く。最近は使用量も増えているので、彼は薬で痩せたのだろうと常盤は思った。
「明日のことは大丈夫ですか?」
「メールをすぐに返信したあと、うっかり消しちゃったんだよね……」
里久は薬をやる前から優秀な成績を持っていたが、どこか間が抜けたところがある人間だった。
常盤は「やれやれ」と短い息をついただけで、嫌な感情は一つも覚えなかった。彼は里久に対しては明美同様、世話を焼いても不思議と苦にならなかったのである。
付き合いが長いというわけでもなかったが、メールのやりとりをするようになってからは、時々遊びに行く仲にもなっていた。
「場所は前回と同じです。二十二時スタートですからね」
「うん、ありがとう。時間が曖昧だったから助かったよ」
「俺も明日の件で声は掛けてるんですけど、先輩からも他のメンバーに連絡回してもらっていいですか?」
「いいよ。必ず全員参加だよね?」
愛想笑いを浮かべた里久が、はっきりと語尾を区切ってそう尋ねてきた。まるで確認するように「全員参加」を強調し、返事を待つように沈黙する。そこに普段あるような頼りない雰囲気は一切なく、一つの確信を持っているような自信を窺わせた。
常盤は一瞬、なんだか雰囲気が違うな、という奇妙な違和感を覚えた。しかし、作り笑いが出来ない里久が、すぐぎこちない笑みへと表情を崩すのを見て、なぜかひどく安堵した。
「少しだけ、先にもらっていてもいいかな?」
そう続けて問われて、やはり明日まではもちそうになかったのだろう、と思った。常盤は歯切れ悪く催促した里久に歩み寄り、彼がいつも財布を入れている後ろポケットに、明日分までの青い薬を押し込んだ。彼に関しては、料金はいつも後から受け取っている。
「残りは明日のパーティーで配りますから」
「うん、分かった。ありがとう」
お互い声を潜めて会話し、常盤はそのまま里久と別れた。
そういえば、今朝はメールの返事があったとはいえ、火曜日の夜からずっと連絡がなかったのだ。歩き出したところでそう思い出した常盤は、「分からないことがあったら、いつでもすぐメールして――」と言い掛けたところで顔を顰めた。
振り返った先に、里久の姿はなかった。まるで忽然と消えてしまっていた。
常盤は一人小首を傾げたが、ふと、明美に頼まれていたことが脳裏を横切った。彼女の希望通り、彼は暇潰しがてらに町を見て回ろうと考えていたのだ。尾崎には大学校舎へ行かず、藤村組事務所で明日の段取りを組むと連絡も入れてあった。
「そうだな、町の方をちょっとぷらぷらしてくるか」
待ちに待ったはずの取引が明日に迫っていたが、常盤の表情は冴えない。彼は自分でもらしくないほどの大人しさを思いながら、ゆっくりとした歩調で足を進める。
※※※
午後四時半を過ぎた頃。
常盤は都心街ではなく、南方にある旧市街地にいた。
明美の願いをかなえてやろうかと思っていたのに、大通りを見ないままぼんやりと歩き進んでいて、気付いたら藤村組事務所が建つさびれた土地まで来てしまっていたのだ。
もし都合があえば夜にでも町を歩こうと考え直して、通い慣れた三階建ての事務所へと向かう事した。しかし、人の気配もない静まり返った路地をしばらく歩いた頃、藤村事務所まで百メートルの距離で、くぐもった鋭い発砲音に気付いた。
日常ではまず聞こえるはずのないその音を、常盤は聞き逃さなかった。
音沙汰もなかった心が久しぶりに高揚し騒ぎだすのを覚え、発砲音を探してすぐさま駆け出した。
その発砲音は、すぐ近くの旧帆堀町会所方面から聞こえていた。