第27話 五章 惨劇へと繋がる旧帆堀町会所 上
周囲一体に民家がなく、使われなくなった店のシャッターがおりる先で辿り着いたのは、生い茂った緑と低い木々に囲まれている、旧帆堀町会所だった。
八年前まで稼働していたその廃墟は、今では地元住民に有名な「お化け屋敷」の一つとなっている。雪弥がそこに辿り着いた時、先程見掛けた東京ナンバーの白いBMWが、まるで外から姿を隠すかのように、こちらへと続く細い車道をのろのろと進んでいるのが見えた。
もしかしたら、近くに鴨津原がいるのかもしれない。
ここは隠れるのにはもってこいの場所で、特に地元住民である彼は、それを知っている大学生である。
雪弥はそう考え、車がこれから差しかかるであろう細い車道から見えないよう、廃墟となった旧帆堀町会所敷地内へ踏み込んだ。
ガラスがすべて抜かれた二階建ての建物は、ひびが入った外壁だけを残してそびえ建っていた。一階部分から蔦が張り、荒れたアスファルトには四方を囲う木々の根が盛り上がる。取り壊しが決まっているが未だに着工されておらず、雨によってさびれた看板が、敷地入口で「立ち入り禁止」の文字を薄れさせていた。
旧帆堀町会所敷地内は、隣接する土地に所有者だけを残して、ひどく荒れ果てている状況だった。一階に町政執行の末端機関、二階が町会の事務所と集会所であったが、現在は茉莉海市役場にその事業が完全に移行している。
車が十台ほど停められる地面は、ひどく影って生温い空気が流れていた。雑草と木々の枯れ葉が色を落としていたが、その中央を何者かが駆けた不自然な空白に、雪弥は気付いた。
扉がくりぬかれた入口を越えると、三十六畳分の室内が燦然と広がった。四本の柱が中央の高い天井を支えるようにあり、それ以外はすべて取り壊されたように殺風景だった。
風と小虫が自由に通り抜けられる小窓からは、わずかに陽が入るばかりで薄暗い。地面には木屑や吹き込んだ草葉が目立ち、四方には埃をかぶった蜘蛛の巣があった。
「鴨津原さん、いますか……?」
後ろからやってくる車を気に掛けつつ、雪弥は人影の見えない一階から東側に一つある階段を上った。階段には埃が払われた足跡と、壊された蜘蛛の巣がある。
すると、人の呻く声とわずかな物音が静寂に反響した。
雪弥は足早に二階へと上がった。そこには四本の支柱の奥に隠れるように、鴨津原健がうずくまっていた。
足音に反応してこちらを振り返った彼が、雪弥の姿を認めた矢先、苛立ちと戸惑いを露わにした。突然「どういうことだよ」と震える声を上げたかと思うと、弾くように立ち上がり歩み寄って、雪弥の胸倉をいきなり掴みかかった。
「お前、専門学生っつってただろ! なのに、なんで高校の制服着てんだよ!」
「あ、あの鴨津原さん、その落ち着いて――」
「何なんだよ! お前も俺に嘘ついてたのか! お前も、奴らとグルなのか!?」
高等部の制服のままだったのは、まずかったらしい。しかし雪弥は、取り乱す鴨津原の言葉に眉を顰めて、半ば尋問するように尋ねてしまう。
「それ、どういうこと? グルって、なに?」
途端に、鴨津原が乱暴に胸倉から手を払い、後退しながら首を横に振って「わけ、分かんねぇよ」とぼやいた。
「お前も俺の敵なんだろ……? 嘘ついて近づいて、俺をどうするつもりなんだ?」
「聞いて下さい、僕は――」
歩み出した雪弥を見ると、鴨津原が「黙れ!」と警戒の声を上げた。
雪弥は一旦足を止めて、それからとりつくろうようにぎこちない笑みを浮かべた。大人の身体で幼く怯える彼に向かい、ゆっくりと宥める言葉を切り出す。
「大丈夫、僕は鴨津原さんの敵じゃありません。助けに来たんです」
一体何があったんですか、と雪弥は続けて言葉を切った。
じりじりと後退していた鴨津原は、支柱に背中がつくとようやく立ち止まり、「分かんねぇよ」と今にも泣きそうな声で項垂れた。
「明美先生から電話かかってきて――あの人、よく大学に出入りしてるから付き合いがあったんだ。ちょうど警察をぼこっちまった後で、どこにいるのか聞かれて場所言った矢先に、黒い車の奴らが来て『鴨津原健だな』って」
明美らが、鴨津原を売った? でも、どうして?
そのとき脳裏を過ぎったのは、校長室の話し合いでキッシュから聞かされた報告だった。レッドドリームを所持してこちらに向かったという榎林の件と併せて考えると、嫌な方向へ思考が引き寄せられる。
人体実験。そして、そのために青い覚せい剤が配られている。
まさかと思うような、そんな錯覚を受けた。明美が鴨津原を売った理由についても分からないというのに、まるで今の状況のような事が、明日の取引でも行われるような予感が雪弥の思考を横切った。
「…………鴨津原さん、青い覚せい剤やってますね?」
雪弥が確認するように尋ねると、鴨津原がハッと顔を強張らせた。
外から車が二台止まる音が続き、複数回の強い開閉音が、筒抜けになった小さな小窓から流れ込む。その音や複数の人間の気配すら耳に入っていない様子で、鴨津原が真っ直ぐこちらを見つめ返したまま黙っていた。
「……なぜ、覚せい剤になんて手を出したんですか」
もう一度、問い掛けてみた。けれど雪弥は「ただの覚せい剤じゃないんですよ」という言葉については、胸に秘めるように呑みこんだ。彼が急きょ榎林たちに差し出された経緯は把握しかねるが、そうなると、里久のようにレッドドリームを持っていない可能性の方が強い。
浅はかな考えで覚せい剤に手を出した彼を思って、雪弥は目を細めた。その眼差しに罪悪感を覚えたように、鴨津原が「すぐに止めるつもりだったんだ」と白状するように狼狽した。
「薬が切れると身体中が痛くなって、頭がおかしくなりそうになった。薬が効いてる間は気持ちいいだけだったのに、最近は変なんだ。苛々してるわけでもないないのに、気持ちが落ち着かない、気付くとひでぇことばっかり考えてる。パチンコ店でおっさん殴った時も、内臓を叩き潰して、首をへし折ることを考えてた。警察が来たときも、ぐちゃぐちゃになるまで殴ってやりたかった……」
呟いた彼の顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。恐怖する表情の口元が、にやぁっと左右に引き上がる。しかし、数秒後に鴨津原は突然「違う!」と叫んで首を振った。
「俺はそんな事したくない! そんなことッ、考えたくもないんだ!」
そのとき、複数の足音が建物内から上がった。
雪弥は足音と気配から、一階に八人の人間が突入したことを察知した。鴨津原が、そこでようやく第三者の登場に気付いたかのように「なんで俺が追われてんだよ」とうろたえ始める。
一階から「声がした」「上にいるみたいだ」という男たちの声を聞くと、鴨津原は身体を強張らせて唾を飲み込んだ。すると別の男が「準備を先にしよう」と早口に告げて、固い機材でも設置するかのような物音が聞こえてきた。
侵入者が一階に止まる気配を追いながら、雪弥は冷たく澄んだ瞳を声が聞こえてくる階段の方へと向けた。
首謀者である榎林を残し、残す必要もない他の人間は殺してしまおう。
足音からすると、やはり一階にいるのは合計八人の人間だ。六発の銃弾と殺す六人を照らし合わせ、心臓か脳を撃ち抜くこと様子を想像する。しかし、残る一人は銃弾が足りないので、手っ取り早く首を切り離してしまおうかと考えを巡らせたとき――
そばにいた鴨津原が、ふっと口を開いた。
「俺、どうなっちまうんだ? 薬やったから、やばい奴らに殺されるのか……?」
不意に思考が途切れ、雪弥は鈍い反応で鴨津原を振り返った。自分が、何かひどいことを咄嗟に考えていたような気がするが、それがなんであったのかを彼は忘れてしまった。
残す理由がなければ殺してしまいたいという怨念のようにドス黒い、忘れるものかと憎悪するような殺意が、青年の怯えきった様子を認識した途端に雪弥の中から自然と消え失せた。
大学三年生の青年だというのに、その表情はあどけなく幼く見える。
思えば彼はまだ『学生』の身であるのだ。社会に出ているわけではないので、子供みたいに思えてしまうのも仕方がない事なのだろう。
覚せい剤に手を出したとはいえ、鴨津原は今事件の被害者でもある。通常の覚せい剤であったのなら、処罰と更生によって彼は社会に復帰する資格を持ち合わせていた。だから、出来るのなら助けたいと考えていたことを、雪弥は思い出した。
彼がどれほどブルードリームを使用し続けたのかは分からないが、レッドドリームに手を出していなければ助かるのだろう。こうして話している限り、里久のように会話が出来ないほどの異常をきたしているわけでもない。
「僕が殺させません」
雪弥は静かに告げた。怯える青年を落ちつかせるように笑みを浮かべ、自分が彼の敵ではないことを示す。
対する鴨津原が「じゃあ」と、喉の奥から声を絞り出して、こう続けた。
「…………俺は、どうすればいいんだよ……?」
問い掛ける声は震え、激しい感情を殺した瞳は、疑いの色を孕んで雪弥を見つめていた。鴨津原は、突然現れた雪弥を信じてはいないが、そこには小さな希望にもすがる想いがあった。
研究班たちが治療法を早急に見つけることを願いながら、雪弥は嫌な予感を頭の片隅に押しやった。一歩だけ足を進めたものの、彼がギクリと警戒する様子を見て、一旦立ち止まって柔らかくはっきりと言葉を紡いだ。
「僕は、鴨津原さんを守りたいんです」
自分が向かうとナンバー1に告げた時の心境で、雪弥は鴨津原を真っ直ぐ見据えてそう言った。
助けるのが間に合わなかった里久のことを考えていた。自分は、目の前の彼の友人の四肢を切り落としたうえ、最後は人でないまま死を迎えさせた。せめて次こそはと、らしくない情に心が小さく揺れる。
そのとき、階段の下から一つの声が上がった。
「鴨津腹健、そこにいるんだろう? 素直に降りてくれば手荒なことはしない、降りて来い!」
それは、急かすような早口だった。部屋を満たす埃と黴臭い空気が、その怒号するような一方的な主張と共に耳障りに振動した。




