第25話 五章・開幕 三者それぞれの午後四時~転がり始めた石のように動きだし加速する事態~
六月二十三日木曜日、午後四時四十分。
高知県警本部刑事部捜査一課で、七人の捜査員たちによるチームが編成された。組織犯罪対策課の毅梨を筆頭に、薬物取締に多く携わっていた内田、捜査一課前線に立つ澤部、現場で活躍する阿利宮班長を含んだメンバー四人の捜査員が金島の元へ向かった。
金島が最前線に立っていた頃の主力メンバーが揃う光景に、何事かと捜査員たちが目で追う。捜査員の中で一番若い内田も、垂れた瞳を鋭く光らせていた。片手にノートパソコンを持ち、堂々とした足取りで本部長の執務室へと向かう姿は気迫がある。
捜査二課の者が、そんな内田を見て「本気モードの内田だ」と珍しそうに述べ、息を呑んで見送った。彼が仕事に対して真剣に向きあう姿は、金島が二年前担当した連続強盗事件以来である。
昼を過ぎた頃、毅梨たちは事前に金島の口から、茉莉海市で起こっている事件を聞かされていた。彼らには、藤村組を麻薬および向精神取締法で押さえ、後に詐欺事件でも再逮捕するという筋書きが与えられていた。本来ヘロインが白鴎学園にあり、情報操作によって他の犯罪組織と共になかったことになることは承知の上だった。
「我々は合図と共に、藤村組をおさえる」
執務室で、金島は再度集まった一同にそう告げた。
茉莉海市一帯は現在、国家特殊機動部隊の管轄内となっている。介入許可はすでに降りていが、ナンバー1の「待機命令」は解かれてはいない。金島は彼の指示通りチームを編成し、連絡を待っている状況だった。
毅梨たちは、それぞれ神妙な面持ちでソファに腰かけていた。一見すると同じ真剣面をした内田だが、腹を立てた顔であることを一同は知っていた。これまで特殊機関の人間によって、パソコンの中をハッキングされていたからである。
プライドとプライバシーの双方で、内田の怒りは収まらなかった。事件の話を聞かされたあと、もう知らされたからいいだろう、とばかりにデスク画面に堂々と、向こうから情報が送られ張り付けられていっていることに対しても、彼の苛立ちは止まらない。
「……なんかさっきから、俺のデスクトップが掲示板みたくなってんですけど?」
テーブルのノートパソコンを見据えていた内田は、トップ画面のファイルを片づけたはずの場所に、また資料が添付されていることに気付いて忌々しげに言った。
隣にいた毅梨が「どれどれ」と覗きこむと、内田が操作してもいないパソコンの矢印ボタンが勝手に移動し、そのファイルを開き始める。
「うわ、内田さんのパソコンがハッキングされてるの、初めて見た」
内田より三年先輩の三十代捜査員、阿利宮が立ち上がって後ろからパソコン画面を確認した。一課で一番礼儀正しい捜査員の一人で、聞き込みを得意としている男である。内田と組まされるのは実に二年ぶりだが、頭脳派と行動派、双方のバランスが整ったコンビとして有名だった。
ソファに腰かけていた残りの捜査員三人も、立ち上がって内田の後ろからパソコンを覗きこんだ。彼らは数日前、内田と金島のやりとりを見守っていた捜査一課の居残り組である。その内三人は阿利宮の部下だったが、四十代に突入したが仕事に熱を入れ過ぎで独り身のままなのは、ベテラン捜査員でありヘビースモーカーの澤部だ。
澤部は張りのなくなった頭髪に不安を覚え、婚期を逃しているのではないかと心配する四十一歳だった。若い頃から金島、毅梨と共に前線で活躍し、阿利宮と内田に仕事を教えた先輩である。
内田のパソコン画面は、すでに書き上げられた文章ファイルを展開していた。
『東京、高知、共に二十三時作戦決行』
『高知県警、事件介入の許可。指示を待て』
『対象者、藤村組。二十四日二十三時、事務所へ強行突入せよ。建物内に残ったメンバーの確保』
「……つか、この内容、金島本部長から聞いたまんまなんすけど」
「呟き伝言板みてぇだなぁ」
澤部はセットされた張りのない頭髪に触れてそう言い、内田がじろりと視線を送った。目が合った二人の間に、ぴしりと張り詰めた空気が流れる。
しばしの無言を置いて、二人がほぼ同時に口を開いた。
「黙ってろ薄ら禿げ」
「てめぇこそ黙れよ垂れ目」
「婚期逃した禿げの癖に」
言い返せなくなった澤部が「内田ぁ!」と叫び、見守っていた三人の捜査員が「先輩抑えてッ」と後ろから彼を拘束した。
それを見た毅梨が、「やめんかお前たち、金島本部長の前だぞ」と上司らしく声に威厳を持たせて一喝したとき、けたたましい電話のコール音が室内に響き渡った。
垂れた瞳をやや見開いた内田の後ろで、揉み合っていた澤部たち四人がぴたりと動きを止めた。阿利宮が、書斎机で鳴り響く金島の携帯電話に気付き、毅梨も表情を強張らせる。
金島がゆっくり携帯電話を手に取り、耳をあてた。数秒後にはっとして息を呑み、言葉短く応答すると蒼白顔で声を潜める。
数分も経たずに金島は電話を切ると、立ち上がって一同を見回した。
「ブルードリーム使用後、レッドドリームによる二次被害が確認されたそうだ。容疑者となっていた榎林政徳の死亡が先程確認され、管轄組織によって旧帆堀町会所が現在完全封鎖されている――我々はただちに茉莉海市に向かい、ナンバー組織指示のもと、茉莉海市署員の指揮に入る」
一体何があったんですか、と毅梨が問うたが、金島はしばらく言葉を失っていた。
そのとき、沈黙した室内で、テーブルに置かれていたノートソパソコンの画面が動いた。起動音と共に開かれた文章作成ソフトに、リアルタイムで報告のような文字が打ち込まれていく。内田を筆頭に、捜査員たちが気付いてパソコン画面に目を向けた。
『十六時四十二分、某日容疑が確定した榎林政徳被告、レッドドリームを所持、茉莉海市旧帆堀町会所での死亡を確認』
『一六時十二分、住民から茉莉海署への通報。現場に到着した巡査部長含む三人の警察官が負傷。逃走した容疑者はブルードリーム使用者の可能性が濃厚と判断。
ブルードリーム使用者、白鴎学園大学部三学年所属、鴨津原健』
打ち込まれていた文字が、一旦そこで途切れた。
※※※
榎林政徳は、榎林グループ子会社の社長である。
榎林財閥当主となった伯父の孜匡とは七歳も離れておらず、支店取り締まりの座に不服を感じていた。伯父の元から会社を独立させ、新たに金融会社として東京に腰を降ろしたが、榎林一族の名が強かったため今でもグループの子会社と思われることが多かった。
名を「丸咲金融会社」と改めた彼の会社は、「お客様の近くにいつも寄り添い続ける」と優しいキャッチコピーで宣伝された。
暴力団を率いた経営は、闇金業者に近い荒々しさがある。榎林が堂々と会社を続けていられるのも、違法を権力と力で押さえつける組織がバックについていたからだ。
政治家や弁護士などの高官職を始め、暴力団を抱えた財閥グループは共に「ブラッドクロス」という巨大財閥組織の傘下にあった。
中国大陸からやってきたといわれているマフィア一族、夜蜘羅はブラッドクロスの頂点に立つ男を「彼」と呼べる位置にあり、貪欲な榎林は彼に近づいて自身の地位を固めた。
そこは日本マフィアの中核を思わせる恐ろしい場所ではあったが、孜匡以上の権力を持ったと榎林に錯覚させた。榎林はブラッドクロスで進んでいる「強化兵」の一旦を担い、更に陶酔していったのだ。
六月二十三日正午、榎林は上機嫌な表情を抑え込んでオフィスにいた。気の短さが顰め面に滲み出ていたが、引き上げられた頬の中肉には笑みが覗く。
「佐々木原、夜蜘羅さんが私に頼みごとをしてきた」
「先程伺いましたよ、榎林さん。準備は整ってます」
答えたのは、丸咲金融会社を影から支える暴力団の頭、佐々木原洋一だった。引き締まった顔には薄い皺が刻まれているが五十代の面影はなく、修羅場を乗り越えてきた貫録が直立した長身から漂う。整髪剤でまとめられた頭髪の下には太い首があり、きっちりと着込んだ紺色のスーツは余分な生地が見られない。
佐々木原組は、名高い家系の一つであった。政治家と暴力団を一族の中で両立し、二十年前議員を勤めていた佐々木原が、先代頭に変わって暴力団を引き継いだ。
上辺は礼儀正しいが気性は荒く、議員在中の頃から裏で暴力事件を多々起こしていた男である。榎林のあとにブラッドクロスへ引き抜かれ、利害の一致から彼と行動を共にしていた。
「通信機器とレッドドリームも、準備出来ていますよ」
「あの人の期待を裏切ることなど出来んからな」
実験が進んでいることを褒めた夜蜘羅は、『是非成果のほどを見せて欲しいんだ』と榎林に頼んできた。茉莉海市には、明日こちらから尾賀が出向かう予定で、それはブラッドクロスに頼まれていたヘロインを入荷する場所でもある。
その前に自身が徒労するのを榎林は渋ったが、『一番信頼出来るのは君だからね』といった夜蜘羅の言葉に動かされた。夜蜘羅はブラッドクロスに、実験体の成果を秘密裏に試して来るよういわれたことを、榎林に打ち明けてきたのである。
『他のメンバーには内緒で頼めるかな。私としても「働き蜘蛛」くらい使えそうな手駒であれば、個人的に欲しいと思っていてね。尾野坂に知られると、また年寄りの説教をきかされそうだから、今は私とブロッドクロスの彼と、君の三人だけの秘密にしたいんだ』
ブラッドクロスのトップである男と夜蜘羅、そして自分だけの秘密。
その言葉に榎林は興奮した。そこに恐怖がなかったわけではない。ただ、味方であれば最強の盾であるのだ。なにしろ榎林は、夜蜘羅の「遊び」と「ブラッドクロス」が畏怖すべき存在だと知っていたからである。
夜蜘羅は人間をおもちゃのようにしか見ておらず、自分の持ち駒で残酷なゲームをすることが多々あった。部下が使えそうにないと分かると、顔色一つ変えずに殺すという、ひどい残虐性を秘めた男である。気に入っていた愛人たちを集め、「働き蜘蛛」と自ら呼んでいる化け物に惨殺させる観賞会を行ったとき、榎林を含む面々は震えが止まらなかった。
ブラッドクロスでは、「特殊筋」と呼ばれる家系が幹部の席を占めている。彼らは人を殺すことを躊躇する心がなく、そこには露見されることもない異形生物の存在もあった。
こんな化け物がいるのかと、榎林は夜蜘羅の「持ち駒」を見て思ったものである。彼らの一族の中には、まるで化け物のごとく身体能力が高い人間が稀におり、彼らと同様に使える手駒を増やすための計画が「強化兵」だった。
特殊な力を持った家系は、遺伝子が違っていることが分かり、それを意図的に起こせないかとブラッドクロスは考えた。身体変化によって起こる激しい苦痛は、麻薬や覚せい剤で取り除くことにした。そして、特殊筋の血液と異形の化け物から採取した遺伝子を合成し、青と赤の薬を作り上げたのだ。
服用者は強い薬物中毒に陥って使い物にならなくなったが、夜蜘羅が探してきた、李という男が作り直したブルードリームは、完成が近いことを思わせる代物だった。ブラッドクロスとは別に、李が「完成させるために実験体が欲しい」と言いだし、薬を完成させることを約束に今回の取引が成立した。
明日二十三時、李が作り直したブルードリームを、ヘロインと一緒に尾賀が引き取る計画だった。李に引き渡す『検体となる学生』については、この前調整されたブルードリームを服用しているため、夜蜘羅は待ち切れずに成果を知りたがっているのだと榎林は思った。
レッドドリームは小粒状の赤い薬だが、「強化兵」の計画に携わっているメンバーの中で、榎林だけが許可をもらって持ち歩いている――と彼自身は聞かされていた。
以前、夜蜘羅が「作るのも大変で、今君に渡す物ですべてなんだ。大事に使いたまえよ」と語っていたことを榎林は思い出し、思わず佐々木原を振り返った。
「佐々木原、レッドドリームは厳重に扱っているだろうな」
「車で待機している部下が、レッドドリームの入ったロックケースを持っています」
夜蜘羅や幹部クラスに気に入られれば問題はない。興味や期待を失わせるようなことをしなければいいのだ、だからひどい恐怖を感じる必要もない。
「夜蜘羅さんがいつも通りすべての処理はしてくれる。私たちは、指示通り動けばいいだけの話だ」
改めてそう思いながら、榎林は立ち上がった。
※※※
榎林が佐々木にそう断言した時、当の夜蜘羅は、テレビモニターが設置された部屋にいた。
ずらりと並ぶガラス窓からは、東京の街並みが一望できる。美しい顔に微笑を浮かべて「あなたも物好きですねぇ」と話し掛けた門舞は、姿勢を楽に長い足を組んで長椅子に座っていた。
普段三十人の人間が集まる会議室で、二人の男が好きな席に腰を降ろしてくつろぐ。
榎林グループ本社の一室で、夜蜘羅は電源もついていないモニターを眺めていた。その顔には微笑が浮かび、ややあってから「君も気になるだろう?」と低い声を柔らかに問い掛けた。
「君がレッドドリームを渡した学生、本当に面白いことになった。それに、もっと面白いものが見られたよ」
「ああ、彼も特殊筋っぽいけど、どうでしょうねぇ」
答える門舞の足元には、頭を撃ち抜かれた榎林政徳の伯父――榎林孜匡が横たわっていた。二人は、そこに死体などないように会話を続ける。
「私のエージェント君が仕事でね。連絡がつかないから、あとで聞いてみようと思っているが『ナンバー4』か。気になる少年ではあるよ。君、近くにいてどうだった?」
「そうですねぇ。まぁ一瞬血が騒いだことは認めます。もっと性能の良い暗視カメラを持って行けばよかったですかねぇ、我が家の特殊筋は『暗闇』には弱いですから」
両手を頭の後ろで組み、門舞は上品な含み笑いをもらしてこう続けた。
「李が作るブルードリーム、あれに期待なんか持っていないでしょう」
「勿論、失敗作に興味はないよ。あれは、計画の二段階目にも到達できない欠陥品だ。あの学生が、薬を受け入れられる稀な体質を持っていただけにすぎない。映像を見る限りでは成功にも取れるが、不安定な身体の組織が今にも破裂しそうだった。まぁ、膨れ上がった身体が弾け飛ぶ光景も捨てがたいがね」
しばらくの沈黙の後、門舞が思い出したように顔を上げた。横目を夜蜘羅へと向け、茶化すような声で疑問を口にする。
「働き蜘蛛、処理されますよ。いいんですか?」
「私の目の前で、その哀れな被験者となった学生が死闘を繰り広げて、決して助からないという絶望を胸に、命を削りながら働き蜘蛛を処理してくれるのならね」
椅子の背にもたれた門舞が、「相変わらず激しいですねぇ」と肩をすくめた。
「でも残念ながら、処理は特殊機関がすると思いますよ。あなたがこれから楽しむステージに出てくる榎林さんたちも死体になるんでしょうね。今回はブラッドクロスも関係ないのに、不運続きの榎林さんは、俺たちにちょっかいを出されたあげく死ぬわけですか」
「『彼』に処分してもいいと言われたから、私が好きにしているだけだよ。あ、そうだ。君、この会社欲しいかい?」
軽い調子で、夜蜘羅がふと話を振る。
対する門舞の表情も、まるで自宅の一室でくつろぐように自然だった。その部屋には、硝煙の余韻と死体があることの方が場違いだ、という空気が流れている。
「夜蜘羅さんがもらったらいいんじゃないですか? 俺は、自由気ままなぼんぼんの息子を楽しみますので」
夜蜘羅は「そう」と返した。軽い口調には、気持ちが一つも見られない。
「私は悪運が強いからね。今回、もっと楽しいことが起こる気がするんだ」
彼はそう続けて、薄い唇を左右に引き上げた。