第21話 四章 エージェント4は兄の存在に頭を抱える
六月二十四日の木曜日、雪弥が白鴎学園に潜入してから四日が過ぎた。
火曜日の夜、修一と暁也を酔っぱらいから助けてから二日が経過していた。雪弥はその間、常盤という生徒が一組であることを確認すると同時に、よく校内を見て回った。
火曜日の夜に、保険医の明美が薬物をやっているかもしれないと話してくれた少年たちは、翌日の水曜日にはすっかり立ち直っていた。時々屋上でその話題が出ると「馬鹿バカしくて泣けて来る」と暁也が苦渋の表情を浮かべ、修一が腹を抱えて大笑いするほどであった。
少年たちにとって、学園に大量のヘロインがあり、得体の知れない青い覚せい剤が出回っているなど、非現実的で遠い世界の話なのかもしれない。
雪弥はそう思って、ならばもう疑わないだろうと安堵した。
水曜日の全校集会が体育館であった日、暁也と修一は、昼休みに雪弥を連れ出すと運動場から案内を始めた。高等部用の運動用具入れとテニスコートを見て回り、その日の短い案内は終わった。
アメリカのテニスコートを想像していた雪弥は、規模の小ささに少々間が抜けたが、新しいテニスコートを自慢する修一に「とても立派だね」と返した。放課後には矢部に連行された二人の少年を見送り、雪弥は一人で校内を見て回った。後日、「なんで雪弥が転入して来て早々呼び出しが増えるんだよ」と二人は小言をもらした。
木曜日である今日は、一時間目と二時間目の休み時間の合間を使い、雪弥は二人の少年と共に二つの校舎に位置する中庭へと行った。そこは、三階視聴覚室や学食から見みることが出来るものである。
北東から西南にかけて真っ直ぐに続く敷地には、車一台が裕に通れる幅を持ったS字の歩道が敷かれている。それに沿うようにして造られていた花壇には木と花が分けて植えられ、色取り取りの花が緑の葉を生い茂らせる木によく映えていた。
中庭のベンチや噴水にいる学生の大半は、西側に位置する大学駐車場からやってきた学生たちであった。高校生が中庭に降りるための出入り口は、移動教室用の部屋ばかりが集まる南側校舎裏口となっているため、使う生徒がほとんどいないのだ。
大学駐車場との間に桜の木を三本植え、敷地を区切る中庭の西南側に倉庫が一つ置かれている。花壇の整備をしている大学園芸部のもので、中にはシャベルや土、軍手や箒の他、イベント時に車を誘導するカラーコーンや、高等部運動場を借りてスポーツ競技を行う際の小道具や式台といった荷物がしまわれていた。
中庭にある大学倉庫の大きさは、高さ三メートル、横幅は大人が手を広げて三人並んだ程度だった。奥行きも同じ長さで造られ、地図上で確認すると二つの校舎を隔てた西南側に、正方形の大学倉庫を確認することが出来る。
雪弥は案内されながら、携帯電話で写真を一つ撮った。遠赤外線透視カメラを搭載しているそれで撮影してみると、地下倉庫は写真の中の緑の線と黒い画像の中で、積み上げられた大量の白い物体を映した。報告のメールとして、その場でナンバー1に送った。
※※※
三時間目の授業は数学だった。教科を担当しているのは、雪弥の通う三年四組の担任である矢部である。
雪弥は、頬杖をついた姿勢で授業を受けていた。開けられた窓からは暖かな風が吹き、外は欠伸を誘うほど陽気な晴れ空が続いている。矢部がぼそぼそと小さく話すせいで、いつもやけに静かな数学の授業は、退屈さを紛らわせる物もなく気だるさがあった。
ぼんやりとそんな授業風景を眺めながら、暇を潰すように考察した。
現在、白鴎学園に出回っているのは、ブルードリームと呼ばれている青い覚せい剤であるらしい。使用者の里久がそれを彼の目の前で服薬し、別の人間からもらったらしいレッドドリームと呼ばれる赤い薬を飲んでから、二日が経っている。
その間、進展があったという知らせも、覚せい剤に関する新たな情報報告もないままだった。あれから連絡が来ていないので、雪弥は今日の早朝に特殊機関本部へ連絡を入れていた。
しかし、ナンバー4の電話を受け取った事務の若手が「研究班が地下に閉じこもってナンバー1が東京で珈琲に砂糖詰め込んで大変なようです」と、珍しい様子で慌てふためいた発言をしたので、「彼の報告を待ちます」とそのまま通信を切ったのだ。
ナンバー1が、珈琲を砂糖の塊にすることは有名である。食べる間もないほど忙しいとき、手っ取り早いエネルギー摂取法として彼が独自に行っているものだ。
雪弥はそれを見て、「それよりもケーキを食べたほうがいいだろ」と意見していた。他の一桁ナンバーは「どちらでもお好きなように」と傍観に徹し、それ以下のナンバーは見て見ぬ振りを決め込んでいる。
「…………まぁ、それだけ忙しいってことだろうなぁ」
矢部が教科書を反対にしていたと生徒たちが爆笑したとき、その声に隠れるように雪弥は呟いた。
自分の中に出来上がりつつある推測をぼんやりと考えていると、矢部が「大学受験に必要な基礎知識」との単語で場を静めた。聞き取りづらい声に威厳も意欲も見当たらない教師だが、生徒たちを誘導することが一番上手い教師でもある。
矢部が言葉を切って猫背で教科書を覗きこんだとき、絶妙なタイミングで携帯電話のバイブ音が教室内に響き渡った。
一体どの生徒のものだろうか、と他人事に考えた雪弥は、その直後に自分の胸ポケットで震える使い慣れない薄型携帯電話に気付いた。教室にいた生徒たちが、おや、と顔を上げた矢部に続いてこちらを振り返る。
まさか自分のものだとは思ってもいなかっただけに、雪弥は頬を引き攣らせた。数秒遅れでポケットの上から通話ボタンを切ると、矢部がワンテンポ置いて、ゆっくりと咳払いをしてこう言った。
「本田君、授業中の携帯電話は……電源を切ってだね…………」
ぼそぼそと言葉が続いたが、雪弥は聞きとれなくなった彼の言葉を遮るように「すみません」とぎこちなく笑った。他の生徒が「本田君ったら」「本田もうっかりする事があるんだな」と可笑しそうに囁き合う中、修一と暁也は珍しい物を見る顔だった。
修一と暁也を含んだ生徒たちは、矢部の合図で何事もなかったかのように黒板へと向き直った。雪弥は全員の注目が離れたことにほっと安堵し、取り出した携帯電話を机の下へと滑らせた。
「こうすると、ニの数字になるので……」
矢部が授業を再開したところで、雪弥は黒板を見つめる素振りをしたあと、携帯電話へと視線を落とした。着信画面に名前の表示がない電話番号が記載されているのを見て、思わず顔を顰める。
組織で用意された携帯電話は、通常、盗聴防止や機密回線として、独自のシステムを介し転送される仕様になっている。直接通信で電話番号が出ているという現象は、滅多にないといっていいくらいで、ふと嫌な予感を覚えた雪弥は、次の着信を見越してバイブ機能を切った。
その直後、またしても着信が掛かり、携帯電話の画面の中で音もなくコールが続いた。掛かってきたその電話番号を、口の中で数回反復したところで――
雪弥は反射的に身体を強張らせしまい、後ずさった反動でがたん、と椅子が音を立てた。
「……どうした? 本田……」
矢部が数十秒遅れで言った。他の生徒たちもこちらを振り返り、目で「どうしたの」という具合に尋ねてくる。雪弥は言葉が思い浮かばず、「いや、ちょっと……」と言ってどうにか引き攣った愛想笑いを浮かべてやり過ごした。
上手い説明も出来ないほどに、雪弥はかなり動揺していた。何故なら、音もなく呼び出しを続けているのは、兄の蒼慶だったからである。
くっそ、どこか見慣れた番号だと思ったよ!
そう思いつつ座り直し、雪弥は持ち慣れないプラスチックのシャーペンを手に持った。問題ないですと伝えるように、そのまま言葉なくノートを取り始めると、それを確認した矢部が途切れた説明を再開した。
矢部のぼそぼそとした声は掠れ、聞こえなくなると生徒の誰かが「先生、聞こえません」と遠慮がちにいつもの台詞を述べた。大半そう口にしたのは、サッカーの授業で「委員長」と連呼されていた少年、眼鏡を掛けた佐久間である。
ったく、毎回毎回、どこで僕の代用携帯の番号を調べてるんだ?
雪弥は、蒼慶の情報収集能力に呆れるばかりだった。特殊機関がそのつど発行する偽装通信機器は、携帯電話であっても通常の物とは違い、数字も五桁であったり十八桁であったりと様々で、番号の間にアルファベットやシャープが入る盗聴防止機能付属の優れ物だった。
勿論、通信番号は国家機密である。その通信機器から電話を掛けられても、相手の着信画面は「非通知」となる。しかし、番号が表示されないだけで、掛けられた電話機から折り返すと、システムで許可されている間は掛け直しが出来るという仕組みになっていた。
潜入調査を進めながら集まりつつある情報を、頭の中で整理している中で、蒼慶の毒舌をすんなりと避わせる自信がなかった。仕事でなくとも彼からの連絡だけは受けたくない、というのが本音である。
雪弥は、「一方通行で話しをされる身にもなってみろよ」と忌々しげな長男の姿を思い浮かべた。
二年前、妹である緋菜の成人式で会ったとき、実に五年ぶりの顔合わせになった長男は、すっかり大人の様相をしていた。しかし、相変わらずすました仏頂面で「貴様は馬鹿か」と蒼慶は開口一番に言ったのだ。
彼は雪弥が「久しぶり」というよりも早く、「貴様は時間に遅れる癖も直せないまま、のこのこと悠長に」と一方的な説教が始めた。そして、それを終えると、やはりすこぶる機嫌が優れないというように顔を顰めて、次の言葉でしめくくった。
――「私が貴様と最後に会ったのは五年前だが、ミジンコ並みの成長も見られないな」
蒼慶と会うのは、彼の成人式以来だった。とはいえ、その成人式を思い返してみても、懐かしさというより「あれはないよなぁ」という感想しか浮かばない。
七年前の一月にあった蒼慶の成人式の年、雪弥はまだ十七歳であった。高校を中退して特殊機関に勤めていた彼は、仕事の合間を縫って祝いに行ったのだ。しかし、そのときも顔を合わせて早々、喧嘩をふっ掛けられそうになった。
――「数年も顔を見せずにひょっこり現れよって。去年緋菜の高校入学祝いに顔を出したそうだが、私から逃げるように帰ったらしいな。上等だ、お前に基本的な礼儀とやらを教えてやろう」
――「蒼慶様お任せ下さい。ここは、わたくしが手取り足取りと――」
そこまで回想したところで、本能的な拒絶感から、ピキリと思考が止まった。
一癖も二癖もある蒼慶の執事を思い出し掛け、雪弥は恐ろしいと言わんばかりに回想を打ち払った。信じられないという表情を浮かべ、「危なかった」とぼやく彼の額には薄っすらと汗が浮かぶ。
「おい、大丈夫か?」
小声で暁也がそう尋ねてきたので、笑わない目と引き攣った口元で「何でもないよ」と答えた。雪弥がぎこちなく黒板へ視線を滑らせたので、そこで会話は終了となった。
矢部は相変わらず、自分の教科書を深く覗きこみながら話している。
その説明が所々聞き取れず、生徒たちは困惑顔で「先生、聞こえません」と告げた。授業に飽きた修一は、教科書の下にスポーツ雑誌を隠して読んでおり、視線を黒板へと戻した暁也の机には、先程配られたプリント以外は何も出ていない。
痺れを切らした女子生徒が矢部に強く指摘すると、彼は先程より聞き取り易く話した。しかし、後列席の生徒たちは一様に顰め面を作っている。
聴力が優れている雪弥には聞こえていたが、一番強く吹き抜けた風にカーテンがはためく音を上げると、生徒全員が「聞こえません」と揃えて抗議した。まるでコントである。
ほんと、穏やかだよなぁ。
雪弥は他人事のように思ったが、蒼慶からの電話連絡を取らなかったことを思い出して机に突っ伏した。
蒼緋蔵家長男、蒼慶の場合は、電話を取らなかったあとが怖いのだ。窓の向こうに広がる青空から視線を感じ、雪弥は机に伏したまま、げんなりとそちらへ目を向ける。
見てる、絶対見てる。
この感じは夜狐じゃなくて、兄さんが買収した衛星だ。
プライバシーの侵害だろ、と雪弥は呆れて窓のカーテンを締めた。矢部が「どうした」とぼそぼそ訪ねてきたので、「少し眩しかったんですよ」と答えて溜息をつく。
「……本田、勉強疲れか?あまり、根を詰めるとよくない……」
口ごもる声で矢部が言った。生徒たちから「本田雪弥」の話を聞いているのだろうと雪弥は推測しながら、何も答えずに意味もなく参考書をめくった。