第9話 二章 「普通の高校生」として始まった日常と、懺悔の鐘
クラスで一番大柄な目が細い男子生徒によって、雪弥の席はすぐに用意された。相撲取りを目指しているというこの生徒は、森重平次といった。高校生にしてはかなり大柄で、その身長も百八十センチを裕に越えていた。
制服を着ていなければ、少し幼さが残る顔をした大学生である。雪弥は彼を見て、自分がすんなり高校生に溶け込めた理由の一つを理解出来たような気がした。
実際、高校三年生の生徒たちは大きかった。大半は百七十三センチある雪弥より低かったが、発育の良い生徒たちは百七十センチ近くあった。顔や体格に幼さが残るだけで、ほとんど大人と変わらない。
雪弥は日本の高校を途中で退学していたので、普通の高校三年生の基準が分からなかった。自分が高校生として溶け込めているとは到底思えず、全く疑われていない現状が不思議でならないが、エージェントの新人がよく言われているように、任務は度胸であると思い込む事にして半ば楽観を心がけた。
じゃないと多分、精神的に参るのが先だ。今日一日がもたなくなる。
修一の後ろに席を構えた雪弥は、黒板を向く少年少女たちを眺めるように、一時間目の授業を迎えた。真新しい教科書を開き、どうにか「緊張して授業を受けています」という振りをする。
簡単な英文の教科書に飽きて眠気まで覚えてしまい、授業開始から五分で女教師の話しをボイコットした。黒板に書かれる文字を他の生徒たちのようにノートを取りながら、眠気覚ましに教室にいる子供たちの観察を始める。
そこで雪弥が驚いたのは、眼鏡を掛けた「委員長」と呼ばれている前列の男子生徒よりも、斜め前に座っている暁也という少年の方がずば抜けて賢いことだった。
一時間目の今の授業は、女教師が担当する英語だった。暁也は教科書すら広げてはいなかったが、その教師が唐突に突き付けた難しい問題もすらすらと解いた。授業の雰囲気を壊す事もなく静かに黒板を眺める姿は、雪弥の知っている不良とは少々雰囲気が違う。
観察を更に続けると、暁也と真逆の生徒がいる事にも気付かされた。雪弥の前席にいる修一は、ほとんど勉強が出来なかったのである。
基本的な問題は何となく理解しているようなのだが、ほぼ勘でやっているような気もする。教師に易しい問題を当てられても、修一は小首を傾げて「分かんねぇ」と真顔で返した。教師が落胆し、クラスメイトたちも呆れた表情を隠せないほど清々しい「だって分かんねぇんだもん」という言葉を残して、修一は席に着いた。
受験生なので、自分の案内役をさせるよりは勉強をさせた方がいいのでは……
雪弥は、後ろから見える引き出しから雑誌が飛び出している光景を見て思った。しかし、教師が修一少年の机の横に積まれている教科書やノートを注意する様子がなく、誰もそこに目を向ける様子がない事にも気付いた。
ふと気になって、他の生徒たちに視線を滑らせてみた。
女友達に手紙を書く女子生徒、教科書に落書きをして楽しむ数人の生徒たち。女教師の目を盗んで読書する真面目な風貌の少年に、机に堂々とお菓子を置いて、口をもごもごとさせる少年少女たち――
なんだか、とてものんびりとした学校だ。
高校生って、こんなものなのかなぁ。
授業風景を後列席で眺めながら、雪弥はしばらく考えて、どうやらそういうものらしいと苦笑した。授業中であっても、この教室では楽しげな会話が溢れていた。時々女教師も黒板に字を綴ることを中断して、生徒たちの話しに入っていく。
自分が学生だった頃は、勉強とストレス発散、母の見舞いばかりで気付かなかったのだが、思い返してみると似たような光景があったような気もする。考える事が多くて、やるべき事が重なっていて余裕がなかったせいで、今の今まで気付きもせず忘れていたらしい。
そうか、『普通』ってこんなもんか。
なんだか居心地が良いな、と雪弥は開いた窓の外へと視線を向けた。ナンバー1がいっていた「仕事の合間に休日を楽しめばいい」の意味が、少し分かったような気がして目を細める。
耳に女教師が説明を再開した声が入り、生徒たちが緊張した様子もなく静まり返った。外には晴れ空が続き、下には穏やかな気候に包まれた運動場が広がっている。そこには中学生の幼さを残した男子生徒たちがいて、白い体育着で体育の授業を楽しんでいた。
そういえば、僕が学生の頃って、こんな景色をゆっくりと見る暇もなかったな。
何もしないまま、ぼんやりと過ごした記憶はあまりない。それを思い出して、雪弥は視線をそっと黒板に戻した。
英字を書き綴り終わった小柄な女教師が、前列の女子生徒と話をしていた。彼女のお腹には、子供がいるようだ。少し膨らんだ腹部をさする姿に、他の生徒たちの雰囲気も穏やかなものに変わっていくのを感じる。
そのとき、雪弥は不意に女教師と目があった。小さな丸い瞳が真っ直ぐに彼を見つめて、静かに微笑む。
「はじめまして、本田君」
雪弥は、聞き慣れない名字に数秒遅れで顔を上げた。
一瞬だけ「本田って誰だ」と思った直後に、今の自分がそうだったと再確認する彼に構わず、彼女はにっこりとして続ける。
「早速だけど、黒板に書かれている英文を読んでもらいましょうか」
不意打ちを食らい、雪弥は自分に集まる視線を感じつつ硬直した。思考回路を高速回転させ、自分がどうするべきかを考える。
学力の伸びに悩む生徒を演じたいが、ここは一つ、進学校に通っていた信憑性を高めたほうがいいだろうとコンマ一秒の内に彼は判断した。女教師に促されながらゆっくりと席を立ち上がり、「英語は得意だが他の科目の伸びに困っている学生像」を脳裏に思い浮かべる。
数ヵ国語を話す雪弥にとって、黒板に書き綴られた長い英語を読むのは容易い事だった。質問攻めにされた際、国立国際大学付属高校から来たと彼は答えていたのだが、生徒たちの認識は「超難関大学へ続くハイレベルな進学校」から来たと事が大きくなっていた。
こちらを見つめるクラスメイトたちの瞳には、「国際と付く進学校から来たのだから英語のレベルも高いだろう」という好奇心が浮かんでいる。雪弥はそれを感じながら、現地英語ではない、出来るだけ教科書に沿ったような英語を心掛けて口にした。
『――悲しみはときに残酷だ。懺悔の言葉も間に合うことなく、私はそれに打ちのめされる。ああ、愛しい人。あなたはどうして逝ってしまわれたのだ。私一人だけを、この世界に残して』
しん、と教室が静まり返った。
あまりにも静かすぎて、開いた窓から、運動場を走り回る少年たちの賑わいが聞こえてきた。どっと騒がしくなった隣の教室から「先生、この俺がその問題を解いてみせますよ!」と自信満々の声が上がり、「西田君うるさいッ」と女子生徒が毛嫌いするように一喝する声まで聞こえてきた。
前列席で「委員長」と呼ばれていた男子生徒が、目を見開いたままゆっくりと眼鏡を押し上げる。他の生徒も、まさかという顔でぽかんと口を開けていた。
しばし生徒達が黙っている様子を、女教師が不思議そうに見やった後、「素晴らしいわ、本田君、ありがとう」と拍手をしたところで、彼らは金縛りが解けたようにさわがしくなった。
「さっ、次はその和訳を、川島君にやってもらいましょうか」
「ええッ、俺っすか!?」
前列の男子生徒が困ったように頭をかき、どっと笑いが起こった。
先程のしばしの沈黙の間は「もしやへたを打ったか」と緊張したものの、結局なんでもなかったらしいと察した雪弥は、小さく息をついて席に座り直した。取り越し苦労だったようだ、と心の中で呟いて緊張を解く。
そのとき、不意に前席の修一がこちらを振り返った。雪弥は「どうしたの」と言いかけて、思わず言葉を詰まらせて後ろへと身をひいた。
修一が、好奇心と尊敬できらきらと瞳を輝かせていたのだ。これまでそんな瞳で見つめられたことがなかった雪弥は、気圧されるように身をそらせていた。真っ直ぐに向けられる無垢な輝きに耐えきれず、口許が引き攣る。
今すぐ逃げ出したい衝動を堪えて、雪弥は先に声を掛けた。
「えっと、何かな? 比嘉君……?」
どうしてそんなにきらきらしているの、とは言えずに、雪弥は言葉を濁らせる。すると、修一が気にした様子もなくけらけらと笑った。
「修一でいいって。やっぱお前、頭良いのなぁ。めっちゃ格好良かったぜ!」
「そ、そうなんだ……あの、別にすごい事ではないから。ほら、授業中だから前を見よう――ね?」
「おう、邪魔して悪かったな!」
ニカッと笑って、修一が前に視線を戻していった。
雪弥は内心ほっとしたが、別方向からの強い視線に、思わず作り笑いが再びピキリと引き攣った。横目にこちらを睨みつけていた暁也に気付き、ぎこちなく顔を向けて、仏頂面を更に顰めた彼を見つめ返す。
「あの、何かな金島く――」
「暁也だ」
暁也が無愛想に口を挟んだ。女教師が別の生徒を指名して新しい英文を読ませ始めたタイミングで、一度黒板へと視線を戻したものの、彼はすぐこちらへと視線を滑らせる。
何か聞きたいことでもあるんだろうか、と雪弥が頬をかいたとき、暁也は表情の読めない鋭い瞳でこう続けた。
「お前、外国にいたことがあるのか」
「え? なんで?」
雪弥は尋ね返したあと、彼が優秀な頭脳を持っている生徒だと思い出した。聞き慣れている者はそれが本格的な現地の英語なのか、日本人形式の英語なのか分かるのである。
とはいえ、これくらいの英会話能力を持った学生は、探せばいくらでもいた。国際社会とあって、日本人の大半が英語技術を磨こうとしている時代である。「本田雪弥」の設定は、国際大学付属高校に通っていたという事になっていたので、そんな生徒が英語を得意としていてもおかしくはない。
「お前の英語、完璧だったからよ」
憮然とした様子で暁也が述べた。雪弥は「そう?」とすました顔で言って、自然な笑みを作る。
「まぁ、前の学校ではすごく得意だったよ」
「ふうん」
暁也が片眉を上げて、数秒の間押し黙ったあと、興味もなさそうに前へと向き直った。その会話を耳にしていた生徒たちが、「本田君、英語が得意なんだねぇ」と感心したような声を上げる。
雪弥はノートを取りながら、あとは微調整で他の教科点を落とすだけだと考えていた。それが終われば、英語だけが得意な進学に悩む生徒像が完成するだろう。
『ここにいるのは、やっぱりつまらない人間ばかりだ』
英語で語る暁也の声が聞こえて、雪弥は、ふと手を止めると彼を見た。
修一は暁也が何を言ったのかさっぱり分からず、「突然どうしたよ」と怪訝そうに声を潜める。しかし、暁也は面白くもなさそうに黒板の方を眺めたまま、唇をへの字に曲げて腕を組んでいた。
暁也の静かな声色は、答えの返ってこない独り言だとして呟かれたものだった。発音は日本人独特のもので、癖がなく聞き取りやすい。
その独白に至るまでの事情は知らないが、大人である雪弥としては、何やらそれなりに悩みでもあるのだろうか、と感じてしまう。どうしようかと悩んだものの、彼より少し人生経験が長い身として、少しだけ助太刀するつもりで呟きを返す事にした。
この子は英会話にも心得があるようなので、きっと伝わるだろうと思った。
『詳しい事は知らないけれど、つまらないと思うから、そう見えてしまう事もあるんじゃないかな。――ここは、とてもいいところだと僕は思うよ。何もかも穏やかで、平和だ』
きちんと頭で和訳出来たかも雪弥には分からなかったが、暁也が少し驚いた顔をしてこちらを振り返った。「だから、突然どうしたよ」と修一は交互に二人を見やるが、答える人間はいない。
なるほど、どうやら優等生らしく正しく英文を和訳できたらしい。
雪弥はそれ以上何も言わず、口元に微笑をたたえて意味もなく手の中のシャーペンをもて遊んだ。しばらくそうしていると、二人の少年が「気のせいだったのかな」という顔で目配せをして、正面に向き直っていった。
その時、重々しいチャイムが鳴り響いた。心臓を震わせる音色に、すべての生徒が魔法にかかったように動きを止める様子に目を向けて、雪弥は回していたシャーペンを止めた。
ああ、懺悔の鐘か。
聞いてすぐ、エージェントだった尾崎が設置したのだろうと察した。それは特殊機関本部を含めたすべての支部に定期的に流れる音色であり、罪を犯してはならない、犯した罪を忘れてはいけない。それでいて同じ過ちを繰り返してはならない、という意味があった。
自分たちに寄越される依頼は、ほぼ処分決定が下ったものがほとんどだ。生きて返さず、命を取る事で任務が終了する。
皮肉なものだ、といったナンバー1の言葉が雪弥の脳裏に横切った。お前は人が子孫を残す遺伝子レベル同様に、命を奪うこと、殺すという行為を本能的に知っているのかもしれない、と言って彼はらしくないほど悲しげに笑った。
雪弥は十七歳の頃、彼に「だからこそ、命が消えるという重みを理解し難いのだ」と言われた。なぜかその言葉が鋭く突き刺さったのを、今でもはっきりと覚えている。
その思い出に引きずられるように、殺すために生きているのだろう、とどこかのエージェントに一方的に非難された出来事が蘇った。サポートにあたっていた同僚たちが嘔吐する中で、サポートリーダーだった男がこう喚いたのだ。
――なぜッ、なぜ必要もなく『標的』共をバラバラにしたんだ! チクショーお前は、血も涙もない化け物だ! 俺はッ、俺は……!
――お前とだけは一緒に仕事をしたくない!
怨念のような呪いの声のすぐあと、ナンバー1がよく口にしていた「それでもお前は人間なんだ」という言葉が記憶の向こうから聞こえた気がした。別に気にしていないというのに、どうしてか彼は、そう言われて非難されるたび茶化しもしないで、雪弥が人間である事を勝手に肯定してくる。
命は大事だ。僕はそれを知っている。
生きている者は、壊れないように優しく扱わなければいけない。
脳裏に焼き付いて離れない様々な声を、自分の言葉で塗り潰し、雪弥は授業終了を告げるその音を聞きながら、祈るように目を閉じた。




