36(完結)
「ここで待ってて」
と、ミズさんが言い、扉を閉めてから十分が経った。
四階建てオートロック式マンションの二階の部屋の前に立ち尽くし、不審者におもわれそうな居心地の悪さと手持ち無沙汰から通路の外側の壁に肘を乗せ、景色をぼんやり眺めた。すこし離れたところにはショッピングモールとおおきな病院があった。ショッピングモールの広い駐車場を出入りする車を眺め、上空に浮かぶアドバルーンがぷかぷかとゆれて動くのをみていた。
後ろのドアがカタリと開く音がして、振り向くとミズさんがドアから半身をだし、「いいよ」とつぶやいた。
部屋に入ると、仄かにたばこと絵の具の混じったような香りがした。数メートルほどの細く短い通路の左手には白いドアがあり、通路の先には六畳程の部屋があった。奥にはおおきな窓があり、ベランダに続いているようだった。白いレースのカーテンが、ひらひらとゆれて窓の横にある机の椅子を撫でていた。左奥にはベッドが置かれ、机の手前にはテレビ、カラーボックス、衣装ケースが二ケース置かれていた。
「あんまりじろじろ見ないでくれますか」
ミズさんは穏やかな口調で言い、窓の横の木製の机の前まで歩き、机の上に置かれたスケッチブックに目をやった。
ぼくは机の手前まで歩き、ミズさんをみる。
ミズさんはゆっくりとまばたきをして、ちいさく頷く。
ぼくはスケッチブックを手に取り、ゆっくりと開く。
A3サイズ程のスケッチブックを開くと、林檎や紙パックの牛乳や靴などの手近なものから風景や見たことのあるCDジャケット、猫などさまざまなものがデッサンや、水彩画で描かれている。
いくつかのページをめくる。
青みがかった夜空がみえ、砂漠に人が佇んでいる水彩画のページで手がとまる。
青みを帯びた深い紫色の夜は幻想的で不気味にも見え、真上の空のまんまるい満月は地上をやわらかく照らしている。月は白く描かれ、よく見ると色の塗られていないままの紙の色のようだった。何も塗られていない紙の月は夜空に浮かぶちいさな光の穴のようにもみえた。月の光に照らされ、佇む彼女はぼくとおなじようにまんまるい月をみている。やわらかな月の光が彼女の全身をやさしくつつみこむようにうっすらと輝き、彼女の肩よりも長い金色の髪はいつもより艶やかでとてもうつくしい。
砂の上に両足でしっかりと立ち、上空の月を見詰めるその姿は、表情はみえないけれどとても凛々しく、力強い意志を感じた。うつくしい金色の髪の中から一束の赤い髪が弾むように流れていた。
不意に一粒の涙が頬を伝い流れた。
忘れていた息を短く吸い、後ろにいるであろうミズさんに気づかれぬよう、手のひらでさり気なく頬をぬぐった。
ミズさんは何も言わず、ティッシュペーパーを一枚渡してくれた。
「ねぇ、そっちには可愛い女の子もたくさんいるんじゃない?」
「ううん。ほとんどいない。クラスは男子ばかりで女子は思ったよりかなり少なかった」
「そうなんだ」
「そうなんだよ」
「なに?」
「なんでも」
ぼくとミズさんは夜の空いた時間によく電話で話す。受験が終わり、ぼくはいくつか受けた大学のひとつに入学した。
近況を話し、とめどない話を続けているとどちらからともなく、金色の髪をした彼女の話をすることがある。
この世界で会ったことのない彼女のことを、まるで古くからの親しい友だちみたいに話すのは、傍からみればおかしなことかもしれない。
けれども、ぼくはミズさんと話していると彼女はほんとうにこの世界のどこかにいるような気がしてくる。たとえば、あの砂漠で、カフェで、ぼくらがまだ見たことのないどこかで。
そんなとき、ぼくらはきっとおなじ夢をみている。
後半の更新が遅くなり、予定よりも長くなってしまいましたがおつきあいいただきありがとうございました。
たのしんでもらえていれば幸いです。
いつかまたどこかでお会いできればうれしいです。
ありがとうございました!




