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失われたもの  作者: 宮ノ木 渡
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 男は朝目覚めると、憤然とした様子で女が自分の顔を見つめていることに気が付いた。男には何が起こっているのかさっぱりわからなかったが、とにかく「おはよう」と言った。女はただ「うん」と頷いただけだった。

 朝食はいつものようにきちんと用意されていた。この家では女が料理を担当しているらしかった。男は顔を洗い、歯を磨くとテーブルに着いた。すでに化粧を終えていた女もテーブルに着いて朝食を食べ始めた。食べている間、二人の間に会話はなかった。ただ男が「今日は何時に帰って来るの?」と訊ねると女は「わからないわ」と答えるだけだった。男はテレビのスイッチを付け、その後の沈黙を雑音で紛らわした。

 彼女が仕事にでかけてしまうと部屋の中は再び沈黙に包まれた。男は朝食を食べ終えると、いつもそうしているようにパソコンの前に座り日記を書き始めた。


* * *


 男が仕事を辞めてから半年が経とうとしていた。その間日記を書くことが彼の新しい習慣になり欠かさず続けることができたが、新しい仕事を探す気がどうしても湧いてこないのだった。貯金はそこそこあるし、一年ぐらいはぶらぶらしていても構わないだろうと考えていた。何よりも、彼には次にするべき仕事のビジョンが全く見えていなかった。

 男は日中、日記を書き終えた後で散歩にでかけることにしていた。だいたい彼は好んで人気の少ない道を選び、歩きながら時折空想にふけっていた。行きつけの公園に着くと、ベンチに座り、子ども達がボールで遊んでいる姿をぼんやりと眺めた。たまにスーツ姿の中年の男がベンチに座っていることがあり、彼は暢気にその男の人生に意識を移し、あることないこと考えては、またぼんやりとしていた。青空にはいつも雲が漂っていた。

 男はなにかを諦めてしまったようだった。仕事をしていた時には深夜を回っても家に帰れないことがよくあった。睡眠時間を削り、なんとか日々の業務をこなしていたが、彼の性格からいって残業時間の多い苛烈な証券業界には向いていなかったようだ。営業ノルマを達成できず、上司からは厳しく叱責され、同僚からは蔑まれた。彼にとっては今のこの状況、つまり日記を書いて、散歩をして、日々雲が流れていくように過ごしている生活が、余程向いていた。

 

* * *


 日記にはいつも、前の日に起こった出来事を書いた。仕事を辞めてから彼女がだんだんと冷ややかになっていく様子を書いたし、散歩中に浮かんだ空想をそのまま書いたりもした。人に見せる為のものではなかったので、彼が読み返した時に理解できる程度の文章だったし、時には一行で終わることもあった。

                 

〈いつもと変わらぬ日々〉

 

 あまり書くことが無い時にはこのように書き始め、それから何か書くべきことが浮かぶこともあれば、そのまま手が止まることもあった。

 今では日記を書くこと、散歩をすることが男のささやかな仕事になっていたが、それ以外に暇を持て余すと本を読んだ。彼は海外小説を好んで読んだが、それまでは(大学時代から就職した後)はビジネス書や自己啓発本を主に読んだ。彼はそれらを読むことで何か自分が特別な、社会に価値をもたらし得るような人間だと錯覚していたが、ある時にふと、それがまったく根拠のない、いわばその空想に浸るために読んでいるのだということに気づいた。そうして、ある時から急速に興味を失ってしまった。いくら自己啓発をしようとも、本から受けた啓示の効果は長くても一か月ほどですっかり失われてしまった。それからは自分の頭で考えるように努めた。仕事についても、自分についても。


* * *


 海外小説への興味は以前からあった。文学への興味を幼少期に、彼は母親から刷り込まれていた。良妻賢母を地で行くような母親は料理、炊事、洗濯を完璧にこなし、また文化的教育をも怠らなかった。彼女は夜、子どもたちを寝かしつけるために毎日、本を読み聞かせた。最初は絵本だったものが、活字に変わり、児童文学を読み聞かせるまでになった。『マチルダは魔女』や『チャーリーとチョコレート工場の秘密』など、子ども心をくすぐるような選書だったし、自然な抑揚をつけて読まれるその物語を聴きながら、男はいろいろなことを考えた。児童文学につき物のフィクショナルな部分と、それらが導く物語の道筋が少年の予想をことごとく裏切り、話の続きを考えながら眠りに落ちたものだった。彼の空想癖もまたそのころに、(無意識下であるにせよ)育まれたのかもしれない。

 幼少期から小学校を卒業するまでその習慣が続いたために、男は自然と小説に対しての関心を持つようになった。


* * *

 

 日記を書くということは男にとって重要な意味を持っているようだった。彼は日記の中で自由に思考することができた。クジャクが羽を広げるように、樹木が枝葉を伸ばすように思考を広げていく。そのことが今の彼にとって唯一の娯楽になっているようだった。少なくとも仕事を辞めた後、数か月の間は。

 何をしても楽しくない、何を見ても心が動かされない、と男が日記に書いたのはつい最近のことだった。彼はそのことについて自覚していたが、そこから彼の思考は止まってしまうのだった。感情の湧いてくることがない。不思議に思って男はその詳細を日記に書き留めたが、原因に言及する段になると、とたんに手が動かなくなるのだった。そうなると彼はいつもするみたいに布団をかぶり、横になるのではなくそこで座禅を組むように座った。目をつぶり、何も考えないように努めたが、それでも頭には雑念とも呼ぶべき、他愛もない言葉が浮かんでくるのだった。それらをひとつずつ消しながら、彼は闇の中へと潜っていった。


* * *


『ある日の男の日記』


 小学生の時にあまりにも学校に行きたがらないものだから、母親がぼくを精神病院に連れて行ったことがあった。部屋に入ると髪の長い女医が一枚の紙と鉛筆をぼくに渡した。


「ここに木を描いてね。どんな木でもいいよ」


 そう言われても、ぼくは何を描くべきか全く思い浮かばなかった。母親の顔に助けを求めても、なんでもいいから描いてみな、と言っただけだった。ぼくが何も描かずにいると母親と女医は二人して世間話を始めたので、二人の注意を惹かないように静かに、そして淡々と松の木を描いた。一度描き始めると、ぼくは飽きることなく延々と細かい描写をしているつもりだったけど、最後に見てみると幹は異様に太く、木肌はところどころ剝がれており、針葉樹林らしいとがった葉が頭に少し付いていて、その先には松ぼっくりが描かれていた。松ぼっくりがなければ、だれもこのアンバランスな木が松だとわからなかったかもしれない。描き終えたところで、カウンセリングは終わった。

 ぼくはこの女医と直接話した記憶があまりない。大体は母親と女医が話をして、ぼくはその時々で箱庭を作ったり、別の絵を描いたりした。

大学に入った時だから十八歳の時に、ぼくは当時のことを母に訊いたことがあった。あの時、女医とどんな話をしていたのかと訊くと、母は少し考えてからその時の話をした。


「この子は両親から捨てられたと思っています。最初にそう言われたの。もちろんあなたがいないところでよ。私はその理由が検討もつかなかったのだけれど……」


母はそう言っていた。言われて初めて自覚した。ぼくは両親に捨てられたと思って今まで生きてきたんだって。その感覚は幼い時から確かにぼくの中にあったようだ。思えば、妙によそよそしい感覚で家族と共に過ごしてきたように思う。


* * *


 彼には母親同様、なぜ彼が親に捨てられたと思っているのか、わからなかった。感覚的にはとても納得できたのだが、なぜそんなことになってしまったんだろうか。

 男は目を開け、布団から出るとパソコンに向かい日記を書き始めた。日々の出来事は、そういえばそんなこともあった、という程度の感慨しか彼に抱かせなかったが、今の彼には書き溜めておくという行為が重要なことのように思われた。書いているうちに、両親、ひいては家族に対しての距離感を思い出していた。一番印象に残っているのは、幼少期の友人に対して彼がしたことだった。彼は(今でもそう思っているが)当時の友人を自分から捨てた。

 

* * *


 彼には友人がいたことがあった。一クラスしかない小さな小学校に通っていた時のことだ。家が近いという理由だけで、自然と友達ができていたが、彼はある時から学校に行かなくなってしまった。彼の中で原因らしいことは思い当たらないのだが、とにかく学校に行きたくなかった。心配した両親は彼を休ませることにした。彼はそのまま一年間、家に引き籠ることになった。そのときに、彼は意識の中から友人を抹消した、自覚的に。今でもそれを決めたことを覚えている。もしもう一度、友人と会うことがあっても、彼らと自分は無関係であると、決めたのだ。一年も休んでいたので、再び通い始めることに勇気は要ったが、彼は再び登校を始めた。友人は彼を快く迎え入れたが、彼の中では友人と自分は異質なものなのだという妙な感覚が生まれた。それから、彼は友人に対しても愛想笑いを浮かべることになった。考えてみれば、彼は家族に対していつも愛想笑いを浮かべていたようだった。本当のことは何も言えない。いや、本当のことなんて彼の中にはなかったのかもしれない。彼の中では愛想笑いこそがそのときの彼の気持ちを的確に表現していたようだった。


* * *


 彼は過去を振り返りながら、こんな話は誰にもしたことがないことに気が付いた。なんで自分はこんな風に殻に閉じこもっているのだろう。唯一本音を吐ける場所は日記の中にしかなかった。彼はパソコンを閉じ、テレビを付けた。テレビの中にいる人間は皆愛想笑いをしているように彼には感じられた。


* * *


 夜になって彼女が帰って来ると、男は「おかえり」と言った。女は「ただいま」と言って大きな紙袋をテーブルの上に置いた。

 男はいつものようにテレビを見ていた。男は時々笑い声を上げずに笑う。二人が付き合い始めたころに女が「ねえ、今面白かったの?」と訊くと「面白かったよ」と男は応えたことがあった。しかし、女には彼が楽しそうにしているように見えなかったし、そのテレビが面白いとも思えなかった。


* * *

 

テーブルの上に置かれたハンバーガーの入った袋を男は不思議そうに眺めていた。「今日の夕食は?」と男が訊くと「今日の夕食はこれよ」と女が答えた。彼女は自分の声が少し不機嫌に響いたことに気づき、後で後悔したが男は何も気にしていないようだった。女はスーツを脱ぎ、スウェットに着替えた。それから食事をしようとダイニングに戻ると彼はすでにハンバーガーを食べていた。女は驚き(彼はいつも女が来るのを待っているから)「そんなにお腹が空いていたの?」と訊いた。「あぁ、そういえば腹が減っていたようだね」と彼は自分のことすらよくわかっていないみたいに答えた。

食事中、女と男が会話を交わすことは(今となっては)ほとんどない。彼は向かいに座った女とは目を合わせずに無心にハンバーガーを頬張っている。美味しいのか美味しくはないのか男の表情からは読み取れない。女がいつも作っていた食事が突然ハンバーガーになったことに驚いている様子もない。

   


* * *


 いつから彼の表情から感情が読み取れなくなったのだろう?と女は思った。私が笑っている時に彼が笑わなくなったのはいつからだったか。女はそのきっかけを思い出さなくてはいけないような気がしたが、その前に彼に昨夜の出来事を訊くべきだと思った。


「ねえ、昨日の夜、外に出てあなたは何をしていたの?」

 

 ふいに女が訊ねると部屋の中に沈黙が漂った。彼は手を止め、女を見るために視線を上げた。


「昨日の夜……何もしていないよ。ただ眠れなかったから外に出ただけ」

 

 男はそう言ってまたハンバーガーを食べ始めた。女は男が嘘をついていることが直感的にわかった。彼は嘘をついている。いや、嘘というよりも、ただ大事なことを何も言わないように努めているのだ、と思った。

 

「外に出て何をしていたの?」

「ぼくはただ外に出て、それから見たんだ」


 それだけ言うと、彼は沈黙のヴェールを被り、黙々とハンバーガーを咀嚼していた。


「何を見たのよ?」

 

 苛立ちを隠せずに、女はハンバーガーを一つ掴んで包みを広げた。マクドナルドのハンバーガー特有の匂いはすでに部屋の中に立ち込めている。男は右手でポテトにケチャップをつけながら、左手でコカ・コーラを飲んでいた。男はそれ以上何も語らなかったので、会話は終わってしまった。










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