西長堀 航 編
二〇〇二年 八月一六日
上ヶ原海岸・・・兵庫県北部の山陰海岸の一角。
近くには海水浴客も少なくない諸寄海岸や居組海岸といった知名度の高い海岸もある。
だが、少し外れたこの上ヶ原海岸は遊泳禁止区域とあって、あまり人気はない。昼間でも人影はまばらだった。
日没が近くなるにつれてその人影も次第になくなっていく。後には竿を垂れる僅かな釣り客等が居るだけになる。
俺は今年もこの海岸にやって来た。スニーカーをビーチサンダルに履き替えて、マジックタイムの海の光景を見ながら砂浜を歩く。潮の香と浜風が心地良い。
少し肌寒さを感じて、腰に巻いていた紫紺のラッシュガードパーカーを羽織り、サングラスをポケットに仕舞い込んだ。
ふと視界の中に俺とは逆向きに砂浜を歩く人影が飛び込んできた。
赤茶けたセミロングのポニーテール。黄色で統一したTシャツとロールアップショーパン、純白のビーチコートとビーチサンダル。逆光になっているため顔はよく見えないが雰囲気はよく知っている女性のものだった。
「・・・ナル?」
こんな所にいる筈はないと分かっていながらも口をついて出た俺の声が届いたのか、人影はこちらに顔を向けた。
「・・・コー君なの?」
俺は彼女の怪訝そうな表情が見て取れる位置まで近づいた。
「やっぱりコー君。あたしの事、ナルって呼ぶのはコー君だけだから。まさかとは思ったけど何でこんな所にいるの?」
俺を誰だか確認できたからか一気に表情が緩んで、声が明るくなる。
「ナルこそ何でこんな所にいるんだ?」
「先に聞いたのはあたしだよ。泳ぎに来た風でもないし、観光?」
「観光・・・そう観光」
「ふーん。ま、いいけど」
俺の曖昧な答に彼女は不満そうな顔を見せた。
「じゃあナルはどうなんだよ」
「あたし?言った事なかったっけ。ここは、あたしの母の実家のある・・・田舎だよ」
彼女は俺の顔を覗き込んで言う。
「ところで、コー君はこれからどこへ行くの?」
「特に目的地は無いよ。夕暮れの日本海を見てぶらぶら散策していただけだから。後は宿泊先に帰るだけ」
俺は今来た方向を見て言った。
「ホテルならあたしと一緒に行こう」
「?!」
「何驚いて・・・何か誤解してるでしょ」
少し怒った様にナルが言う。
「誤解って。誤解するような事言うから」
「ごめん、あたしの言い方が悪かったわ」
自分の失言に赤面したのか、ナルは顔を隠すように背中を向けて歩き出した。
「行く方向が一緒なら一緒に行こう。大分、暗くなってきたし実はちょっと心細いなとは思ってたんよ」
「ナルの母親の実家ってこんな所にあったんだ。知らなかった」
海岸沿いの国道に出て俺はサンダルをシューズバッグに入れて、スニーカーで歩いていた。ナルは鞄からショートブーツを出して履着替えていた。
「正確には鳥取の端っこだけど。電車で二駅のとこ」
県境だから何も驚く様な事ではないけれど、近畿圏外というと随分遠い感じがする。
「それでナルは今頃どこへ行くんだ?駅は逆だし」
「勉強教えてもらいに行く途中だったんだ。こっちのホテルに泊まっているクラスメイトに」
微かに悪戯っぽい笑顔を見せる。
「クラスメイト?」
「唯名君だよ」
「唯名君って、しょうじゆいな~ぁ?」
{何大きな声で怒ってんのよっ。}
「怒ってるんじゃない。驚いただけだ」
俺とナルは子午線の町として有名な明石市の私立高校、明石城南高校に通う二年生。俺は名前を西長堀航と書いてニシナガホリワタルという。ナルは桜川鳴海と書いてサクラガワナルミという。俺たちは幼稚園時代からの腐れ縁の幼馴染み。今も同じクラスにいる。
ナルの一家は俺の住むマンションの隣部屋に越してきた。初めて俺がナルの母親に会った時、漢字で書かれた俺の名前を郵便受けかどこかで目にしたのだろう。コウと誤読してコウ君と呼んだ。以来ナルは俺をコー君と呼ぶ。
思春期に入るとナルも次第に女の子らしくなり意識する時期もあったが幼馴染みは幼馴染み。俺にとってナルは妹みたいなものだった。
そんな二年の一学期の末に俺たちのクラスに編入してきた男子が小路唯名だった。
前の学校の名前までは聞いていないが、彼はかなり学力偏差値の高い私立高校に在籍していたらしい。噂ではその学校でも屈指の秀才だったらしいが、出席日数が足りず留年したとか、編入試験は形式的なもので、殆んど無試験で受かったようなものだったと聞いていた。
噂とは定かではないし、尾ひれがついたりするものだけれど、火の無いところに煙は立たない。何かしらの経歴の持ち主なのであろう。
一年年上ということもあってみんなはショージさんと呼んでいた。しかしショージさんは他人を寄せ付けない、孤独癖のあるような男子だった。最初は親しげに話しかけてクラスメイトも次第に離れていった。
俺も、どうもこの人が苦手だった。転校当初から俺を見る目つきに殺意でも篭ったかのような視線を感じていた。
「ナルがショージさんと出来ていたとは知らなかったな」
「出来てって・・・そんな関係じゃないよ」
「だったら普通、女の子が一人で男の泊まっているホテルに行くか?」
「まあ、ちょっとしたひと夏のアバンチュールもいいかなって」
ナルは笑いながら俺の顔を伺う。
「唯名君はね、そんな人じゃないよ。唯名君は勉強できるし、学校でも教えて貰っているし。信用できない?」
確かに学校でもナルはショージさんに積極的に接しているのは見ていたけど。
「唯名君も以前はこっちに住んでいて、あたしの母の実家が近くだって言ったら意気投合しちゃって、勉強教えて貰う約束しちゃった」
ナルがそこまで言うなら、彼女も女の子だ。それなりの覚悟は出来てやっているとは思いたいが。
「じゃあ、コー君もついて来てくれる?」
「俺が?」
「唯名君にはあたしから説明する」
「男女間に水を差すような・・・」
「くどいけどそんな関係じゃないって」
ナルは俺の言葉を遮って言う。
「それに本当は・・・ちょっと安心」
小声でそう続けた。
「会話が弾んで勢いで安易に約束しだけど、本当はさっきまで迷ってたの」
ナルに導かれてショージさんの泊まるホテルに着いて俺は驚いた。
「ここが」
俺はラッシュガードパーカーにクロップパンツ、スニーカー。ナルもTシャツにビーチコートとショーパン。
とてもそんな格好がそぐわない雰囲気のシティホテルだった。
それより驚いたのは、俺の宿泊先の小さなホテルの真向かいに出来た新しいホテルだった事だ。
驚く俺を他所に、ナルはケータイで何やら話している。
「コー君、入ろう」
ナルはそんな装いなどお構いなし。平気に豪華なエントランスをくぐる。俺も気後れしながら続いた。
「一緒にロビーで待っててって・・・あ、降りてきたみたい」
ナルはエレベータで降りてきたショージさんを見つけて手を振った。
ショージさんもラフな装いで俺は安堵した。
ショージさんの部屋は意外と広かった。
「伯父の肝いりで借りているんだ。夏休みの宿題もあるしテーブル付きの大部屋」
俺の表情を読み取ってかショージさんはそう言って俺たちに座るよう促した。
早速ナルは勉強道具を広げ始めた。
「西長堀君・・・だよね。転校してすぐ夏休みになったし、まだ顔と名前を覚えていなくて」
そういうショージさんは転校当初の厳しい視線とは打って変わって、おだやかとも感じられる目で俺を見た。
「ごめんね、唯名君。来る途中に偶然、彼に出くわしちゃって・・・」
ナルが口を挟む。
「彼ってカレ氏?」
「只の幼馴染よ」
間髪入れずにナルは否定した。
「ところで西長堀君はどうする?」
ショージさんは麦茶の注がれたグラスを並べて、俺を一瞥した。
「俺は勉強道具も持ち合わせてないし邪魔なら退散するぜ」
「コー君」
ナルが俺を睨み付ける。
俺はグラスを持ち窓際の椅子に座った。
「待たせて貰ってもいいかな」
「歓迎するよ、西長堀君。ところで西長堀君はどこに泊まって・・・」
「ちょっと待て」
何か言いかけたショージさんを制す。
「西長堀でいいよ。同級生だろ」
ナルの表情を伺うような素振りを見せて、ショージさんは少し溜息を付く。
「西長堀・・・コー君かな」
「ワタルだよ。ナルがコーって呼ぶのは小さい頃に間違って覚えてそのまま呼ばせている。幼馴染みだし、今更否定してもナンセンスだから」
「ねえ唯名君」
「クラスメイトは西やんとかニッシンとか呼ぶからそれでいいぜ。西長堀なんて長ったらしいだろ」
「ねえ、唯名くん」
ナルが呼びかける。
「あたしは唯名君の事は唯名君って呼ぶけど、唯名君は桜川さんって呼ばれるのも堅苦しくない?桜川っていうのも案外長ったらしいし」
「・・・じゃあナルでいいかな」
ナルは何故か一瞬困ったような表情を見せた。
「友達はみんな、なっちゃんって呼ぶわ」
「・・・なっちゃんか、分かった」
ショージさんは目を細めて静かに答えた。
冷蔵庫の中身なら何でも飲んでいいと言うショージさんの言葉に甘えてスポーツドリンクを飲みながら窓の外を眺めていた。
ショージさんは俺の宿泊先を聞いて驚いていたが、近くてすぐ帰れるのならよかったと言っていた。
「そろそろ帰るか」
勉強も一段落着いたらしく少しくつろいだ後ショージさんが促した。
「あたしちょっとお手洗い借りるね」
ナルが外すとショージさんは、バイクを出すから先に下りる。ナルが出てきたら一緒に下りて来て欲しい、鍵はオートロックだからと言って先に出た。
ナルはスカジャンに着替えて出てきた。
「ほんとに良かったのか、俺が一緒で」
「今更、何言ってんの」
「いや、送り狼までは保障出来ないぜ」
「ありがと」
とびきりの笑顔でナルはウインクしてみせた。
上ヶ原海岸の満天の星空。星降るというのはこんな光景を言うのだろう。
「待たせた」
ホテル前の国道にショージさんがバイクを押して来た。
「ヤマハ・・・ペケジェイRか」
ショージさんは微笑を浮かべる。
「分かるのか」
「車種くらいなら」
「中古だが、そんなに走ってないし。一五の春に伯父から譲ってもらったんだ」
言いながら濃紺のジェットタイプのヘルメットをナルに渡す。
「街中を走るには四〇〇ccで充分だろう。高速でも臆せず走れるし。ネイキッドは趣味だけどな」
ショージさんはナルに渡した物と同じジェットのヘルメットを被りバイクに跨った。
「西長・・西やん、なっちゃんを送った後で少し話したい。ケータイの番号いいかな?」
シールドを上げてショージさんが話し掛けてきた。
「ショージさん、悪いが俺は携帯電話を持ってない」
以前は携帯電話を持っていたが、その責任や通話料も払えない内はもう持ちたくないと思っている。
「なら、部屋番号を教えてくれないかな。向かいのホテルに直接かけるよ」
「四〇三だよ」
「四〇三だな、一時間以内にかける」
ナルが後部座席に跨って手を振ると、ショージさんはバイクを発車させた。
俺はホテルに帰るとベッドに倒れこんだ。
ナル以外の人にコー君と呼ばれたのは久しぶりだな。かつては俺をコー君と呼ぶ人がもうひとりいた。
「ゆきっぺ、君を探す旅も今年で最後にするよ」
俺は古ぼけたプリクラを眺めながら浅い眠りについた。
当時、俺は十四歳。恋愛の本当の意味も知らず背伸びをしていた。もちろん、ゆきっぺが嫌いになった訳ではない。愛情があれば、年の差も、長距離も、声のハンデすら、愛情でカバーできると信じていた。でも、俺は何も分かっちゃいなかった。物理的な問題じゃない、心の問題だ。恋人関係になるって事は、相手の心の闇の部分も含めて受け入れ背負って行かなければならない。それができる力も自信も俺にはなかった。恋愛するには早すぎた幼稚なガキだった。
俺はあの日、ケータイを手放した。自分の言葉に責任を持てる自信が出来るまではケータイは持たないと決めた。
フロントからの呼び出し電話で俺は目を覚ました。二人と別れて一時間と十数分が経っていた。
エレベータで一階のロビーに下りるとショージさんが待っていた。
「電話より直接来た方が早いと思ってね・ちょっと外出しないか」
「分かった」
俺はフロントに一応外出の旨を告げてショージさんに着いていった。
ショージさんの泊まるホテルの一階にあるカフェに入った。
「西やんは、僕の事をどう思う?」
いきなり告白の様な質問の答えに窮していると、彼は笑いながら言い直した。
「失敬、質問の仕方が悪かったな。初めて僕と教室で会った時どう思った?」
正直、最初は殺意にも取れる程の視線を感じた。しかし、そんな事を言う訳にも行かず。
「まあ噂では、学力偏差値の高い学校に在籍し優秀な成績だったが、出席日数が足りず留年したとか、編入に当たってもほとんど無試験だったとか」
ウェイトレスが頼んでいたコーヒーを持ってきてラストオーダーを告げ、小さく一礼して離れるとショージさんは一口コーヒーを飲んだ。
「ほぼ、噂通りだ。いくら学力偏差値が高いからといって流石に無試験ではなかったけど。まあ確かに僕はある進学校にいた。僕の本当の父はちょっと放浪癖のある人で、俺が中学に入る前に失踪してしまった。残された母と僕は母の兄である伯父の厚意で、伯父の家に住み、僕は進学校にも行かせて貰った。伯父は一代で経営コンサルタントの会社を立ち上げいくつかのホテルを成功させたエリートだった」
ショージさんは遠い目をして何かを思い出すような素振りを見せ続けた。
「伯父の家族は伯父と伯母と当時中学三年生になる一人娘がいた。社長令嬢だね、優しい義姉さんだったよ・・・」
そこでショージさんは再びコーヒーを口にして微笑んだ。
「つまらない話だったね」
「いや」
自分の過去を何故、俺なんかに話すのか、少し戸惑った。
「話を変えよう。君はいつまでこっちにいるんだい?」
「い、一応、明後日帰る予定だが」
「先刻なっちゃんと相談したんだけど、明日の夜三人で花火でもしないか」
「花火ィー?」
「嫌なのか」
「い、嫌じゃないけど」
花火なんてショージさんには似つかわしくないような。
「じゃあいいだろう。なっちゃんも三人がいいって」
「まあ、いいけど」
花火はショージさんというよりナルの要望か
「なっちゃんは明日の昼は私用が有るから、僕と君とで明日花火を買ってきて欲しいと言ってきた。この辺じゃ駅近くの雑貨店にあるか無いか。だからちょっと電車に乗るが付き合ってくれるか?」
「まあ特別用も無いし」
「なっちゃんの家の近くの諸寄で花火しようって言うから。そこなら少しは種類の違う花火も売っていると思う。」
「諸寄か。」
「まあ設備が整ってない海岸で夜遅くにやると地元の住民に迷惑だし、女の子はお手洗いが必要不可欠だから。総合的に諸寄海岸がいいかなと。」
まあ近くの有名な海岸も見てみたい気はする。
「僕ではなっちゃんの花火の好みまでは分からないけど、君なら分かるかなと思って」
「長い付き合いだからな。何度か一緒に花火はしているし、そういう事なら付き合うよ」
小学生の時には一度か二度はナルと一緒に花火をした事もある。とは言っても二人きりではない。学校もマンションも一緒だから、コミュニティ主催の花火大会等で顔を合わせている。
「本当に仲がいいんだな、君たちは。本当に彼氏じゃないのか」
「ああ、妹みたいなもんだと思ってる」
「妹か・・・僕もユキ姉とは花火をしたことがあったな」
「ユキ姉?」
「ああ、さっき話した義姉の名前だよ、ユキ、今里悠希」
「小路じゃなくて・・・」
「小路は父の姓だ。母の旧姓が今里」
ショージさんは再び遠い目をした。
「ユキ姉は、ある時を境に言葉を失った。失語症って言うか、聞こえている言葉や物事は理解できているが、声が出せない状態になった」
まさかとは思った。ショージさんの姉が。
「疲れたかい、西やん。顔色悪いし。そろそろ帰って寝るか。明日はよろしく」
夜空の星は明るく、翌日の快晴を示していた。