第五話 名前
「レイラ……って、何のことだろう?」
声に出してみても、その言葉がどういう意味なのかはまったくわからない。
この危なそうな物体に彫られていた文字について考えることしばし。この文字の意味は未だにわかっていなかった。
色々考えてみたけど……この言葉には、あまり意味があるように思えない。……もしかして、名前だったりして。私の、名前……ああ、でも駄目だ。これが本当に私の名前なのか確信できない。
「うーん……わからない」
せめて、もう少し手がかりになる物があったり、私が何かを思い出したりできれば確証が得られるのに……。
そんな物はどこにもなかったし、私も相変わらず何も思い出せなかった。
……仕方ない。今はこれ以上考えないでおこう。いつまでも悩んでいても、わからない物はわからないまま。私はもうそのことをわかっている。いつもそうなってしまうから。
「はぁ……」
溜め息を吐いて空を見上げると、すでに太陽は私の真上を通り過ぎ、恐らく西と思われる方角に傾いていた。
あ、もうお昼過ぎてる。フェニさんに戻って来いって言われてたから、宿に戻らないといけないな……そうだ。ちょうどいいから、あの人にこのことを相談してみよう。あの人なら何も覚えていない私よりも色んなことを知っているはずだから。
岩から立ち上がってフードを被り、少し海に目をやってからその場を離れる。
それから私は、何事もなく元来た道を戻った。変な目で見られることも、変な人に絡まれることもなく。
宿屋の扉を開けると、フェニさんは私のことを見て開口一番、
「ああ、やっと帰ってきた。遅いじゃない」
と言ってきた。やはり、お昼の時間には間に合わなかったらしい。
「す、すいません……」
謝りながらお店の中に入る。店内には私とフェニさんの他に人の姿はなく、朝のような賑わいはなかった。
「謝る必要はないわよ。怒ったりなんてしないから。それよりも、早くこっちに来なさい。お腹空いてるでしょう? ちゃんとあなたの分も残してあるわよ」
そう言って手招きする彼女の言葉に従い、上着を脱いでカウンターに座る。彼女がカウンター席に出してくれた昼食のメニューは、魚をメインにした野菜多めの料理だった。
結構量が多いな……でも、お腹に溜まりそうな物は少ない。それに、とても美味しそう。お腹もかなり減っているから、手を出さないようにするのがかなり大変だ。
「あ、ありがとうございます」
「いいのいいの。さ、食べなさい。今はお客さんがあまり来ない時間だから、落ち着いて食べれるわ」
「はい……じゃあ、いただきます」
私が昼食を食べている間、彼女は黙って私のことを見守っていた。見られることは少し恥ずかしいが、朝のような悪意ある視線ではなかったので、そこまで居心地は悪くならなかった。
「……ごちそうさまでした。とても、美味しかったです」
「そう、ありがとう。今日もそれをするのね。どうしてそんな風に手を合わせるの?」
「あ、これは……やっぱり、わかりません。でも、ついやってしまうんです。自分でも不思議なんですけど」
今日もまた、彼女にこの動作のことを指摘されてしまった。
本当に、私が一番不思議に思っている。どうして手を合わせてしまうのか、どうして意味のわからない言葉を使ってしまうのか、と。いくら考えてもわからない疑問の一つだ。
「自分でも、ねぇ」
フェニさんはそう言いながら腕組みをして、何かを考え始めた。
彼女にはわからないのだろう。自分が意識しなくても、体が勝手に動いているということが。私だって不思議でしょうがないんだ。他人のフェニさんが理解できなくても当然だ。
静かになる店内。
しばらくして、彼女に相談したいことがあったのを思い出した。
「あ、そうだ。あの、一つ相談があるんですけど……」
自分から話しかけるのは緊張するが、思い切って声を掛けると、
「相談? もちろん大丈夫よ。時間なら沢山あるから、問題ないわ」
彼女は笑ってそう言ってくれた。少しホッとしながら話を続ける。
「相談って何のこと?」
「えっと……私の名前、のことです」
食器を彼女に返しながらそう切り出すと、彼女は少し期待した目でこちらを見てきた。
「名前のこと? あ、もしかして、何か思い出したの?」
「あ、いえ、そうじゃなくてですね。その、名前と思われる言葉を見つけたんです。『レイラ』っていう言葉を」
「レイラ……?」
その言葉を呟いたフェニさんだが、彼女にも意味はわからない様子。彼女がそんな反応をするということは、本当に誰かの名前なのかな。
「はい。私には、これが意味のある言葉には思えなかったんです。だから名前なのかなって思ったんですけど、自信が無くて……フェニさんなら私よりも色々なことを知ってるから、何か意見を聞けたらな、と」
私が思ったことをすべて話すと、フェニさんは少し考えてから、
「私からは、何も言えないわ」
と言った。その意外な言葉に驚く。
え? な、何も言ってくれないの? なんで?
「ど、どうしてですか?」
「あなたの名前のことでしょう? そんな大事なことは、自分で決めないといけないわ。助言ぐらいはしてあげれるけど、最後に決めるのはあなたじゃないと」
「で、でも、私は何も覚えてなくて、自信だってないのに……」
私には何もない。記憶も、自信も、何もかも。そんな私に、自分に付ける名前をを決めることなんて、重大なこと……できっこないよ。自分が何かに抱いた感想が正しいのかがわからないんだ。今までの経験や知識による裏付けがないから。
そんな私の言葉を遮って、彼女は強い口調で、しかし優しく、こう告げてきた。
「別に、自信なんてなくてもいいの。自分がその名前で呼ばれたいか、呼ばれたくないかってだけよ」
「呼ばれたいか、呼ばれたくないか……」
「そう。どんな名前でも、それが自分を表していると思えるのなら、ほんの少しでもそんな気がしたら、他のが嫌だと思ったら、その名前にするべきよ」
彼女に言われて、考える。この、『レイラ』という名前で呼ばれたいのか、呼ばれたくないのかを。
……どちらかというと、呼ばれたい、気がする。ああ、でも、駄目だ。やっぱり自信が持てない……。
「む、無理です……やっぱり私には、決めるなんて……」
「無理じゃないわ。あなたならできる。自分を信じるのよ」
「自分なんて……自分なんて信じられませんよ! 何も覚えてない自分なんて。自分も、他人も、全部、信用なんてできません。何もわからないから。何を信じればいいのかなんて、私には、わたしには……」
あなたならできる。そんな彼女の無責任な発言に、今まで胸の内に秘めていた思いが一気に溢れた。
私なら? 私のことを何も知らないのに、どうしてそんなことが言えるんだ。自分ですら自分のことがわからないのに、こんな、会ったばかりの他人に何がわかるって言うんだ。何も知らないくせに。
まくしたてる私の強い口調に、彼女は口をつぐんだ。
「私だって、私だって信じたいんです! 信じられる何かが欲しいんです! なのに、それなのに信じられないんです……」
自分を信じられないのは辛いけど、同じ理由で他人を信じられないことも辛い。助けてくれたあの二人だって、目の前のフェニさんにだって、また完全に心を開けていない、気がする。自覚はしていないが、なんとなくそう思う。
言いたいことを言いたいだけ言うと、私は下を向いて机に突っ伏した。体から力が抜ける。目元が熱い。泣いているのかもしれない。
「確かに、人を信じることは簡単なことじゃないわ」
フェニさんがゆっくりと声を発した。私はそのままの姿勢で静かに聞く。
「私だって、人を信用することには少し抵抗がある。でもね、だからって誰も信じなくなったら、これからの人生を楽しく過ごすことができないわ。勇気を出して、自分を信じる心を持って。自分を信じることができれば、他の人も自然と信じられるようになるはずだから」
勇気を出して、自分を信じる。
耳に流れ込んでくる彼女の言葉は、私の心に響く内容だった。体を起こして彼女の顔を見る。するとフェニさんは、私に優しく笑い掛けてきた。
「今すぐにっていうのは無理かもしれない。でも、少しずつでもいいから先に進もうとしないと。あなただって頑張っているのはわかっているわ。無責任かもしれないけど、これだけは言わせて。どんなことでも、逃げたら駄目よ」
彼女の瞳には強い光が宿っていて、その言葉には説得力があった。
逃げたら駄目……私は、逃げようとしていたのか。信じられないという言い訳を使って。信じようとする努力をせずに。いや、努力はした。でもすぐに諦めた。諦めるということも、逃げることと同じなんだ。
「勇気を持って。あなたならできるって言い方が嫌なら謝るし、言い直すわ。信じることは誰にでもできる。だから、あなたにもできるはず。人は、頑張ればどんなことだってできるのよ」
「……わかり、ました。頑張ります」
誰にでもできるから、私にもできる。頑張ればなんでもできる。
そんなことはわかりきっているはずなのに、彼女から言われると何か心に響くものがあった。
いや、ちょっと違うかな。知っていたけど、忘れていたんだ。そして、今思い出した。フェニさんが思い出させてくれた。そのことが凄く、嬉しかった。
少しずつでも先に進む。その一歩を踏み出すきっかけになった気がした。
「頑張って。私はあなたのことを応援するわ。助言も手助けも、ここにいる間ならしてあげれるし。私でよければ、いつでも相談に乗るわ」
「……ありがとう、ございます」
彼女に相談して、とても心が軽くなった。本当に、この人に相談してよかった。この人に出会えてよかった。一人で解決できないことを他の人に相談するという選択は間違っていなかったんだ。
フェニさんに元気付けられて、ほんの少し、無いと思っていた自信が湧いてきた。今なら自分を信じられる、今なら誰かに心を許せる、という自信が。
そして、私は自信を持って口を開いた。
「私の名前は、レイラ、です」
間違っていてもいい。同じ名前の人がいてもいい。だけど、決して後悔はしない。
そう心に決めた。
「そう、良い顔になったわね。これからよろしく、レイラちゃん」
「はい!」
そう言って私は、ニッと笑った。
◇ ◇ ◇ ◇
今日、あの二人が帰ってきたのは昨日よりも少し早い時間だった。
「ちーっす、戻ったぞ」
昨日と似たようなことを言いながらアドレさんがドアを開ける。そしてすぐに、
「腹減った。飯を頼めるか?」
と、近くにいたフィキさんに注文をした。
「わかりましたー。席で待っていてくださいねー」
「うい」
彼女はいつもの明るい調子で、アドレさん達をカウンター席に案内する。
現在、このお店にいるお客さんは彼らを含めずに四人。皆男性で、お酒を飲み、フェニさんが作った料理をつまんでいる。
それぞれ二人で同じテーブルに着いていて、時折笑い声を上げたりしながら語り合っている。内容はまちまちで、どこの誰の娘が好みの顔だの、最近は不漁だの、船が壊されただのといったことを話していた。
お酒のせいで顔が赤い一人は相方に酒を注がれるままに呑み進め、でろでろになりながらも話を続けていた。
「それでよぉ、あんの野郎、俺の飲みの誘いを断りやがったんだぜぇ? 信じらんねぇだろぉ?」
「ああ、そんで今日は俺らだけなのか。やつぁなんて理由付けて断ったんだ?」
「それがよぉ、今日はよぉ、嫁さんの誕生日だってよぉ」
さっきから同じ内容だ。あの人、そろそろやばいのではないだろうか。
「そーかそーか。お祝いしてんだな。いいことじゃあねぇか」
相方は少しうんざりしながらも、自分も酒に酔って判断力が衰えているようで、これで四度目になる同じ返答をしていた。うん、これは二人ともヤバい気がする。
「俺も早く、嫁さんになんか贈り物してえよぉ。早く誕生日来ねえかなぁ」
「その前に、俺の誕生日祝ってくれんか? 俺、今日で三十になるんだが」
うん、知ってる。これで四回目だから。おめでとうございます。
そんな突っ込みを入れつつも、何もせずに見守っていると、
「だなぁ、すまんすまん。じゃあ、乾杯すっか」
「おーう。じゃ、かんぱ――」
意外にも、先にダウンしたのはあまり飲んでいなかった相方の方だった。
そのままいびきをかき始めた彼を心配していた赤い顔の男も、起きている理由がなくなったからなのか、すぐにグガーグガーと眠り始めた。他の客がそちらを向く。
「あーあ、だから日の高いうちから酒を飲むなって言ったのに」
二人が眠りに落ちたことを確認したフェニさんが二人を外に運び出した。何というか、とてもシュールな光景だ。ちょっと面白いかも。
特に、男の頭に付いている犬の耳と、相方の腰から生えている鱗に覆われた尻尾がピクピクと動いているのが面白かった。
酒を飲み過ぎていたのは、獣人という獣と人が合わさった種族で、相方は竜人という、竜と人が合わさった種族らしい。初めて見た時は顎が外れるかと思ったが、この町では普通にいるようだ。すべてフェニさんに教えてもらった。
「ふぅ。お金を先にもらっといてよかったわ」
「……止めるべきだったのでしょうか」
彼女だって気付いていただろう。それなのになぜ、あのままにしておいたのか。
気になってカウンターの内側に戻ってきたフェニさんに聞いてみると、彼女は、
「無理に止めたら暴れ出すかもしれないでしょう? こういうのは様子を見るのが一番いいのよ」
と言って、ふきんを私に渡してきた。
「はい。机の片付けお願いね」
「あ、はい。わかりました」
指示されるまま、酔い潰れた二人が座っていたテーブルの上の食器類を流しに出して机の上を綺麗に拭いた。最後に椅子の位置を整えてから、カウンター内の定位置に戻る。
「お疲れ様」
「えっと、あんまり仕事らしいことをしてないんですけど」
「それでもよ。あ、お皿洗いもお願いできる?」
「はい」
返事をしてから流し台に立ち、言われた通りにお皿洗いを始めた。
食器を割らないように気を付けつつ、水と石けんのような泡の出る塊を使いながら、一枚一枚丁寧に洗っていく。
そんなことをする私を見て、アドレさんが、
「……何やってんだ、お前」
と、よくわからない表情で訪ねてきた。
「……何やってるんでしょうね、私」
私も首を傾げながら言葉を返す。どうしてこんなことになったんだっけ。
「私がお願いしたの。簡単なことでいいから、手伝いを頼めないかって」
「あ、そうでした。お手伝いしてるんでした」
お客さんを観察していて、私に与えられた役割をすっかり忘れていた。
名前の件に決着を付けた後、私はフェニさんから、これから客が増えて忙しくなり、人手が足りなくなるかもしれないから、少し手伝って欲しいと言われたのだった。
彼女の言った通り、日が傾くにつれてお客さんは段々と増え、一時は満席になるほどになった。宿屋と銘打っているこのお店だが、夜の間だけは宿泊客以外にも食事を提供しているとのこと。どうりで昨日、変にお客さんが多かった訳だ。
私がフェニさんからお願いされたのは、お客さんがいなくなったテーブルの後片付けと、使った食器を洗うことだった。
最初はやり方もわからずにおっかなびっくりやっていたが、慌ただしくお手伝いをする中で自然とやるべきことを覚え、今ではそれなりの形にはなっていた。
私はただただお皿を割らないことに集中していただけなのだが、いつの間にか教えられなくても何をどうすればいいのかがわかっていた。今ではまるで、以前に経験したことがあるかのようにできる。もしかしたら、本当にあるのかもしれないが。
「タダ働きか?」
「まさか。ちゃんとお礼はするわよ。約束したわよね?」
「はい。何かをくれるって約束はしました」
確か、お金か何かをくれるんだっけ。具体的な値段とかは聞いてないけど。
「ただの口約束だろ?」
「いいじゃない、口約束でも。守ればちゃんとした契約になるのよ。それとも何? この私が子供を奴隷のように扱うとでも?」
「わからんぞぉ。人は見かけによらんからなぁ」
ああ、また始めるつもりだよこの人達。しかも、また私のことを子供って言ってるし……。
そんな風に少しピリピリしてきた二人の雰囲気の中に、フィキさんが何の前触れもなく自然と入ってきて、二人に夕食を出した。すでに準備はしてあったようなのだが、タイミングを見計らっていたようだ。今を選んだということは、こうなることを予測していたみたい。凄いな。
「はいはい、ご飯ですよー。先に食べちゃってください」
「お、サンキュ。じゃ、食うか」
「だな。流石だ」
カイさんも、フィキさんのタイミングの良さに感心している。褒められた彼女は少し照れくさそうに、
「ありがと」
と言った。
彼らが食事を食べ始めると、残っていた二人のお客さんも食事を終え、お金を払って帰って行った。私がそのテーブルの片付けをして食器を洗う。これで何回目になるのかわからないが、少し楽しくなってきたな。なんだか仕事をしているみたい。
しばらくの間ボーっとして、二人が食事を食べるのを眺めていると、フェニさんが私に、
「あ、今日はもうお手伝いはいいわよ。ありがとうね」
と言ってきた。
「え、いいんですか?」
まだ洗った食器を片付けていないし、お客さんだってまだ来るかもしれない。それなのに大丈夫なのだろうか。そう思って聞いてみる。
「ええ。後残ってるのは明日の準備くらいだから、もういいの」
「そう、ですか。わかりました」
理由に納得したので、素直に頷いて借りていたエプロンを彼女に返す。
「あ、お礼は明日渡すわね。今日は本当に助かったわ。ありがとう。それじゃあお休み、レイラちゃん」
「はい、お休みなさい」
「お休みー」
「おやすみなさい、です」
フェニさんとフィキさんに挨拶をすると二人がちょうど食べ終えたので、一緒に階段を上って行く。
その途中で、昨日と同じようにアドレさんが今日あったことを聞いてきた。
「なぁ、お前今日、何してたんだ?」
「えっと、午前中は昨日と同じように、海を見ていました」
二階を通り過ぎ、三階への階段を上りながら答える。
「ふうん。じゃあ、午後は?」
「下で、フェニさん達のお手伝いを」
あ、そうだそうだ。もう一つ、この人達にも伝えておかないといけない、大切なことがあるんだった。
「後、一つ大事なことがありました」
「ん? なんだ?」
私がそう言うと、彼は少し期待した表情で振り返った。
「何か思い出したのか?」
「えっと、思い出した訳じゃないんですけど……」
フェニさんと同じような反応に、少し驚きながらも言葉を続ける。
「名前を、決めたんです」
「お、名前か。思い出せないから決めたのか?」
「はい」
彼の言葉に頷きながら三階の廊下に出る。
「で、どんなのにしたんだ?」
「えっと、『レイラ』という名前にしました」
「ほう、レイラか。じゃ、改めてよろしくな、レイラ」
「はい。よろしくお願いします」
そこでちょうど部屋に着いたので中に入り、今日も特にやることがないため椅子に座る。二人も疲れているのか、私と一緒に机を囲んで椅子に座った。
ふぅ。今日は本当に色々なことがあった。名前を決めて、お手伝いをして。昨日よりは少し忙しく、でも、どこか充実していた一日だった。
しばらくの間私達は無言だったが、カイさんの、
「……そろそろ寝るか」
という一言で椅子から立ち上がり、今度はベッドに腰掛けた。ここまで会話をしないと逆に少し怖くなってくる。あの人達、今日は何をしてたんだろう。
「明かり消していいか?」
「あ、はい。大丈夫です」
二人がもう寝るようなので、私も靴と靴下を脱いでから布団を被った。
横になると、今日の疲れが一気に押し寄せてきて急に眠くなり、お休みの一言を言う間もなく、私は眠りについてしまった。
◇ ◇ ◇ ◇
その翌日。目が覚めると、昨日と同じように先に二人が起きていた。
モゾモゾと動きながら掛け布団を跳ね除け、思いっきり伸びをすると、少し頭がすっきりする。
ああー、よく寝た。いい気分だ。なんだかすっきりした。
体を起こして窓の外を見る。うん、今日もいい天気。
「おはようございます」
「おはよう、レイラ。起きたのか」
「はい」
「おはよう」
「はい、おはようございます」
二人に朝の挨拶をして、私の一日が始まった。
三人で下に降りてキビキビ働くフィきさんに朝食を注文。三人で同じテーブルに着く。
彼女がご飯を運んでくるまでの間、三人で今日の予定のことを話していた。
「さて。お前は今日、どうするつもりなんだ?」
アドレさんは私達が全員席に着くのを見計らって、私にそう聞いてきた。
今日、今日かぁ……どうしようかな。もう海はいいから、街を歩いてみようかな。
「今日は、そうですね。街を回ろうかと思います」
「ほう、街をか。……そうだな、そういうことなら、俺達と一緒に行かないか?」
「え? い、いいんですか?」
今日もここ二日間と同じように一人でいるつもりだった私は、彼の言葉に驚いた。
一緒に、来てくれる? それはすごく嬉しい、けど、どうして急に?
「ま、途中で別れるかもしれないがな。それまでは一緒にいられる。お前、この町のことを何も知らないんだろ? 案内するよ」
「あ、ありがとうございます。お願いします」
この人達が案内してくれるというのは、とてもありがたい。素直に頭を下げてお願いした。
それからフィきさんが持ってきた朝食を食べ終えると、今度はフェニさんが私達のテーブルにやってきた。今日は何やら、いつか見た皮袋のような物を持っている。
「はい、これ。レイラちゃんに」
「……あ、はい。えっと、ありがとうございます」
昨日決めたばかりの名前だからなのか、一瞬だけ誰のことかわからなかった。すぐに思い出して反応したが、少し間が空いてしまった。
この名前、まだ少し呼ばれ慣れないな……早く慣れないと。
そう思いながら袋を受け取る。
「昨日お手伝いしてくれたお礼よ。中身を確認してくれる?」
「あ、はい。わかりました」
あ、そうだった。昨日手伝ったお礼を今日くれるんだった。忘れてた。
彼女に言われた通りに中を確認すると、そこには茶色の丸い物体が十枚入っていた。その手触りから金属とわかる。
なんだろう、これ。えっと、昨日の約束ではお金をくれるって言ってたけど……これがそのお金なのか? 見たことないぞ?
「ちゃんと十枚入ってる?」
「はい。大丈夫です、けど……」
「ん? 何かあった?」
どうしよう。お金のこと、何もわからない。聞いておいた方がいい、のかな?
少し迷う。だけど、聞かずに困ったことになるよりは今聞いた方がいいと思い、フェニさんに質問することにした。
「あの、これはなんですか?」
「え? 何って、お金だけど……あ、あなた何も覚えてないんだったわね」
彼女は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに私の事情を思い出し、私にお金のことを教えてくれた。
「これは一セル銅貨よ。一枚で、一セルの価値があるの。で、今はそれが十枚あるから、全部で十セル。セルっていうのはお金の単位よ。硬貨は銅貨の他にも色々あって、この一セル銅貨が百枚集まると百セル銅貨、大銅貨と同じ価値になるの。で、次にその大銅貨が十枚集まると銀貨に。それが百枚で大銀貨にっていう風に、段々使われる金属の種類が変わっていくの。銀の次は金で、その次は白金っていう風にね」
「は、はぁ……」
全く記憶にない話だった。ちゃんと頭に入ったかはわからないけど、とりあえず今わかったことは、このお金のことを、私は全く知らなかったということだった。
「まあ、普通に生活して行く分には、そこまで詳しく知っている必要はないかもね。とりあえず今日のところは、この銅貨には一セルの価値があって、それが十枚あるってことだけ覚えてもらえればいいわ」
「そう、ですか。わかりました」
十セルか。これで何か買えたりするのかな? もし買えたら、今日何か買ってみようかな?
お金を使うことが少し楽しみになってきた。そんな私にフェニさんは、
「無駄使いはしないようにね」
と、たしなめるように告げ、食器を片付けて行った。そんなことをする彼女を見ていると、ふと思った。
私も何か、仕事とかした方がいいのだろうか。
そのことをアドレさんに相談すると、
「仕事? ん、まあ、何もしてないよりはましかもしれんな。無理にする必要もないが。なんだ? お前、何か仕事したいのか?」
と言った。無理にしなくてもいいのか。
「仕事をしたい訳じゃ、ないんですけど、私もした方がいいのかなって、少し思っただけです」
「そうか。ま、何もしてなくて暇人扱いされるのが嫌なら、どっかで雇ってももらった方がいいかもな。じゃ、そろそろ行くか?」
「あ、はい。そうですね」
暇人扱い、か。
昨日、フェニさんに手伝いを頼まれた時の言葉が思い出される。
『何もやることがないのなら、少しお手伝いを頼まれてくれる?』
あの時の彼女の言葉には、どうせ暇でしょ? と言うようなニュアンスが含まれていた気がする。
……もうすでにされている気がするのだが、それはどうなのだろう。
そんなことを考えながら、今日もお店の扉をくぐった。




