第三話 オッドアイ
「落ち着いた?」
太陽が昇り、すっかり明るくなった外の景色を窓からボーッと眺めていると、タオルと桶と、服を持ったフェニさんに声を掛けられた。
「あ、はい……すいません、迷惑、かけてしまって……」
「ああ、そんな、気にしないでいいわよ」
先ほど泣きついてしまったことを謝るが、彼女は笑って許してくれた。
今俺がいるのは、彼女が経営している宿屋の一階。食事を取るスペースだった。椅子と机が綺麗に並べられ、カウンターの奥には調理をするための場所がある。
フェニさんは俺達に、宿泊の手続きが終わるまでここで待っていて欲しいと言っていた。
「それよりも、ほら」
そして彼女は、俺……いや、私に、持っていた三点セットを渡してきた。
「えっと、これは?」
「着替えよ。あいつから聞いたわ。あなた、海に落ちたんでしょう? そのせいで服も身体も潮のにおいがするから、一度体を拭いてきなさい。あの部屋なら今誰もいないから、そこでね」
「は、はい……わかり、ました」
そこまでにおうのかな、俺。
そう思って、服のにおいを嗅いでみる。
……む、確かに、少しにおうかも。
海の香りと言えば聞こえはいいが、これは確かに潮のにおいがする。悪く言えば潮臭い。言われた通りにするために桶を受け取り、その中にタオルと着替えを入れた。
「水は中にあるわ。後、服は洗っちゃうから脱いだら私にちょうだい」
「わかりました」
頷いて、示されたカウンター奥の部屋の前まで移動する。
ドアノブを掴んで回そうとすると、後ろからフェニさんが、
「あ、男どもはちゃんと私が見張っておくから、安心して着替えてね」
と言ってきた。振り返って後ろを見る。
「何言ってんだよ。俺らが覗きなんてする訳ねえだろ。な、カイ?」
椅子に座っていたアドレさんの反論。背中を壁に預けているカイさんは無反応。
「なんか言えよ。お前」
「……どうでもいい」
「うるさいわよ二人とも。とにかく、そこから一歩も動かないこと! いいわね!」
「そんなに信用ないのかよ、俺は」
「当たり前だろ。八年前に何をやったか覚えてないのか。ボケ師匠」
「あ? よく言えるなこのアホ弟子が」
……元気な人達だなぁ。
三人が作り出す微笑ましい光景を見ていると、自然と頬が少しだけ吊り上る。
「そうよ。あんたうちの旦那に何したか覚えてないの? 覚えてないって言ったら海に沈めるわよ?」
「忘れる訳ねえだろうが。それに、もう謝ったはずだぞ」
「そんなんじゃ足りないって言ってんの!」
多分、ずっと見ていても飽きないだろう。
そう思いながら三人を眺めていると、ふと、カイさんと目が合った。すると彼は顎でドアを示して、俺に聞こえるように、しかし小声で、
「今の内に早く行け」
と言った。その言葉で、今自分が何をしようとしていたのかを思い出す。
あ、着替え、しないと。
カイさんに頭を下げて感謝してから、ドアを静かに開けて部屋の中に入る。あの二人のやり取りが気になるが、今は我慢することにした。
後ろ手にドアを閉めると、口論の声が少し小さくなった。
「ふぅ……」
一人になって、少し落ち着く。
俺が入ったこの部屋は、従業員用の休憩スペースのような所だった。
水道があり、机と椅子があり、木箱がある。狭い部屋だが、十分生活していけそうな部屋だ。木箱の数が多いから、倉庫としても使われているのかもしれない。
とりあえず机の上に桶の中身を出して、水を入れることにした。
「えっと、青と赤ってことは、冷たいのと暑いのってことか」
二色の石が付いた蛇口を一緒に捻り、温度を調節する。寒いから少し温かめにした。
「……これくらいか」
ちょうどいい温度になったら桶に溜めて、タオルをその中に入れて水に浸す。
これで、後は服を脱ぐだけとなった。まずは上着を脱いで丁寧に畳み、机の上に置く。
その次にネクタイを外した時、服を脱ぐという行為が、急に恥ずかしくなった。
「……ど、どうしよう」
誰かに、見られてしまうかもしれない。
自分の裸を見ることすら気が引けるのに、もし、着替えている最中に他人がこの部屋に入ってきたら……そう考えると、ボタンを外す手が止まってしまう。
何となく、視線がさっき入ってきた扉に向かう。壁の向こうではまだあの二人がワーワーギャーギャーと騒いでいるのが聞こえた。
……一応、ドアの前に椅子を置いておこう。あの人達が信用出来ない訳じゃないけど、念のために。
「ええっと……やっぱりこれも脱がないといけないのかな」
その後、下着を残して服を全て脱いだ。脱いだ服はきちんと畳んで、上着と同じように机の上に置いてある。
フェニさんがくれた着替えを見てみると、ちゃんと下着もあった。靴も、靴下も。
一式用意してくれたのか……後でちゃんとフェニさんにお礼言わないとな。あ、そう言えば、助けてくれたあの二人にもお礼言ってなかったな。忘れずに言っておかないと。それよりも……はぁ。
流石にこれ以上脱ぐのは恥ずかしいので、この状態で身体を拭いて行くことにした。
腕に足、体、顔、そして、下着の下。
今までにないような感触と感覚に戸惑い、頬を赤らめながらも何とかやり遂げる。
自分の体なのに、なんで恥ずかしがらないといけないんだ……。
そう思っても、恥ずかしい物は恥ずかしい。感情は意識しても変えられないのだから、仕方ない。
「はぁ……」
諦めて、素直に受け入れよう。俺……違う違う。私は女だ。女の子だ。よし、これでいいな。私は女、私は女……。
自己暗示をかけるように心の中で呟きつつ、勢いに任せて今着ている下着から新しい下着に変える。
はい終わり。はい何も見てない。
その勢いのまま他の服も全て着る。女物の服なんか着たことがないはずなのに、なぜか何も間違えることなく一度で着ることができた。
似合っているかはわからないけど、着方はこれで合っているはずだ。自信はないが。
ついさっきまで来ていた服の中に下着を突っ込んで、靴を履く。それから、桶に残っていた水で顔を洗い、タオルで髪の毛を拭く。
……この髪は長いから、少し手間がかかるな。
着替えに少し手間取って時間をかけてしまったが、未だに扉の向こうの声は止んでいなかった。
いつまでやっているつもりなんだろう。
疑問に思いながらタオルを絞り、桶の中の水を捨てる。桶の水滴を綺麗に拭いて、その中にまた服を入れた。さっきまで履いていた靴を手に持つ。
先ほどと違う服を着て、先ほどと逆の方向からドアを開ける。
大きくなる言い争いの声。
「はぁ!? てめぇ、俺のことなんだと思ってるんだ? え?」
「うーん、そうね……魔物の餌、かしら?」
「んだとぅ!」
「うるさい。静かにしろ。迷惑だ」
「んなことどうだっていいんだよ! 訂正しろやこら! 俺は餌じゃねえ! あいつらが俺の餌だ!」
え……あの人、マモノ食べているのか? ていうか、マモノって何?
「だから、うるさい。黙れよ」
「お前が黙れ。邪魔するな」
「そうよ。他のお客さんに迷惑じゃない」
「……チッ」
なんだかカイさんが可哀想だ。あの二人は自分達のことしか見えていないみたい。
お店の窓の外からは数人が中を見て苦笑いをしているのが見える。階段の方を見ると、上からも同じように苦笑いしている顔が覗いている。こういうことがしょっちゅうあるのかな。
「え、えっとー……」
遠慮がちに声を掛けるが、誰も気付いてくれない。悲しい。
「あんたが一番迷惑だけどね」
「お前の方がうるせえよ」
二人の目線がぶつかる先に、火花が見える気がする。
「ガキかこいつら……」
「あのー」
「あぁ!? てめえの方がよっぽどガキだろうが!? 修行が足りんようだな、カイ?」
「ちょっと!? 立派な大人になんてこと言うの!? 叩き出すわよ?」
理不尽な暴言がカイさんに降りかかる。
彼の言う通り、今の二人は子供のように騒いでいる。さっきまで私を背負ってくれていたアドレさんは、優しく抱きしめてくれたフェニさんはどこに行ってしまったのだろうか。
「あ、あのぉー……」
「何!?」
「何だ!?」
「ひっ……!」
理不尽すぎる怒鳴り声が、私の身にも降りかかった。
思わず、両手に持っていた桶と靴で顔を隠す。
「あっ……ご、ごめんなさい! あなただとは思わなくて……」
「なっ、お、お前だったのか。す、すまん……気付かなかったんだ。ほんと、すまん……」
慌てて謝ってくる二人。さっきまでの喧嘩腰とは裏腹に、急にしゅんとなった。
「べ、別に、私は大丈夫ですので、そんなに謝らなくても……」
物を顔の前から退けて、私は二人にそう告げた。
急な大声に驚いてしまったが、あの状況で口を挟めばこうなることぐらいわかるだろう。にもかかわらず、口出しした私が悪いんだ。
「でも、本当にごめんなさい。怖がらせちゃって」
「い、いいんですよ」
「すまなかった。こいつが昔のことを蒸し返してくるから……」
「ちょっと、ここにきて私のせいだっていうの? あれは元々あんたが……」
あ、不味い。このままだとまた騒ぎ始めてしまう。
そう思って止めようとすると、先にカイさんが止めてくれた。
「おい待て。まだやるつもりか。いい加減やめろよ、うるさい」
『だってこいつが』
二人の言葉が見事にハモる。顔を見合わせて、静かになる二人。そして、次の瞬間には顔を背けた。二人同時に。
面白い光景だ。
「と、とりあえず、洗濯するから服を頂戴」
「あ、はい」
桶と靴をフェニさんに渡す。そして、私から服を受け取った彼女は、階段の方に向かって一言、
「フィキ!」
と、誰かの名前を呼んだ。
「な、何?」
そこからひょっこりと顔を出したのは、フェニさんによく似た女の人だった。
うわ、誰だろうあの人。この人に凄い似てる。でも、フェニさんと違って耳がそこまで長くないな。どうしてだろう?
首を傾げはしたが何も言わずに静かにしていると、呼ばれた人が私を見て、驚いた表情になった。
「あ……それ、私の服」
「え……?」
え、これ、この人の服なのか?
「どうしてあなたが着ているの?」
「え、えと……」
非難がましいような女性の視線。彼女はそれから、私の頭のてっぺんから足のつま先までをじっくりと見て、言った。
「……結構、似合ってるわね」
「え?」
問い詰められる。そう思っていた私の耳に、予想と大きく外れた言葉が入ってきた。
「うん。何か、昔の自分を見ているみたいで変な感じがするけど、凄い似合ってる」
「は、はぁ……」
な、なんかよくわからないことになってる。この人の服を着ていたから驚かれて、何か、疑われていると思ったら、似合ってるって、似合ってるって褒められた?
訳がわからない。
困惑している私の顔を見る、フィキという名の女性。少しの沈黙の後、彼女は何かに気付いた様子で声を発した。
「ん? よく見たらあなた、珍しい目をしているのね」
「え、あ、これは……」
その言葉に、目元を手で隠す。少し前にも、同じようなことがあった気がする。
理由はよくわからないが、目のことを指摘されるとついこうして、目を隠してしまう。
この人にも、私が記憶喪失だということを伝えた方が良いのだろうか。
そんなことを迷っていると、フィキさんが声を発した。
「わかってるわよ。生まれつきなんでしょう? 本で読んだことがあるわ。確か、『オッドアイ』って言うんじゃなかったかしら。そう言う目のこと。違う?」
「……オッド、アイ?」
私みたいな、目のこと?
彼女のその言葉を聞いて、私は川で見た自分の瞳の色のことを思い出した。
右が青色で、左が赤色。あの時は思い出せなかったこの目の名前は、オッドアイって言うのか?
「あなたみたいな、右と左で瞳の色が違う目のことをそう言うって書いてあったの。あれ? もしかして知らない?」
「えっと……」
何か、そんなことを言われたことがあるような、無いような。駄目だ、やっぱり曖昧でわからない。
「たぶん……」
「そ、そう。多分なのね」
若干引かれている。やはり、自分ことがわからないというのはおかしいのだろう。
自分が変に思われていることに少し落ち込む。
「はぁ……」
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
「い、いえ、何でも、ないです……」
「で、でも、私、何か気に障ること言った? もしそうならごめんね?」
そんな私を気にかけて、フィキさんが謝ってきた。
「いや、別に、そんな。謝るようなことでは……」
私が勝手に思っていることだ。この人に非は無い。
そう言っても彼女は中々止めてくれない。そんな私達のやり取りを見かねたのか、ずっと静かにしていたフェニさんが割り込んできた。
「こら、フィキ。あんまり人の事情に首を突っ込まないの。困ってるじゃない」
「む……ごめんなさい。お母さん」
あ、この人、フェニさんの娘さんだったのか。それなら似ていることも納得できるな。
フェニさんに注意され、素直に謝るフィキさん。その後、私にも頭を下げた。
「ごめんね?」
「あ、いえ、私は別に……」
「とりあえず、あなたはお客さんに朝食を出してあげなさい」
「え、もうそんな時間なの?」
母親の言葉に驚くフィキさん。彼女の言葉にフェニさんは、
「そうよ。あなたが全然来ないから、いつもより遅くなっちゃったじゃない」
と、非難がめいた眼差しを娘に向けた。
「えと、遅くなったのはどっちかというとお母さん達のせい……」
フィキさんがそう言うと、フェニさんの目つきが厳しくなった。
「何? あなたも私のことを悪く言うの? ん?」
「いやでも、私、お母さん達の喧嘩する声で起きたし、うるさかったし、お客さんだって起きちゃってたし……」
「……はぁ、もういいわ。早くやっちゃって」
「……わかった」
不服そうなフィキさんだが、母親の言うことには逆らえないようで、言われた通りにカウンターの中に立ち、そこで火にかけてあった鍋の蓋を開けた。
その途端に良い匂いがしてきて、お腹が鳴ってしまいそうになる。どうやら、フェニさんがアドレさんと喧嘩している間に作っていたようだ。
ただ騒いでいた訳ではなく、ちゃんと仕事もしていたらしい。流石は宿の女将さん、と言ったところか。
「待ってる人もいるんだから急いで。後、あんたはとっとと金を払う」
「へーへー、これでいいんだろ。ほらよ」
言われたアドレさんがフェニさんに小さな袋を渡す。多分、皮できている物だろう。
中を確認したフェニさんは私の服を持って、さっき私が着替えた部屋に入って行った。
何をするのかわからないが、恐らくお金に関することだろう。
「あ、お客さん方は席に座っていて下さいね」
フィキさんのその言葉に、階段の所で待っていた人達が出てきた。次々と席に着いていく。
「俺らも座るぞ。ほら」
アドレさんに促されて、私も近くの席に一緒に座った。
そこからフィキさんが食事をお皿に盛り付けて運ぶのを眺めながら大人しく待っていると、しばらくして、私達の元にも朝食が運ばれてきた。
「はーい、お待ちどうさま。朝ご飯でーす」
「おっ、来た来た。さっきから腹減って仕方なかったんだよ」
お腹をさすりながらアドレさんがそう言う。
運ばれてきたのは、とても美味しそうなパンと、湯気が立っている温かそうなスープだった。少ないとも思うが、シンプルでいい食事だ。
「じゃ、食うか」
「そうだな」
そう言って二人が食べ始めたので、私も一言、
「い、いただきます」
と言ってから食べ始めることにした。
どうすればいいのかわからなかったので、二人に倣って最初はパンに手を伸ばした。少し硬い物だったが、そのまま千切りもせずにかぶりつく。
……美味しい。意外と中はふわふわしていて柔らかくて、なんだか優しい味がするパンだ。
スプーンを使って、スープを飲む。
これも、温かくて美味しい。二つを同時に食べるともっと美味しい。
今まで空腹を我慢していた分、この食事はより美味しく感じた。冷え切った体に、温かい食事が染み渡る。この朝食を食べるまで、食事をすることの喜びを忘れていたような気さえする。
「ふぅ……」
味わって食べたつもりだったが、そこまで時間をかけずに食べ終えてしまった。思っていたよりも空腹が辛かったようだ。
食事が終わったので、手を合わせて、
「ごちそうさま、でした」
と言った。なぜかはわからないが、こういうことをしなくてはならないと思った。それが食事の時のルールだと。
だけど、この行為はアドレさんには理解できないようだった。
「ん、何してるんだ? お前」
私よりも早く朝食を食べ終えて、お代わりをしていたアドレさんが不思議そうにこちらを見てきた。
カイさんも食べ終わってはいたが、眠っているのか、目を閉じて腕組みをしたまま動かなかった。
「えっと……なんか、こうしないといけない気がして」
自分の手を見つめてそう言う。
「理由はわからないのか?」
「はい……」
本当に、なんでこんなことをしたんだろう。私にとっては、これが当たり前だったのだろうか。頭では覚えていなくても、体の方が覚えているのだろうか。
そんなことを、アドレさんが二回目のお代わりをして、それを食べ終わるまでずっと考えていた。
全員の食事が終わると、フェニさんが食器を片付けに来た。アドレさんが彼女に渡した小さな皮袋を持って。
「ほら、釣りよ」
少々乱暴にそれを渡すフェニさん。アドレさんは無言でそれを受け取った。二人とも、さっきのことをまだ許せていないらしい。
次に彼女は、私に向って何か棒のような物を渡してきた。
「はい、これ」
「え? な、なんですか? これは」
「私は知らないわ。あなたの着ていた服から出てきた物だから」
私が、持っていた物? 何かあったか?
困惑しながらも受け取ったそれには、二つの引き金と十字型のへこみがあり、私の手からはみ出るくらいの大きさだった。だけどなぜか、この手によく馴染む物だ。
「私、こんな物持ってたっけ……その、どこから出てきたんですか?」
「それが、それ用の入れ物の中から出てきたのよ。これなんだけど」
そう言って、彼女はまだ少し濡れている茶色の長方形の物体を机の上に置いた。大きさは私が持っている物よりも一回り大きいくらいだ。
手に取って裏返してみると、そこには、紐やベルトなどを通すための物付いていた。
あ、そう言えば、着替える時にこんなものを外した覚えがある。恥ずかしさでよく覚えていないけど、あれは確か、スカートのベルトを外した時だったか。
「見覚えはある?」
「確かに、着けていました。中身は全く気にしてませんでしたけど……」
「あ、そう。とりあえずこれは洗えないから返すけど、こっちの入れ物の方はどうする? 洗った方がいいかしら?」
においを嗅いでみると、これも他の服と同じように潮のにおいがした。洗ってもらった方がよさそうだ。
「えっと、じゃあ、お願いします」
頭を下げてお願いする。洗濯をしてもらうのだから、これくらいのことはしないと。本当はもう少し手伝いになることをしたいのだが、何をすればいいのかわからなかった。
「わかったわ。夜までには全部乾かしておくから、それまではその恰好でいてね」
「わかりました」
それまではこの服を借りていないといけないのか……申し訳ないけど、裸でいる訳にはいかないし、仕方ない。
「娘のお下がりだけど、よく似合ってるわよ」
「え? あ、ありがとう、ございます……」
急に褒められて、少し照れてしまう。
他人の服を着ていても、似合っていると言われるのはとても嬉しい。どう反応すればいいのかがわからずに考えていると、フェニさんが思いもよらないことを告げてきた。
「あ、そうそう。それはもういらない物だから、欲しかったらあげるわよ?」
「え、い、いいんですか?」
この服をくれるって?
「ええ、フィキがいらないって言って捨てようとしたんだけど、まだ使えるからって取っておいたの。他に同じようなのがあるし誰も使えないから、あなたさえよければ貰って欲しいんだけど……」
最後に言葉を濁したが、彼女は私に服をもらって欲しそうだった。
これは、私としても嬉しい申し出だ。生活するためには着替えが必要だけど、私は着ていた服以外の物を何も持っていない。それに、新しい物を買うお金もない。
遠慮したいけど、貰えるのなら貰っておきたい。そう思って、彼女の言葉に頷いた。
「で、できれば、おねがいします」
「わかったわ。じゃあ、あなたの部屋に置いておくわね」
「はい。ありがとうございます」
頭を下げて、今度は感謝の気持ちを表す。
「いいのよ。こっちだって捨てるか売るかしないといけなかったんだし、あなただって着替えは必要でしょ? お互い様よ」
そういう訳で、私は無事に服を貰うことができた。
フェニさんが食器を運んで行った後、彼女から受け取った謎の棒をポケットにしまうと、私は特にやることが無くなってしまった。
「さてと、俺達はちょっとやることがあるが、お前はどうするんだ?」
「ええっと……」
どうしよう。何もすることがない。ここにいる? 町に出る? 一人どこかへ行く?
どうすればいいのかわからないので、それとなくアドレさんのことを見てみる。
「あー、ちなみに言っとくと、俺らは一緒にいられないぞ」
「あ……はい、そうですか」
少し考えていたのだが、先回りされて断られてしまった。
「俺らにも仕事があるからな。すまん」
「いえ、いいんですよ、別に」
別に、ずっと一緒にいたかった訳ではない。ただ、知らない人といるよりはいいと思っただけだ。
「じゃあ、私は適当に町を散歩しています」
「そうか、わかった。気を付けろよ」
ん? どうして、ただ散歩するだけなのに気を付ける必要があるんだろう?
疑問に思ったので、アドレさんに聞いてみた。
「あの、何で町を歩くだけで気を付けないといけないんですか?」
「ん? まぁ、その、なんだ。最近は国中の治安が悪いからな。こういう穏やかそうな所も、裏ではヤバい何かが根を張ってたりするんだ」
「は、はぁ……」
なんだか、少し大きな規模での話だな。国中って……納得は、できるけどさ。
そんな風に少し引いていると、今までずっと黙っていたカイさんが口を開いた。
「……要は、暗い所は危険ってことだ」
「暗い、とこ?」
「裏路地とか、夜とかな」
「あ、なるほど。そういうことですか。わかりました、気を付けます」
アドレさんよりカイさんの方が、説明が上手だな。今度は素直に納得できた。
「なんだよ。俺の言うことは理解できないってのかよ」
私の反応の違いが気に入らなかったのか、アドレさんが少しむくれる。子供みたいに。
「師匠は説明が下手だからな。俺の説明が上手く聞こえるのは仕方ない」
対してカイさんは、表情に変化はないが少し得意そうだった。ふっ、と鼻で笑っているから間違いない。
彼の言葉を聞いて、アドレさんは悔しそうな表情になった。説明が下手なのは本当なのだろうか。
「カイの癖に……と、とにかく、絶対に安全な訳じゃないから、どんな時も注意するんだぞ。特にお前は女だから、どんな目に合うかわからん。攫われて売られるかもしれん」
「う、売られるって……」
大袈裟なことを言うな、この人。
「いくらなんでも、人身売買はいけないはずじゃ――」
そう言うことは、法律とかで禁止にされていたはずだ。そう言おうと思ったが、カイさんの言葉に遮られてしまった。
「奴隷制度のことか? 普通にあるぞ」
「え……?」
奴隷って……あ、あるのか?
「ああ、あるぞ。と言うか、常識だぞ?」
「そ、そうなんですか……」
奴隷が合法だなんて……そう言う制度があるのは、大昔の外国での話だと思っていたけど、ここでは違うのか。ん? 昔の外国って、どこのことだ?
また意味のわからない言葉が出てきた。どうしてこうもわからないことが多いのだろう。
考えてもどうせわからないので、それ以上頭を使うのを止める。
「まぁ、何かあれば助けを呼べばいい。ここは比較的安全なはずだしな。変な奴じゃなきゃ助けてくれる。後、暗くなる前にはここに戻って来いよ」
「はい……わかりました」
心配してくれる二人に感謝しながら、そう言って頷く。
本当に、心優しい人達だ。そう思うのと同時に、この人達にずっと甘え続ける訳にはいかないとも思った。
助けてくれたのにお礼も何もできていないし、ここに泊まるためのお金だって出してもらっている。これ以上何かをしてもらうのは、流石に気が引ける。早く、自分のことは自分でできるようにしないと。
「さて、じゃあ、俺達はそろそろ行くか」
私がそう決意を固めていると、アドレさんがそう言いながら席を立った。
「あ、はい。えっと、行ってらっしゃい、です」
カイさんも立ち上がったので、私も一緒に席を立つ。
「ああ、行ってくる」
「じゃあまたな。多分、夜までには戻る」
「わかりました」
店の扉から出ていく二人を見送る。彼らが視界から消えると、自分が一人になってしまったことが急に悲しくなった。
「……はぁ」
とりあえずトイレに行って、それから私も出かけよう。
そう思って、カウンターの中にいたフィキさんにトイレの場所を聞く。
「あの、すいません」
「あ、はい。なあに?」
「えっと、お手洗いはどこですか?」
「ああ、お手洗いね。それならあそこの扉の中よ」
彼女が示したのは、階段の隣にあった扉だった。ちょうど今、一人の男性が出てきた所だ。
「わかりました。ありがとうございます」
お礼を言ってその場を離れ、青と赤の人影が描かれている扉に向かう。
念のためにノックをして、人がいないことを確認してから中に入り、鍵をきちんと閉める。
……少し、緊張するな。着替えた時と同じくらい、緊張する。なんというか、恥ずかしい。やっぱり、まだ性別の変化を受け入れられていないのかな。さっきも同じことを考えていた気がするけど。
「はぁ……」
ついため息を吐いてしまった。
ため息を吐くと幸せが逃げていくらしいが、それは本当だろうか。
そんな風に別のことを考えて気を紛らわせ、はいたばかりの下着を脱いで便座に座り、用を足す。
こういう時、スカートだと便利なんだなぁ。いちいち脱ぐ必要がない。女性がスカートをはく理由が、少しわかった気がする。それに、これからはこれが普通になるんだし、早く慣れないとな。
手を洗ってトイレから出ると、カウンターにいたフェニさんに声を掛けられた。
「あ、あなたどこか行くの?」
「えっと、少し外を散歩しようと……」
「あら、そう。町の外に出る予定は?」
「外ですか? ない、と思います、けど……」
外に出ると、何かいけないことでもあるのかな?
気になったので、彼女に聞いてみる。
「何かあるんですか?」
「いえ、別に。外は色々と危ないから、一人で行くのは止めておいた方が良いわよって言いたくて」
「そうなんですか……」
町の外は危険なのか……知らなかった。裏路地に、夜に、町の外。危ない所が沢山あって、うっかりしていると足を踏み入れてしまいそうだ。本当に気を付けないと。
「でも、出なければいいんですよね?」
「ええ、そういうこと。じゃあ、行ってらっしゃい。日が沈む前にちゃんと戻ってくるのよ」
「はい……では、その、行ってきます」
挨拶をして、宿屋の出入り口に向かう。ここに泊まっていると思われるお客さん達の、好奇の視線を感じながら。




