第二話 命の恩人
雲がなく、小さな星々と大きな一つの月が輝いている空の下。町と町とを繋ぐ道を歩く、二人の男の姿があった。
「今日は星があまり見えんな」
重そうな大剣を背中に担いでいる一人が、月の明かりに目を細めながらそう言う。すると、彼の少し後ろを歩く男が、
「そうだな」
と、短く言葉を返した。あまり興味がなさそうな口調だ。
月の光が強すぎて、普段なら見えるはずの光の弱い星が見えなくなっていたのだった。
二人はそれきり口を閉じ、時々周囲を確認しながら黙々と道を進んで行く。
彼らが歩く海沿いのこの道は、この先にある港町とその後ろにあるまた別の港町とを繋ぐ街道だ。
この街道は国中に張り巡らされていて、主要な都市には大体行くことができる。昼間には馬車やら人やらで込み合うことの多いこの道も、日が沈んだ今では彼ら二人だけとなっていた。
夜は危険なため、誰も外に出たがらないのだ。ある一部の人を除いて。
しばらくの間普通に歩いていた二人だったが、ある場所に差し掛かった時、何かに気付いた様子で足を止めた。
「おい、あれ」
「ああ。わかってる」
彼らの視線の先には、他の人が夜間外出ようとしない最大の理由がいた。
進行方向とは少しずれた浜辺にいる動く何か。シルエットからして人ではないとわかるが、その大きさは人間大だ。しかも、一つや二つだけではない。
「あいつら……このままだと危険だな。行くぞ」
「わかった、師匠」
真剣な表情で言葉を交わす二人。次の瞬間にはその場所目指して走り出した。剣の柄に手を掛けながら、とてつもない速さで。
彼らが浜辺に近付いて行くと、そこで何が起こっているのかが見えてきた。
砂浜に打ち上げられた何か……いや、誰かが襲われている。襲っているのは七、八匹の、四本足の生物。
長い首と尻尾。鋭い爪。獰猛そうな顔。そして、白い牙。
それらの特徴を見て、二人の頭の中にはある単語が浮かんでいた。
「あの魔物ども、また性懲りもなく……」
「……この間の奴らは全て仕留めた。種が同じでも、同じ個体という訳じゃ――」
「頑固なお前は、黙ってろ!」
言いながら、師匠と呼ばれた男が剣を抜き放ち、威嚇していた一匹の魔物の口を切り裂く。
一瞬で絶命する魔物。
少し遅れてやって来た弟子が、師の背後を取った魔物を切り伏せる。
「馬鹿! 俺の獲物取るなよ!」
「早い者勝ちだ」
怒って怒鳴る師匠に対し、あくまで冷静な弟子。
彼らは舞うように剣を振り、魔物の命を確実に奪っていった。
魔物の首を全て切り落とし、浜辺に安全が戻った頃。二人はようやく、血に汚れた剣を収めた。
「終わったな」
呟く師匠。返事はない。
弟子はすでに、砂浜に倒れている人物に関心を寄せていた。
「こいつ……」
「ん? どうした?」
襲われていたのは、耳の長いエルフの、少し幼い少女だった。体が半分海に浸かっていて、銀色の長い髪には海藻が絡み付いている。どうやら、海で溺れてここに打ち上げられたようだ。
弟子が少女に近寄り、肩を強く叩く。
「……意識がない」
「脈は?」
師の鋭い問いかけに、すぐに弟子が脈を確認。
「……あるようだ」
「そうか。よかった」
「目立つ傷もない。間に合ったようだな」
少女が無事だったことに二人はひとまず安心する。
しかし、まだ問題は残っていた。
「師匠、こいつどうしようか」
「そうだなぁ。このままだとまた襲われるかもしれんし、町まで連れてってやるか」
「わかった」
肉食で獰猛な魔物は、肉食で獰猛な普通の動物と同じく、血のにおいに寄って来る。
先ほど倒した魔物の死体処理をしていないため、周囲は血の海となっていた。波に流された血が新しい魔物を連れて来るのも時間の問題だ。
幸いにも、彼らが目的としていた港町まではさほど遠くない。
とりあえず、そこまで行けば安全だろう。そんな思いで、師匠は連れて行くと決めたのだった。
弟子に自分の荷物を持たせ、少女を海から引き上げる。彼女の体に張り付いていたワカメを取ってから、水を吸った服の重さを物ともせずに背中に背負い、街道に戻っていく。
「なんか、変なもん拾っちまったな」
師匠が首を後ろに回して、少女の顔を見ながら言う。気を失っている彼女の顔は、眠っているようにも思えた。
「別にいいだろ。こういうのが俺らの仕事だ。それに、これが初めてじゃない」
「でもよぉ。こいつは何か、そん時の奴らとは少し違う気がするんだよ」
「そうか?」
「そうだ」
不審そうに眉をひそめるが、弟子は師匠のことをよく知っている。何より、表情が真剣そのものだ。
こういう時に師が言うことは、大体正しい。
「師匠がそう言うのなら、そうなんだろうな」
彼が発したこの言葉は、この二人の師弟関係の長さと、信頼の厚さをよく表していた。
◇ ◇ ◇ ◇
最初に感じたのは、体の揺れだった。
ん……何だ?
次に、全身に強烈な痛み。少しボーっとしていた頭が、完全に覚醒する。
「いっ……! あ、う……」
思わず呻いてしまうほど、体を動かせないほど痛い。
な、なんで、こんなに痛いんだ……。
「お、起きたのか」
「え……」
急に聞こえた誰かの声。
痛いのを我慢しながら首を動かそうとすると、誰かに背負われていることに気付いた。
な、何? 誰? ど、どうして俺、背負われて……。
「う、ぐぅ……!」
「どうした?」
痛みに思考を邪魔され、つい声が出てしまう。
心配そうな声。
「だ、誰……?」
何とかそれだけ言葉を発し、なぜこうなっているのかを考える。
い、てて……えっと、確か俺は、森にいて……そうだ、あの森で起きたら、女になってて、何も思い出せなくて……それで、えっと、川。そう、川だ。
そこまで思い出すと、また誰かの声が聞こえてきた。
「俺か? 俺はアドレだ。アドレ・マッドルカ。浜に打ち上げられて気を失ってたお前を拾ったんだ」
「浜に……?」
目の前にある男の口から発せられた言葉。その内容を理解すると、何があったのかを全て思い出した。
「あ……俺、崖から……」
大きな月、海、町。猫の鳴き声に、一瞬の浮遊感。そして、落下。悲鳴。衝撃。
あの崖から落ちて、落とされて、それで……。
それからの記憶がないことに気付いた。気を失っていたことは本当のようだ。
「ここ、は?」
気になって、アドレと名乗った人物に聞いてみる。
「ん? ああ、ここは町だぞ。港町、アケル」
「港町……」
町と聞いて、崖から見えていたあの光を思い出す。今度こそ首を動かして周りを見ると、確かに建物があるのが見えた。夜なので辺りは暗いが、まだ明かり付いている所もある。
本当に、町、みたいだな。
安心してホッと一息吐こうとすると、突然体が大きく揺れた。また落ちるのかと思い、アドレさんの首にしがみ付く。
「わっ! うわっ!」
「おっと、すまんすまん。背負い直しただけだ。そんなに驚くなよ」
呆れたようなアドレさんの声。それを聞いて、俺は謝りながら手を放した。
「す、すみません……」
「まぁ、いいけどな。それよりもお前、家どこだ?」
「え? 家?」
急に話題が変わり、少し戸惑う。なんで、そんなことを聞いてくるんだ?
「ああ、お前を家まで送り届けようと思ってな。この町に住んでる、んだよな?」
「え、えっと……」
そう聞かれ、今一度家に付いて思い出そうとする。
家、家……駄目だ。やっぱり思い出せない。人に会うという目的は助けられるという形で達成できたけど、俺の状況は何一つ変わってないようだ。
それはそうと、この人にはなんて言おうか。素直に思い出せないと言って、信じてもらえるのだろうか。
迷い、中々答えを返せずにいるとアドレさんは、
「別に一人で帰れるんなら言わなくても構わんが、どうなんだ?」
と言ってくれた。
「ええと……その……」
言いたくない訳ではない。単純に言えないだけだ。家の場所も、まず家があるのかすらわからないことを。
それでも、助けてくれた人に何も言わない訳にはいかない。信じてもらえなくても、言うだけ言わないと。
そう思い、彼の背中に口元を埋め、反応を伺いながらゆっくりとその言葉を口に出す。
「覚えて、いないんです」
「……は?」
アドレさんが驚いて立ち止まった。それから、もう一度俺を背負い直してまた歩き出す。
「覚えてないって、何をだ?」
「家のことも含めて、自分に関することを、ほとんど……」
予想はしていたが、驚かれるのは気持ちの良いことではない。
フェードアウトしていく自分の声。本当はもう少し続けたかったが、そこから先の言葉はなぜか出てこなかった。
「それは……記憶喪失ってことか?」
控えめに聞いてくるアドレさん。
記憶、喪失? 記憶が無いこと? あ、それは、今の俺のこと、か。そんな言葉があることも忘れていた。
「たぶん……」
「多分って、自分のことだろうに」
「……それも、思い出せないんです」
「思い出せない、ねぇ」
絶対に疑われている。信じてもらえていない。そのことが悲しくて、アドレさんの肩を掴む手に力が入り、再び背中に顔を埋めた。
やっぱり、信じてもらえないよな。こんな見ず知らずの人間が言う、自分ですら信じることができないことなんて、誰も……。
「そう言うことなら仕方ないな」
「……え?」
こ、この人、今、なんて言った? 仕方ない? 仕方ないって……どういうことだ?
「……おい、師匠」
アドレさんの言葉を聞いて、驚いたのは俺だけではなかった。
俺の後ろから聞こえてきた、別の誰かの声。その声の主はアドレさんの前に立ち塞がり、彼の足を止めさせた。
「なんだ? カイ」
カイと呼ばれたその人は、呆れたような表情を浮かべて言葉を続けた。
「そいつ、どう見ても怪しいだろ」
「それがどうした」
「信じていいのか?」
その二人のやり取りを聞きながら思う。
確かに、このカイって人の言う通り、自分で言うのは何だが、俺はどう見ても怪しいのだろう。もし俺がこの人達の立場だったら絶対に怪しむ。この人みたいに。
自分ですらそう思うのに、この人は何で俺のことを……。
「……信じて、くれるんですか?」
「嘘なのか?」
「い、いえ……!」
わざわざこんな嘘をつくものか。俺はそこまで馬鹿じゃない。
全力で首を横に振って否定する。
「なら、俺は信じるぞ」
「なんでだよ」
「何となくだよ」
……は?
「……そうか」
え? え?
アドレさんが俺を信じる理由。カイさんも納得してしまった、魔法のようなその言葉。
何となく。
「……どうして」
「ん? なんだ?」
聞かずにはいられない。記憶喪失という、一見すれば都合の良い言い訳とも聞こえる言葉を、なぜその一言で信じられるのか。信じてくれるのか。
「どうして、そんな理由で信じてくれるんですか」
「どうして、って言われてもな。本人が嘘をついてないって言ってんだから、信じるしかないだろう。なぁ? カイ」
「……そうだな」
話を振られたカイさんは不服そうな顔をしていたが、どこか諦めたような口調で、
「後で痛い目見ても知らんぞ」
と言い、その場から退いた。再び歩き出すアドレさん。
「いいさ、そん時はそん時考える」
何というか、この人は、とても凄い人だ。疑うことを知らない訳ではないようだが、それでも信じることを選ぶ。いったいどんな生き方をすれば、こんな性格になるのだろう。
少し、興味が湧いてきた。
それから、アドレさんとカイさんが無言で道を進んでいると、急に後ろの方から強めの風が吹いてきた。
その風が服の下に入り込んで肌を撫でていく。全身に鳥肌が立つ。
「……くっしゅん!」
くしゃみが出て、体が震える。寒い。とても、寒い。
「どうした?」
「あ、その、さ、さぶくて……」
アドレさんの肩から手を放し、両腕をさする。ついさっきまで気付かなかったが、いつの間にか服が濡れていた。その下も肌も。
海に落ちた時に、濡れてしまったようだ。
「大丈夫か?」
「は、はい。何とか……」
「そうか……急いだ方がよさそうだな。カイ、先に行って、宿を取ってきてくれるか」
「わかった」
アドレさんの言葉に従い、カイさんが道を走って行く。
あの人はプライドが高そうなのに、アドレさんの言うことは素直に聞くんだな……あ、そう言えばあの人、アドレさんのことを『師匠』って言ってたな。師弟関係ならあの態度も納得できる。
そう一人納得しながら、体が震えるのを気力で何とか抑えつつ、アドレさんの背中に体重を預ける。
「……温かい」
「ん? なんか言ったか?」
「い、いえ、何も」
独り言を聞かれそうになって少し恥ずかしくなり、大袈裟な動作でなかったことにする。
「そうか」
ふぅ、よかった。
安心したので、少し明るくなってきた周囲を見渡す。元々月の光で明るかったが、今はなぜか、それだけでは説明が付かないくらい明るくなってきていた。
日が昇って来たのか? でも、それにはまだ時間があるような気が……。
気になって空を見上げると、さっきまで確かに暗かったその夜空は、少し白み始めていた。
「え、もう朝……?」
「なんだ? ああ、確かに朝だな。それがどうかしたのか?」
「いや、その……なんだか、朝が来るのが早い気がして」
「そうか? いつも通りだと思うがな」
「そう、ですか」
いつも通り、か。じゃあ、俺の方がおかしいのだろうか。
少し考えると、思い当たる節が見つかった。
そう言えば俺、気を失ってたんだよな。もしかしたら、俺が思っていたよりも長い間気絶していたのかもしれない。
それこそ、日が沈んだ後から日が昇る直前まで時間が経つくらい、長い間。
「お、見えてきたぞ」
色々なことを考えていると、アドレさんが急に声を発した。
「え? 何が、ですか」
俺もつられて前を見る。そこには、先に行っていたカイさんともう一人、耳の長い女性が立っているのが見えた。
「宿だよ。この町で俺らが寝泊まりする場所だ」
視線を横に動かして、二人の立っている隣の建物の看板の文字を見る。だが、読めない。
あれ?
目を擦って、もう一回看板に書かれている字を読もうとする。しかし、意味のわからない記号がただ並んでいるようにしか見えなかった。
え、あそこ、本当に宿? 宿屋とか、ホテルとかの看板は? も、もしかしてあれか? あれなのか? あの変な記号なのか?
読めない文字に混乱しながら、流石にいつまでもこの状態でいるのは恥ずかしいし、痛みも引いてきたので、アドレさんにそろそろ下ろして欲しいと言った。
「もういいのか? 寒いんだろ?」
「だ、大丈夫です。もう大丈夫ですから」
「ならいいんだが」
心配してくれているようだが、アドレさんは俺をちゃんと下ろしてくれた。
「よっと。これでいいか?」
「はい……ありがとうございます」
地面に足を付け、アドレさんと一緒に歩き出そうとする。しかし、ずっと足を動かしていなかったからなのか、足がもつれてバランスを崩しそうになってしまった。
慌ててアドレさんの腕に掴まる。
「わっ、とと……」
「ほんとに大丈夫か?」
「大丈夫、です。すいません」
少しの間腕に掴まらせてもらいながら、彼らが止まる宿とやらまで歩いて行く。
そこにいた二人の所まで移動すると、アドレさんが耳長の女性に声を掛けた。
……あ、そう言えば俺も、耳が長い女、だったな。
今の自分がどんな姿なのか思い出す。時間が経った今でもまだ信じられなかったので、前髪を払いつつ、周りから見てもおかしくないように耳を触ってみる。
その感触は、川で触れた時と変わらなかった。
やっぱり、夢とかじゃなかったのか……。
「よう、久しぶりだな」
「まったく、早朝からお客だなんていったい誰なのかと思ったら、あんたらだったのね」
その女性は腕組みをして、少し不機嫌そうだった。時々こちらを気にしてくる。
「そんな顔するなよ、フェニ。顔見知りじゃないか」
「あまり見たくない顔だけどね」
口調も不機嫌そうだ。そしてやっぱりこっちを見てくる。なんだか、気まずい。俺がここにいることで、ここら辺の雰囲気が悪くなっているような気がする。
少しの間の沈黙。
「それで?」
フェニと呼ばれた女性が口を開く。
「私に何の用?」
「おいおい、俺達は客だぞ。泊まりに来たに決まってんだろ」
「あーはいはい。お客ね。で、その子はいったいどうしたのよ。攫ってきたの?」
ずっと気になっていたのだろう。フェニさんは俺のことをまっすぐ見ながら、アドレさんに問いかけた。
それにしても攫ってきたとは。この人、アドレさんのことを信用していないんだな。前に会った時に何があったんだろう。親しくなれたら、聞いてみようかな。
「ちげえよ。こいつはただ、砂浜で倒れてたから助けただけで……」
そんなことを考えていると、アドレさんの弁解する声が止まったことに気付いた。すでに周囲が、かなり明るくなってきていることにも。
あ、あれ? なんでみんな、俺のことを見て……?
三人が三人とも驚いた表情でこちらを見ている。先ほどよりも気まずい朝の静けさに、誰も何も言うことができない。
「え、と……」
勇気を出して、声を出す。冷や汗が凄い。口の中がカラカラだ。
「な、何ですか?」
俺の問い掛けに、三人は顔を見合わせる。
「お……わ、私が、何か?」
つい『俺』と言いそうになったが、自分が女になっていることを思い出し、『私』と言い直す。
これからも、気を付けないといけない。
「……一つ、聞いていいか」
三人の代表として、アドレさんが俺に聞いてきた。
「お前のその目は、何なんだ?」
「え? 目って……あ」
俺の、いや、私の目。自分でも驚いた、瞳の色。それにこの人達も驚いているのだと気付く。
「え、ええと、その、これは……」
な、なんて言ったらいいんだ。
思わず目元を手で隠す
「これは?」
問い詰めるような視線に恐怖を感じる。
「……じ、自分でも、わからないんです」
怯えながらも、なんとかそれだけを言葉にした。
「覚えてないってことか?」
「は、はい……」
緊張しながら頷く。アドレさんには何も覚えていないことを伝えたから、この目のこともその中の一つだと思ったのだろう。
だけど、フェニさんは違った。
「ちょ、ちょっと待って。覚えてないって、どういうことよ」
俺のその返事を聞くと、フェニさんが驚いた様子でそう言ってきた。
今度は彼女にみんなが注目する。
「自分のことでしょ? しかもそんな、と、特徴的な目のことなのに忘れるなんて、おかしいじゃない」
「そ、それは……!」
俺が一番、わかっているんだ。
そう言葉を続けようとするが、今ここで感情に訴えてはいけないと思ってぐっと堪える。
駄目、駄目。今は、駄目だ……。
疑われる恐怖。信じてもらえない恐怖。見られる恐怖。そんな物に押し潰されそうになっていた俺の心が、ここで爆発してしまうかもしれない。
ようやく人に会えたのに……迷惑はかけたくない。
拳を強く握り、唇を噛み、ただ耐える。
「……まぁ落ち着けよ」
カイさんがフェニさんをなだめる。
「こいつ、記憶喪失なんだ」
「え? 記憶、喪失?」
「本人が言うには、な」
この様子だと、カイさんは信じていないのだろう。だがフェニさんは、
「そうなの……」
と小さく呟き、さっきまでとはまったく違う憂いに満ちた表情で俺のことを見つめてきた。
え、な、何? この人は、なんでそんな顔をするんだ?
理由がわからず困惑する。そんな俺に向かってフェニさんが手を伸ばしてくる。
「え、あうっ……」
突然ことで反応できずにいると、頭を、ポン、と叩かれた。そのまま引き寄せられて、フェニさんの胸に抱かれてしまう。
「え? え? な、何を……」
「ああ、なんて可哀想なの」
「か、可哀想って……」
な、何を言っているんだ、この人。その……恥ずかしいんだけど。
顔に当たる柔らかい感触。抱きしめられているというこの状況。その両方に恥じらいを感じて、顔が少し赤くなる。
「記憶喪失なんでしょう? 自分のこと、わからないんでしょう?」
「え、はい……」
聞かれて反射的に答える。まだ現状に理解が追いついていないが、何を聞かれているのかはしっかりわかった。
段々と、心が温かくなっていく気がする。
「お名前とお家、思い出せる?」
「……思い、出せないんです……」
「ご両親やお友達のこと、覚えてる?」
「覚えてないんです……わからないんです、ぐっ、な、何も……」
涙声になっていく俺の声。泣いてはいけないと思っていても、ここまで行くともう止められない。さっき抑えたばかりの感情が、とめどなく溢れてくる。
「ぐずっ……どこかわからない森で、うぅ、起きたら、なんか、見たこともない、所にいて……」
「うん、うん」
「なんか……川で顔見たらぁ、目が、目の色が、変で、おかしくて……」
「そうなの、そうなの」
優しく頭を撫でられる。涙がフェニさんの服を濡らしてしまうが、そんなところまで考える余裕はすでになかった。
無意識のうちに腕を彼女の後ろに回し、強く抱きしめる。
「それで、それでぇ……なんか、変な猫に崖から、ひぐっ、崖、から突き落とされてぇ……」
「え、ね、猫? ……そ、そうなの、大変だったのね」
「もう、何が何だか……訳が、わからないん、ですぅ……」
その言葉にフェニさんが一瞬だけ驚くが、何事もなかったかのように俺をなだめ続けてくれた。
そんな俺を見て何を思ったのか、カイさんがフェニさんに、
「……三人だ」
と伝えるのが聞こえた。
「え? なんて言ったの?」
「俺と、師匠と、こいつの三人で、とりあえずひと月の間泊まる。頼めるか」
「わ、わかったわ」
「それでいいよな、師匠」
「ああ、問題ない。俺は元からそのつもりだったしな」
急な決定で戸惑うフェニさん。しかし、彼女は慣れているのかすぐに頷いた。
「もう大丈夫よ。安心して」
フェニさんは母親のように、俺に優しく語りかけてくる。
「え……?」
思わず顔を上げ、フェニさんの顔を見る。彼女は、優しく微笑んでいた。




