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義眼の少女は異世界を旅する  作者: 夜寧歌羽
第一章 失ったモノ、変わったトコロ
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第一話 目覚め

 サァーッという音が、気持ちよく眠っていた俺の耳に流れ込んでくる。

 ん……なんの音だ?

 そう回転の遅い頭で考えるのと同時に、顔に何かが吹き付けてくるのを感じた。

 真っ暗だった視界が徐々に明るくなってきて眩しい。まぶたの向こうに、何か光があるようだ。

 音が止んだ。だが光はいつまで経っても消えない。

 ……ああ、もう朝なのか。なら、早く起きないと……。

 ぼんやりとそう思いながら、ゆっくりと目を開ける。

 すると、今までの比ではないくらい明るい光が目に飛び込んできた。


「うわっ、眩し……」


 思わず目を細め、手で光を遮る。目がこの明るさに慣れるのを待ってから体を起こすと、大きなあくびが口から漏れた。


「ん、しょ……ふわぁぁ……」


 まだ、眠いな。ああ、なんかやけに赤いと思ったら、これ朝日じゃなくて夕日じゃないか。俺、こんな時間まで寝てたのか。

 それにしても、これはちょっと眩しすぎやしないか。部屋の電気は確かに消したはずだけど、どうしてこんな、外みたいに明るいんだ……って、外?


「え、ちょ、ちょっと待て。ここ、どこだ?」


 今更ながら、今自分がいる場所の不自然さに気付く。

 ずっと室内だと、自分の部屋の中だと思っていたが、違う。ここは屋内ではない。まず、枕と掛け布団がない時点で気付くべきだった。

 地面は土で、俺が寝ていたベッドではない。鼻から吸った空気は、自然の香りがする。


「外……?」


 周囲を見回すと、オレンジ色の光に照らされている沢山の木が見える。小鳥の鳴き声が聞こえてきてもおかしくない光景だ。


「しかも森……ど、どうしてこんな所に」


 おかしい。俺は確かに、自分の部屋の自分のベッドで寝たはずだ。なのに、なんで俺はこんな見覚えのない森なんかにいるんだ?

 ま、まさか誘拐……って訳じゃ、流石にないか。

 周りには誰もいないみたいだから、眠っている間に無理矢理連れて来られた訳ではなさそうだ。少し安心した。

 でも、拉致されていないのならどうやってここに来たんだ? ここは森の奥の方みたいだし、俺はこんな所で寝てはいないし……いったいどうなってるんだ?

 訳がわからない。

 だけど俺は、この現状よりももっと訳のわからないことに気付いた。


「ん? ……何か、おかしいぞ」


 自分の声に、身体に、違和感がある。記憶にある俺の声と、今さっき発したばかりの声が明らかに異なっている。


「この声……少し、高い」


 どう高いのかわからないが、とにかく高い、と思った。

 次に、地面についていた両手を確かめるようにゆっくりと動かし、顔の前に持ってくる。


「それにこっちは、少し白い?」


 記憶にある自分の物とは違う、白っぽい肌。それに加えて、全体的に小さく、細くなっている気がした。

 そんな違和感満載の手を使い、ずっと視界の端にチラチラ見えていた白く長い物を掴む。

 少し前から気になっていて何なのか疑問だった物だが、触れた瞬間理解した。


「髪の毛……だ、誰の?」


 よく見えるように目の前に持ってくると、もっとよくわかる。

 色は白というよりは銀色で、長さも腰まであった。これも自分の髪でないように思えて、そのまま数本だけ抜いてみる。

 ……痛い。

 頭に感じるかすかな痛み。それを我慢しながら抜いた髪を確認してみると、そこには確かに毛根があった。

 ということは、これは俺の頭から生えている、俺の髪の毛、ということになる。だけど、


「どうしてこんなに長く……色まで変わってるし」


 おかしい。俺はこんな髪型ではなかった、はずだ。少なくとも寝る前は。

 自分のことなのに、なぜか自信がない。そのことを不思議に思っていると、今度は自分の服装が気になった。

 いつも使っている寝間着姿を想像しながら自分の体を見下ろす。しかし実際には、俺のその予想とは大きく違う服が目に入ってきた。


「……は?」


 まず目に入ったのは、地の厚い紫色の、フードが付いている上着。袖も肩幅も裾も少し大きめで、体のサイズに合っていない。

 その下には白いワイシャツを着ていて、首には黒く短めの、先が四角いネクタイを着けていた。それに……胸の辺りに、少し膨らみがある。


「な、なんだ、これ」


 こんな服見たことないし、もちろん持ってもいない。

 下半身の服装はと言うと、赤いチェック柄のスカートに、黒い膝下まである長い靴下、そして、茶色い長ブーツだった。

 そう、スカート。女性が着るもの。それを俺がはいている。

 その理由は、そこまで深く考えなくてもわかった。女装の趣味があるとかないとか、そういう問題ではない。もっと単純な理由だ。

 膨らんでいたり、あったはずのものがなかったりといった、胸と股の感覚の違い。そこから導き出される一つの結論。


「どうして、気付かなかったんだ」


 女になっているということに。

 自分の性別のことだ。目が覚めた後真っ先に気付かないとおかしいではないか。こんな、今までの自分が全否定されるような現象に疑問を抱かないはずないじゃないか。

 なのに、俺は気付かなかった。

 そのことに困惑しながらも、性別が変わった理由を考えようとする。

 色々と気になることはあるけど……まずは寝る前に何をしていたのかをはっきりさせよう。そうすればきっと、何か手がかりが掴めるはずだ。

 そう思って、目が覚める前の記憶を探り始めたが、


「寝る前……起きる前……ええと、うーんと……」


 ……思い出せない。

 おかしいな。男だったってことと、この場所を知らないってことは覚えてるのに……ここで目覚めたことが衝撃的過ぎて、中々出てこないみたいだ。

 もう一回考えてみればきっとわかるはずだと思い、頭を働かせる。だが、


「……あれ? 本当に、思い出せないぞ」


 え? 嘘だろ? どうして思い出せないんだ? たった数時間前のことなのに、どうして……。

 単純に思い出せないことに焦りながら、ひたすら頭を使い続ける。しかし、考えれば考えるほど焦りが募り、余計に思い出せなくなってしまった。

 こ、こうなったら仕方ない。こういう時は、別の視点から考えていくことにしよう。

 寝る前に何を、じゃなくて、何をしてから寝たんだっけ。何をしてから寝る準備を始めたっけ。

 歯は磨いたか? 風呂には入ったか? 晩飯は? 何を食べた? においは? 味は? 作ったのは誰だ?

 順を追って時間を戻しながら、その時のことを思い出そうとする。だが、やはり何もわからない。何も思い出せない。


「そんな、どうして、こんな簡単なことなのに、簡単なはずなのに……」


 無意識のうちに頭を抱えて、必死に思い出そうとする。


「俺は寝る前、どこで、何をやって……」


 何度も同じことを考え、何度も同じことを呟く。

 そんなことをしているうちに気付いた。


「あれ……? 俺って、誰、だっけ?」


 自分の名前も年齢も、男だった時の姿も、趣味に好きな色や食べ物、どこに住んでいたのか、親の顔も友人の名前も、何もかも思い出せないことに。


「そんな……う、嘘だろ、なんでこんなことも思い出せないんだ」


 自分のことじゃないか。わかって当然のことなのに、どうして……。

 性別の変化に混乱していた頭がさらに混乱して、もう何が何だかわからなくなってくる。


「俺の、名前、は?」


 声に出して、自分に問いかけてみる。しかし、

 ……わからない。

 何も頭に浮かんでこない。


「俺は、いつ、生まれた?」


 一度では諦めず、もう一度問いを投げかける。


「くそっ、やっぱりわからない」


 だが、結果はやはり同じ。

 それから何度か同じことを繰り返したが、俺が本当に何も覚えていないことがわかっただけだった。


「なんで、こんなことに……」


 もう何も打つ手がないことに気付くと、体中から力が抜けいった。

 ……これからはもう、寝る前は確かに、なんて言うことができないな。今のところ俺が覚えているのは、男だったことと、ここで寝てはいないことの二つだけなのだから。

 でも、俺はまだ諦めたくない。

 過去を忘れたままで、まともに生きていけるはずがない。なんとかして思い出さないといけないんだ。絶対に。

 そう強く決心して、また思い出せないことを思い出そうとする、辛くもどかしい作業に戻ろうとした。

 その時だ、どこからともなく、ガサガサという葉の揺れる音が聞こえてきた。

 風に揺れる音ではない。風はとっくに止んでいる。それに何となく、木の葉ではなくてもっと背の低い草が揺れる音に思えた。


「え、何? 誰?」


 この近くに、誰かがいるのか? も、もしかして、俺のことを知っている人だったりして……?

 そんな希望的観測が頭に浮かんだが、すぐに真逆の考えも浮かぶ。

 いやでも、ここは森だ。見たことも聞いたこともない場所だ。怪しい人や危ない動物がいてもおかしくはない。下手したら、命の危険にさらされてしまうかもしれない。だけど、でも……。

 二つの正反対の可能性をポジティブに取るか、ネガティブに取るか。迷うことができる時間は少ない。


「うーん、でも、うーん……」


 俺はどうするべきなんだ。

 せめて、音がどこから聞こえてくるのかがわかれば、その反対方向に移動して時間を稼ぐのに……。


 最初の風の音もそうだったが、この音もなぜか変に大きく聞こえてしまい、聞こえてくる方向がわからなかった。

 一応、目で見て、頭で想像すれば予想できるし、断定もできる。

 だけど、見えない位置から聞こえてくるこの音は想像することが難しい。距離感を掴めないほど大きく聞こえすぎるから、目で見ないと方向を特定することもできない。

 この音はいったいどこから……?

 首を回して辺りを見るが、揺れる物などどこにも見えない。しいて言えば、自分の髪の毛ぐらいか。

 まだ近くじゃない、と思うけど、どうしようか。

 そうは言っても、音は少しずつ近付いてきている。どこから来るのかわからないが、ここを通ることはほぼ間違いないだろう。残された時間が少ないことに変わりはない。

 耳を澄まして、音の聞こえてくる方向を探る。

 大丈夫、落ち着けばきっとわかるはずだ。耳が悪くなっていたって、方向ぐらいはなんとか……。

 目をつぶって、集中する。

 ガサ、ガサ、ガサ。

 一定のリズムで大きくなる音。その音の主はこちらに近付いてきている。

 イメージを膨らませながらじっと動かずにいると、聞こえてくるのが葉の揺れる音だけではなく、ザクザクという土を踏むような音も混じっていることに気付いた。

 ザクザク、ザクザク。ガサガサ、ガサガサ。

 音を聞き、イメージする。

 こちらに向かってくる誰か。二本の足……いや、四本の足を使って歩いている。その小さな体が地面から生える草に触れ、ガサ、と音がする。

 ガサ、ザク、ザク……。

 音が空気を伝わり、俺の耳まで流れ込んでくる。


「……はっ!」


 あ、あれ、俺、今何を……?

 あまりにも鮮明すぎる想像をしていたことに驚き、急いで目を開ける。

 実際にその場所にいたかのような感覚に戸惑いながらも、すぐに、今起こったことを整理しようとした。

 い、今一瞬、頭の中に、猫が歩いている映像が……もしかして、今のがこの音の?

 音だけを聞いて、こんなにリアルな想像をしたのは初めて……いや、自分のことを何も覚えてないからそうとは言い切れないか。

 そんなことより、さっきの猫がいた所。


「確か、あっちの方だったよな」


 左の方を向きながら立ち上がり、服に付いた土を払う。

 先ほどの想像を信じるのなら、ここに向かってきているのは小さな灰色の猫らしい。それが本当なら無理に逃げる必要もなくなるが……あれは、普通の猫ではない気がする。あれは絶対にただ者――ただ猫ではない。

 首輪はしていなかったから野良猫だろうけど、それにしては、こう、怪しい雰囲気があった。

 言葉で表すのなら、神々しい、と言ったところだろうか。

 とにかく、あの猫は怪しい。あそこにいたのも、俺が目当てなんじゃないかってくらいこっちをまっすぐ見ていた。

 こうしている間にもあれが近付いてきているのかと思うと、落ち着いていられない。


 その場で回れ右をする。


「本当に、ただの野良猫なら会いたいけど……」


 俺の直感が言っている。あいつはヤバイ、と。

 今信じられるのは自分だけだ。その自分も過去の記憶が無いせいで頼りないけど、他人に頼るよりはまだマシだろう。

 それに、ここでずっと考え込んでいるよりは歩いている方が、気が楽でいいと思う。

 ちょうどいい気分転換にもなりそうだし、タイミングとしてはよかったのかもしれない。


「よし、進もう」


 俺は、履き慣れないブーツに苦戦しながらも、一歩一歩確かめるように地面を踏みしめて、草木の生い茂る道なき道を進んでいった。


  ◇  ◇  ◇  ◇


 それから、どれだけの時間歩いただろうか。

 後ろからの足音はもう聞こえなくなり、やっとこのブーツにも慣れてきた。何度かこけそうになる場面もあったけど。踵がそれほど高くなかったのが救いだ。


「ふぅ……」


 少し足を止め、空を見上げる  日はすでに沈み、オレンジ色だった辺りも暗闇に包まれようとしていた。


「腹、減ったな……」


 ここで起きてから何も食べていないから、そろそろお腹が鳴りそうな気がしてきた。


「はぁ……」


 疲れている訳ではないが、目的地もなくただ歩き続けることが精神的に少し辛い。せめて森から出ることができればいいのだが、今のところずっと景色が変わっていない。まだ深い所なのだろう。


「ここ、本当にどこなんだろうな」


 今日何度目かわからない言葉を呟いて、起きる前のことを考えて、頭を抱えて、何も思い出せなくて……諦めて、再び歩みを進める。

 そんなことを、かれこれ一時間くらいやっている気がする。


「はぁ」


 喉が渇いた。水が欲しい。ここは森なのだから、川の一つや二つあってもいいだろうに。


 そんなことを考えていると、不意に、求めていた水の流れる音が聞こえてきた。


「あ……これは、水!」


 まだ小さいが、これは間違えようがない。

 相変わらず方向がわからないが、進んでいたら聞こえてきたのだし、このまままっすぐ進んでいけばきっと大丈夫だろう。

 ここで起きてからは結構遠くの音まで聞こえるけど、その方向までは特定できない。これでは耳がいいのか悪いのか。どっちなのか判断できない。

 そんなことより、今は何よりも水が欲しい。


「急ごう」


 目指すは水。それも、流れているから多分川だ。

 綺麗な水の流れる川を想像しながら早歩きで先に進んでいると、音が段々大きくなってくるのがわかった。

 よしよし、ちゃんと近くなっているな。いい感じだ。


 それから数分間歩き続けた結果。


「お……あった。ほんとに、川があったぞ」


 丸く角のない小石が敷き詰められている、木の生えていない場所に出た。その真ん中には確かに流れる水がある。

 ああ、やっと水が飲める……。

 水を見つけて安心したからなのか、どっと疲れが出てきた。歩きっぱなしだった足が少し重い。

 少しフラつきながらもなんとか川に近付き、その側に座り込む。


「ふぅ……よいしょっと」


 水が透き通っていて、とても綺麗な川だ。

 早速水をすくうために屈み込んで、手を伸ばした時、水面に映る誰かの顔が目に入った。


「え……だ、誰だ? これ」


 固まって動作を止め、水面を凝視する。

 少し幼さの残る女の子の顔が、驚いて動けない俺を見つめ返してくる。俺が言葉を発するとその女の子の口も動いた。

 あ……そうか。これが、俺の顔なのか。そういえば、俺、女になってたな……大事なことなのに忘れていた。

 変わり果てた自分の顔。しかも、変わる前の顔を思い出すことができないときている。この状況だけでもすでに異常なのに、この顔見てさらにおかしいことに気付いた。


「……あれ?」


 耳が、目が、少し変だ。長さとか色とかが普通と違う。

 水面に映る耳を見ながら、恐る恐る自分の耳を触ってみる。掌から伝わってくるその感触と水の中の俺の動きから、これが見間違いではないことがわかった。


「耳が……長い」


 耳が細く鋭く、そして長い。人間の物とは思えない長さだ。

 性別の変化に、記憶の欠如。もう余程のことでは驚かないだろうと思っていたが、これには驚かざるを得ない。


「嘘だろ……俺、人間じゃないのか?」


 そんな、まさか、し、信じられない……性別の次は種類? わ、訳がわからない。

 戸惑いながらも、一応こういった生物を知らないものかと頭を働かせるが、予想通り何も出てこない。


「なんなんだよ、何があったんだよ……」


 もう一度眠りにつく前のことを思い出そうとするがやはり何もわからず。手掛かりは何一つない。

 悩むのを早々に切り上げて、もう一つのおかしな点を見ることにした。


「この目はいったい……」


 その箇所は目。瞳の色が、右と左で異なっていた。

 周りはかなり暗くなっているが、その色は何とかわかる。

 右が青。左が赤。

 不自然で、非常識的で、不気味なその瞳が俺を見つめている。

 流石に目に触れるようなことはしないが、それをしたくなるくらい信じられない。ついでに、こういう目のことをなんというのか思い出せないことも信じられない。何か名前があったはずだが……。


「やっぱり無理、か。はぁ」


 ため息を吐いてしまうのも何回目だろうか。

 思い出せないって、ここまで虚しいことなんだな……はぁ、考え過ぎても良いことは何もない。

 無理に思い出そうとしても、辛くなるだけだ。

 そう考えて、それ以上深く考えるのを止めた。それからもう一度手を伸ばし、今度こそ水をすくう。手をそのまま口元に運ぶと、口を付けて一気にすすった。


「ん……ごく……ふぅ」


 あぁ……美味しい水だ。いろんな悩みや疲労が吹き飛んでいって生き返る。この冷たさが気持ちいい。

 もう一回水をすくって顔を洗うと、今まで悩んでいたことが馬鹿馬鹿しく思えるほど目が覚めた気がした。

 今までの出来事が全て夢だった気分だ。顔を洗って、やっと一日が始まったって感じがする。もう日は落ちているのだが。


「あとは食べ物さえあれば万々歳なんだが……」


 お腹をさすりながらそう呟く。

 生憎、近くに食べることができそうな物は見当たらなかった。

 無い物をねだっても仕方ない。どこかに移動して、探すか何かしないと。森だから、キノコとか食べられる草ぐらい生えているだろう。

 しかし、俺にはそれらの見分けがつかない。特にキノコは、間違って毒キノコでも食べてしまったら……最悪の場合、死んでしまう危険性がある。止めておくべきだろう。

 朝食は諦めた方がよさそうだ。

 もう夜だから、夕食と言った方が良いかもしれない。

 とりあえず今は喉を潤そう。水で何とか持たせて、もう無理だと思ったらそこら辺の草でも何でも食べればいい……できるだけ、そうならないことを祈りたいけど。


 満足するまで水を飲み、濡れた顔を服の袖で拭く。

 さて、これからどうしようか。

 水を求めてここまで来たけど、その目的は果たした。まだ疑問の山は崩せていないが、自分のことを思い出せないから考えようがない。

 ここにずっといる……のは止めておこう。ここは水場だからいろんな生き物が来るかもしれないし、さっきの猫みたいなのに追いつかれても困る。


「動いた方がよさそうだな」


 そう決めたはいいが、どこに行こうか……まぁ、ちょうどいい川があるし、これに沿っていけばいいか。

 立ち上がって伸びをして、一度深呼吸をする。


「すぅー、はぁー……よし」


 次の目的は、誰かに会うことにしよう。この場所のことと、できれば自分のことも聞くために。あと、食事。

 もう、誰かに話を聞かないと何も進展しない気がする。


「とにかく、早めにここから出たい」


 世界が全て森だったら出られないけど、流石にそんなことはないよな、うん。

 ふと頭に浮かんだ、ありえない考えを否定しながら歩き出す。


 それからほんの少し歩いたところで、また何かの音が聞こえてきた。

 え、こ、今度はなんだ?

 だいぶ慣れてきたからなのか、今回は方向も距離もすぐにわかった。だが、これが何の音なのかはわからなかった。

 ええと、ここから歩いて三、四十分の所、か。直線でいくと川より少し曲がっているけど……川も曲がっているし、川沿いに行ってもいずれ辿り着きそうだ。

 どうしてこんなことがわかるのかは謎だが、もう、そういうわからないことを無理に考えようとは思わなかった。気にしない方がいい気がする。

 ついでに、とっくに日が沈んで真っ暗になっているはずなのに、色がわかるくらい夜目が効くことも気にしない方がよさそうだ。


 川に沿ってしばらく歩いていると、先に進むにつれて川が少しずつ細くなって、流れが速くなっていった。

 そんな川を見ていて、ふと思う。


「そういえば、魚がいないな」


 俺が水を飲んだ場所は川幅も広く、見た感じ真ん中の方は深そうだった。カニやエビや小魚がいてもおかしくはない環境だろう。

 今では幅が少し狭くなっているとはいえ、そう変化はないはずだ。なのに、どうして生き物が一匹もいないんだ?

 周りはいつの間にか森の中に戻っていて、川には緑色の落ち葉がいくつも浮かんでいた。


 この音はやはり、川に関係しているのだろうか。

 今ではかなり大きくなっているのに、川の先を見ても何もない。川が蛇行して先が見えないからかもしれないが、音と距離感が一致しない。

 そんな疑問を抱きながらも歩き続け、水を飲んでから恐らく三十分くらい経った時。


「あ」


 急に目の前が明るくなり、開けた場所に出た。

 ここが、音の?

 木の生えていないこの場所より先には、川も木も地面もない。見えるのは、白く輝く大きな月だけ。

 川が終わってる……そんなことがあり得るのか? しかもあの月、


「なんて、大きいんだ」


 視界のほとんどを覆い、眩しいくらいの光を放っている。

 こんな物は見たことがない、と思う。自信がないが、少なくとも今の俺にはそう思えた。

 俺の中での月のイメージは、もっと小さい、親指の爪くらいの大きさだったはず。そのことを考えると、俺の記憶は一応正しいのか。なんだ、案外色々覚えているじゃないか。

 少し安心できた。


 問題の、かなり遠くからも聞こえていたこの音だが、今ではうるさくて仕方ない轟音となっていた。

 何の音かと思って、途切れている川の側に近付いてみる。ここまで大きな音なのに、耳を塞ぎたくならないのが不思議だ。

 ゴォーッという凄まじい音のする川の終わりには、霧のような雲のような白く薄いモヤモヤがかかっていた。

 水が下に落ちる時に舞い上がる、水しぶきのようだ。


「う、冷たっ」


 顔に吹き付けてくる細かい水滴を拭いつつ、地面の果てからその先を見る。


「こ、これは……凄い……!」


 そこには、思わず口から感嘆の声が出てしまうほど幻想的な光景が広がっていた。

 白い光を放つ大きな月をバックに、青くどこまでも続いている大海原。町らしき所に明かりが集中している大地。すぐ横では、川が滝となって真下の海に流れ落ちている。

 そして俺は、この景色を高い所から一望している。


「信じ、られないな。この景色は」


 とても綺麗で神秘的で、現実離れしている。やっぱり俺は、ここにはいなかったんだな。ここで生まれて育った人ならば、あの月やこの景色を見ても驚きはしないだろうから。


 今いる場所がどれだけ高いのか気になって、その場にしゃがみ込んで下を覗いてみる。


「うわぉ……結構、高いな」


 これもまた凄い。

 俺がいる所は、切り立った崖の上だった。下で波が打ち付ける音がかすかに聞こえるが、これは確実に、落ちたら死ねる高さだ。落ちないように気を付けないと。

 これ以上は危ないと判断し、立ち上がって後ろに下がろうとする。

 その時、


「にゃ~」


 背後から急に、猫らしき生き物の鳴き声が聞こえた。


「え……?」


 何? 誰だ? 猫か? いつの間に後ろに……。

 驚いて振り返ると、目の前に何かが迫ってきていた。


「なん……うわっ!」


 とっさに腕で顔を守る。しかし、突然のことでその攻撃――猫パンチをまともに食らってしまう。

 その衝撃はとても弱かったが、俺のバランスを崩させるのには十分だった。


 そのまま後ろに倒れ込む身体。


「え、あ……」


 足から地面の感覚が無くなり、今度は体全体が下に引っ張られる感覚。

 一瞬の出来事だが、やけに長く感じる。隣の滝の音も聞こえず、自分の間抜けな声しか聞こえない。

 さっきまで自分がいた崖の上から、二つの小さな瞳が冷たくこちらを見下ろしている。


「うそ……」


 段々と遠くなっていく崖。段々と近くなっていく海面。ここが俺の墓になると、嫌でも理解させられる。


「そんな……」


 そんな、まだ何もわからないままなのに、何も思い出せていないのに、死ぬ、なんて……。

 涙で視界が歪む。


「嫌、嫌だ……いやぁあああああああああ!!!」


 その口から出た甲高い悲鳴が耳に届くのと同時に、時間の流れと音が元に戻った。

 体が物凄い速度で落ちていき、内臓がすべてひっくり返るような気持ち悪さに襲われる。視界がぐるぐるとまわり、さらに気持ちが悪くなる。

 その間俺は何もできずに、ただどうしようもない絶望感を胸に抱いて涙を流し、目を閉じた。


「……死にたく、ない……!」


 切実な、心からの、誰にも届くことのない願い。

 次の瞬間には全身に強い衝撃が走り、俺の意識は、そこで途絶えた。


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