第八章
僕は、頭に布を巻いている彼女と子ども三人組が会話しているのを沈黙を保ち、ぼんやりと見ていた。
コロコロと表情や声色が変化している子ども達とは対照的に、己と年齢差はさして変わらないと思われる彼女の方は、冷静沈着を地でいっている態度で三人と接していた。
人によっては、というか。自分がそうなのだけど、淡々としている彼女の言動や雰囲気から普通は距離 を置こうとするのではないか、と考えてしまう訳なのだが、なんせ、僕は、出会ってまだ日が浅いとはい え、自分なりに観察してみた所、背の高い彼女が何を考えているかもさっぱり分からず、喜怒哀楽が顔に 表われる事もなかった。
だからこそ、とっつきにくくて苦手な人間である、という第一印象が抱いたわけで。
自分がそう認識した相手に子ども達の方が楽しそうに話しかけていることに、思わず、不思議なことも あるもんだな、と心の中で首を捻っていた。
三人のはしゃいでいる声が聞こえていたその時。
ふと、視線を横に移して、苦手意識を覚えている彼女を見た瞬間のことだった。
口の端が微かに上向きになり、そうなんだ、と呟く声音には、喜びの感情が垣間見えた気がした。
『……彼女も、あんな表情をするんだな』
僕は、確かにその瞬間、意外そうに思ってしまった。
●
全身が揺れているような感覚とシンクロして、片頬に伝わるひんやりとしつつも不愉快な感触に、思わず両眉を顰め、ううっ……、と唸り声を漏らし、ロジェは重たそうにしながら目蓋を開ける。
そして、半覚醒のまま、顎を引き、焦点が定まりかけた両眼が捉えたのは、あちこちが擦り切れている 服の男性が屈み込んで、慎重にロジェの懐付近をまさぐっている最中であり、彼の方も、獲物である少年 の顔を丁度、横目でちらりと見た。
その瞬間、互いに視線がぶつかった。
「……っ!?」
息を呑み、みるみる内に青褪めた顔色になった男性は、ロジェが一言目を発する前に機敏な動作で立ち 上がると慌てた様子で駆け出す。
何度も転びそうになっているその後姿を横向きの体勢から上体を起こしている間に呆然とした面立ちで 見やる。
男性の姿が通行人達の流れに紛れ、完全に見えなくなるのに十数秒が過ぎ去り、
「ああっ……、そういうことか」
と、思考回路が通常回転になり、意識を無くしていた自分を発見したさっきの男性が金目の物を物色している途中で、僕は目を覚ましたのか、と冷静に事態を推測し、納得する。
……まぁ、残念な事に、金目の物なんて、今は持ってなかったんだけどね。
内心でほくそ笑みながら、片膝立ちになってからゆっくりと起き上がり、未だに残る片側の頬だけにあ る変な感触に手の甲で素早く拭う。
そして、手の甲に付いているものに焦点を絞ると同時に、頬から剥がれた何かが疎らに落ちていく。
「なんだ。砂か」
不愉快の正体に知り、思わず溜息をこぼした。
……それにしても、僕はどれだけ、気を失っていたんだ? ……まぁ、酒場の手伝いに遅れなければ 良い訳だし、とりあえず、時間を確認しにいくかな。
と、現在位置から一番近い時計塔の場所までの道のりを思い浮かべながら右足を踏み出しかけた矢先、
……あれ?
意識を失っていた時に体験した幻の破片が頭の片隅を過ぎったと共に、右の靴底が砂利を噛み締める音 が微かに鳴った。
前足を出した状態で動きを止め、目線を下げつつ顎に指先を当てて、
「なんで……、あの時の事を夢に見たんだ?」
思い起こす。
数日前の出来事で子供達と会話している瞬きする間だけ、冷静沈着然としていたアニエスの眼差しや口 元や雰囲気が柔らかいものと変化する。
その様は、僕にとって、あまりにも深く瞳の奥に鮮やかに焼きついて離れない。
数日前に起こった刹那の光景だというのに。
「また、見たいな……」
と、無意識のままに唇が開き、小さな音として発せられた。
「っ!?」
……何を言っているんだ? 僕は。……あの時の彼女の表情をもう一度見たいって、なんだよ。それ ? 普通にありえないだろう? あれが何なのかも分かっていないというのに。
これ以上ないほどに目を大きく見開きつつ、すぐさま、昨日のクローデットからアニエスがあまり笑顔 を見せていないという話した時に返ってきた言葉が頭を掠め、やっぱり自分の錯覚だよな、と、小さくか ぶりを横に振って、思考を改めている。
だが、今しがた見た幻に、? と数日前に見た時とは何かが欠けているような気がしてきて、何だっけ かな、と渋面を作る。
そこに、
「あの、そこに突っ立っていられると邪魔なんだけど?」
剣呑な声が聴覚に届き、目線を上げる。
自分がいる位置が中央よりにいる事から向こう側へ行けない顔を顰めている通行人がいた。
「ああっ!? すいません」
すぐに自分が通る邪魔している事に勘付き、壁際に寄り添う。
通行人が行く。
「何をぼんやりとしていたんだかな……」
両頬を軽く叩き、今度こそ、ロジェは目的地への移動を再開する。
●
「はぁ……はぁ……」
時計塔まで行ってきたロジェは、時刻を確認し、まだ余裕がある事を知ると、町中を、駆け出す、とい う選択していた。
そうしなければ、己の思考と心を支配している祭術とは関係ないこの想いを振り払えず、その為に祭術 に集中できないまま、一日を過ごす事になるのは、堪えられない、という風に信じていた。
何も考えられないくらいになるほど、無我夢中で全力疾走しており、片目に入り込んだ汗を指先で拭い つつも視線は前方から逸らさない。
……走ってからどれくらい経ったかな。
と、漠然とした思考回路でそんな事を思うロジェは、人が生活している上で奏でられる音も、すべて風 切り音で掻き消され、時間感覚すらも判断つかない状態に自分が陥っている事だけは理解していた。
踵、ふくらはぎ、太股が悲鳴を挙げ、どれだけ転び、擦り傷を作ろうとも視界に入る道を前へ、右へ、 左へと進む事だけは止めなかった。
それゆえに、どこら辺を自分が走っているのかすらきちんと分かっていない。
「あっ!?」
石畳の凸凹部分に爪先をとられ、体勢を崩し、しまった、とばかりに両眼を瞠っている一瞬。
咄嗟に、顔を庇うように両腕を交差させたまま、滑るようにして派手に倒れ伏す。
「~~~~~っ!?」
衝撃と痛みが全身を苛み、肺に溜まっていた空気が吐き出される。
酸素を求めて、呼吸運動をしている間にぼんやりとしかけていた意識が醒めると同時に、周囲の雑音が 鼓膜の奥へと一斉に伝わってくる。
その中でも特に響いてきたのは、わぁ、という歓声。
……なんだ?
前腕、上腕と徐々に力を入れながら上体を起こし、音がした方向に顔を動かしてみる。
ロジェの両眼が捉えたのは、開けた場所で祭術を披露している者達を立ち止まって食い入るように観て いる人々の後姿であった。
「……ここは、そうか。メインストリートに戻ってきていたのか」
と囁き、己の現在位置を再認識すると金髪の少年は身を起こす。
そのまま、祭術師達がいる広場の方へと吸い寄せられるようにふらつきながらも一歩、また一歩と踏み 出していく。
観客達が作り出す輪に入り、祭術を観ている人々から発せられる興奮冷めやらぬ雄叫びに、ロジェは両 手で左右の耳を塞ぐ。
両眼を忙しなく動かして観客の横顔を捉えていたロジェは、祭術が見やすい位置まで観客一人一人の間 を縫うようにして進んでいく途中で、どくんどくん、と己の心臓が脈打つスピードが少しずつ上がってい く感覚に大して、思わず眉間に力が篭ってしまう。
祭術をきちんと目にしていないにも関わらず、己の内部で生じている変化に戸惑いを覚えていると、よ うやく、祭術師達の姿が近くで見える位置に到達する。
視線の先。そこで披露されている祭術を扱う者達の表情を見つめ、
……彼らは、たしか、彼女に都市案内された時にもここで祭術をやっていた人達……。という事は、 この時間帯にいつも祝祭の宣伝をしている訳なのかな?
と、思いを巡らしている一方で、今しがた得た戸惑いの感情がアニエスと一緒に見た数日前には感じな かった事に、どことなく腑の落ちない気持ちを募らせる。
だからこそ、眼前に繰り広げられている祭術そっちのけでその差異について、沈思黙考に耽っていく。
今日と数日前の状況。
観客の数。
場の雰囲気。
……ただ、単にこの前は気づかなかっただけなのかな?
前回と今回の記憶を掘り返してみても、何も変わった様子がない事を認識する。
それでも、小さな棘みたいなものとして胸中で残り、小さな棘を取りたいような取りたくないような二 者択一な想いに駆られ、迷いを得る。
「……」
わからない、といった風に側頭部辺りを片手で乱暴に掻き出し、数拍後にはその行為を終えたロジェは 、溜息ひとつと共に首を垂らした。
呆然と足元を見据えたまま、問いかけへの言葉の類ばかりが脳裏を巡り、お手上げの状態に陥っていた 時に、
「「「あははは!!!」」」
祭術を観ている人々から発せられる笑い声。
自分の鼓膜に届いたと同じタイミングで、反応して俯き加減だった顔を上げ、周囲を眺める。
そして、
「あぁ……!!」
無意識に感嘆の吐息をつくロジェの視界一杯に広がって映し出されているのは、心の奥底からわらって いる、と瞬時に理解できる感情を表情に浮かべている人々。
この瞬間にも全身の肌が粟立ち、頭の内側から思いっきり鈍器で殴られたような頭痛に苛まれ、苦渋の 色を帯びた面差しになったロジェがやや前傾姿勢になり、条件反射で胸元に利き手を当てる。
再び、鼓動が速くなっているのを実感している最中に、
『それなら、良かった。君に……って怪我してるじゃないか』
『よし、これで泥を落としたから、帰ったら傷口をきちんと洗うんだぞ』
脳内に響きわたるのは、懐かしい、と思い起こさせるだけの力が篭った男性の優しい声色。
その声は、瞳の奥に焼きついて離れない過去の情景を胸に過ぎらせるのに、ロジェにとって十分であっ た。
●
見知らぬ土地。周囲には自分と同じ身体的特徴をもつ人間が見当たらず、心細い中で人買いから逃げて いた時に祭術を扱っている場面に遭遇する。
人々のざわめき。その中心にいる頭に布を巻いている男性が祭術を披露していた。
男性の華麗な動作に自然と惹きこまれ、
『君に私の手伝い役を頼みたいのだけれど、良いかな?』
……何故だか知らないけど、彼の手伝いをする羽目になったんだっけ。あの時は良く分からないままに無 我夢中で、彼の指示通りに動いたりしている内に時間はあっという間に過ぎ去って……。
男性から手伝いを無事に終えられた事を告げられて、ようやく、そこで現実に引き戻された時には、観 客となっていた人々から賞賛の言葉が発せられていた。
勿論、それらの声は、場の主役である男性に向けられており、僕には関係ない事と思っていた。
だが、主役が少し手伝っただけの僕への拍手と賞賛を観客達に促し、それに応じた観客達の声が自分に 降り注ぐ。
己の中で得の知れぬ感情が沸き起こり、それが全身に満たされていくような感覚に、当惑して、視線を 彷徨わせたり、髪の毛を弄るなどの落ち着かない挙動を行っていた。
そんな幼い僕の右肩に男性は安心させるように左手を置かれ、不思議そうな眼差しで見上げてみると微 笑みを浮かべて自分を見下ろす彼の視線が交差する。
『こういう時は、彼らに向かって、手を大きく振るんだよ。……そうそう。そんな感じ。……… ………お? ようやく、笑ってくれたな。良い笑顔だな』
そう言った彼は、胼胝が幾つも出来ている五指を僕の髪に入れ、軽く乱すように撫で回しながら満足そ うに笑った。
僕は、その行為を自然と受け入れていた。なぜなら、嫌な気分じゃなかったから。
丁度、その時。あぁ、とも、おぉ、ともとれる人々の声が重なる単音が自分の鼓膜を激しく打ち、揺さ ぶられる。
そして、
●
過去の記憶に浸っていた意識がはたと現実に引き戻されたロジェは、しばしの間、目をぱちくりとさせ たまま、
「……あれ?」
と、周りにいる老若男女の幾多の声で掻き消されるくらいの呆けた声を漏らす。
数瞬後。
……そうか。僕は、思い出していたのか。あの時の事を……。……にしても、自分では結構、あの時 の事を覚えていると思っていたんだけど、案外、そうじゃなかったみたいだなぁ~~~。
と、胸中で思い出に関する感想を苦笑気味に呟いていると、いつの間にか頭痛も治まっている事に気づ く。
ふぅ、と一息をつき、再び、数十メートル先にいる祭術師達に視線を移しながら、
……良い笑顔か。……つまり、それって、笑顔を無理矢理に作らず、自然とそういう風になっていた って事だよね。ははっ……そうかそうか。
あの歓びの声が幾層にもぶつかっては奏でられるそんな場で笑顔の彼から語られた言葉を思い返し、そ こから得た当時の自分の事実を知り、無意識の内に口元が緩む。
と、そこでまた、胸の裡から沸々と込み上げてくる想いを認め、受け入れた途端、
「あはっ……ははは!!!!!」
真上に顔を動かし、雲が一つも漂っていない群青の空に向かって、哄笑しだす。
己の笑い声が震えを伴っている事にも気づかないまま、ただただ、ひたすらに笑う。
そうする事で、見て見ぬ振りをし続けていた喜怒哀楽が複雑に絡み合い、一つとなった感情をあるがま まに外へと解き放つ。
祭術師達に対する拍手や掛け声とは、徐々にこの場全体では違和感の塊でしかなくなってきている笑い 続ける金髪紅眼の少年の言動を訝しげに見遣る者や奇異の目で見る者達の視線を一身に受けていることに も意識が行き届かない。
どこまでも、自分勝手なまま、自然と声が搾り出せなくなるその一時まで、止めない。
もし、誰かに、どうして、そんな無意味な事をする必要があるのか、と問われれば、ロジェは、そうしたかった、と単純明快の答えを返す。
それだけ、本人にとって重要な意味をもつ行為であり、今まで生き続けてきた中で不要だと思い、己の 手でずっと押し殺し、暴れないように枷を嵌めた意思や感情を呼び覚まそうとしていた。
……今更って気もするけど、それでも、今の僕にはこうする必要があるんだ。
と、強く念じるように想いを抱くロジェの脳裏に浮かび上がってくるのは、
愚人と蔑まれた時と祭術の事を話している時に魅せるアニエスの翳りを帯びた表情。
いつもの日常や酒場で働いている時に魅せる彼女の冷静な表情。
クローデット、リリー、ジャン、フィルマン達と話している時にふとした瞬間に魅せる少女の柔らかい 表情。
『えぇ、少なくとも私にはね? 祭術は……人を不幸にするだけの代物でしかないのよ』
と、言った時のアニエスの物憂げな表情。
そうしている内に、声を張り上げること十数秒の時が経ち、音が途切れると共に肺の中に溜まっていた 空気もほとんど吐き出し、ごほっ……ごほっ……、と咳き込み、上体を折り曲げる。
ロジェは、呼吸のリズムが落ち着いたのを見計らって、深呼吸を繰り返しつつ姿勢を元に戻した。
だからこそ、気づいてしまう。
祭術を披露している祭術師達の視線と良くぶつかり、この瞬間だけ彼らが不愉快そうにしているのが分 かり、あれ? と小首を傾げようとした時、
「……ッ!?」
突如として、産毛が逆立つ感覚に襲われ、条件反射的に首を左右に動かして、辺りを見回す。
そして、あっ……、と息を呑みながらも理解する。
ロジェの周りにいる人達の様々な感情を宿した瞳がしきりに己の方へ向けられている事に。
また、そうさせてしまっている理由がさきほどの自分の言動にある事にすぐさま思い至ってしまい、瞬く間に恥ずかしさの余り、体温が急激に上昇し始める。
「あはは……」
と、今度は音量を控えめになった乾いた笑い声を発しつつ、周囲の注目の的となったボサボサ髪の少年は勢い良く身体を反転させるとこの場から一刻も抜け出す為に、すいませんすいません、と慌てて謝りたおしながら人垣を掻き分け、走り出した。
●
商業都市の北西地区でもっとも活気付く場所とされている市場にて、買い物客達が作り出す人の波に逆らわらずに移動しているロジェの姿がある。
両肩を落としながら、
……あー、恥ずかしかったなぁ……。まったく、僕は人の多い場所で、なんであんな事をしたんだろうか ? あれじゃあ、思いっきり変人の類じゃないか。
数分前に広場で自分がやってしまった行為を脳内で繰り返し再生させつつ、すでに五回目となる溜息を ついた。
「もう、終わった事だ。そう、終わった事なんだ。気にしてても仕方ない」
と、他人に聞かれる事が無いように最低限の音量で声を発して、自分を戒めた。
深く息を吐き出すと、よし、とある事を思いつき、胸元近くで左右の手を握りしめ、力強く下方向へ小 さく動かした。
それは、自分自身に気合を入れ、気持ちを切り替える為の動作。
赤い両眼が街路の両脇に佇んでいる屋台の数々を見渡し、そこから果物の香りやパンや肉が焼ける音と 香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、心地良さを感じつつ、
……なんだ。みんなと同じように僕もわらえていたんじゃないか。そんな簡単な事に今まで気づかなかっ た。なんて、僕は馬鹿だなぁ……。
胸中で呟やかれたその内容には、自嘲的な響きは一切無く、安堵に対する響きが込められていた。
過去に遭遇した祭術師の記憶によって、幼少期の自分が笑っていた事を理解した今、多分、という言葉 を前置きした上でこの都市に到着して、触れるようになった人々の笑顔と同一のものではないかと思案を 巡らす。
その事が意味するのは、心の奥底からわらっていたからではなかったのか、という結論に至った。
ロジェは、ふと宙を見上げ、そこにある雲が一つも見えてこない青空を視界に収める。
そうすると、何故だか、晴れ晴れしい気持ちが込み上げてきて、思わず、口の端が吊り上げていた。
……僕は、彼女達の世界に入っていくには、身のほど知らずな奴かもしれない。それでも、やっぱり、あ の時みたいにわらいたい!!
己が隷属される為だけに生きてきた人間である、という自己認識はそう簡単には消えてくれない。
だからといって、諦めるわけにはいかなかった。
祭術の手伝いをして歓声に包まれたあの瞬間、自己と他者の間には、感情を伝達、共有できる事を思い 出してしまったから。
……あの表情がもし、彼女がわらっているのだとするのなら、やっぱり、僕は、その姿を見てみたい気が ……する。それに、祭術を不幸にするものって言っていた時の表情は、どこか哀しそうで、どこか寂 しそうだった。……ふぅ。だからこそ、もう一度、彼女の前で祭術を披露して、決して、人を不幸に するものじゃないって、証明したい。
明確な形として定まっていない想いが自分の中にある事を再確認し、無造作に片手で髪を梳きながらロ ジェは一息を入れる。
そう認めた途端、心の奥で、そうしたい、という方向性の気持ちが強く疼きだす。
石畳で構築された街路の上を多くの者達が鳴らす小さくも甲高い靴音がいたる所で反響し、市場を賑や かせる要因の一つとさせている。
この音を含めた喧騒を耳にしつつ、顎先に親指と人差し指を当てるロジェはより一層、考え事に没頭し 始める。
それでも、僕の実力と祭術だけでは感情表現を扱うには足りないものが多すぎる、と判断し、ならば、 どうするべきか、と思案を重ね、
「あの人に教えを請う事が叶えば、僕にも感情表現を扱えるかも知れない……」
と、脳裏に浮かんできたのは、商業都市に到着して、過去に体験した祭術と近しい感覚を味わった祭術 を扱うリール人の特徴を有する壮年の男性の姿であった。
良い案かもしれない、と思ったその時、
「……あっ」
と、小さく声を零す少年は、彼が未だにこの都市にいるのかどうか、という問題に考えが行き届いてい なかった事に気づき、また、居たとしてもその所在地を把握する事は困難である、と認識する。
「あっ、でも、あの人が祭術を扱っているのだから、当然、一度は仕事を得ようと祭術師斡旋所に行って いるかもしれないよな。」
中立性を保ち続け、各都市に属する旅団への斡旋、旅団に対する交渉を積極的に行い、祭術を生活の糧 にしている者達を支援する列島諸国で唯一無二の祭術師ギルドの事を思い出し、
「確か、あそこは、北西地区と北東地区の境目辺りに建物があったから、ここからだと、遠いよな。まぁ 、一か八かの賭けになるけど、行ってみるか」
顎に当てていた指先を離し、本来、自分がこの都市に来た目的でもあった組織の建物がある位置を記憶 の引き出しを開け放ち、その方向に顔を向ける。
そして、ロジェは身を翻して、移動を開始する。
●
数十分後。
南西部地区。居住区画の一角をロジェは、眼鏡を掛けた細身の男性に連れられ、整備され、清掃が行き 届いている街路を移動していた。
沈黙が二人の間に漂う中で、
「あの、僕が言った人物像の祭術師がこっちにおられるんですか?」
恐る恐ると隣に居るリール人の男性を見上げながら、口を開いて尋ねる。
「まぁ……、君が言った人物像から、なんとなくアイツなんじゃないかなって気がしただけだから、 そこら辺はあんまり、期待はしないでおくれよ」
瞬きした瞬間。視線が合い、
「あっ、いえ。違っていても構いません。ただ、僕の方こそ、貴方は仕事中だったのにも関わらず、案内 を買って出てもらって、本当に助かります」
慌てて胸元近くで両手を振り、緊張感を前面に出した口調で呟いた。
少年のそんな様子を見た男性は微苦笑を浮かべると、
「ん? あぁ。その事なら、気にしなくて良い。ようやく、仕事を抜けだ……んっんっ!! あんなに粘ってもなお、人探しをしている君の手伝いが俺にも出来るかもしれなかっただけだからね」
はぁ……、ありがとうございます、と曖昧な返事を放ったロジェは、
……祭術師斡旋所に訪れた僕は、そこに居た職員と思しき人達に片っ端から人物像を訊ね周り、かなり食 い下がっていたら、この人が現われたんだよなぁ~~~。しかも、祭術師斡旋所の局長って職員の人達に 呼ばれていたから、相当、偉い人なんだ……よな? そうは、なかなか見えないけど。
局長らしき男性を横目でちらりと見遣り、彼との出会いを思い返していた。
そうしている間に、男性が制動を掛けると共に、ここにいると思うよ、と、指差しながら言った内容に 、ロジェはハッとなり、歩行の速度を緩め、停止。そして、目の前の建物を見遣る。
……でかい!?
どっしりとした佇まいの宿屋。その外観は、改築の跡があちこちに見受けられていた。
男性に促され、宿屋の中へと入る。
宿屋の立地場所ゆえに、十二分に設置されている幾つもの木窓から差し込む陽射しを取り組む事が出来 ており、明るさを保ち、また、全体的に清潔感に溢れている店の内部であった。
二人は奥の方へと歩き、
「親父さん!!」
男性の叫び声に反応したのは、店内のカウンターの内側で椅子に腰掛け、帳簿をみつめていた老年の男 性が俯き加減の顔を上げ、
「ん? お客さ……って、なんだ。セレスタンじゃないか。今日はどうしたんだい?」
「俺が言っていた男は、きちんと泊まってる?」
「あぁ……、それなら、ちゃんと泊まっているぞ」
「……そうですか。どこの部屋にいます?」
「三百二号室だよ」
「ありがとう」
宿屋の主に礼を述べた男性は、ロジェの方に振り向き、
「それじゃあ、いこうか……って、そういえば、君の名前を聞いていなかったね?」
「えっと、僕はロジェです」
「ロジェ君。それじゃあ、改めて行こうか」
はい、という言葉と同時に頷きを返し、セレスタンと共に二階へと繋がる階段を昇っていく。
二人は、Tの字型の廊下を真っ直ぐ進み、三階への階段があった。
「こっちだよ」
と、言ったセレスタンが三階の階段を上がり、その後を着いていく。
今度も、Tの字型の廊下を両脇にある各部屋の番号を確かめながら通り過ぎる。
ちょうど、Tの字の中央付近に行き当たるとそこから右に曲がり、三百二号室と手描きの標識が掲げら れている部屋の前までやってきた。
セレスタンは、手の甲で扉を控えめに二回ほど叩く。
木の乾いた音が廊下全体に響き渡る。
五秒。
十秒。
十五秒。
こく一刻と時間が経過するも、室内からの反応は一切なし。
「……あの野郎。もしや、まだ寝てるのか?」
眉を顰めて男性が囁き、はぁ、と深呼吸した後で、業を煮やした面持ちで今度は拳の横で激しく扉を幾 度もノックしながら、
「おい!! モンド君、俺だ。セレスタンだ。いい加減、起きろ!!」
と、叫んだ。
そうすると、室内の方から騒しい音が廊下側に漏れて聴こえてきた。
木製の扉が内側の方へと徐々に開き、軋む音が鳴る。
「んだよ? セレスタン。こんな朝っぱらからぁ……」
そして、室内から顔を覗かせた壮年の男性が眠そうな翡翠色の瞳を擦り、片手を口元に当てて大きく欠 伸をしている最中であった。
「あっ……」
ロジェは、息を呑んだ。それは、眼前にいる男性が己の記憶と照らし合わせて、捜し求めていた人物で あると判断を下したからであった。
「朝っぱらじゃなくて、もう昼過ぎだぞっ!? どれだけ、寝ているんだよ……君は」
「あー、そうなのか。それじゃあ、もう一眠り……」
もう一度、欠伸をしながら祭術師は、眠そうな声で喋り、踵を返そうとした瞬間。
待ちやがれ、と言ったセレスタンは、祭術師の肩を強く掴み、彼の動きを制止させる。
首から上を動かし、訪問客を横目で見やる祭術師は、
「何なんだよ。セレスタン」
と、憮然とした口調で言った。
「モンド君の用事があって来たんだよ」
「俺に用事? ……この間の件に関しては、まだ保留中なはずだぞ? それとも、なにか。また、厄 介な用事を俺に押し付けようとしているんじゃないだろうな?」
「おいおい、俺がいつも厄介な事を頼み込んでいるような事を言わないでおくれよ。それに、今回は、厄 介かどうかなんてのは、俺は知らないさ。……ほら」
そう促されたロジェは、ようやく、念願の人物に出会えた事から身体中を強張らした状態で祭術師の前 へと進む。
方向転換した壮年の男性は、無言のまま、爪先から頭の天辺までボサボサ髪の少年を見る。
数瞬が過ぎ去り、あぁ、と一人だけ声を漏らし、納得した面立ちになっていた男性は、すぐに表情を切 り替え、鋭い眼光をセレスタンの方に移す。
「この坊主が俺に用があるってのか?」
「ロジェ君。この老けたおじさんで良いんだよな?」
「えぇ……はい。間違いありません」
「老けたっていう部分は、余計だ。それに、お前だって、けっこう老けているだろうが……」
「俺は、モンド君みたいにそこまで老けてないから」
「な、何をぉぉぉ!? 断言しやがったな!! なんなら、勝負でどっちが老けているかを白黒付けよう じゃないか!!」
「おいおい。そこまで、熱くなるなよ。俺は、あ、く、ま、で、事実を述べただけなんだからさ」
「テ、テメェ……!!」
「あ、あの!? お二人とも、良いですか!!!!!」
大人二人の会話から親密な関係にある事を理解すると同時に本題から大きく脱線し始めている事に内心 で呆れ果てていたロジェは、大声を発して、中断させる。
モンド、と呼ばれた祭術師とセレスタンは、互いに、ん? という疑問符を顔に表わし、少年に視線を 向けた。
「そ、そうだった。ロジェ君、ごめん」
「……。ところで、坊主。俺に何の用があるんだ?」
「えっと、それはですね……」
と、語りかけようとした時、
「廊下で突っ立って話すより、部屋の中で話したほうが落ち着くと思うから、部屋に入ろうか」
セレスタンの提案に、どうしたものか、と迷い、部屋の主を見遣るロジェの両眼と目が合ったモンドは 、何かを諦めたように溜息をつき、力を抜いて両肩を下げた。入れよ、という素っ気無い一言と共に、室 内の方向を顎で指し示す。
こうして、部屋の主は、渋々の態度で来客の二人を三百二号室へと迎え入れた。
●
部屋の構造は、扉の向かい側に窓があり、その下に横向きのベットが一台。
扉とベットの中間地点には、まず、右側に設置されている丸型の小さなテーブルと椅子一脚があり、左 側には葉っぱの無い木を表わしたハンガーラック一台が置かれている。
音を立てて、ベットに腰を掛ける祭術師と、ロジェ君は椅子に座って、と細身の男性の言葉に従い、ロ ジェは椅子に座る。
セレスタンは、ハンガーラック付近の壁に直立したまま、寄りかかる。
宿泊客一人専用の室内だけあって、人間三人が居ると人口密度が異常に上がっていき、ロジェは圧迫感 を覚えていると、
「セレスタン。お前……。まさか、まだ帰らないつもりなのか? 局長としての仕事はどうしたんだ よ?」
「あらかた、片付けたから暇なんだよ」
そのやり取りに、思わず、えっ!? という声を零れ漏らしたロジェが思い浮かべたのは、セレスタン が案内役を買って出てきた時に、慌てたふためく職員達に呼び止められる場面。
『きょ、局長!?』
『大丈夫、大丈夫。すぐに戻ってくるからさ』
あの時の台詞が頭の片隅に過ぎっている最中、両腕を組んでいる祭術師斡旋所の局長と目が合う。
僕の方に向けている彼の柔和な笑みと眼差しと沈黙から言い知れぬプレッシャーを体感し、なんとなく だが、黙っていなさい、という言外の意味を受け取ってしまい、口を噤んでしまう。
己の親友を一瞥し、はぁ、と深い息を吐き出し終えた祭術師は、やれやれ、とばかりに首を横に振り、
「まぁいい。……さてと、坊主。話してもらおうか。俺への用件が何なのか」
分かりました、と告げてから、僕は、深呼吸する間に己の目的を説明する順序を頭の中で整理する。
……うん。これで行こう。
一拍の間を置き、
「僕を貴方の弟子にしてください!!!!!」
「……」
「……」
目を瞬かせたのも数瞬、大人達は互いに親友の表情を見合わせる。
一分も満たない時間が経過しても返答が無い事に、あれ? と思い始めていると、段々と奇妙な空気が 部屋全体を覆っているような気がしてきて、急に不安が募りだす。
……何か、喋った方が良いのかな?
ロジェが自問を繰り返していると、
「あーーー、その、なんだ。俺の弟子にしてほしいって事は、つまり、何を教えてほしいんだ?」
ここでようやく、少年の方に顔を戻したモンドは、左の指先で右頬を小さく掻きつつ、歯切れの悪い口 調で訊ねてきた。
……何を分かりきった事を言っているのだろうか?
と、質問の内容は理解しているが、この問いを発した祭術師の意図が掴みきれず、小首を傾げているロ ジェの顔色が困惑を帯びたものに変化する。
「モンド君に教えを請いたいって事は、もしかして、それは祭術絡み?」
少年が逡巡を得ている隙に、セレスタンがロジェの心を代弁するように声を発していた。
「えぇ、そうです!!」
「……という事だそうだけど? どうする?」
「どうするも何も……って、まさか!? お前、この坊主の目的を最初から知っていたのか !?」
「いや、君と同じく、ここで彼の用件を初めて聞いたんだけどね」
祭術師の追及に対し、痩身の男性は両肩をすくめて、苦笑気味に呟いた。
そうか、の一言を口にしたモンドは、右の五指で乱暴に頭頂部の髪を掻きだし、片方の口端だけを吊り 上げ、射抜くような眼差しで弟子を志願する少年を見据える。
「とにかく、答えを言おう。坊主を弟子にする事は出来ない。以上でこの話は終わりだ。坊主、これで用 件が済んだんだから、さっさと帰るんだな」
この言葉を最後まで聞く直前、ロジェが勢い良く立ち上がり、その反動で椅子が激しく上下し、地面と 密着している椅子の支柱部分が擦れ、耳障りな摩擦音が生じる。
「ちょっ……ちょっと、待ってください。どうしても、どうしても駄目なんですか!?」
祭術師との距離を詰めながら、焦りが内包された己の声音が自分の両耳を通りすぎる頃には、何を僕は こんなにも焦っているんだ、と、どこか冷静さを失っていない胸の裡で驚きつつ、そんな事を思う。
モンドも腰を上げ、対面するロジェを見下ろし、苛立ちを露わにした面立ちで、
「俺は祭術師ではないから、とにかく、祭術を教えて欲しいなら、他の人に当たってくれ」
と、言った。
祭術師の数歩の距離で足を止めたロジェは、見上げる。
そして、足先、ふくらはぎ、太股、前腕、上腕、胸元の各部位に鎧を纏っているみたいに鍛えられた丈夫な筋肉が付いている彼の体格を間近で見た事で、その迫力に圧倒され、口を半開きにしてしまう。
だが、すぐに気を取り直し、そこから、ロジェの、お願いします、の言葉の類に対して、モンドの、駄目だ、という種類の言葉を言 い放ち、次第に押し問答へと発展する。
一歩も引かない両者。
一分、二分、三分以上の時が流れた矢先、三拍子の乾いた高音が鳴り、押し問答していた二人は声を発 するタイミングを失い、音がした方向を同時に流し目で確認する。
「はい、はい。二人ともそこまで。とりあえず、冷静になろうな。お互いに」
と、両手を叩いて三拍子を鳴らした張本人であり、今まで静観していたセレスタンが中断の言葉を投げ 掛け、二人の仲裁に入る。
罰の悪そうな表情で一息を入れるモンドと下唇を噛み締めつつ余分な身体の力を抜くロジェ。
「とりあえずさ……、モンド君。この少年がここまで必死になるには、何かしらかの理由があるんだろう から、そっちを訊いてみたらどうよ? その上でもう一度、考えてみたら?」
「……あぁ、そうだな」
一度だけ右の掌を適当に振り、モンドは投げやりに応えてみせた。
「彼の了承を得たから、君の理由を訊かせてくれないかな?」
真剣な眼差しで、わかりました、と返事したロジェは、一呼吸分の間を作る。
「それは、僕が過去に見た祭術と近しい感覚を得た貴方の祭術じゃないと駄目なんです」
祭術師は片眉をぴくりと動かすだけで口を閉ざしたまま、その代わりに彼の親友が言葉を繋ぐ。
「近しい感覚?」
「はい。何かが沸き立つような……そんな感覚です」
ふぅん……、と喉を鳴らし、セレスタンは、考え込む仕草をしながら、
「この男の祭術を見た時って、もしかして、この都市の中で?」
「えぇ、そうです。僕がこの都市に到着したのは、約一週間ばかりですし……」
ここから、僕は、昔に見た祭術が忘れられず、それ以降、祭術師になりたくて祭術に取り組んではいた がなかなか祭術師になる事が叶わず、各地を放浪していた事や祭術師斡旋所が目的で商業都市に訪れたが 、結果は芳しくなかった事やこの都市で出会った姉妹の事を掻い摘んで話し終えた。
「なるほど、そうだったんだ。しかし、このご時世で祭術師を目指すなんて、本当に物好きなんだねぇ」
自分に向けているセレスタンの眼差しと声色には、好意的な感情が見え隠れしているのを彼の方に顔を 動かしている少年は見ていた。
「そんなの……、ただの大馬鹿者なだけだろ」
と、数分振りに口を開いたモンドは、毒突く。
彼の物言いに、顔を真正面に向けたロジェは憮然としており、その一方で、お前はまたそんな事を…… ……、と痩身の男性は、微苦笑交じりに呟いていると祭術師に睨まれていたが、視線に気が付いていない 素振りで咳払いを行っていた。
そして、
「でも、それならさ、ロジェ君。この男じゃなくても、少なくとも、今までも祭術を見てきた事があるは ずだよね? それでも似たようなものが得られなかったの?」
ロジェは、肯定する為に、こくり、と頷いた。
「自分でも、何故、そう思うのかは分からないんです。……それに、祭術が人を不幸にする ものじゃないって分かってほしい人が居るんです!? だから、どうしても貴方の祭術が必要なんです。 お願いします!!」
と、半ば無意識に誰かへの想いを込めた言葉を喋っていた。
室内に空白が生じる。
セレスタンは、ほぅ、と感心したような声で呟き、モンドの方は、鋭く目を細めて、ボサボサ髪の少年 を見つめる。
……あっ!?
これ以上無いと言うほどに目を大きく見開き、自分が語ってしまった内容を自覚すると、首筋から耳の 上部まで急激に火照りだす。
「いや、あの、これは、その」
声色が震え、しどろもどろになっているロジェに対して、
「さては、女の子なのかな? もしかして」
と、興奮を抑えきれない様子で言い始めるセレスタンの言葉は、もちろんロジェの耳に届いていたが、
「祭術が人を不幸にするものじゃない……か」
目の前に直立している人物のどこか懐かしむようなその低い声に意識の比重が傾き、局長が喋り続けて いる内容が頭の中に入ってこなかった。
渋面を作るモンドが深い息を吐き出し、
「まぁ、坊主が祭術で己の想いを伝えたい、という事は分かった」
と、口にしながらそっと目蓋を閉じる。
つかの間、祭術師の沈思黙考。
再び、目蓋を開けたモンドは、少年の表情から視線を逸らさず、
「一つ、訊いてもいいか?」
「……えぇ、良いですよ」
「己の想いを伝えたい相手ってのは、もしかして、この前、抗議集団の騒動時に隣に居た坊主と同じくら いの年頃の少女の事か?」
と、尋ねられる。
「覚えていたんですね」
ロジェの口から安堵の息が漏れる。
同じタイミングで自分の左側から息を詰める音が零れたのが聞こえ、条件反射的に振り向き、そこにい るセレスタンの表情を目にする。
彼の顔色は、驚き、期待、不安が入り混じっていた。
……どうしたんだろう?
と疑問に感じて、声を掛けようとした時、
「完全に記憶がなくなるほど、酔っ払っていた訳じゃないからな」
祭術師の返事が鼓膜を打ち、祭術師斡旋所の局長への声掛けをやめて、視線を祭術師の方に戻した。
「それでも、あの時は、本当に助かりました」
……ようやく、言えた。
やっと、彼に感謝を述べる機会が訪れた事に、僕は胸を撫で下ろしていた。
「……お礼を言われるような事はしていないし、それは坊主の気のせいに過ぎない」
そっぽを向いたモンドは、無愛想に告げた。
……えっ? えっ? この人の行動は偶然だったのか??? 僕の勘違い???
モンドの言葉に惑い、混乱しているロジェを余所に、ニヤニヤとした笑いを面立ちに貼り付けているセ レスタンがモンドの方に歩み寄り、彼の肩に手を置き、耳元で何かを囁く。
その一瞬、己の親友を一瞥した祭術師は、口元を大きく歪めた不愉快そうな顔色を表わした。
少しの間だけモンドの表情を愉快そうに見つめていたセレスタンが身体の向きを変え、ロジェと顔を合 わせる。
「一度、君が扱う祭術を見てみたいんだけど良いかな? それから、モンド君が最終的な判断を下すって な感じで」
「それは構いませんが……」
迷いを漂わせた目の表情でモンドを見遣っていると、
「はぁ……、分かったよ。セレスタンの言う通りにしようじゃないか」
モンドがぞんざいに両手を挙げ、諦めきった口調で喋り終えた。
●
南西地区。路地裏。
宿屋での会話から祭術が開始されてからすでに約十数分が過ぎ去っていた。
路地裏の中央に円を描くようにして、ロジェが動いている。
観客は、壁際にいるセレスタンとモンドだけであり、両者ともに腕組みしながら、ロジェの一挙手一投 足を注意深く見つめている。
脳内に流れるメロディと祭術を取り組み続ける事で身体に刻み込まれた体感に合わせて、どこまでも、 自分自身が考える無駄な部分を削ぎ落とした最適な祭術を扱う動作を実行している。
揺れ動く速度の強弱を組み合わせて、身を躍らせ、時にくねらせつつ、宙を舞う。
一回、二回転半と全身を捻る。
動き続ける事で発生する風を足先、脹脛、左右の腕、首元、顔などの肌が露わになっている部分にぶつ かり、また、両脚の間や脇の下を通り抜けていく。
……心地良い。
と、思う。
宙返り。
玉粒状に噴き出す汗が接着作用を引き起こし、前髪が額に張り付く。
後ろ宙返り。
だんだんと呼吸音が浅くなる。
落下してきた祭術道具であるお手製の球を捕らえる。
汗が滴り落ち、ロジェがいる近辺の地面には多数の乾ききっていない汗の跡が残っていた。
次の脚捌きや腕の振り方に移行する為に、必要な位置や己の角度は? といった答えを最速の思考回路 で導き出していく。
少しの誤差も許さないほど、徹底的に。
己が理想とする祭術を披露し続けるロジェの顔色には、感情の彩りは存在しない。
それにより、却って、祭術の迫力が鬼気迫るものとして表現されている一方で、そこには祭術を扱う側 の意思が無に等しいものと扱われている。
ロジェは、一心不乱に踊る。
祭術に集中すればするほど、雑音が遠ざかり、自意識が薄らいでいく感覚になる。
右肩を中心点にして、回る。
そうして、こう思う。
僕は祭術を操る一体の人形である、と。
心の奥底にまで自己暗示が染みこもうとしていた最中に、
「止めだ!! 止め!!」
路地裏全体に反響するほどのモンドの大声に、ハッとなり、彼の指示に従い、速度を徐々に緩めていき 、静止に至る。
両肩が激しく上下しつつ呼吸音も荒いロジェは、少し腰を折り曲げ、両膝の上に左右の手をつき、その 場から一歩も動かず、茫洋とした眼差しを観客二人に向ける。
あー、と単音を発して、額を掻き、両眉を八の字にさせているセレスタンとは対照的に、怒気で全身を 震わせているモンドがボサボサ髪の少年を指差し、
「それが坊主の祭術か? 笑わせるなよ!!」
と、告げた。
「……」
両眼をぱちくりとさせているロジェに詰め寄ったモンドが少年の胸元に人差し指で突き、
「いいか!? そんなもんはなぁ……、祭術師達が扱う祭術や彼らの祭術以下の代物だぞ!!」
と、言った。
ロジェは、姿勢を戻す。
「……それって、どういう意味ですか?」
祭術師を見上げ、彼の両眼に輝いている翡翠色から視線を逸らさず、喉元から搾りだすように言葉の羅 列を紡ぎだし、眼前の男性の言葉を待つ。
ロジェの凝視に、モンドは溜息をつき、後頭部を乱暴に掻く。
そして、
「身体の使い方に関しては、確かにずっと、祭術の練習し続けているだけの成果はあるのは分かった。ま ぁ、それでも、俺からすれば、まだまだ未熟な部分が多すぎるけどな……。だがな? 坊主。俺に言 ったよな? 祭術は人を不幸にするものじゃないって事を伝えたい人がいるって。……それなのに、 さっきのどこに坊主の意思と感情があるというんだ。全然、感じとる事すら出来なかったぞ!! もし、 ある、と断言できるなら答えてみやがれ」
……これは、あの時と同じだよな……。やっぱり、そうか。そうだったのか。僕に足りないものは、自分 の存在だったのか。しかし、一回見ただけで分かるなんて、すごいよな。この人は……それ に、彼女も。
彼の指摘を聞いた瞬間に、思わず、あぁ、という納得の吐息を漏らすと同時に、耳の奥で再生される僕 の祭術を見た彼女の感想を思い浮かべてしまい、自然と口の端が吊り上がる。
自分の反応に対して、? と訝しげな視線を送る祭術師に、
「あぁ、いえ。貴方と動揺の指摘をつい最近にも受けた事を思い出してしまったので……。そうです ね。今の僕には、ある、と断言する事は出来ないですね。そこまでの実力がありませんから。それぐらい 、承知してます。でも、だからこそ、貴方に祭術の指導をお願いしたいのです!!」
と、前半部分の思い出語りは微苦笑交じりに、後半部分のモンドに対する返答には、真剣の眼差しで見 つめ返し、言い切った。
モンドは、腕を組み、困ったとばかりに視線を彷徨わせ、むぅ、と唸り声を上げたっきり、声を発しな い。
「モンド君。良いんじゃないか? 引き受けても……。おいおい、そう睨むなよ。だってさ、まだ年 端も行かない子供に、ここまで言わせてしまったんじゃあ、男が廃るってもんじゃないか」
沈黙になる前に、セレスタンも二人の方に移動しながら、話しだしていた。
それも、僕の方を肯定してくれる言い回しで。
……ただ、まぁ、子供扱いされたのは気に食わないけど、ここは我慢。そう、我慢するんだ……僕。
痩身の男性が放った一部の発言に関して、ロジェは大いに不服な部分があり、言い返したくなるのを堪 える為に葛藤中。
「それゃあ、お前がこの件に関しては、他人事だから好き放題に言える立場にいるもんな」
己の隣に並ぶ親友の方を振り向いた祭術師が冷たく言い放つと、まぁな、とセレスタンが即答した後で 、ロジェにとって、予想外の内容を述べ始める。
「君の親友である俺からもう一つ。ついでに言わせて貰うと、それなら、どうして、そんなに迷っている んだい? さっきまでは、即決でロジェ君の申し出を断ろうとしたのに……さ」
「えっ?」
「まったく、これだからお前がいると、色々とやりやすい反面、ものすごくやりにくいんだよな」
「君からそんな言葉を聞けるとはね……。誉め言葉として、受け取っておくよ」
「勝手にしやがれ」
モンドは、不機嫌そうに祭術師斡旋所の局長から視線を逸らす。
一拍の間が置かれ、
「なぁ……、坊主。二つばかり教えておきたい事がある。その上で色々と判断しろ」
意味深なモンドの発言に、虚を付かれながらも、それはなんですか? と慎重に問い返した。
「一つ目は、坊主が言うところの祭術師ではない。二つ目は、そんな俺の祭術を教えて欲しい、というの だから、……下手を打てば、彼らに間違われてしまえば、殺されてしまう可能性もあるという事だ」
「彼ら……ですか。その、彼らとは一体?」
「愚人と蔑まれて、呼ばれている者の事さ」
「たしか、祭術師制度に対する抗議活動していた集団の事ですよね」
「いや、あいつ等の事じゃない」
首を左右に振り、否定するモンドの瞳に宿る感情から、試されている、という直感を得たロジェは、少 しだけ目線を落として顎先に指先を当てた。
一息を入れ、何かがあるはずだ、と自分に言い聞かせる。
脳の記憶を司る部分から抗議活動していた集団と遭遇した記憶の欠片一つ一つを引き出し、彼らの言動 のどこかにヒントがあるはずだ、として必死で探す。
そして、一つの単語に行き当たる。
「祭術師狩り……」
と、一人呟いた後で顔を上げ、右耳の上部を一撫でしてから、二人の大人の姿を視界に捉え、
「たしか、あの人達がひたすら強調するように叫んでいた祭術師狩りを引き起こす切欠となった首謀者も 愚人の一人? ……なんですよね? もしかして、その事と何か関係が?」
モンドは笑みを深めたのも一瞬、すぐさま真剣な表情になると、
「そう。その愚人と呼ばれ、各地を放浪する者達が過去にいた。現在じゃあ、彼らが扱っている代物は、 既存の祭術体系から外れた祭術の紛い物でしか無いとされている。だからこそ、祭術師狩り以降、彼らの 事に憎悪している者達も増えた今の列島諸国で彼らに間違われるのには、危険が伴ってしまう。…… 俺が扱うのはな? 忌避されている祭術の紛い物とされている方なんだよ」
と、愚人の事をその口調は、己が感情を押し殺すように語りかけていた。
祭術の紛い物、という単語を聞き、
……そういえば、先程も言ってたよな。祭術の紛い物がどうとかって……。
「つまり、貴方の祭術は、ジェローム派やエンリコ派じゃないという事なんですね? その、祭術の紛い 物というものを扱っている、と」
「あぁ」
ロジェは、そこで、あれ? と釈然としない気持ちになり、どうしてそう思ったのか、と高速で頭を働 かせる。
「ロジェ君、どうかした? そんな難しい顔しちゃって……?」
「あぁいえ。何でもありま……せんよ」
否定の意味で首を横に振っている最中に、脳裏の片隅に過去の光景が過ぎ去る。
見知らぬ土地で、頭部にバンダナをしている男性が祭術を披露している姿。
その刹那、頭の中にあったいくつかの符号が結び付き、これ以上ないというほどに両眼を瞠り、息を詰 める。
……あの人が扱っていた祭術もジェローム派やエンリコ派じゃ……なかった? もしかして、愚人と 呼ばれている人だったって事なのかな?
と、もうすでに真実かどうか確かめられない事柄に思いを馳せると、こちらを訝しげに見やる大人二人 の視線に勘付き、我に返った。
その一呼吸の間が流れた時、モンドが唇を開く。
「坊主はそれでも、俺に師事したいというのか?」
弟子を志願してきた少年に対する問い掛けに含まれた声音は、どこか懐かしそうであった。
「はい」
「ははっ!!! 即答だねぇ」
セレスタンは笑い声を立てて、機嫌良さそうに言った。
ロジェの様子に、はぁ~~~、とモンドは顎の白髪が混じった無精ヒゲを擦りながら嘆息する。
「自分の身に危険が及ぶかも知れないんだぞ?」
「別に構いません。祭術と出会ったからこそ、今の僕があるので……。それに、あなたの言う通り、 大いに危険があると言うのだったら、どうして、モンドさんは、あなた自身が彼らと呼んでいる人達の祭 術の紛い物を扱い続けているんですか?」
自分の質問に、感心した様子で口笛を吹くセレスタンは、己の親友を横目でちらりと見る。
それはだなぁ……、と逡巡した素振りで声を発する祭術師だったが、
「まぁいいか。そんなに聞きたいのなら、教えてやる。俺が既存の祭術体系を扱わない理由は……だな。 それは、彼らの祭術体系の方でしか、伝えられないものがあったからなのさ。……もう一つ、加えるとし たら、俺に祭術を教えてくれた人達との繋がりを失うわけにも行かなかった。それだけの事だ」
射抜くように見下ろすモンドの視線から目を逸らす事もたじろぎもせず、ロジェはじっと受け止める。
……やっぱり、この人にはこの人なりの祭術を扱う理由があるんだ。
と、確信を抱く。
出会って数回しか満たない自分にも分かってしまうくらい、彼の想いの強さが伝わってきた。
無意識の内に汗ばんだ右の掌を握り、爪先が肌に食い込むほど力を入れる。
深呼吸する。
「ジェローム派やエンリコ派とモンドさんが言った彼らの祭術とはどこか異なる点があるんですか?」
「俺の個人的見解としてだが……、そうだな。もし、違いがあるとすれば、ジェローム派とエンリコ 派の祭術体系は動作の解釈が限定されている為に、観客全般に取っ付き易く、理解されやすい特性がある 。その一方で、彼らの扱う祭術体系の方は、動作の解釈が雑多にある為に観客全般にとってすれば、難し くて理解されにくい所が多分にある。ただ、その反面、観客一人一人に焦点を合わせ易く、祭術を扱う側 の想いが届く可能性はある。だが、ここで勘違いしてもらって困るのが一つだけある。それは、二つの内 のどちらかが優れている云々のではなく、どちらも一長一短がある、という事だけはきちんと把握し、理 解した上で判断しろ」
一気に捲くし立てるように喋り続け終えたモンドは、疲れた、と深い息と共に囁く。
その間に五秒も満たない時間が過ぎ、
「分かりました。モンドさん、お願いします。 僕をあなたの弟子にしてください!!」
「あのなぁ……俺の話を聞いていたか?」
「勿論、聞いてましたよ」
そこに、
「くっくっ……くっくっ……あはっ、あははは!!! これゃあ良い面白いぞ。この子は!!」
と、最初は小さく、次第に大声で笑うセレスタンは上半身を少し折り曲げ、腹を抱えていた。
「おまえなぁ……」
「君の負けだよ。少しくらいなら、良いじゃないか? なぁ~~~? ロジェ君」
ロジェは、何度も頷く。
あぁ、なんだこの展開は!? と叫び、モンドは両手で髪を掻き毟る。その行為を終えた後で、意気消 沈の表情で項垂れる。
顔を上げた壮年の男性は、
「数日間だけだぞ?」
己に師事を請う少年に向かって、告げた。
「よろしくお願いします!!」
と、喜色満面な様子でロジェは、頭を垂らして言葉を紡ぐ。
「それじゃあ、俺はこれで行くよ。あまり長居すると職員達に迷惑がかかるからね」
「何があまり長居すると……だ。十二分に長居していたじゃねぇかよ。それと、セレスタン。後で覚 えておけよ」
「ふふっ……。ロジェ君。この老けたおじさんに祭術の事を色々と教えてもらうんだね。また、機会があ ればもう一度会えると良いけど。それじゃあ、またね」
「はい!! こちらこそ、色々とありがとうございます」
立ち去っていくセレスタンに感謝の言葉を発しながら、その方向に、敬意を表する為に少しだけ頭を下 げた。
「さて、お邪魔虫が行ったところで……。始めるとする……と、その前に、坊主。時間 の方は大丈夫か? 居候先で色々と手伝っているんだろう?」
セレスタンが去ったのを確認したモンドは、ロジェの方を見据え、囁いた。
「……そうですねぇ。後、一、二時間くらいなら大丈夫です」
そうか、と一言を告げたモンドは、顎ヒゲを触りつつ、考え事に耽る。
一分近くの黙考を終えた師匠となった男性から、
「手伝いが終わったら、俺を呼びに来い。そうしたら、夜からみっちり教えてやる。寝る暇も無いと思え !!」
唖然とするボサボサ髪の少年ではあったが、瞬時に思考を切り替え、
……確かに、自分の滞在期間を含めて、そうじゃないと間に合わないかもしれない。
と、思い至る。
「解りました」
ロジェの態度に、よし、と首肯すると共に言ったモンドは、しゃがみ込むと、ロジェの両足の部位を揉 むようにして触りだし始め、次に立ち上がり、両腕の方も同じ事を繰り返す。
「な、なにするんですか!?」
師匠の両手が離れた隙をつき、彼から遠ざかるように後退しながらも、うろたえる。
「ん? あぁ、突然でやってすまんな。坊主の筋肉の付き具合がどの程度、出来上がっているのかを確か めたかったんでな」
「そういう事は、やる前に言ってくださいよ!?」
「それもそうだな」
「あっさり、頷かないでくださいよ……」
呆れ果てしまう。
「だがまぁ、その身長の割には、しっかりとした身体つきしてるじゃないか」
感心した様子で呟くモンドに対して、その言葉を耳にしたロジェは、ムッとしながら、
「その身長の割には……ってどういう意味ですか?」
「ん? チビのくせに頑張っているな、って事だよ」
「僕は、チビなんかじゃありません!? まだまだ成長期が始まったばかりなんですから、これから伸び るんです!!」
モンドは、きょとんとした表情を浮かべたのも一瞬、すぐに口元を緩めて邪悪な笑みになると、
「そうかそうか……。俺が悪かったな。坊主はチビじゃない、と。よしよし」
親が子供を宥めすかせるような口調で言いつつ、ロジェの頭を撫で始める。
「幼い子供にやるような事を僕にしないでください……。まったくもう……」
自分の頭頂部に置かれた師匠の手を払い除け、後退する。
「なんだ。残念だな」
口調とは裏腹に、モンドが愉快そうに喋った。
その様子を見て、
……本当に、この人に教えを請おうとして良かったんだろうか?
今更ながら、そんな不安が脳裏を過ぎるロジェであった。
●
夕陽が沈み、酒場や食事処の喧騒も静まり返り、街路と云う街路を歩いている人々の姿がめっきり見な くなった宵闇に支配された時刻。
幾多の星が輝きを発している夜空の下。
メインストリートの大広場に、動き回るロジェを胡坐の体勢で一升瓶を手に持ち、飲みながら檄を飛ば しているモンドの二人がいた。
弟子の周囲には、三個のランタンが地面に置かれ、等間隔の三角形を作られていた。
「表情に変化をつける事を忘れるな!! いつもの癖で無表情になっているぞ!?」
「はい……」
ロジェは、疲れ気味の声で返事し、表情の筋肉を動かす。
そして、
「うわっ!?」
石畳の凸凹部分に爪先を取られ、つんのめる。
祭術道具から手を放し、顔面衝突を免れようと、受身の体勢をとった。
地鳴りに似た鈍い音が静寂に包まれた大広場に鳴り響く。
「ッ……!?」
「ったく、しょうがねぇなぁ……ひっく。よっこらせっと。ほら」
身を起こしたモンドがロジェに近づき、一升瓶を持っていない逆側の手を伸ばした。
モンドの手を借りて、起き上がる。
「そうだな。そろそろ休憩にするか……ひっく」
酒の香りを存分に漂わせる息をモンドの口から吐き出しながら、間近にいるロジェは、その臭いを嗅い でしまい、眉間に皺を寄せる。
思わず、師匠から身を引き、モンドの息が届かないだろう、と予測した位置に両足を伸ばし、背後に両 手を着いた体勢で座りこみ、一休み。
星空を見上げながら鼻を膨らませて、自分の体内に新鮮な酸素を取り込み、吐き出した。
荒かった呼吸音が尾を引くようにして、鎮まるのを見計らって、視線を己の師匠に向けた。
「ん? 坊主。どうした?」
一升瓶に口を付けたモンドは、喉を鳴らすほど豪快にその中に入ってあるワインを飲みだす。
「あぁ……、いえ。何でもありません」
酒を呑んだ事で両頬が少し紅潮している状態のモンドから視線を逸らし、ロジェは練習を始める前の出 来事を思い返す。
それは、カメレオン亭の手伝いを終えて、モンドにいる宿屋に到着した時のこと。
……走って、この人が泊まっている部屋に行けば、何度、ロックしても反応がないから宿屋の主人に尋ね てみれば、酒場に居る、という言付けされていた事を聞かされるとは……。しまいには、どこの酒場 に居るのかがまったく分からない、と言われてしまい、慌てて近場の酒場を数件探して、ようやく見つけ る事が出来たんだよな。そこから、練習場所に連れ出すのに苦労したんだよなぁ……。
と、しみじみと思う。
……しかし、酔っ払っていても、さすが祭術を扱っている側の人というべきなのか……。師匠の指示 は、どれも自分に足りていない部分を補うものばかり……。たまに、良く分からない事を言ってくる 場合もあるけどさ。それでも、すごいよなぁ。
ロジェは、モンドに対する第一印象から現在の印象に得た情報と感覚が渾然一体となり、よく分からな い人物、と定義する。
ふと、
「ひっく……。なぁ、坊主。お前さんは祭術を通して、何を伝えたいと思っているんだ?」
「えっ?」
突然の放たれた質問が鼓膜を打ち、条件反射的に真正面に顔を戻した。
ランタンの照明だけでは暗闇を完全に払拭する事が出来ておらず、仄暗い中では、数メートル先にいる 師匠の表情が窺い知れない。
「祭術を通して、何を伝えたい……ですか?」
モンドの質問を繰り返し、呟いた。
「そうだ」
「……そんな事が出来るですか?」
「何を今更、言っとるんだ? 坊主。現に言っていたんじゃないか? 自分の思いを伝えたい人が居る、 とな。まぁ、それが正しく伝わる可能性は低いが、それでも少しくらいなら伝わるだろう。だがな? そ の思いの根幹にある己の感情を知っておく必要性がどうしてある。それが出来ないんじゃ、単に祭術の真 似事をしているだけに過ぎないからな」
己の感情、という言葉にどこか釈然としない気持ちを抱ていると、
「まぁ……、まだまだ時間はある。そこら辺も十二分に考えとけよ」
己の心中を見透かされたように言われてしまい、分かりました、と一言を口にするだけで精一杯となっ ていた。
……祭術を通して、何を伝えたい……か。そんなものが本当に自分の中に在るのだろうか? だって 、僕が彼女に伝えたいのは、祭術は人を不幸にするものじゃないって事だけだもんな。それなのに、己の 感情って、言われてもよく分からないな。
頭の中で、様々な思考のピースがいくつも渦巻いている。
だが、ピース群の中で、彼女が柔らかい表情している時の光景と過去に僕が笑顔になっていると言った 時のバンダナの男性の笑顔が重なり合う。
笑顔。この商業都市に着てから、多くの人々の笑顔を間近で見れる事が出来た。
心の底から歓びの感情が溢れんばかりの微笑み。
以前に訪れた都市や町の時には、そう感じた事が無かった。ただ只管、祭術師になる事だけにそこだけ に意識が集中して、他者との交流と云った他の事が疎かになっていった。
だからこそ、目に入ってこなかった。いや、そこまで他者へ意識がいっていなかっただけ、と改めて悟 る。
だけど、と思う。
今の自分は少しだけ違う、と。
ロジェ自身、そう思えるようになった切欠は、間違いなくあの姉妹と関わってから知るようになった、 と断定する。
……それが良かった事なのか? 悪かった事なのか? なんて。そういう事は、結論付ける必要は無いよ な。ただ、自分の中に在るこの想いを表現したい。そう思う。
自分の脳裏に思い浮かべるのは、祭術の手伝いをしていた時、視界一杯に広がる観客達の表情と声を。
当時の事を思い出したからこそ、理解した事がいくつもある。
思案が一つの方向性を得て、固まりつつあった。ロジェが息継ぎした瞬間、
「お、良い表情になってるじゃねぇか……。少しは、何か閃いたか?」
「えぇ、手応えを掴みました。後はそれを……」
「「祭術に活かすだけ」」
二人の発言がぴったりと調和する。目を大きく見開いたロジェは、偶然か? と思っていた矢先、モン ドは自分が発するであろう言葉を先読みしたという事実を知る。
その証拠に、言葉が被ってすぐさま、モンドは豪快に笑い声を上げていたからであった。
「……」
「くっくっ……そうむくれるなって。坊主は、分かりやすぎるんだよ」
「僕は、そんなに分かりやすい人間だと思わないのですが?」
「今度、鏡で見てみろよ」
「……分かりましたよ」
憮然とした気持ちを覚えながらも、頷いた。
モンドは、楽しそうにロジェの表情をしばらく見つめると、
「さて、練習再開とするか。ほら、さっさと立ち上がれ」
「あっ……、はい」
モンドが身体を起こし、ロジェもそれにつられて、立ち上がる。
そして、休憩を終えて、深夜の猛特訓が再開される。
●
北西地区と北東地区の境目部分にメインストリートの所では、大市場から距離がそんなに離れておらず、それ故に活気付いた人々の賑やかな声と物音がそれなりに轟いて伝わってきていた。
メインストリートに連なる建物群の中でも、指折りの商業都市の歴史を感じさせる建物が存在感を発揮させている。
その建物は、祭術師斡旋所の本部であった。
祭術師斡旋所の内部は、外観の印象とは異なる様相を呈している。
広々としたホール全体に敷き詰められた大理石の地面。
右側には入り口から建物の奥にまで繋がるカウンターがあり、内側には約十名程度の受付を行う役員が座る椅子がある。そこで斡旋の紹介、交渉が日々行われていたが、今は二人~三人程度の受付の役員しか残っていない。
「セレス……いや、祭術師局長に用事がある者なんだが、呼び出してもらえないか?」
と、声を発したのは、栗色の短髪に体格の良い男性の姿。
「本日の約束を前々から為されておられているものなのでしょうか……?」
と、受付の女性は、男性の鋭い眼つきで見下ろされ、若干怯んだ様子で質問した。
「いや、そんなのは無い」
「申し訳ございませんが、それでしたら、局長に取り次ぎを行う事は了承しかねます。なにぶん、局長は、翌日に控える祝祭の調整の為にでお忙しい身ですので……」
男性は、ふむ、と無精ヒゲを擦りながら、
「局長の方に、モンドがやってきた、とだけ言ってきてもらえないだろうか? それで駄目なら、俺は帰るから」
受付の女性は、困った表情を浮かべて、他の受付の職員達と、どうする? と顔を見合わせる。
約十秒未満の時が流れ、
「……分かりました」
と、返答した受付の女性は、腰を上げると、ホールの右奥の方にあるカウンターの入り口兼出口である木製の扉を開け、ホールを出た。
そのまま、小走りでホールの中央にある階段を昇っていく。
俺は、真正面の方を凝視する。
約数分近くが経過した頃、ホールの中央にある階段の方から激しく足音を鳴り響き、視線を向けてみると、そこには自分が待ち望んだ人物の姿があった。
「よぉ!? 局長」
物凄い形相になっている祭術師斡旋所の局長は、駆け足でモンドに詰め寄り、
「こんな忙しい時期に何しにきたんだ!! 一体!?」
と、早口で捲くし立てた。
「まぁまぁ……」
少し仰け反り気味に己の胸元付近に両手を挙げ、落ち着け、という合図を出しながら呟いた。
目の端に、セレスタンの後を追いかけて降りて来た俺と会話した受付の女性が呆然とした表情で立ち尽くし、自分達の方をみつめていた。
「少し、話したい事があったからさ。今じゃないと駄目なんだよ」
モンドの表情と声音から、それが真剣な内容である事を察したセレスタンは、はぁ……、と溜息を漏らすと共に項垂れる。
目線を上げた親友は、
「今は祝祭の会議中だから、駄目だ。だけど、あと数十分……いや、早めに切り上げる努力はするから、それまで待つと言うのなら、応接室の方に案内する。そこでたっぷりと聞く事になるけど、構わない?」
「俺は構わんよ。時間はたっぷりあるからな」
「そうか。分かった」
と、モンドから了承を得たセレスタンは、肩越しに振り向き、受付の女性がに向かって、名前を叫ぶ。
はい、と返事してから、名前を呼ばれた受付の女性は、二人に近付く。
「この人を応接室の方に案内させてあげてください。あと、お酒とか要求されても受け付けないように」
「はぁ……、分かりました」
「では、こちらになります」
「おう。頼む」
痩身の男性と別れ、受付の女性に従って、ホール左側にある部屋の中で入り口付近にある扉の前にモンドは辿り着く。
受付の女性はドアノブを回し、モンドを応接室へと入れる。
「お入りくださいませ。後で、お茶をお持ちいたしますので、ごゆっくりなさって下さい。それでは、失礼いたします」
「あぁ」
扉が閉まる音が鳴ったと同時に、応援室を見渡す。
西側にある二つの窓から差し込む光が部屋の中央に長方形のテーブルが縦向きに置かれており、その左右にそれぞれ椅子三脚ずつが並べられている。
テーブルの真ん中付近には花瓶があり、数種類の色をした花が五本差し込まれていた。
「シンプルにしてあるじゃないか。いかにもアイツらしいな」
と、悪友とも呼べる男が指示しただろう部屋の装飾に、微苦笑をこぼす。
モンドは、右側の真ん中の椅子に座り、
「ふぁ~~~」
大きな欠伸が漏れ、目元を擦る。
……なんだかんだで、まだ疲れが溜まってきているな。俺もさすがに歳には勝てないか……。まぁ、セレスタンがくるまで、時間かかるっぽいし、少し寝ようっと。
ゆっくり目蓋を閉じて、椅子の背もたれに寄りかかり、腕組みして俯き気味に仮眠を取る事にした。
●
……んぁ?
眠りの底に落ちていたモンドの意識が半覚醒の状態に入っていく。
身体が激しく揺さぶられている、と脳が認識すると同時に、
「ぉぃ……、ぃぃ……!!」
聴覚が一つの音を捉えていた事によって、そうなっていた。
そして、
「おい……、いい加減に起きろ!!」
今度は、男性の声だと判断がつくくらいに鼓膜まで届き、声量の大きさに無意識の領域で全身が震え、目が醒めた。
「はぁ……。ようやく起きたか」
モンドは、頭を横に振る事で残存していた眠気を少し飛ばしてから、聞き覚えが大いにある声がした方向である左側を見上げる。
「なんだ。セレスタンか……。会議は終わったのか?」
「あぁ、終わった。にしても、終了したタイミングで急いで駆けつけてみれば、君は、ぐっすりと眠っていた事には驚いたよ」
あきれ果てた、とばかりの口調で言う自分の左後方にいる悪友に対し、
「仕方ねぇだろう。俺もそんなに若くないって事が分かっちまったんだから……」
と、言い返す。
「あははっ……、今頃になって、気付いたのかよ」
セレスタンは、笑い声を上げながらモンドが座っている逆側の方に移動し、丁度、真正面で向き合う形で椅子に座った。
テーブルの上に右の肘を置き、右の掌で己の顎を乗せるセレスタンが一息を入れ、
「にしても、なんでそう思ったんだよ」
と、からかいの口調で尋ねる。
「いや、ここんとこ、ずっと坊主の練習に付き合い続けてな。夜も」
「夜も!? ……大丈夫か? お前が酒を飲まないなんて正気か? 熱でもあるんじゃないか!?」
驚きのあまりに目を瞠り、気遣わしい声音を作りながら話し出す悪友を俺は一睨みする。
「おまえ。一体、全体、俺をなんだと思っているんだ?」
「酒が無いと生きていけない類の人間」
……返す言葉がねぇなぁ……。
本人も大いに自覚している分、言い返せずにいた。
「……まぁ、それだけ。ロジェ君の方は、順調に進んでいるって事で良いのかな?」
口の端を緩めた態度で言葉を投げかける悪友を見据え、
……後で、思いっきり驚かせてやるから覚えていろよ。
胸中の思惑とは裏腹に、まぁな、という同意の一言で片付ける。
「……にしても、意外だったよ。君がまさか、弟子をとるなんてさ」
「何、言ってやがる。そう嗾けたのは、セレスタン、お前の方だっただろうが……」
「そうだっけ? 全然、覚えていないなぁ~~~」
嘯くセレスタンの反応に、
「ほんとに、良い性格しているよ……。おまえって奴は。まったく」
「お? また、珍しくモンド君から誉め言葉を聞けるとは……ついこの前も聞いたし、何かの災いを齎す予兆かな? ……いや、だから、そう睨むなって。モンド君からこういう場所に訊ねてくるなんて珍しいからな。それで、今度は何を企んでいるのさ」
と、前半部分は、仰々しい演技を行いつつ喋る一方で、後半部分は、モンドからの剣呑な眼差しを向けられた事による痩身の男性が微苦笑を零し、話し出す。
「おいおい、心外だな。俺がトラブルメーカーみたいな事を言わんでくれ」
「その通りだろ。……まったく。それで、俺は何をすればいい事になっているんだ?」
そんな他愛も無い会話をいくつかやり終え、後半部分に差し掛かってる頃にはセレスタンの口調が真剣なものとなり、肘をテーブルから放して背筋を伸ばして挙措を改めていた。
……相変わらず、オンとオフの差が激しい奴だよなぁ。
と、悪友に対する感想を抱きつつも、瞬きする間に唇を開き、ある提案を告げた。
その内容を聞いた局長の反応に、先程の仕返しも含めた坊主との件にも絡めて、内心でかなり満足するモンドなのであった。
……後は、どう話を纏めるかだな……。
と片側の口の端を歪めつつ、そんな事を思う。