第七章
午後の陽射しが差し込む商業都市のメインストリートは、各々の歩幅で進んでいる人々や待ち合わせなどの目的で立ち止まっていたり、知り合いとの雑談をする者達で溢れかえっていた。
そんな賑わいを街路沿いにある建物の壁に寄りかかり、切り揃えられていない前髪越しにひっそりと眺めているロジェの姿があり、
「……」
これ以上ないほど大きく口を開き、ふぁ……、と欠伸を漏らしていた。
……眠い。昨日は全然、眠れなかったもんなぁ……。
ぼんやりとした頭で考えながら左右の目尻に溜まっている涙を手の甲で拭い取り、深呼吸。そうする事で新鮮な酸素を肺に送り込み、頭の回転を少し上げる。
両肩を下げたロジェは、建物に設置している日よけ用のテントから己の影が前方に映し出され、その影の上を踏んでいる己の爪先に焦点を合わせると共に、参ったな、と内心で言葉を作る。
その思いの矛先は、今の自分にあった。
いつもなら、この時間帯の殆どを祭術に費やしている訳なのだが、今日に限って、何度も祭術を中断する羽目になるほど集中力が途切れてしまっていた。
昨日からずっと引きつっている物思いが睡眠不足と祭術を妨げている原因である事は解っていても、ゆえに、どうするべきか、と思案したロジェは答えを得る為と気分転換も兼ねて、商業都市を当てもなく歩き続けている事を選び、現在の状況に至る訳で、
「なんで、こんな事が頭から離れないのか。いつもなら、集中出来ているはずなのにさ。こんなんじゃあ、先思いがやられるよな……」
と囁き、自嘲の笑みをこぼれ、溜息をついた。
にしてもなぁ……、とこう思う。
……昨日は、色々な事がありすぎだよなぁ……。
彼女に自分の祭術を見て欲しいと頼み込み、了承を受け入れてくれて。そのまま、意気揚々と僕が祭術を披露し終えてから感想を訊ねてみると自分が期待していたものとは正反対かつ意味不明の言葉が発せられ、そこからなんやかんやで口論に発展しまい、その途中、抗議集団に遭遇し、クローデットの妹が愚人と呼ばれている忌避の対象とされている出自が露見し、と一悶着に巻き込まれるわ。
いま思い返してみれば、あんな状況でよく生きていたよな、と首を小さく振り、苦笑する。
……それに。
昨日の出来事から感じてしまった様々な想いの中でも一番身に堪えたのは、
『不気味なの。ロジェの祭術は。まるで人形が祭術を扱っているのを見ているみたいに……ね。そう思えるほど君が 祭術でやろうとしている事や祭術を扱う上で重要なはずの君の感情が何も伝わってこなかったのよ。もしかしたら、そういう意図があるかも知れないけれどね。でも、そうだったとしても、やはり祭術の動作と感情表現の差異が大きすぎる』
アニエスの台詞。
それは、ずっと今まで目を背け続けていたロジェの核心に迫るものであった。
隷属されるだけに生まれてきた自分が己の想いを表現するなんて事が出来るはずがないからこそ、ただ一つの人形のように思い込み、他の祭術を扱う者達がするような動きを真似て祭術に取り組んで来た。
ふぅ、と一息を入れる。
右から左へ、左から右へと流れていく通行人達を焦点が合わない瞳で見ながらロジェは、無意識の内に右拳の親指が爪を立てて力が入れて、その部分である肌が白くなっていた。
……そういえば、彼女と同じ内容の事をたくさん耳にしてたっけか。都市を転々とする前に世話になった人達や旅団の入団テストで僕の祭術を見てくれた人達……。ほんの一握りだったけど、確かに言っていたけどさ。
だけど、と思う。
その度、自分には無理な方法だからだと思案し、他の人々の言葉を受け入れる事が出来ず、昔も今もずっとそのようにしてきた訳で、それで問題ないはずだった。
だというのに、アニエスに指摘され、動揺している自分がいるのは、どういう事なのか。
……あぁ、もう!! どうすればいいんだ!!!
という思いと共に、左右の五指で金色の髪を掻き毟る。
そこに、
「アンタ、何しているの?」
冷ややかな声音。
ん? とその方向に顔を向けてみると、視界に入ってきたのは、訝しそうにこちらを見上げているリリー、ジャン、フィルマンの三人組。
「……あぁ。君達か。えーっと、頭がかゆくて掻いていた所なんだ」
壁から身を剥がして、子供達の方に身体を反転させたロジェは愛想笑いを作りつつそう応えると、そうなんだ、とリリーは納得する。
「だけど、なんでこんな場所でボーっとしているのよ」
「あぁ、それは。まだ、自分が行っていない場所を巡ってみようかと思って、次、どこにいこうか迷っててね」
ふぅん、と喉を鳴らして、行っていない場所ね……、と意味深に囁きながら考え込む動作をしているリリーの反応にロジェは気づかず、
……どうにか、はぐらかす事に成功した。
と、一安心したのもつかの間、間髪入れずに、
「それなら、僕達が連れてってあげるよ?」
善意たっぷりのフィルマンの言葉に、リリーが勢いよく振り返ると、ちょっと来なさい、と困惑の声音でフィルマンに囁きかけると共に彼の片腕を掴んで数メートル先の街路へと移動する。
友達二人を呆れの色を帯びた眼差しで流し見ていたジャンは、すぐに顔を戻すと申し訳なそうな表情を浮かべて、
「ロジェさん、なんだかすみません。それに呼び止めてしまったりして」
「……別に、僕の方も特に用があったわけでもなかったから、気にしなくていいよ」
「そうですか? ありがとうございます」
と、そんなやり取りをしている間に、
「フィルマン。急に何を言い出すのよ」
「えっー、リリーちゃん言ってたじゃないか。お兄ちゃんに恩返ししたいって。今がそのチャンスじゃないの? それにリリーちゃんの方こそ、言い出そうかどうしようか迷ってたでしょ? だから、僕が言ってあげたのに……」
「うっ、それはその……そうだけどさ」
距離を置き、小声で喋る二人の音量は、十二分にロジェとジャンの耳に届いており、互いに目線を合わせて微苦笑の息をこぼす。
……にしても、そんな大層な事を僕は何かした覚えがないんだけどなぁ……。
居心地悪そうに片頬を人差し指で引っかいていると、辺りを見回しているジャンから疑問の声が発せられる。
「そういえば、アニエスさんの姿が見当たらないんですが……」
……彼女がどうしたというんだろう?
思い当たる節がなく、しきりに首を捻る。
あぁ、と頷き、リール人の男の子がロジェの反応から、もしかして、一人なんですか? と尋ねてきた。
「うん。まぁ、そうだけど。……もしかして、彼女を探している?」
「あー、アニエスさんに用があったという訳じゃないですけど……」
「ですけど?」
ジャンの言葉を繰り返しているロジェの声と重なるように聞こえてきたのは、
「えーっ!! アンタと一緒じゃなかったの!? むー、今日こそは一緒に遊びたかったのになぁ~~~」
ロジェ達の方に近付きながら、唇を尖らして残念そうな呟いているリリーであり、その後を着いてくるフィルマンは、涙目になりながら頭部を両手で押さえて、リリーちゃんひどいよぉ、と話しかけていた。
……今日こそは……か。という事は、よく彼女と遊んでいるんだろうか?
その事を訊いてみると、うん、と女の子は首を縦に振ってから、
「でも、最近はその機会もなくなっちゃった。誰かさんと一緒にいたから……」
唇を尖らして、不満げに呟かれた。
「はははっ……」
愛想笑いを作っていたロジェは、こほん、と咳払いし、
「と、ところでさ、彼女に用があったという訳じゃないってどういうこと?」
「アニエスさんといつも一緒にいる所をよく見かけていたから、そう思ったんですよ」
「ふぅん。なるほど……って、常に僕が彼女といるイメージが強いのかな?」
リリー、ジャン、フィルマンの顔を順番に見遣りながら、尋ねた。
「「「うん」」」
子供三人組は大きく首肯した。
「そっ……そうなんだ。まぁ、彼女なら、カメレオン亭の方にいるんじゃないかな? だから、一緒に遊びたいって誘うなら、そっちに行った方が良いと思うよ」
「それなら、お兄ちゃんも僕達と遊ばない? お姉ちゃんと一緒にさ。そうすればさ、お兄ちゃんがまだ行っていない所にも案内できるしね!!」
両腕を広げて、嬉々としてフィルマンが発した内容に、えっ、僕も!? と己を指差し、答える最年長の少年。
「駄目?」
「うーん? 駄目ってわけじゃないんだよ。もちろん」
小首を傾げるフィルマンの視線とぶつかりながら、慌てて両手を振りつつ、歯切れ悪そうに告げた。
なんか理由でもあるの? と女の子に訝しげに問われ、思わず片眉を小さく動かした十代半ばの少年は、
……今、彼女に会うのは気まずいんだよなぁ~~~。
どうするべきかと逡巡の色を帯びた両眼で、助け舟になってくれるそうなジャンに視線を向ける。
だが、僕の期待とは裏腹に、諦めて、とばかりにジャンは首を左右に振るだけだった。
「……」
浅く息を吐き出し、項垂れる。
……ここは、何か言わないと逃がしてくれなさそう。
と観念すると顔を上げ、後頭部の髪を五指を立てて引っ掻き、あー、という単音を発して、言葉を選択する間を作る。
そして、瞬きする間が過ぎ去り、
「今は、ちょっと、彼女と会うのは遠慮しときたいんだよ」
子供達から視線を逸らすようにして、ポツリと呟いた。
その途端、
「あぁ、喧嘩したんだ」
「喧嘩は……その、良くないよ?」
「珍しい。アニエスさんが誰かと喧嘩するなんて」
三者三様の発言に、僕は、うぐっ……、と息を詰めていた。
その間に、
「そういう事なら、早く仲直りしなくちゃ駄目じゃない!!」
と、言ったリリーがロジェの後ろに周りこみ、金髪の少年の腰に両手を当てると力の限り、押し出し始める。
えっ、ちょっ……、と戸惑いの声を発しつつ、不本意にも一歩、二歩、三歩と動き出しているロジェは肩越しに振り返り、女の子を目の端で見やり、
「確かに僕は彼女と喧嘩っぽいのをした覚えはあるけど、その件はすでに謝ったからもう大丈夫なんだって!?」
と、焦りが含まれた声音で言うと同時に背中を押されていた感触が消えた瞬間、それまで前進する為に掛かっていた外部からの力が無くなった事で身体のバランスを崩し、うおっ、と変な声を発しつつ、よろめきながらも数歩先の所でしっかりと踏ん張った。
ロジェが上体を起こしている途中で真正面に移動してきたリリーと視線が交差し、
「ごめんなさい」
女の子からの謝りに、き、気にしなくていいよ、と返答した。
祭術師を志す少年が呼吸を整えている間に、
「仲直りしたのはわかったけど……。でもそれなら、どうしてお姉ちゃんに会いたくないの?」
……あれが仲直りの類になるのか解らないけどね……。
そんな事を心の中でぼやきながら、目の前にいる子供三人組、主にリリーに対して、ゆっくりと言葉を選んで、
「謝ったとはいえ、やっぱり、まだなんて話しかけて良いか迷っちゃって、きまずいんだよ。だから、その、もう少しだけ時間が必要なんだ。……ほら、君達はそういう経験無いかな?」
肝心の事はある程度はぐらかしつつも、それでも、大事な部分が伝わるように話した。
幾歳も離れている少年の言葉に要領を得なくて、んー? と小首を傾げるリリーとフィルマンの二人を余所に、ジャンだけは意味ありげな眼差しでロジェを見据えた後で首を縦に振り、
「確かに俺も、リリーやフィルマンと最初に会った時や友達になる前はしょっちゅう喧嘩してきたから、その気持ちわかります」
と、同意の声を発せられた。
女の子は、一結びにしてある太陽と似た色を持つ髪をふわりと揺らしながら皮肉屋の友達へと顔を向け、
「そういうもん? あの時も、すぐに仲直りしたじゃない」
「まぁ、そうだけど。でもさ、アレを仲直りの印として送ろうリリーの頭がどうかしていると思うぞ。しかも無理やりに俺の口に放り込んでさ。まったく、アレを食べさせる側の身にもなってほしいよ」
「なによ、あたしの作るお菓子に文句つける気か!? ……そういう奴は、こうしてやる!!」
リリーは両腕を持ち上げ、ジャンの面立ちに左右の指先を伸ばす。
己の頬を引っ張ろうとしている事を一瞬で理解した男の子は、女の子の指先から逃れようと身を捻り、距離をとる。
「こら、逃げるな!! 罰として、アンタの頬を引っ張らせなさいよ!」
「んなもん。嫌に決まっているだろ!?」
交わしたり、交わされたり、楽しそうかどうかはさておき、追いかけっこをしている子供二人を唖然とした表情で目にしていたロジェは、
……しかし、まぁ、なんだかんだで話もずれた事だし、良しとするかな。
頬をポリポリと引っかきながら、そんな事を思い至っていた。
いつの間にか、自分の後ろに隠れるように動くフィルマンに気がつき、彼を横目でちらりと見遣り、
「あの二人を止めなくていいのか?」
と、訊いてみる。フィルマンが顔を激しく左右に動かしつつ、
「巻き込まれたくないもん」
そう応えた。
腕組みして、それもそうか、といった感じで吐息を漏らしたロジェは、静かにジャンがリリーに掴まり、しっかりと罰を受ける姿を見届けた。
●
ロジェが子供達と遭遇して、十分近くが経過していた。
「ちきしょー、何回もやる事はないだろう」
つねられ、引っ張られた事で赤味を増した左右の頬を両手で擦っているジャンは、その原因を作った張本人であるリリーへと非難の声を上げた。
「ふん。あたしが作ったお菓子を不味いなんて言ったんだから、それぐらい当然でしょ」
二人が睨み合い、一歩も引かない状態に、いい加減に辟易し始めていたロジェは、やれやれ、とばかりに溜息をつくと同時に、両手を叩き、乾いた音を一回、二回、三回目と鳴らす。
その音で、疑問符を浮かべた顔でこちらに向いたリリーとジャンの一瞬の隙を突いて、対峙している二人の身体に出来た小さな空間に左右の手を入れて、引き剥がした。
「……二人とも。もう、そこら辺で良いでしょう。こんな往来で喧嘩していたら、かなり目立っている。それとも、まだ続ける?」
ハッとなった二人は、激しく顔を動かして辺りの様子を窺い、ロジェの言葉通り、通行人の幾人かがチラチラとこちら側を流し見遣ったり、微笑ましそうにしているなどの人達がいたりと自分達が注目されている事に察した途端、口を噤んだ。
ロジェは、リリー達から数歩離れて、元の位置に辿り着き、
……これで、ようやく落ち着いたな。
と、安堵の肩を下ろしかけの途中で、ふと、両眼を瞠り、全身が硬直した。
「お兄……ちゃん……?」
隣から聞こえてきた声に、びくりとさせた金髪紅眼の少年は目を醒まし、愛想笑いとなる表情の筋肉を動かして、声の主を見る。
「ごめん、ごめん。改めて、彼女と一緒ではなく、こうして、僕が君達と話すのは始めてだった事に気づいてさ」
実際には、自分が子供達とこういった自然な会話をしているという事実に対して、なに、やってんだよ、という苦みを含んだ笑いを己に向け、項垂れていただけであった。
「確かに、そうですね」
「そういや、そうね」
前者はジャンが、後者はリリーが喋り、フィルマンは肯定の頷きを返した。
「お姉ちゃんがいない今だから、この際アンタに言っとく!! お姉ちゃんを泣かしたら、あたしがボコボコにしてやるんだからね!!」
女の子は鼻の穴を膨らませると、ロジェを勢いよく指差し、そう断言した。
リリー……、と呆れ気味に呟くジャン。リリーちゃん……、とオロオロした様子で口にするフィルマン。
ロジェの口元が自然と緩まった。そして、目を細めながらリリーを見下ろすと、分かったよ。約束する、と穏やかな声音で言った。
「分かったのなら……、良いわ」
毒気を抜かれたように女の子は目を瞬かせていた。
……僕も何を言っているんだか……。まぁ、そんな事はいいか。考えなくても。
リリー、ジャン、フィルマンの表情を順番に見ている内に、ふと、脳裏に浮かび上がってくるのは、子供達に慕われているアニエスの事であり、
「……」
一呼吸をつき、自分がたった今、思った事を言葉の形として構成する音の旋律を紡ぎだす。
「……そういえば、君達が慕っている彼女とはどういう風に知り合ったの? 別に元々からの知り合いだったりした訳じゃないよね?」
その問い掛けに、子供達は互いに顔を見合わせた後で、視線をロジェにしっかり合わせると、それぞれがそのふっくらした形の良い唇を開き、語り始める。
アニエスと出会った時の事を。
数分後。さっそく、ロジェは胸中で、質問したのは失敗したかも知れない、と後悔する羽目に陥っていた。
これには、質問した途端、三人が一斉に喋りだしてしまい、その上、テンションの高低差が激しい声色や一人一人の話すテンポのずれが入り乱れ、非常に聞き取りづらいものとなっていた。
それでも、かろうじて聞き取れた言葉のピースを吟味して、外していたり、繋ぎ合わせているという苦労を繰り返している内に、だんだんと自分の脳裏に三人とアニエスとの出会いの情景がうっすらと浮かび上がってきた。
そして、
「なるほど。約一年前近くに、自分達が遊んでいた時に変な大人達に絡まれたところを彼女とクローデットさんに助けられたっと。……そういう訳か」
「ええ。そうなの!! それにね、あの時の二人ともほんとっーーーうに凄かったんだから!! こう、ビューーーっとやって、バァンっていう風にあいつ等をやっつけてくれたんだから」
手振り身振りで説明してくれるリリーの言動に自分の思考回路が追い付けておらず、目を瞬かせて口を閉ざしていたロジェの耳に、
「アニエスさんとクローデットさんが手に持っていた買い物籠で男達を力強く殴り、籠の中にあった物を投げたりする事で、俺達が逃げる一瞬の隙を作ってくれたんですよ」
と、ジャンが当時の事を思い出して、笑いを噛み締めた表情になると面白おかしそうな口調で囁いた。
……なんていう派手な事をやってんだろうな。あの二人は……まったく、なんてすごいんだろうな。
声には発せず、感慨深げに言葉を転がしている間にも、ロジェの中で更にアニエスとクローデットの印象がプラスの方向に変化していく。
「でも、それだけじゃあ、逃げ切れなかったんじゃないか? 子供と女性の脚力ではさすがに追いつかれると思うんだけど、その辺りの所はどうなの?」
現に、僕の周囲にいる三人組が五体満足で無事という事は、何かしらの方法で切り抜けたという訳でそれが気になり、思わず尋ねてみたくなっていた。
「うん。それはね。周りの人達が警邏隊の人達を連れてきてくれて、僕達は助かったの」
一拍の間が流れ、
「そうか。そうやって、君達と彼女達の出会いとなった訳ね。……しかし、昔も今も変わらず、彼女はそういう事をやっていたのか。よく、それで身体が持つもんだなぁ~~~」
後半のアニエスへの物言いは独り言に近かったのだが、
「それでも、お姉ちゃん達が居なかったら、あたし達がどんなひどい目に会ってたかもしれないし、それに……、アンタも色々と助けられたでしょ?」
微苦笑の吐息を漏らすと共に、ロジェは首肯した。
そして、
「さてと、僕はそろそろ、別の場所に行くとするよ」
「えーっ、お兄ちゃん。僕達と一緒に遊ばないの?」
残念の色を帯びた顔でなおかつ、上目遣いで訊いてくるフィルマンに、僕は彼の頭にそっと掌を置き、
「そう言ってもらえるのはありがたいんだけどね。でもちょっと、今日だけは一人で考えたい事がたくさんもあるから、ゆっくりと都市を歩いてみたいんだ。……だから、その、別の日にでも一緒に遊ぼう」
と、語りかけた。
「本当に、本当?」
フィルマンから掌を離して、あぁ、と力強く声を発し、頷く。
「それじゃあ、あたし達も行くわよ。フィルマン、ジャン」
踵を返して、すたすたと移動を始めるリリーを筆頭に、こっちに会釈を送ってから行くジャンと慌てて追いかけるフィルマンの姿を目にしてから、ロジェは身を翻して、往来をゆっくりと歩き出す。
●
前へと踏み出そうとしている右の脚は、地面に最初の接地する右の五指部分から、次に足の裏、その次 に踵へと重心を傾け、一歩分の距離を稼ぐ。
左の脚も同様の動作で、人が歩行する、という意味を実践しているロジェは人波に呑まれ、時に抗い、 前進している。
子供達との会話を経てから、ふらりふらりと町中を歩いていると、
『おや? おい!! そこのボサボサ髪の少年!! そう、おまえさんの事だよ。ん? 何の用ですかっ て? それゃあ、クローデットちゃんの容態はどうなってんのかを聞く為だよ。えっ? なんで僕がクロ ーデットさんと知り合いなのかを知っているかって? そんなのアニエスちゃんと一緒にいるのをよく見 かけたからにきまっとるじゃないか。で、どうなんだ? クローデットちゃんは?』
とか、
『あら? 君はこの前の……。あの時は、本当にありがとうね。案内してくれた上に荷物まで持って もらっちゃって……。おかげ様で子供や孫達と再会する事が出来て良かったわ。ところで、そういえば、 今日は、貴方の隣に居た綺麗なお嬢ちゃんは一緒じゃないの? そうなの……、直接、お礼を言っときた かったのだけれど。残念だわ。まぁ、わたくしはまだこの都市に滞在しているから、また会えるかしらね ? えっ? カメレオン亭っていう食事処に行けば、会えるの? それじゃあ、今度、子供や孫達と一緒 にお邪魔してみようかしら』
と、思い出すだけでも実に様々な老若男女達から声を掛けられ、その度に立ち止まり、話すようになっ ていた。
しかも、その内容全てがアニエスやクローデットに纏わるものであった。
ロジェは、なんとなく、という曖昧の感覚ではあったが、脳裏にあるイメージが膨らみ始める。
それは、自分に話しかけてきた人々が姉妹と交流する場面を。
一瞬で様々な彩りの表情を魅せるクローデットが穏やか声色で尚且つ、しっかりとした口調で言葉を交 わしているのとは対照的に、一歩引いた距離で会話に参加するアニエスが静かに相槌を打ち、所々で姉の 言動を諌めたり、かと思うと、まんまと姉の言葉に丸め込まれたりする。
そんな様子が簡単に想像できるまでには、彼女達の事を多少という言葉を使える程度には知るようにな っていた。
「……」
俯いて歩いていたロジェの右肩から右腕にかけて、突如として鈍い衝撃が迸り、右足が半歩分だけ後ろ に下がる。
よろめいている間に顔を右横に向けて、すいません、という一言を自分とぶつかってしまった男性に告 げた。
男性は、こっちを横目で一睨みしてから舌打ちした後、通り過ぎた。
……考え事に没頭しすぎるのも良くないな。
さっきまでの漠然とした思考から解放された事で、ふぅ、と安堵の吐息を零れ落ちつつある中で体勢を 立て直し、歩みを再開する。
ふと、頭上を仰ぎ見る。
ロジェの視界からは、たゆたうように流れる雲が一つもない青空が両眼に映り、
……何も無い。まるで自分を見ているみたいだよなぁ。って、何を感傷的になってんだかな……。
頭を左右に振りながら、そんな思いが脳裏を過ぎっていく。
落ち着きを取り戻したロジェは、
……にしても、冷静沈着で、何を考えているか分からない彼女の事だから、てっきり、クローデットさん だけが慕われていて、彼女の方はクローデットさんの妹という認識だけの人が多いかと思えば、そんな事 もなかったんだなぁ……。そういえば、リリー達も慕っていたから、当然と言えば当然かな。
と、本人に面と向かって言えない感想を抱きながらも、改めてそう感じるようになっていた。
そして、また、自分に声をかけてきたアニエス達の事を知っている人達は、良い人達なんだろうな、と 己の憶測に過ぎないものの、それでも、確信できたのは、話している時に垣間見えるアニエス達を知って いる人々の笑顔が如実に物語っていた。
……ははっ……、こんな事があるんだな。見ているこっちが心の芯が暖かくてくすぐったくなるなんての がさ……。
だからこそ、気づいてしまった。
ありえない、と自覚してしまった。
そんな事を認めてたまるものか、という事を認めてしまった。
自分の笑顔はあくまで作っているのに対して、あの人達の笑顔は、全部が全部とは言えないが、それで も、わらう意味が根底から異なっている事に。
クローデット。レイモン。リリー。ジャン。フィルマン。時計店の店主。祭術を扱う壮年の男性。この 都市に来ていた祭術師達などの商業都市で出会った人達の表情がロジェの脳裏を過ぎっていく。
ただ一人だけを除いては。
だが、その事に意識が行き届かず、その刹那。息を呑んだ直後に、
「あっ……」
と、声を漏らした僕は、彼女達に対するもやもやとした気持ちの正体に、ついに辿り着いてしまう。
羨ましい、と。
その自分でも制御しきれない清濁が入り混じる感情の矛先がこの都市で出会った人達全てに向けられて いる事を自覚した途端、条件反射的に右耳の上を触りながら奥歯を食い縛る。
そうでもしないと今まで、自分が信じ続けていた何かが崩れそうになりそうで。
だけど、その抵抗はちっぽけなものでしかなく、背筋に冷たい感覚が奔り、ぶるりと身震いが生じ、足 が止まる。
急に立ち止まった乱雑に切り揃えられた髪の少年を追い越し通り過ぎる人々の怪訝そうな視線が送られ る。
だが、その事にも意識がいかず、己の身を浅く抱きしめ、一瞬の間に自分の身体に起こった事を脳の指 揮系統が判断を下す前に、胃の底から食道へと込み上げてくる何かが来た。
小さく息を詰める。右手で口元を隠す動作をしている間に、目の端で捉える人通りの少ないと思われる 路地裏へと通じる細道。
今の状態から一刻の猶予も無い、と直感が働き、細道の方に地を蹴りだした。
数十秒後。
「うっ……。かはっ……」
しゃがみ込んだロジェは細道の壁に両手を付いた状態で、えずきながら胃の中にあった物を吐き出し続 ける。
「はぁ……はぁ……、はぁ……はぁ……」
壁に這うようにして身体を起こす。焦点が合っていない両眼で吐瀉物を見下ろしたまま、咥内に広がる 嫌な酸味と荒い息が鎮まるのをただひたすら、待った。
十分近くの時間を要して、ようやく全てが落ち着く状態にもってこれたロジェは、小さな固い物音を鳴 らして、壁に後頭部を密着させると、微かに開いている唇から溜息の一つが宙に消えた。
数十センチと離れていない距離。
そこにあるのは、羨ましい、という想いに対する拒絶反応の証である吐瀉物を横目でちらりと見遣った 後で、顔上半分を片手で覆い隠し、
「あの人達みたいにあんな風にわらってみたいってなんだよ? それ。ありえないだろ。こんなの事って 。……僕だって普通に笑顔を作れるんだぞ? それなのにどうして……、そんな事を思う必要がどこ にあるっていうんだよ? くそっ!? 訳が分からない。なのに……なのに、どうして、こんなにも苦し くなるんだよぉ」
震えを伴う声音で自分自身に向かって、支離滅裂な言葉の羅列を紡ぎだしながら左右の目尻から水分が 滴り落ち、頬から顎を伝って、最後には砂利へと吸い込まれていく。
服飾部分から露出している顔と首元と手足に夏の気温と生暖かい風を感じている一方で、身体の内部で は、このままでは凍えてしまうのではないか、という錯覚に陥った途端、寒気を覚えてしまった。
顔面から片手を離すと逆の手も合わせて、両肩を五指が食い込むほど掴み放さず、
「今まで、こんな事を考えた事もなかったはずなのに……。やっぱり、最初からこっち側の僕が向こ う側の世界に関わるべきじゃなかったって事か。そうすれば、こんな想いをせずに済んだかもしれない」
と、後悔の念が入り混じる声で己を説得させようと呟き、そのまま、全身が脱力したように背を持たれ ていた壁から滑り落ち、両肩を掴んでいた左右の手を離れ、ぺたりと地面に座り込む。
なんだか、口の中が急激に干からびていく気分になり、それに加えて、自分の裡にざわつき、うずいて いる感覚は未だに残っており、拭い去ろうと深呼吸を試みる。
それでも、まだまだ消えてはくれず、もう一度、深く吐息をつく。
さらにもう一度、思いっきり肺に新鮮な空気を取り込んだ。
意識的に呼吸を繰り返したにも関わらず、消失してくれない想いに対して、苛立ちを募らせ、
「あの時、僕はそう決めたはずなのに……。今更になって、揺らいでどうすんだよ!? ちきしょぉぉぉ ぉぉ!!!!!!!!!!」
無意識に歯軋りすると同時に、青空を仰ぎ、吼えた。
ロジェの中には、自己と他者に対する一つの揺らいではいけない価値観が根付いている。
自分は隷属される側の人間である、という諦観であると同時に自己認識であった。
そこに至るまでには、過去において、崩壊寸前の肉体と精神を護る事ができなかったほどに、何もかも が幼かった自分がいた環境は、今もなお、身体の各部位に生々しく存在し続けている切傷、裂傷、挫傷、 熱傷の跡が物語っている通りの事が平然と降りかかってきた。
だからこそ、幼少期のロジェは、諦観と自己認識という名の鋭い刃を自身の心の奥底に向かって、深く 刻み込んで、己の意思と感情を他者へと繋ぐ架け橋を自ら、破壊した。
そうする事が最善だと信じた方法を行ったまでであった。
これ以降、ロジェという人間にとって、他者の存在全てが別世界の光景でしかなく、それでも構わない 、と思ったのは、自分には、いついかなる時も希望となっている祭術の存在があったから。
……僕には、祭術さえあれば、他には何もいらない。必要ない。
だが、長年にかけて複雑に絡まり解けなくなった想いとは裏腹に、今も刻一刻とロジェの精神は大きく 揺らぎ、普段の少年になら出来ていたはずの理性や感情のコントロールがうまく云っておらず、思考が錯 綜し、これ以上は危険と判断した脳が悲鳴を上げていく。
内側から鈍器で殴られたような衝撃が奔り、それが頭痛であると自身が認識したと同時に、意識が朦朧 としている内に鈍い音を立てて、横向きに倒れこんでいた。
ロジェは、気を失った。