第六章
一番近くの集村部から数キロと離れていない森林付近で多数の天幕が張られ、一つの移住地として形成している場所が存在している。
移住地の中で、雑嚢を背負っている一人の青年がおり、彼を半円の形で囲うようにして老若男女が多く集っていた。
「本当に行ってしまうだねぇ」
「お前を最初見た時は、こんなにも小さかったのに、それなのに、今じゃあ、旅に出ると生意気を言えるほどこんなにも大きくなるとはなぁ~~~」
「今日は、何よりも出発日よりで良かったわね」
その言葉を聞き、雑嚢を背負う青年は、一度、視線を上げ、翡翠色の瞳に映る蒼天の中を斑模様の雲が気持ち良さそうに漂っているのが見てとれていると、
「お前の憎ったらしい顔も今日で見納めとなると、清々するぜ」
という声と共に腹部に痛みが伴わない衝撃が当たる。視線を戻した青年は、そこで自分の腹を軽く殴った当人を見やり、悪ガキのような笑みを浮かべると、
「なんだとぉ~~~」
色々と悪ふざけをやった自分と大して年の差が変わらない男性の頭を脇に抱えて、楽しそうな声色で喋った。
俺が悪かった。放してくれ、と頭蓋骨固めされている友達が言葉にしつつ青年の片腕を叩く。その反応に、よしよし、と心の中で頷いた青年は、解放した。
悪友とも呼べる男性が皮肉の言葉を一通り述べているのを耳にしながら青年は視線を左右に動かし、出発する自分を見送る為に集まってくれた人達の表情をじっくりと見る。
普段は穏やかな雰囲気を漂わせているけれど、自分達が悪ふざけした時にはいつも叱ってくれた目尻が垂れている瑠璃色の瞳をもつ老年の女性。
祭術の指導をしてくれた師匠とも呼べる栗色の長髪を後ろで束ねている中肉中背の男性。
自分を慕ってくれる赤銅色と栗色が斑模様となっている髪を肩口で切り揃えている年下の男子。
様々な思い出が青年の脳裏に浮かび上がり、感傷に浸りかけている己がいる事に、これじゃあいけない、と気を引き締めようとしている所に、
「モンド」
己の名前を呼ぶ馴染み深い声が聴覚を捉え、モンド、と呼ばれた青年が声がした方向に視線を向けると、喋るのを止めた親友が空間を開けるようにして横に移動し、人垣から掻き分けるように現れたのは、一人の男性であった。
「兄貴……」
「今、旅立とうとする男がなんて顔してるんだ。シャッキとしろよ」
モンドの口から、兄貴、と呟かれた男性がモンドの頭に掌を置き、力強く撫ではじめる。
またか、という思いで、いつもの子供扱いされている事にしぶしぶ従っている中で、ふと周囲に視線を動かしてみると、集まってくれた皆が暖かい眼差しを向けられている事を知り、途端に恥ずかしさが胸の奥から込み上げてきた。
「やめてくれよ……。俺はもう子供じゃないんだからさ。それに皆が見てるだろ」
自分の頭に置かれている一緒に暮らしている男性の手を払いのけながら、呟く。そんな弟の様子に瑠璃色の両眼を細めて見ていた男性は、
「何言ってんだか、お前は俺の弟なんだから。兄貴が弟の頭を撫でる事しててもおかしく無いんだぞ?」
と、そんな事を言葉にしつつ、再びモンドの栗色の髪を触っていた。モンドは、眉を浅く立てて諦めの吐息を吐き出している一方で、その発言を聞いた周囲の人々が声を立てて笑いだす。
爆笑に包まれたひと時。
「モンドを困らせるようなことを言わないの」
兄である男性相手に、諭すように話しかける女性が小さな包みを抱えた状態で、腰まである栗色の髪を揺らしながら兄弟の方へと歩み寄ってきた。
ロザリーさん、と囁く旅立とうとする青年に、ん? という風に首を傾げてみせる女性が微笑みを浮かべてみせると、
「あら、そんな他人行儀みたいな言い方して……。私も立派なモンド君の家族なのよ?」
……本当にお似合いな二人だもんな。
兄貴と呼んでいる男性の妻となったロザリーに、あぁ。そうだったな。と言葉を返しつつ、嬉しさと寂しさが入り混じる眼差しを向けていたモンドが次に目蓋を閉じ、開けた時には両眼にうっすらと浮かび上っていた感情は消え去っていた。
そして、一呼吸の間が空き、
「……やっと兄貴と結婚するまでに漕ぎ着けたもんなぁ~~~。兄貴と義姉さんは。まったく、両思い同士だって言うのに、どんだけ時間を掛けてたんだか……。見守ってるこっちとしては、かなり心臓に悪かったんだからな」
雑嚢を背負う青年が眼前の男性と女性を交互に見ながら、からかいの色を帯びた口調で喋りだす。
「モンド。おまえ!! みんながいる所でそんな事を言いふらすなって!?」
「そっ……そうよ。ほ、ほら、これ作っといたから持っていきなさい。どこかで食べるように。ね?」
慌てふためく結婚したばかりの夫婦。そんな姿を眺めていた人々が爆笑する。
こうして、長い間一緒に暮らしていた人々との最後のひとときが過ぎ去っていく。
「それじゃ。俺はそろそろ行くわ」
と、ロザリーから押し付けられるようにして、渡された小包を左腕で抱えているモンドが告げると旅立ちを見送る為に集まってくれた人々が一様にして、別れに対する感情を表情に宿らせる。
モンドが真剣な眼差しで兄の妻となった女性を見遣り、言葉を作り出す。
「ロザ……義姉さん。俺の家族を頼みます」
「おまえ……」
「分かったわ」
自分の言葉に、これ以上ないというほどに大きく目を見開く兄と左右の瞳を三日月の形にさせた兄の妻となった女性が深く首肯するのを確認したモンドは、満足した面持ちで踵を返して、一歩。大きく地を蹴りだした。
●
ロジェ達が薄暗い路地で一段落している頃。ロジェ達が居なくなった往来では、祭術師に対する抗議を行なっていた集 団が到着した警邏隊と一悶着を起こし、次々と捕縛されていた。
その中には、
「おい!! 聞いているのか!!」
鼓膜を震わせる怒鳴り声によって、びくりと身体を震わせ、あっ、いっけね……、と、現実逃避の一環として過去の事 を思い出していたモンドは我に返り、俯いていた顔を上げる。
「……聞いてますよ」
厳然と立ちつくしている黒を基調とした制服を身に纏う青年を直視しつつ、にこやかに呟いた。
青年は、一度、宙を仰ぎ見てから溜息をつくと胡坐の体勢で座っているモンドに視線を戻し、尋ねる。
「本当に、抗議集団の連中と関係ないんだな?」
「ええ、これっぽっちも」
「じゃあ、どうして抗議集団と一緒にいたんだ」
ふむ、と腕組みしているモンドは、
「さぁ?」
と、答える。
「さぁ? じゃない。真面目に答えるんだ!!」
……そんなこと言われてもなぁ~~~。
と、思っている間に視線を彷徨わせると往来のいたる場所で、逃げ遅れた抗議集団の者達が自分と同じように取り調べ られているのが視界に入り、
「あっちにいる抗議集団の連中に聞けば、俺とあいつ等が仲間ではない事が一発で分かるから、聞いてみてくれよ」
「向こうは向こうで今、取調べをしている最中なんだ。それに俺が聞きに言っている最中に、アンタが逃げ出すとも限ら ないからな」
腕組みをほどき、空いた片手で乱雑に頭を掻きながら、勘弁してくれよ、とばかりに両肩を下げる。
これには、問い質す側にいる警邏隊に属する青年は、モンドを祭術師に対する抗議集団の仲間であるという認識の下で 質問しており、モンドがどれだけ、彼等とは関係ない、と何回答えようとも、信じていない事が丸分かりの眼つき、口調 、雰囲気があった。
ゆえに、そんな押し問答がかれこれ十分近く経過しつつ、
……あぁ~あ。せっかくのほろ良い気分だったのに、酒が抜けちまったなぁ。もったいねぇ……。
と、内心で一人ごちる。
まだまだ時間がかかりそうだなぁ……、と心の中で呟き、己の身が解放されるまでの間、どうやって時間を過ごそうか 、と時間潰しについて一考していた時に、こちらに向かってくる複数の足音。
おや? と音がした方向に顔を向けたモンドが見たのは、
「そこの君。その人を取り調べる必要はなくなった。だから解放してあげなさい」
警邏隊の制服を着ている壮年の男性が声をかけてきた。
「えっ? それって、どういう事ですか……?」
この場に現われた壮年の男性を目にした途端。姿勢を正し、敬語で疑問を口にする警邏隊の青年であった。
「君が取り調べている人物の身元を証明する事の出来る人が現われ、確認できた。そして、抗議活動している集団との関 係性もない事が判明したんだ」
「しかし、それだけでは何も……あっ!?」
壮年の男性が警邏隊の上に立つ人間だと認識していた自分の両眼に新たな人物の姿が視覚に飛び込んだ瞬間、モンドは 頬を引き攣らせていた。
「よ、よぉ。よく、俺がいるっていうのが分かったな。セレスタン」
片手を挙げ、内心の動揺が露になっている口調で喋るモンドを無表情で見下ろしていたセレスタンは、片眉がぴくりと 上下させた後で、やれやれ、といった風に小さく頭を振った。
「彼は私の古くからの友人でして、抗議活動している者達とは、まったくの無関係なんですよ。ただ、酒癖が悪い男でし て。大方、自分でも分からないほどに泥酔状態の時に巻き込まれた、という所だとは思います。彼も同じ事を言っていま せんでしたか?」
「……確かに言っておりました」
「やはり、そうでしたか。私の親友がわざわざあなた方のお手を煩わせて本当に申し訳ございません。私の方からも彼に は厳重に注意しときますので、今日はこの辺で終わらせても構いませんか」
誠実な響きが込められたセレスタンからの謝罪に、警邏隊の青年は、両手を勢いよく振りながら、慌てた様子で声を発 する。
「あっ、いえ、その……こちらとしては、この方がまったくの抗議活動している者達とは無関係という事が分かれば 、十分ですね。で、では、自分は他の者達の取調べもありますんで失礼いたします」
そう告げた警邏隊の青年は、機敏な動作で他の取調べが行われている場所に駆け出していく。
「わざわざ、私の願いを聞き入れてくださり、ありがとうございます」
「いえいえ。貴方には色々と世話になりましたし、それにこちらの方が無関係の者とあれば、無碍には出来ませんのでね 。それでは、ワシもこの辺で」
立ち去っていく警邏隊の制服を身に纏う壮年の男性。
「さぁ、ここから離れるぞ」
と、悪友の言葉に頷きを返したモンドは、さっさと歩き始めたセレスタンを追いかける為に走り出す。
往来を抜けた二人は、小路と大通りに行き交いながらかれこれ十分近く経過しようとした頃、視線を忙しなく動かしな がら歩いていたセレスタンが急に足を止め、モンドは慌てて制動をかける。
「どうしたんだ?」
と、おそるおそる声を投げかけてみる。
身体ごと振り返った旧知の仲である男性は両眼を吊り上げ、唾を飛ばす勢いで、
「どうした? じゃねぇよ!! 俺はあれほど言っといたよな。ここで大事を起こすなってさ!?」
モンドの胸元を指先で何度も小突く。
「ん……ああぁ……。別にそこまで大事にはなっていないと……思うぞ?」
「警邏隊に世話になってる時点で、なに悠長なこと言ってんだよ!? ……ったく。俺が駆けつけなかった ら、どうなってた事かわかってるのか?」
「えぇ。それは、それは感謝しますとも。祭術師斡旋所の局長様のお力があったからこそ、俺は牢屋に入れられずに済み ましたので」
媚びた口調で話すモンドを凝視したセレスタンは、調子の言い奴め……、と呟き、溜息をつくと共に項垂れる。
その様子を見ていた祭術師は、はははっ……、と乾いた笑い声をこぼしている間に、ふと、あれ? と胸中で引っ掛か りを覚え、疑問を口にする。
「そういえば、何で俺がいると分かったんだよ?」
「騒動が何処かで起これば、情報があっという間に届くほどにこの都市は広いようでいて、かなり狭い所なんだよ。まし てや、お前みたいな酔っ払いがそうそういてたまるか」
最後の部分は皮肉たっぷりにセレスタンが言ったものの、ふぅん。そういうもんか、と興味なさげに返答した親友の反 応を流し目で見つめていたセレスタンが呆れ気味に小さく首を振り、両肩を落とした。
「まぁ、実際問題。俺が来たのは、お前を助けるためでも無かったんだがな」
? と疑問符を浮かべる自分に対し、
「俺は、彼らがいるという情報を耳にして、駆けつけてみたら君がいたってわけ。結局、この目で見れなかったんだけど 。なぁ、本当にあの場に彼らが居たのか?」
セレスタンが囁いた、彼ら、という単語が何を指し示すのか。第三者が聞いても理解できないその曖昧な物言いではあ ったが、モンドはすぐに察していた。
それは、彼らを知る者同士だけが通じる共通認識であるゆえに。
「あぁ、いた。だけど、あれはどう見ても、十代の子供だった」
あの時は完全に酔っ払っていない状態であったモンドが数十分前に往来で居合わせた少年少女。その中でも、特に一際 目立っていたリール人とカルカソンヌ人の混血である事が一目で判断つく少女の容姿を思い浮かべていた。
……しかし、あそこまで混血の兆候がハッキリと現われているのも珍しい……。まぁ、あのまま無事に逃げ切れただ ろうか。
と思案に耽っている所に、そうか……、と残念そうに呟くセレスタンの姿を捉え、心の中で微苦笑を作る。
「まったく、俺じゃなくてお前が落ち込んでどうすんだよ。まぁ、でも、あの子のような子供が無事に生活していたとな ると、案外、兄貴達が生き延びている可能性もあるかもしれないと思ったけどな」
「モンドに励まされるとは、俺もまだまだだな。にしても、そんな子供がこの都市にいた事がまったく分からなかったな。よく、今の今まで見つからなかったもんだな。だけど、露見した以上は……」
「あの子が危ないかもしれない。まぁ、なんというか。俺達が知る彼らとは異なっていても見過ごせねぇし、だから、セレスタン。頼めるか?」
「あぁ、任せとけ。何の為に俺が偉くなったと思ってんだよ」
微笑みを浮かべたセレスタンは、力強く頷いて、親友の頼み事を引き受けた。
●
商業都市の建物群の中でも、一際、夏の陽射しが燦々と降り注いでる都市の風景を一望できる旧城壁の頂上。
螺旋階段の入り口から一番遠ざかっている回廊の位置にアニエスとロジェがいた。
二人が旧城壁の回廊にいるのは、子供三人組と分かれた後で酒場に戻ろうとしかけていた所に、少し話したいから時間 良い? とアニエスに呼び止められ、少しなら、と思ったロジェが承諾した事で、人気の少ない話す場として選ばれたか らであった。
……謝るタイミングが見つからないな。どうしよう……。
風景を眺めているアニエスの後姿を数歩引いた距離からぼんやりと見つめているロジェは、冷静になった今、何を熱く なっていたのだろうかと思い至り、反省していた。
だけど、到着してから沈黙を保っている彼女にどう話しかけてくれればいいのか、と逡巡する合間に十秒、二十秒、三 十秒と時間が流れていく中で、緊張感が強まり、身体を強張らせていると振り返ったアニエスと視線が合い、動悸が激し くなる。
……このままじゃ、埒が明かないよな。
内心でそんな事を考え、小さく首肯し、ロジェは意を決して声を発する為に深呼吸する。同時に、アニエスの方も深く 息を吐き出す。
そして、
「「あの時は、ごめんなさい!!」」
という声が重なり合った。
「へっ?」
「えっ?」
互いに目を瞬かせて、少年は少女の、女の子は男の子の面立ちを直視したまま、相手の言葉を認識するのに必要な数瞬 が経った。
ロジェは、なんだか、背中がこそばゆいような感覚に包まれ、眼前にいる人物から視線を逸らす。目を伏せて小刻みに 身体を揺すっていたアニエスが微かに唇を開き、
「ねぇ……」
と、震えが伴う呼びかけの声色が自分の鼓膜を打ち、あっ、と視線を戻したロジェが見たのは、真剣、という表情を浮 かべている少女。
「君は気味悪がらないの?」
「??????」
彼女の問い掛けに、ロジェは、えーっと、と心の中の囁きが自然と口からこぼれつつ、視線を左右に動かし、俯いたり しながら質問の意味を考える。
だが、どれだけ思案を試みても思い当たり節がなく、心の中でしきりに首を捻る。
「どういうことですか? それって」
「私が聞きたいのは、この栗と赤銅の髪が気味悪くはないのかなってこと」
質問を聞き返した僕の耳に聞こえてきたのは、、アニエスが己の髪房を摘まみ上げて発せられた物言いであり、思わず 、はぁ……、と気の抜けた返事を行った後で、
「何故、貴方がそう思うのかが分からない。それに、どうして気味悪がる必要があるのさ」
「どうしてって……それは……、ロジェも見たでしょう? 私に対する敵意を剥き出しにしている大人達の反応 を……」
と、最初、言葉を濁していたものの、どうにか言葉を紡ぎ終えたアニエスの全身がぶるりと震え、ギュッと目を瞑り、 己の両肩を浅く抱きしめる。
そんな彼女の頭に巻かれていた布が解かれてしまった時に自分も体験した眼差しを思い返そうとして、宙を仰ぎ見る。
……確かにあれだけの感情をぶつけられれば、ひとたまりもないよなぁ……。あの時は僕が見た限り、恐怖、憎悪、忌避 、嫌悪と云った感情が込められており、それは抗議活動している者達以外の通行人達の表情からも負の感情を読み取るこ とが出来たわけだし。まぁ、唯一例外があるとすれば、リール人の祭術師だけ。
だけど、と思う。
大人達が彼女に対して負の感情を抱くのは、愚人であるということは、何となくではあったが知る事ができた。それで も、彼らがそこまでの想いを露にするほどの理由が愚人と呼ばれている人達にあるのかどうかまでは、理解できていなか った。
……あの人達が愚人を憎む理由。何があったと言うのだろうか?
一つの疑問が頭にもたげてくるも、ロジェは、ふと、目線が戻すと、そこで、怯えを隠しきれていない表情を浮かべて いるアニエスを捉えたと同時にそんな考えは消え失せる。
そして、自分が彼女の髪色を見て浮かんできた想いを言葉にしようと口からこぼれ落ちる直前。僕は何を言おうとして いるんだろうか、と我に返ると急に恥ずかしい気持ちに込み上げてきて、慌てて別の言葉に置き換えて話し出す。
「僕は、子供達と同じですね」
アニエスは首を傾げて、子供達と同じ? と少年の言葉を繰り返す。
……やっぱり、これだけじゃあ伝わないよなぁ……。
人差し指で片頬を掻きつつ、心の中で項垂れたのもつかの間。浅く一呼吸してから、少女の両眼にうっすらと宿る感情 の揺らぎを見据えて、
「そうですね。貴方の髪色を見て、気味悪いどころか綺麗だなって思いましたよ」
と、ロジェが告げた。
その瞬間、息を呑みこんだアニエスは言葉を失うと同時にロジェから背を向け、
「……物好きな人ね」
と、両耳を仄かに赤くさせながら、囁いた。
「はははっ……」
それを見ていた祭術師を志す少年の口から乾いた声がこぼれ、途切れてしまうと二人の声はそこでピタリと止み、後に は息遣いと風切り音だけが回廊に響きわたる。
依然として奇妙な間、沈黙が続いているこの状況に、右耳の上を触れつつ視線をあちこち動かしたり、落ち着かない奇 妙な感覚に囚われていたロジェは、所在なさげにしており、
……何か喋らないと。
そんな事を思ってはいても、無言から抜け出す為の適当な話題が見つからない。
参ったな、と口内でポツリと言葉をつくる今も、自分が体感している状態に対する疑問形の単語ばかりが脳裏に浮かび 上がり、その問いへの疑問に対する答えが導き出せず、思考回路がぐちゃぐちゃになっていた。
己の前髪に五指を入れ、後ろの方へと掻き分ける。
「へぇ、こんな所にあるんだ!?」
「すごいだろー」
突然、複数の声が聞こえ、ロジェは全身を固くすると同時に、自分達がいる位置とは正反対の方向を横目でちらりと見 遣る。
入り口付近に眼下の光景を眺める人達の姿があった。
……なんだ。追っ手かと思ったら、ただ、単に風景を見に来た人達か。
胸を撫で下ろしかけた折に、あっ!? とある事に気がつき、両眼を瞠った先には、入り口を見ているアニエスの横顔 から、吹き付ける風によって、ゆらゆらと浮いている赤銅色と栗色の髪が映る。
その刹那。頭を過ぎったのは敵意に晒された際に、アニエスが怯えの色を含んだ表情になった時のこと。
……あんな表情をさせたくない。
歯軋りを起こしながら自分の中で芽生えた渦を巻いている想いが込み上げ、息が詰まる錯覚に襲われる。
……それが何なのか。僕にはまったく分からないものであった。ただ、一つだけハッキリと理解しているのは、回廊に訪れた者たちの位置では、彼女の容姿を確実に認識するのは難しいはず。だけど、それは遠目だからこそ意味があっ て、近づかれてしまえば元も甲もないわけで……。まだ、彼女がどう対応するのかも判っていないうちに僕が何かやるの も可笑しいし。
……でも、近づかれるにしろ、自分たちが入り口を通るにも、時間稼ぎは必要だよな。
ロジェは、決断する。
自分がやらなくては行けない事を実行する為に、深く息を吐き出し、両肩を下ろすと小さく首を横に振ってたった今、 感じた想いについての思案を払い退け、地面を蹴った。
「???」
己の隣に移動し、のこぎり型狭間に背中を預ける少年を懐から取り出した布を頭に巻き直している少女が不思議そうな 眼差しで見つめていた。
「そういえば、あの時は聞きそびれたけど。どうして、僕の祭術が怖いとそう思ったんですか?」
視線から彼女が何かを言いたそう雰囲気を察したロジェは、幾許かの時間を得た事で話題を思いつき、それを機先を制 す為の質問として呟いた。
「それは……」
「それは、なんですか?」
布の結び目を作り終えたアニエスが少年を一瞥してから、正面を見据えたまま諦めを伴う吐息をつくとゆっくり語り始 める。
「不気味なの。ロジェの祭術は。まるで人形が祭術を扱っているのを見ているみたいに……ね。そう思えるほど君が 祭術でやろうとしている事や祭術を扱う上で重要なはずの君の感情が何も伝わってこなかったのよ。もしかしたら、そういう意図があるかも知れないけれどね。でも、そうだったとしても、やはり祭術の動作と感情表現の差異が大きすぎる」
聞いた瞬間、入り口の方を見ていた祭術師を志す少年が表情が強張り、心の奥底が荒波のようにざわつき始めているの を感じながらも息を詰めたのもつかの間。
……それでも、僕には感情表現を扱うなんて真似は無理なんだよ。
失望や諦めが入り混じる感慨を抱くと同時にそれが意味する事を思案する余裕も無く、自分の中に渦巻いている幾多の 想いを邪魔だと感じたロジェは、浅く呼吸を整え、意識的にざわついている感覚を無視して唇を開き、搾り出すようにし て声を発する。
「なぜ、そう……ハッキリと言えるんですか」
「私は一時だけ祭術が扱った事があるから……、ある程度の事は分かってしまうのよ」
感情を窺わせない口調で放たれた発言に、
……あぁ。やっぱり、そうだったのか。
酒場で踊っている時の動作が祭術にどこか似ていると感じていたのは、アニエスが少しだけでも祭術に触れた事がある からなのだと腑に落ちていた。
また、ロジェは、一時でもあれだけの動きが出来るなら、と思いともに、
「そこまで分かっているのなら、どうしてやめられたのですか? 貴方ほどの実力ならば、祭術師で在り続ける事が出来るというのに」
と、口惜しそうに呟くと同時に、
…何を言っているんだ? 僕は……。
自分が言った内容にこれ以上ないというほどに目を大きく見開いていた。
空を見上げてから目線を落としたアニエスが地面を爪先で叩き、音を作り出しながら、
一拍の間が置かれ、彼女は服越しに己の胸元を五指で握り、
「……私はね? 君や他の人達が熱狂している祭術が人を死に至らしめる所を嫌と言うほど、間近で見てきたの。そ して、あの事件が無かったかのようにわらっていられる観客達の表情が不気味なモノに思えてきて。そして、分からなくなってしまったのよ。祭術というものが」
と、喜怒哀楽がない交ぜになった声色で告げ、ピタリと音も止んだ。
聞き手に回っていたロジェの胸に真っ先に生まれたのは、そんなバカな事があるはずない、という思い。
だからこそ、隣にいる少女の言葉を否定しようと、視線を横に傾けつつ唇を開きかけた瞬間、
「……」
苦しそうに顔を歪めている彼女の横顔を視界に入れてしまった時点で何も言えなくなっていた。
なんて言葉をかけていいのか分からず、沈黙を保っていると彼女が首から上を動かし、僕を見遣る。そして、ふっと眉 間に寄せていた力を緩めた彼女が静かに吐息を漏らした後で、
「……ロジェは祭術以外の事は、どうでも良かったわよね。ごめんなさい。変な話をして。……そろそろ、帰らない とカメレオン亭の時間に遅れちゃうわね」
と、言い、のこぎり型狭間から離れると、足早に入り口の方へと歩みだす。
アニエスの姿が回廊に来ている人達の姿で隠れてしまった時になってようやく、呆然としていた頭が働きだし、ロジェ は慌てて追いかける。
●
一日の中で訪れた者達に食事を販売する酒場や食事処が繁盛する時刻も過ぎると商業都市にある多くの店内も静まり返り、それはカメレオン亭も例外ではない。
ただ、カメレオン亭の場合は、どこよりも早く、店仕舞いの作業をロジェとアニエスとクローデットが行っている。
「はぁ……」
と、ロジェは沈んだ表情で嘆息し、テーブルの上に乗せていた椅子を下ろす為の手が止まり、右耳の上に触れる。旧城 壁から帰ってきて以降、何度目かになる旧城壁でのアニエスとの会話を思い返し、
……隷属される側の人間である僕には、感情表現する祭術を扱ってはいけなかったのかな。
と、諦観の念が自分の心に重く圧し掛かる。
「やっぱり、彼らのような人間じゃないと……」
一人、弱々しい口調で囁きかけそうになる言葉に気づき、呑み込んだ。
……僕は、まだあの人から逃れ切れていないのか……。
と、ギュッと目蓋を閉じ、自嘲の笑みを深めるロジェの脳裏を過ぎるのは、
『おまえは、俺に隷属される為だけに、生まれて来たんだよ』
『俺と同じ人間じゃないんだよ。おまえはよぉ~~~。ほら、笑え。……笑えよ。笑えってんだよっ!!』
耳元で囁かれる錯覚に陥るほど、今も深々と頭と身体に刻みこまれた言葉の数々。過去を思い出した途端、彼の罵詈雑 言や暴行を受けた時の記憶が毒のようにじわりと自分の心に侵食していき、肌が粟立ち、両膝が崩れそうになる。
「顔色、悪いけど大丈夫?」
その声で、あっ……、と遠のきかけていた意識を取り戻すと身を凍るような感覚がスッと無くなり、虚脱状態になって いた全身に力を込める。
「ええ。大丈夫ですよ。心配かけてすいません」
両眉を下げて自分の顔を覗きこんでいるクローデットに声を掛けた。
「そう? それなら良いんだけどね」
と、囁きながらタレ目気味の女性は安堵の表情を作り、少年から離れる。床板を軋ませる音が近くで聞こえ、二人が一 斉に顔を向けてみるとロジェがいる位置とは正反対の所で作業していたアニエスがこちらへと歩み寄ってきていた。
ロジェは、今日の出来事があってから、アニエスに対して漠然とはしていても気まずさを抱えており、意識的に見ない よう視線を逸らす。
「ねえさん。こっちの後片付けは終わった」
「分かったわ。アニエス。あたし達の方もあと少しで終わりそうだから、先に帰る準備しといてくれる?」
「うん」
了承の合図を出した少女が踵を返し、調理場の奥へと姿を消え、この場にいなくなった事をちらりと横目で確認したロ ジェが胸を撫で下ろした。
「さてと、ロジェ君。ちゃっちゃっと最後の仕上げといきますか」
「はい」
こうして、クローデットから手渡された水に濡らした布を手に持ち、眼前のテーブルを丁寧に拭く。女性の方も数メー トル範囲内にある水拭きをしていないテーブルの方へと移動する。
そして、十秒も満たない時に、
「どう? アニエスと仲直りできそうかしら?」
「別に……、僕達はそこまで喧嘩しているわけじゃありませんよ……あっ!?」
クローデットが言った内容に数拍遅れで意味を理解した瞬間。水拭きしていた動作が止まり、条件反射的に目線を上げ て振り返ってしまい、女性と目が合った。
しまった、と内心で思いつつも、動揺を悟られまいと冷静さを取り繕いながら、
「ど、どうして、そう思うんですか?」
と、言った。予想以上の上擦った声で。
ふふっ、とクローデットの口から微苦笑がこぼれ、意味ありげな眼差しで少年を見つめる。
「アニエスとロジェ君がいつも以上にぎこちなさそうにしていたし、それに今も気まずそうにアニエスから視線を逸らし ていたでしょ? だから、そう思っただけなんだけど……。その様子じゃあ、あたしの知らない所で何かあったのは確定 みたいね」
はははっ……、と乾いた笑い声を上げたロジェは、冷や汗を掻いた気分になり、片頬を指先で掻きながらどうにか話題 を逸らそうとした唇を開きかけのタイミングで、
「あたしに話してくれる? 何があったのかを」
機先を制する形でクローデットが目元を和らげ、尋ねてきた。
どうしたものか、と逡巡していたのも束の間。
アニエスのお姉さんと目が合う中で自分を見やるその視線から、言外に話を聞くまで逃がさないという風に感じ取った ロジェは、かぶりを小さく横に振りながら吐息を漏らし、
「……分かりました。話しますよ」
諦めの色が滲んだ口調で言った。
「……という事があったんです」
と、作業の傍ら、今日の出来事を掻い摘んで話し終えると、胸の内にあるもやもやとした感覚が薄らいでいくような気 がしてきて、ホッと一息つく。
クローデットが少年を凝視すること数秒が過ぎた時に、
「なるほどね。そんな事があったのね。あっ、ロジェ君。そっちの後片付けは終わりそう?」
そう言うと、後ろを向き、止まっていた作業を再開させる。
「え、えぇ。あと少しで終わりますが……」
「ん? どうしたの。そんな歯切れの悪そうにして?」
「あっ、いや、その。……僕はてっきり怒られるものとばかりに思っていたので」
伏し目がちになるロジェに、
「怒る? あたしが? なんで……って、あぁ、そういうこと」
うろたえているロジェの態度に納得の表情を浮かべたクローデットは、微苦笑を漂わせる。そのまま、次の言葉を発しようと息継ぎしてから、
「怒るも何も、ロジェ君とアニエスの問題じゃないの。……それに、君は妹の事を気にかけているのでしょう。だから、そんな浮かない顔してるんじゃないの? ちがうかしら?」
小首を傾け、穏やかな声音で語られる。思わず右の掌が両頬を挟んだロジェは目線を落とし、
……僕が彼女の事を気にかけている? 本当にそう、なのか?
クローデットの言葉をすんなりと同意する事が出来ず、自問自答を繰り返す。
だけど、すぐに、よく分からないな、と両眉を浅く立て、口元を横一文字にさせていた少年は、心の中でぼやく。ただ ……、と一拍溜めて話しかける女性の声が聞こえ、伏し目がちになっていた顔を上げている。
「あの子を悲しませた時は、只じゃ済まさないから、覚えておいてね?」
笑顔になったクローデットに穏やかな声色。
ロジェは絶句する。
突然、アニエスのお姉さんが吹き出した途端。両肩が小刻みになり、くっくっ……、と小さく声がこぼれる。そのま ま、勢い良く己の口を抑えるものの、笑い声は止まず、しまいにはくの字に身体を折り曲げていた。
その一部始終を見ていたロジェは、ただただ、??? と疑問符を頭に浮かべるしかなかった。
数秒が経過した頃に、ようやく元の姿勢に戻ったクローデットは、目の端に溜まった涙を指先で拭いながら、
「あぁ、ごめんごめん。君の呆然とした顔が可笑しく思えてきて……つい、ね? 後、今のは冗談半分で言っただけだか ら。気にしなくていいわよ」
と、言った。
……冗談半分って事は、残りの半分は本気って事だよな? それって……。
と思いと共に、片頬がぴくぴくと動き出す。
「わ、わかりました」
その一言を搾り出すように発するだけで、今の自分には精一杯であった訳で、この人には、なんだか逆らわないほうが いいよな、と改めて思い至っていた。
ロジェは、ふと、未だに笑みを絶やさず、自分の事を楽しそうに見据えるアニエスのお姉さんに対して、
……ハッ!? まさか、今のも、僕がからかわれただけなのか!!
と、考えてはみたものの、それを問いかけてみるだけの勇気が消えていた。
ゆえに、参った、という風に後頭部の髪に五指を浅く入れ、撫でるように触れる。
これ以上この人のペースに乗せられては調子が狂う、と判断したロジェは、場の空気を変える為に、んっんっ、と咳払 いする事で一拍の間を置く。
「ところで、一つ質問して良いですか?」
「ん? なに?」
「えっと、ですね。貴方は、彼女が愚人と呼ばれているのを知っていた上で暮らしているんですか?」
話題を変更しようとして、咄嗟に出た内容。それがアニエスに関する事柄である事に、あっ、と自分自身でも驚き、調 理場への扉をちらりと見遣っている間に、視界の端で女性は、まぁね、という一言ともに首肯するのが見えた。
信じられない、という思いで両眼を大きく見開いて、クローデットに焦点を戻す。
「……」
何を言っているのかがわからなかった。いや、正確にいえば、自分の質問に答えてくれたという所は、理解している。 その意味も。
それでも、いとも簡単に肯定した数メートル先にいる女性の言動が理解できないし、納得しきれない部分が多すぎて、 自分にとって不可解極まりないものとして、捉えていた。
だけど、
……どうやったら、赤の他人である彼女と一緒に暮らす事になる?
姉妹の関係は数週間足らずとはいえ、二人と一緒にいた部外者の自分の目からも見ても、家族そのものに映っていたほ どに良好であるのは、歴然であった。
だが、それが赤の他人同士だった場合、何の利益もなく、そんな関係が保てるものだろうか。
クローデットにまじまじと視線を向けていたロジェは、何故、どうして、などの疑問系の単語ばかりが脳裏に渦巻き、 思案がうまく纏まってくれない。
クローデットから微苦笑を含んだ息遣いがこぼれ、その呼吸音で考え事に集中していたロジェは、あっ、と胸の内で会 話の途中であった事を思い出し、思案から離れる為に一息を入れる。
その間に、
……そういえば、数日前にもこんな事があったっけな。確か、あの時の理由は……。
と、以前に、アニエスとクローデットが実の姉妹では無い事を知った時にした会話の事を思い起こす。
『うん。身寄りが無かったあの子が前にいた環境は、誰もが彼女を避けたりして、味方となってくれる者が誰一人として いない……とても孤独なものだったの。それがあたしの思い込みだったとしても、現に苛められている所に幾度もあたし は目にしてるし、ずっと一人で耐え続けているアニエスを見ていたら、いてもたってもいられなかったの』
……あぁ、そうだった。あの時はそんなものか程度にしか思っていなかったけど、今になってみれば、分かる。この人が 言っていた彼女が孤独だったっていう理由が……。
だけど、
「どうして、そこまでの事が出来るんですか? だって、愚人という人達をあんまり良い感情を抱いていない人にでもバ レたら、かくまっていたという理由で自分の身に危険が及ぶ可能性だってあるはずなのに……。もしかして、愚人で ある彼女を引き取ったのは、何か重大な理由があったんですか? それとも、何かしら、利益があるとか?」
ロジェが考えながら喋り終えた時、柳眉を八の字にさせていたクローデットは、んー、と人差し指を顎先に当てて、喉 を鳴らす。
「別に、重大な理由や得があると云った……そんな大層なもんじゃないんだけどな。えっーと、そうね。やっぱり、 あたしが妹の事をほっとけなかったから、というのは理由にならないかしら?」
苦笑を濃くしたアニエスのお姉さんが困ったような口調で呟いた。
「ほっとけなかった……ですか」
「うん。やっぱり、その言葉が一番当てはまるかな。それに君も見たでしょう? 愚人を忌み嫌う人達の姿を。彼らには 彼らのそれだけの感情を抱く理由があるかも知れない。……だけどね? どれだれの理由があろうと、愚人 と言うだけで一人の少女を理不尽なまでに差別や迫害するのは何か違うと思っちゃったのよね。これが。ましてや、そう いった事を平然と受け入れていたあの子の姿を目にして、見て見ぬ振りが出来なかったのよね……あたしには」
そう語るクローデットは、照れが混じる表情をしていた。
……あぁ……、もっと早くこんな人と出会いたかったな。そうすれば、僕は……って、何を考えているんだ よ。
芽生えかけつつある自分自身と祭術以外に対する想い。その途中で我に返った瞬間、内心で自嘲の笑みを濃くする。
カメレオン亭に居候している少年は、眼前のテーブルに置いてある室内を照らすランタンの一つに視線を向け、
……僕は、祭術の事だけを考えていれば良いんだ。だから、それ以外は何も必要無いんだ。
ふぅ、と大きく息を吐き出しながら、自分にそう言い聞かせる事で込み上げてきた想いを遠ざけるという選択をした。
目線を戻し、アニエスのお姉さんの姿を視界に捉え、口の端を小さく緩めたロジェは、クローデットさん、と声をかけ てから、
「彼女が貴方を慕う理由が何となくですが、分かった気がします」
と、言った。
呼ばれた直後、きょとんとしていたクローデットではあったがすぐに柔和な表情を作り、
「ロジェ君は、本当に面白いわね」
「僕が面白い、ですか?」
「そうよ? 本人が気づかないのがおしいくらいにね」
くすくすと声を立てて、可笑しそうに告げた。
ロジェの口から、はぁ……、と気の抜けた返事が漏れ、
……よく分からないけど、まぁ良いか。
片頬を掻きつつ、こういうやり取りも悪くないもんだな、という感想を抱いている一方で、クローデットが視線を左右 に巡らしながら、
「さてと、後片付けもこの辺にしときましょう」
そうですね、と相槌を打ちながらテーブルの上に置いてあるランタンを手に取り、クローデットと一緒に調理場の扉の 方へと移動を開始する。
二人は、最終確認として、他のテーブルに置かれているランタンの一つ一つに灯っている火を消す作業を行う。
外と同様に宵闇に包まれた室内には、二人分の足音と呼吸音だけが響き渡る。
少年は女性の横に並び、両者の手元にあるランタンからの仄かな灯りに照らされたその横顔を流し目で見遣る。
ふと、
……似ているなぁ。
脳の奥に浮かぶ上がるのはアニエスの姿と隣にいるクローデットの姿と重ね合わせる。
自分でもどこが、と尋ねられれば、声音なのか? 雰囲気なのか? 言動なのか? とよく判っていない感じで言葉に 詰まる類ではあるものの、それでも、血の繋がりが無いとはいえ、本当に姉妹なんだな、と納得する。
……ただ、彼女の場合は、クローデットさんとは違って、表情豊かな方じゃないみたいだけど。
と、心の中で微苦笑を浮かべるロジェの思考は、いつしか、近くで見ていた時のアニエスの表情を思い返す。
いつも冷静沈着としていて、だからこそ感情の起伏が読みづらく、何を考えているのかが判断できない。
だからこそ、相手の出方を窺って会話を進めていく自分自身にとって、非常にやりにくい相手である、という苦手意識 を覚え、関わるのはよそう、と判断を下した。
それに、彼女は僕とは住む世界が異なる側の人間であり、また、自分がこの都市にずっと滞在しているわけでは無い事 もあって、必要最低限の交流に留めようと心がけ、実行してきた。
そのはずだった。
確かに最初の数日間は、自分の考えている通りに事が運んでいる、と思っていた。にも関わらず、気づいた時には既に 自分から彼女に関わっている方向へと動いていた。
……まったくもって、なんで、こんなことになっているんだろう……?
その一方で、この状況を悪くない、と思っている自分がいるのも事実で、この都市に着てからなんだか自分の調子が乱 されている、と最近になって自覚するようになっていた。
数瞬の思考から意識が醒めた途端、片方の口の端を歪めて静かに息を吐き出す。
……なんで、彼女の事を気になっているんだろう?
思案を心がけてみたものの、解らない、といった風に小さく首を横に振りそうになった時、もしかして、あれかな、と 、一つだけ思い当たる事がある。
この瞬間にも、目蓋を閉じればすぐに思い出せるほど、紅い瞳の奥底に焼きついて離れない光景。
それは、子供達と話していた時に一瞬だけアニエスが魅せた表情であり、何故だか、忘れたくても忘れられなかった。
……あの時、彼女は笑っていたような気もするんだけど、でも、僕の気のせいかも知れないしなぁ……。それにあれっきりしか同じ表情を見た事が無いから、なんとも言えない。……だけど、これでハッキリしたぞ。
心の中で頷き、さらにこう思う。
あの表情がどんなものだったのかを確かめようが無かったから、この事が胸の内で引っ掛かっているから気になってい たんだ、と。
そう結論付ける事にした所で、ふと、
……あぁ、そういえば、今まで彼女が笑っている所を見た事がなかった。……まぁ、彼女に僕は嫌われているみたいだし、そんな相手に笑顔なんて見せるわけが無いに決まっているから当たり前と言えば、当たり前かな。
思考を巡らせている途中で、あれ? ちょっと待てよ、と首を捻る。
……クローデットさんやあの子達と一緒にいても、笑っていなかった……よな?
記憶の洗い出しを行い、やっぱり、無かった事を確認し終えたロジェは、頭の片隅で記憶違いかもしれない、とは考えつつ、声を発する為に息継ぎをする。
「クローデットさんは、彼女が笑っているのを見た事ってあります?」
「どうしたの? 急に」
肩越しに振り向いたクローデットの問い。確かに唐突だったか、と心の中で苦笑し、
「以前から、疑問に思っていたんです。彼女が笑っているところをあんまり見かけないなって」
思ったままに自分が告げてみると、微苦笑の吐息がクローデットから漏れた。
「そうなの。ただ、残念な事に、あたしもそんなに見た事は無いわ」
「えっ……、そうなんですか?」
まぁ、色々な事があってね、と言葉少なげに話す女性の顔色に陰りが差し込んできた。
一拍の間が生まれてから、
「それでも、笑えなくなったのも無理もないとは分かっていても……あたしはやっぱり、あの子には笑っていてほしいと 思ってしまうものなのよね」
そうですか、と一言を放ったロジェは続け様に、
「もしかして、そうなったのって、祭術や愚人……んっんっ。その、彼女の生まれとかに何か関係が?」
「あたしはアニエスじゃないから分からないわ。でもまぁ、そうねぇ。ロジェ君はどう思える?」
クローデットの台詞は、前半部分は苦笑交じりに放たれ、後半部分はからかいの口調で発せられたものであった。
「えっ、僕ですかっ!?」
そう切り返されるとは思わず、慌てふためくロジェの脳裏に刹那の間だけ浮かび上がったのは、祭術の事を語っている アニエスの様子。
……苦しそうだった。
と、感想を抱いたと同時に真正面を向き、目線を下げ気味になると、
「……よく、解らないですね」
今、思った事とは正反対の言葉を感情を込めずに囁いている間に扉まで後数歩という距離まで来ていた。
そうなの、と同意の声を上げたクローデットが木の扉を開けて潜り、その後に続いて、ロジェも中に入る。
この間に、
……祭術は、人をあんな表情にさせる為に存在しているというのだろうか?
そんな問いかけを音にならない声で呟きながら、ロジェはアニエスの姉との会話で得た祭術への不信感という種子が胸の奥底に埋め込まれた。