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第五章

 ある町の広場らしき開けた場所に祭術を扱う大人達がいる。

 そんな彼らを興味深そうに見ている者達もいれば、広場を通り過ぎる際に目の端で見やる者や始めから興味が無く歩き去る者達がいる中で、

「お母さん。こんな離れたところからだとお父さん達があんまり見えないよ?」

 と、瑠璃の輝きを有する両眼の幼い女の子は、お母さん、と呼んだ傍らにいる女性を不思議そうに見上げて呟くと、肩口で揃えられた赤銅色の髪を揺らし、女の子と顔を向かい合わせた母親は、一拍の間を置いてから話し出す。

「アニエスちゃんは、こうした形でお父さん達の祭術を見るのは初めてなんだし、ここぐらいが全体が見える絶好の場所でもあったりするの。だから、少し暗い場所だけ我慢しようね?」

 アニエス、と呼ばれた釣り目の女の子は、へぇ~、そうなんだ、と目を輝かせながら、納得顔になっていた。

 二人がいる場所は、足を止めて祭術を見ている人達の背中越しに祭術を扱う大人達の一人であるアニエスの父親を遠巻きから眺められる建物と建物の間に縫うようにして作られた日当たりの悪い細い路地に立っており、そこで開始されたばかりの祭術を見つめている。




 それから、十数分が経った頃には、祭術を扱う大人達を半円形状に囲むようにして、人だかりが出来るようになっていた。

「ねぇ、お父さん達の遊びはまだ終らないのかな? わたしもお父さんと遊びたいのにー!!」

 手持ち無沙汰な面持ちで幾度も宙を片足で蹴っている女の子は、つまらなさそうに唇を尖らせながら言った。子供の愚図りだす気配を察した母親は、子供と目を合わせて、諭すように言葉を紡ぎだす。

「後、もう少しで終わると思うから、それまでの辛抱だからね?」

「後少しってどれくらいなの?」

 と、聞き返された母親は、困ったような表情を浮かべたのも一瞬、すぐに微笑みを浮かべると、そうねぇ、と呟きながら、祭術を行っている父親達の方に顔を向けたまま、アニエスの質問に答えていく。

「へぇー、あと少しってそれくらいなんだね。それじゃあ、それまで待ってる!!」

 と、元気良く返事して、お日様のようにほほ笑む女の子と視線を行き交わせた女性は、愛おしそうに目を細めると、ある言葉を発する。

 「……それと、アニエスちゃん。お父さん達のは遊びじゃなくて、今やっているのは、立派なお仕事なのよ?」

 アニエスは、目をぱちくりとさせていたが、すぐさま、お仕事なの? と疑問に思い、その事を母に訊こうと父親達の方を指差しながら、喋る。

「でも、お父さん達が扱っているのは、祭術っていうものなんでしょ? アレと同じような事を私にもしてくれて、それで一緒に遊んだりしていたよ?」

「んーとね。お父さん達の仕事はね? 貴方もよく見知っている祭術を大勢の人達の前で披露したりする事で……」

 と、母親が話している途中で、うぉぉ、とも、おぉ、とも、咆哮に似た声が周辺一体を包み込んだ瞬間。アニエスは、足の裏から伝わってくる振動に、思わず身体をびくりと震わせる。

 地面が揺れている、とそう感じた事で、未知の体験からくる不安や恐怖心が幼いアニエスの胸のうちに支配していき、それから逃れようと横から母親の細い身体に力いっぱい抱きつき、母の服に顔を埋める。

 自分の腰にしがみついている我が子の様子に軽く目を瞠った母親は、どうしたの? と穏やかな声音で言葉をかけてきた。

「おかあさんは感じなかった? 地面がこういう風にガタガタってなっているのを」

 母の身体から手を離し、後ろに数歩下がってから歩き、観客達に背に向け、母親と対面する形で一生懸命に身振り手振りを交えてながら話す女の子。

「……そういう事ならあまり怖がらなくて大丈夫よ。アニエスちゃんが感じた揺れっていうのは、多分、あれのことだと思うから」

 娘の話を聞いた母親は、我が子の肩に手を置きつつアニエスの身体の向きをゆっくりと、観客達の方向方向に合わせていく。

 と、そこで自分が目にしたのは、

「あの人達がガタガタさせていたってこと?」

 観客の一部が何回も片足を地面に踏み鳴らしている場面であると同時に、地面が揺れている感覚は、そこから発せられたものだと知る。

 視線を忙しなく動かしていると足踏みしている観客達の中に、あっ、と驚きが入り混じる声を漏らすアニエスの瞳に映ったのは、他にも拍手や口笛といった思い思いの音を鳴らしている祭術を見ている人々。

「ねぇ、おかあさん。どうしてあの人達は、あんなに色々な事をしているの?」

と、アニエスは肩越しに後ろにいる家族に問いかけの言葉を放っている。

「うん……それはね。彼らはリズムを作る事で祭術に参加しているって事かな」

「祭術に参加する?」

 意味が分からない、という意思が表情に出ているアニエスの反応を見ていた母親は、微笑を口元に浮かべると、女の子の頭にそっと手を置き、髪の感触を楽しむようにして撫で始めながら、

「んー、これだけは、ちゃんと自分の目で確かめない事には何とも言えない部分が多すぎるのよねぇ~。でもまぁ、そろそろ始まる頃合でもあると思うし、お父さん達の祭術を見ていれば、分かると思うから一緒に見てましょう」

 と、述べた。

 それを耳にしたアニエスは、こくり、と頷くと、母親が言っていた意味を理解する為にも、祭術を注意深くみつめようとしていた所に、

「こらっ、しかめっ面してたら駄目じゃない。せっかくの可愛い顔が台無しになるじゃないの」

 そう、自分と肩を並べた母親に窘められる。

「でも、ここからだとあんまり見えないよ?」

 立ち止まって祭術を見ようとする人達が着実に増え続けた結果、観客同士が肩をぶつけ合うほどの密度となっており、アニエスがいる位置からだと祭術を披露している父親達の姿がほとんど見えにくくなっていた。

「さすがに人がこう多くなってしまうと、確かにこの場所ではアニエスちゃんでは見にくいか……」

 そこで一端言葉を区切り、娘の眼前までくるりと位置を変えた母親は、逡巡の色を浮かべた眼差しで我が子をみつめ、静かに息を吐き出したあとで、

「見やすい場所に移動しましょうか」

 と、言った。

「えっ、良いの?」

 小首を傾げる自分に、

「うん。と、その前にこれを身に付けなくちゃね。アニエスちゃん、少し、顔を下に向けて。そうそう。ちょっと、そのままでいてね」 

 母親は膝を折り、同じ目線の高さになると懐からスカーフを取り出し、それをアニエスの頭に巻き始めていた。

 数秒過ぎた時に、これでよし、もう顔を上げていいわよ、と満足そうに一言口にした母親がスカーフの結び目から手を離して起立するのをきょとんとした表情で見ていたアニエスは、自分の頭に巻かれている物を触りながら、訊ねる。

「これは、なぁに」

「貴方を可愛くさせる為のものなのよ? やっぱり、人前に出るからにはそうしないとねぇ~」

「かわいくなるの!? やったー!!」

 母の言葉に喜ぶアニエスは、自然と笑みが零れていた。自分の片手を母親に差し出すと握り締めてくれ、そのまま、手を繋いだ状態で人の輪に近付いていく。

 辿りつくと遠い所からでは分からなかった観客達の興奮がひしひしと肌で感じ、場の雰囲気に圧倒され、そわそわと落ち着かずにいるアニエスは、視線の先に父親の姿を間近で目にして、安堵の息をつき、祭術を見る事に専念する。

 祭術を見る人々が作り出す低音や高音が入り混じる中で、時に乱れ、時に同調しあいながらも一つのリズムへと変化していく。

 それに呼応する形で動きを合わせたり、一拍分ずらしていたりする祭術を披露する集団。

 彼らは、多種多様な道具を使いこなし、己の身体であらゆるものをかなでる事で、視覚、聴覚を通して、観客達の感情を奮い起こさせる。

……おとうさん達がいつも私に見せてくれていた祭術がこんなにもすごいんだ

 と、アニエスは左右に目を配り、観客達の表情を彩る喜怒哀楽を知ると同時に、そんな祭術を扱う父親達を誇らしいと感じるようになっていき、自分自身もまた、祭術に魅入っている観客の一人となり、自然と拍手するようになっていた。

 そして、縦横無尽に動き続けているはずの父親達が急に足を止める。

 だが、実質的に制止したのは数秒であり、すぐさま彼らは横に広がり、一列の隊形を作り出す。

 その頃には、観客達から発せられる音も徐々に止んでいくその様子を呆然と目にしていたアニエスの耳に聴こえてきたのは、

「「これで、わたし達の祭術は終わりとさせていただきます。最後まで見て頂きまして、本当にありがとうございました!!」」

 と高らかに告げた彼らの声が広場中に響き渡り、場が静まり返る。

 次にきた音は、祭術を見ている人達の歓喜の声。

 耳をつんざくほどの大音量にアニエスは、驚きの余り、咄嗟にギュッと目蓋を閉じ、両耳を両手で力強く塞いでいた。

 しばらくそうしていると観客達のボルテージも落ち着きだし、この場から立ち去っていく者達もちらほら現れ始め、声が次第に小さくなっていくのを両手越しに聞いたアニエスは、安心して耳に当てた手を離し、眉間に籠めていた力を緩め、目を開けた。

 片付けを始めている父親達に駆け寄ろうと右足を一歩前に踏みかけた時。

 視界の片隅で何かが過ぎり、首を回して見ていると観客の中から祭術を扱う大人達に向かって、幾つもの小さな物体が日の光を反射して輝きを放ちながら、弧を描くように飛んでいき、祭術を披露する大人達と観客達との間に置かれている籠の中へと消えていった。

 それらを視線で追うアニエスは、なんだろう? と胸中で小首を傾げながらもこの事を母親に尋ねてみようと思い立ち、父親達の方を背に向けて振り返り、問うてみた。

「あぁ、あのキラキラしている物の正体はね? それはお金よ」

「お金って、えっーと、甘い食べ物が食べられる時に必要なモノなんだよね」

「……ふふっ、そうねぇ~。確かにアニエスちゃんの言う通り、お菓子買うのにも使うからものね。そのお金を、祭術を見て良かった、と思ってくれたりした時などに祭術を見てくれた人達がああいう風にして籠に入れてくれてたりするおかげで、私達は食べ物などを買ったりする事が出来るのよ」

「そうなんだぁ~」

 と、感心していたアニエスの背後から複数の足音共に声を掛けられる。

「おぉー、こんなに近くで見ていてくれていたのか!」

 その言葉を聞いた途端、アニエスは後ろの方に方向転換し、声を発した人物を視界に捉えると、そこにいたのは、こちらに歩く父親を先頭にして、その後を着いていくのは七人の男女であった。

「あっ、おとうさん、みんな!!」

 と、喜びの色を帯びた声音で口にしながら、父親達の方に走り寄る。

 我が子の様子を見ていた彼は、頬を綻ばせると両手を水平に広げて屈みこんだ。

 己の胸元目掛けて、勢い良く飛びついたアニエスを笑顔で迎えた父親は、我が子を横向きに抱きかかえながら、重心を足元に落とし、しっかりと地面を踏みしめてから、ゆっくりと身を起こす。

 みんな、おつかれさま、とアニエスに遅れてやってきた母親も合流する。

「さてと、そろそろ、天幕の準備に取り掛からないとな。……今日の稼ぎはどれくらいになった?」

 父親が先ほどの小さな物体が入ってる籠を持っている女性に顔を向け、訊ねる。

 女性は、両手で抱えるようにしている籠の中を覗き込むようにして視線を下ろしてから、

「……うん。この人数ぐらいなら明後日までの食糧を買い込む事は出来るよ」

 という内容を耳にした父親は、周りにいたアニエス達をぐるりと視線を動かして、それじゃあ……、と言葉にしている途中で、

「オレ達の方で天幕の準備と買出しすっからよぉ。アニ坊がこうして、オレらの祭術を公で見た記念に三人で町を廻って来い!」

 アニエスの父親よりも年嵩の男性が口の端を吊り上げ、ベルナールの片側の肩に手を載せてから、父親の名前を呼び、そんな事を口にしていた。

「じっちゃんの言う通りにしてみたらどうですか。アニちゃんのためにも」

「ベル。せっかくの機会だし、良いんじゃねぇの」

「奥さんが可哀想ですよ?」

「アニエスも、お父さんと遊びたいよねー」

「おぉ!! 可哀想なベルナール。仕事にかまけて、家族をほっぽりだしてしまうとは……。親友のお前がそんなんだとは、俺はカナシイヨ」

「うん、うん」

 年嵩の男性が言った提案を口々に賛成の声を上げる残りの仲間達の反応に、困った、という思いの色を帯びた表情になっているベルナールにはふと両目を動かし、アニエスと妻を交互に見遣る。

 そこで口を閉ざしている二人の眼差しから何かを感じ取ったベルナールは、うん、と一度だけ大きく首肯してから、

「……そうだな。確かにみんなの言う通り、ここ最近は、構ってあげられなかったからしな。それじゃあ、皆、あとの事は宜しく頼む」

 祭術仲間達は、各々が肯定の仕草をしたり、肯定の言葉を放っている一方で、やったー!! と言ったアニエスは、満面の笑みで父親の首横に両腕を回して抱きつく。

「アニエス。ちょっと、あまり抱きつくなよ。ほら、離れなさい」

 アニエスに言い聞かせているベルナールを母親は、呆れ気味な様子で言葉を付け加える。

「もう、ニヤニヤ顔で言っていても説得力ないわよねぇ、みんな」

 と、ベルナールの妻の言葉に祭術仲間達は、しきりに頷く。

 そんな事はな、ないぞ、と上擦った声で言葉を返すベルナールを見ていた母親と祭術仲間達は、声に出して笑い出す。



 そして、天幕の準備をする為に街の外に向かった仲間達を見送り終えた親子三人は、広場から離れて久々に親子水入らずの時間を過ごしている。

「この街って、色々あるんだねー。おかあさん、おとうさん」

 いつも以上に、はしゃぎ廻りながら街路を行くアニエスを愛おしそうな眼差しで父親と母親はみつめていた。だが、そんな視線にアニエスは気づく事も無く、どんどん先に進んでいく。

「あんまり私達から離れて遠くに行かないようにねー!!」

 と、母親の声が聴覚に届き、急停止したアニエスは、身体の向きを後ろに変えて、分かったー!! という返事をしてから両親の元へと走りだすと父親と母親の間に割って入り込み、二人と同じ方向に向き直る。

「手を繋ごうよ」

「しょうがないなぁ~。良いぞ」

「良いわよ。アニエスちゃん」

 両親から許可を得たアニエスは満面の笑みで左手に父親の右手を掴み、右手で母親の右手を握り締めると両腕を勢い良く振り回しながら、

「あっ、そうだ!! ねぇ、おとうさん。皆みたいに私も祭術をあんな風にやってみたいから、私に祭術を教えて欲しい!!」

 と、祭術を見た時に芽生えた思いを言葉にする。

 娘の申し出に互いの顔を見合わせる両親。そんな二人を不安な面持ちで見ていたアニエスに気づいたベルナールは、微苦笑の形に口元を変化させてから話し出す。

「そんな顔しなくても、ちゃんと教えてやるから大丈夫。どちらにせよ、アニエスにはそろそろ祭術の事を教えておこうかと考えていたところだしな」

「ほんとうに教えてくれるの?」

「あぁ、本当だとも。……にしても、そうか、そうか。俺達の祭術を見て、アニエスはそう思ってくれたのか」

 喜びが溢れ出ている声音で話した父親と、嬉しそうにしているアニエスの会話を静かに聞いていた母親は複雑な表情を浮かべ、口を開く。

「あなた。この子に祭術をやらすのは、まだ早いんじゃない?」

「俺もアニエスの親として、君の気持ちは痛いほど分かる。だけど、祭術を教える以外の生活の糧を得る方法を俺達は知らないし、それに……」

 ベルナールが言葉を言い終わる前に母親が父親が言おうしている事を喋りだしているにも関わらず、アニエスの聴覚には届いているはずの音が遠ざかり、消え去る感覚を味わい、また、目にしている全ての人物、風景が暗転。 


 ●


 急激に意識が覚醒し、んっ……、と身動ぎながら、目蓋を開けた。

……あぁ、夢かぁ……

 眠気がまだ完全に抜けていない頭でそう考えている最中に、ふと、背中から感じる微かな重みに眉根を寄せたアニエスは、両腕を重ねている上に載せていた頭を浮かせた隙間から片手を肩越しから後ろに回し、違和感の正体に触れる。

 指先から伝わってきた感覚は、温かさ。なんだろうと心の中で首を捻っていると、

「起こしちゃった?」

 と、真後ろの方からクローデットの声が聞こえてきた。

「あれ? もう帰って来たの……って事は、私はあれから大分寝てたのね」

 と、自分に問いかけるようにして言葉にしながら上体を起こし、自分の背中から衣擦れの音と共に何かが落ちていくのを身体の向きを横にしている時に視界の片隅で捉える。顔を傾けて見てみると、椅子の背もたれと私が坐っている位置の隙間に入り込んでいる薄手の掛け布団一枚。

……わざわざ、掛けてくれなくても良かったのに……

 掛け布を拾い上げ、姉の気遣いに対する温かい気持ちを胸に抱きしめ、一息。丁寧に畳んでからテーブルに載せたアニエスは、自分が掛け布団に目線を落としている間に移動して椅子に座っているクローデットに向き直る。

 ありがとう、と妹から感謝の言葉を告げられ、笑みを深めたクローデットは、片肘をついて掌の上に顎を乗せて状態で、

「何か良い夢でも見られた? えっ、それはどうしてかって? 貴方がとても良い顔しているからそう思っただけ」

「えっとね? お父さんやお母さん達の夢を久しぶりに見ていたからかも知れない」

 懐かさを滲ませた声色に語るアニエス。

「……そっかぁ。夢とはいえ、久々に会えて良かったわね」

 穏やかに言ってくれた姉に対し、うん、と静かに言いながら首を縦に振る。

……けど、あんなに見なかったお母さん達の夢を今更どうして?

 と、アニエス自身が久しぶりと形容したほどに両親達と生活していた時の記憶が夢として表れた事にある引っ掛かりを覚えて思案しながら、クローデットとの会話が続く。

「そういえば、ロジェ君とは仲良くやれているかしら?」

「仲良くも何も、そうする必要が何処にあるというのよ。祭術なんてものに関わろうとする奴なんかと……」

「アニエス」

 姉から窘められるようにして名前を呼ばれてしまい、慌てふためいて早口で喋りだす。

「ま、まぁ、彼がこの都市に滞在している間はそれなりに仲良くはするつもりではいるから……あっ」

 言い終えた直後に、瞳孔を大きく見開き、小さな声を漏らす。

「どうかした?」

「ううん、なんでもないわ。ねえさん」

 と、口にしつつも両方の掌を縦向きに翳して左右に振り、なんでもないという事を強調するアニエスは、その内心では、今さっき、姉との会話で思い出したロジェを脳裏に浮かべた途端、夢を見る直前に考えていた疑問に辿りつく。

……そういうことか。ロジェについて、色々と考えていたから。だから、お父さん達の夢を思い出しちゃったのかぁ……

 と、考えを纏めている一方で、あのときの自分が足を止めてロジェの祭術を見ていた際に懐かしいという感慨を抱いたのは、彼が祭術を扱っている時の表情、雰囲気が父親達と似ている、と無意識にそう感じていたのだと分かり、思わず、嘆息がこぼれてしまう。

 また、夢とはいえ父親達に向かって、祭術を教えて欲しい、と懇願していた自分がいた事を思い出し、

……あの頃の私にとって、祭術を扱う両親を含んだ大人達に囲まれ、生活が続いていた故に周囲の人々も自分達と同じように暮らしをしていると思っていたからこそ、祭術の事を何も理解していないゆえの無知な発言をしてしまったのよね

 と、胸の裡で自嘲気味に一人愚痴り、下唇を噛み締めていると、木と木が擦れ合う音が室内に木霊するのを聴覚が捉える。いつの間にか俯いていた顔を上げ、立ち上がるクローデットと視線がぶつかる。

「ん? お茶入れるんだけど、貴方も飲む?」

「あっ、うん」

 妹からの返事を耳にしてから、クローデットがゆっくり暖炉の方に歩き出している所を呆然とみつめながら、沈思黙考から意識を覚ましたアニエスは、人知れず胸を撫で下ろし、自分の中に渦巻いている両親への感傷、祭術に対する複雑な感情から気持ちを切り替えるべく、クローデットと話す事に没頭しようと口を開きかけようとした時、

『希望っていう言葉が当てはまるかは分からないけど、僕にとって、祭術は希望の象徴ともいえる存在であると思うしね』

 ロジェが口にした言葉がまた脳裏に蘇る。

……希望か……。お父さん達もきっと似たような事が言うに違いないよね

 と思い至った瞬間、不意にそれがきた。

 鼻腔の奥がつんと刺激され、自分の瞳が潤み始めている事に気づいてしまうと私は姉から心配を掛けたくない一心でテーブルに顔を傾けて息を軽く吸いながら、袖で強引に目元を拭き、どうにか泣くのを堪えようとする。

 だが、それでもテーブルの上に数センチも満たない水溜まりが一つ、また一つと作られ、

……お母さん……、お父さん……、みんな……

 声には決して出さず、両親達の姿を思い浮かべているアニエスは、クローデットに悟られない事を祈りつつ、咽び泣いた。



 陽射しが限られた横に長い路地裏の限られた空間を存分に動き回るロジェがおり、昨日と同じ場所で祭術の練習に励んでいる。

 そんな事を始めてから数十分が経過した頃、路地裏に自分以外の人影が足を踏み入れていくのを視界に入れる。

……通行人だ。

 ここが狭い場所ゆえに動き続けたままでは、通行人の邪魔になる以上、ロジェは練習を一時中断してから壁際に背中を密着させて通行人が通り過ぎるのを待つ間、自分の横を移動する数少ない通行人達がちらりと横目で向けた時の表情には、怪訝そうな、また、無関心な想いが見てとれていた。

……こんな所で立ちつくして汗を掻いている人間がいれば、そう思うよなぁ

 と、そんな事を考えつつ、彼らの姿が見えなくなるのを確認してから練習を再開。

 


 熱を伴わない一陣の風が薄暗い路地裏を吹きつけている中で、息遣いが浅く額から顎へと滴り落ちていく大量の汗を拭う暇もせずにロジェは今、視線の先にある放物線を描いて落ちていく球体を捉え、目測で落下地点と決め込んだ場所まで疾駆している。

……あれを手に取ったら、次はあの祭術師が動いていた時のイメージで動くようにしようっと

 次に行う動作を考えること、数秒。走り出す為に右足を上げて前へと動かしていた時、

「……あッ」

 突然、視点が低くなりだした事に両眼を見開いていたが、すぐに自分が足を縺れさせたのだと理解する。しまった、と内心で思いながら、つんのめるようにして体勢を前へと崩している最中、球体がもう少しで路面に衝突するのが目に見え、左腕を伸ばす。

 だが、掴もうとする前にこのままの受身をとらない状態では、怪我をしてしまうのではないかとそんな可能性が脳裏に掠め、反射的に両手と両膝を地面につけていた。

 物音がかすかに聞こえ、間に合わなかったかぁ、と音には出さず唇の動きだけで言葉をつくり、己の心臓が早鐘のように脈打つ音を聞きながら顔を上げる。

……あんな方にまで行っちゃっているよ

 向こう側に転がり続ける球体を直視しつつ、上半身を起こし、片膝立ちの体勢となったロジェは、ふくらはぎ、ふとももに力を込めて踵に重心を移してから起き上がりかけた瞬間、激痛が奔り、耐え切れずに、さきほどと同じ体勢で地面に伏してしまう。

「……ッ!?」

 振り返り、痛みを最初に感じた部分を見やると両足の筋肉がひきつきを起こしている事が分かり、思わず顔を歪める。

……これじゃあ、しばらく身動きが出来ないな……

 今の状態では祭術をおこなう事ができない事を悟り、ロジェは休憩する事に決め、一呼吸。

 とりあえず、このままでは通行人が来た時の邪魔になりかねないと思い、四つん這いでよちよち歩きの要領で端に移動開始する。

「君はそんな格好で何をやっているの?」

 ロジェの右横にある街路からこちら側に歩いてくる人物が困惑を隠しきれていない声色で話しかけられた事により、通行人が来たという焦燥感を得て、身体が強張ってしまう。だが、すぐに、あれ? そういえば、とその声に心当たりがある事に気がつき、流し目で声の主を一瞥してみると自分の予想通りである事に静かに息を吐き出し、緊張を解いた。

「祭術をやっている最中に足を釣ってしまって……」

 と、返答しながら壁際に到着した僕は、身体の向きを変えてからお尻を路面に着け、両足を伸ばし、背中をぴたりと壁に密着させてから、言葉を発した人物がいる方向に顔を動かす。

「どうせ、ろくに休憩も取らなかったんでしょあ。後、これは君のお昼。……その様子からすれば、すっかり忘れていたみたいね」

 と、そこにいたのは予想通りアニエスの姿であり、少女は首を軽く横に振りつつ嘆息交じりに述べる。

「はははっ……」

 図星ゆえに乾いた笑い声を上げている僕の方へと歩み寄ってきた彼女は、自分の眼前で立ち止まると腕に引き下げていたバスケットを掲げてみせ、これ、君のお昼の分よ、と告げた後で、バスケットを僕から見て左側に下ろし、

「私がマッサージしてあげる」

 と、誤解する余地も無い言葉を口にしていた。

「えっ? いや、良いですよ。そんなことまで……」

「どうせ、そんな状態だと自分でマッサージもまともに出来ないでしょ? それに少しでも揉んでおくと楽になるんだから」

 と、傍らにいる少女とそんな事を言われてしまい、考え込んだ後に、結局、こくり、と頷いて申し出を受ける事にした。

 僕の意思を確認した彼女は、さてと、と呟き、バスケットの中に手を入れ、そこから四つ折の大きな布を取り出した。そして、数歩後ろに下がると両手で布の端と端を持ち、勢い良く振り下ろして広げた少女は、自分と僕との間にある路面に簡素な布を敷き終え、乗り移った彼女は、片手で布の上を指差し、

「それじゃあ、ここに寝転がって」

 緩慢な動きで布の上へと移り、うつ伏せになると僕の背中を両膝立ちで跨いだ彼女がマッサージを始め、足の筋肉を指圧される度に痛みに堪えようと、下唇を噛み締めてはいても、自分の口から唸り声が零れ落ちていた。

 互いに口を閉ざして数分が経った頃。

「こんなになるまで身体を酷使するなんて、君って人は……まったく。この前の怪我もまだ直りきっていないんでしょ?」

「まぁ、そうなんですが。それでも、祭術師になるためには少しの時間も惜しんではいられないんですよ。……祭術師のあの人みたいに僕が祭術を扱えるようになる為にはとにかく練習あるのみですし、それに彼の祭術と僕の祭術がどう違うのかが答えが見つからないままじゃ、きっと祭術師になる事は叶わないんだろうと思いましたから」

 喋っている間中、ずっと一昨日見た壮年の男性が扱った祭術の光景を思い出していた。

 ふぅ、と深く息を吐き出し、話を一区切りにさせたと同じタイミングで、僕の頭上から彼女の冷静な声が降り注ぐ。

「あの人って、君が祭術を始めて見た時の話?」

「いえ、違います。一昨日の夕方に一人の祭術師が祭術を披露している所を見かけたんですよ」

「……そう。もう祝祭まで残りわずかだし、続々と各地の祭術師が集まりだしている頃だものね」

 アニエスの言葉を聞き、ロジェは目線を上げながら、そういえば、と胸の内で首を傾げ、祭術を扱っていた壮年の男性の姿をもう一度思い浮かべる。

 自分が見落としていたある事に気付き、小さく息を呑みこんで眼を剥く。

……僕の記憶違いでなければ、あの人は身体の何処にも記章をつけていなかったような? でも、単に付け忘れていたという可能性もあるし……。それにあれほどの実力を持っているなら、きっと僕みたいにこの都市のルールを理解していないわけじゃないと思う。そうじゃなければ、あんな所で堂々と祭術をやるはずないもんなぁ~

「と、に、か、く。君が何をそんなにも焦っているのかは知らないけど、今の身体の状態で一度も休憩せずに祭術をやり続けるのは、さすがに止めといた方が良い。余計に怪我を長引かせるだけだと思うわよ?」

 思案に耽っている所に彼女から自分の行動について釘を刺され、ハッとなって、意識を切り替える切欠を得た僕は、確かにそうだよなぁ、と思いながら、同意の声を発した。



 しばらくしてから、よし、これで終わり、という囁きが聞こえ、背中越しから彼女が立ち上がる気配を感じている間に、

「もう、起き上がってもいいわよ」

 彼女の声に従い、ロジェは顔を少し持ち上げ、両掌、前腕、上腕の順に力を入れる。両腕の力だけで上体を起こす動作を数十センチの所でやめると、布と自分の間に出来た空間にお臍の位置まで両膝を滑り込ませるようにして布の上に着かせてから、完全に身を起こした。

……すっごく、楽になっている

 布の上から退き、屈伸や両手を掴んだ状態で後ろに引っ張ったりなどの運動を行い、マッサージ受ける前と受けた後での自身の状態の違いを確認しているロジェは、顎を少し上げてアニエスを見る。

「おかげさまでだいぶ身体が楽になりましたよ。にしても、貴方はマッサージがうまいんですね」

「ねえさんが踊りで披露し終えた私にしてくれているやり方を見様見真似でやってみただけだから。うまいかどうかは知らないわよ」

 背の高い少女が静かに言った後で、中腰で地面に広げた布を片付け始める傍で、踊り、という単語を耳にしていたロジェは、アニエスが酒場で舞っている場面を思い浮かび、仲の良い姉妹なんだな、とそんな感想を抱いたとき、自分の脳裏を掠める一つの想いに、あっ、とかすかな唸り声を漏らす。

……そう、そうだよ!! こんなにも近くに祭術のお手本がいる事に、なんで僕は気付かなかったんだろう? すっかり彼女の踊りはどこか祭術の動きと似ていると感じた事を失念していたなぁ……。でも、今、思い出したから良しとしよう。うん!! 今から彼女の踊りを学んでそれを自分の祭術に取り組んでいければ……きっと、あの祭術師と僕の祭術の違いが分かるかもしれないし、そうすれば、祭術を扱う者としての実力がつく事が出来るはずだ。

 と、黙考しながら、彼女の後ろ姿をまじまじと見ている所に僕の視線を察したのかは判断つかないものの、肩越しに顔を振り向いた彼女と目線が合う。

 どうしたの、と不思議そうに囁いたアニエスに、その内心で冷や汗をかきつつ、ロジェはなんでもないといった風に手を振りながら、頭の中で冷静に自分の行動方針を固めていく。

 そして、そのためにはまず、彼女に教えを請うべきか請わないべきという単純明快なほどの二者択一に対し、自分の気持ちはすでに、教えてもらおう、と決断していた訳なのだが、いざ、申し出を告げようと口を開きかけた矢先、

……あっ、彼女になんて、踊りを教えて欲しい理由をどう説明すればいいんだろう?

 と、右耳の上部分を弄りながら、思うことは一つ。

 アニエスが祭術に対して、あまり良い感情を懐いていない、というものであった。

 しかし、それは当人から直接聞いた訳ではなく、ロジェの憶測範囲内でしかないが、それでも勘違いや気のせいの類ではないという確信を抱いていた。

……あの時もあの時も、そうだったからなぁ。

 と、思い返しているのは、祭術の事柄に触れた時に時折みせるアニエスの仄暗い瞳の輝き、物憂げな表情。最初は彼女もあんな顔するんだな、とただ単に思考の端でそう思うだけで、未だに自分がどう対応していいのかが迷うくらい苦手な彼女の事ゆえに気にも留めていないはずであった。

 だが、現にこうして祭術の話題に触れずにどう言おうかと頭を悩ませている事実によって、改めて認識してしまう。

 傍にいる時間が増えるに連れて、それが小さな棘の形としていつしか胸の裡で引っ掛かり続け、ロジェ自身どうしてそうなったのかは分からないままであることを。

 嘆息し、参ったなぁ、と声に出さずに呟いている所に、片付け終えたアニエスが腰を上げ、身体の向きを変えると目線を下ろし、ロジェを見る。

「用件も済んだことだし、それじゃあ、私は帰るわね。……それと、仕事の時間に遅れないように」

 路地裏へと来た道の方に踵を廻らし終えたアニエスは、前進させようと片足を上げた。靴底が地面に着き、砂利を踏み締めた時に生じる音が鳴る。

 その音を聴覚で捉えたロジェは、自然に右手を動かしていた。

「えっ? なにか、私に用があるの?」

 アニエスは片足を大きく踏み出した状態で止まり、流し目で己の右肩に置かれている右手を確認してから、次にその右手の持ち主であるロジェの表情を訝しげに見ていた。

「あっ……、ははっ……」

 自分が何をしているのかを意識したロジェは、眼を泳がせて右手を勢いよく引っ込めながら、後ずさる間に乾いた笑い声を発しつつ、なんと言ってごまかそうかな、と頭を働かせる。

……いや、……待てよ。どうせ、あれこれと悩んでても、これ以上埒が明かないと思うし、こうなったら、そのまま理由を告げて、彼女の反応を見てから考えてみるかな。

 と、開き直ることにしてから深く息を吐き、鼻腔から肺へと新鮮な酸素を取り込んだ。

 こっち側に身体を向けたアニエスの表情を見据え、意を決して言葉を紡ぎだす。

「貴方の踊りをぜひとも僕に教えて欲しいんです!! お願いします!!」

 思った以上の声の張り合い具合に自分で驚きつつも彼女の様子を窺う。

 海の底にいるような錯覚を思わせる瑠璃の輝きを放つ両眼をぱちくりさせながら、沈黙を保つ頭に布を巻く少女。

 十秒も満たない時が流れ、アニエスがようやく唇を開け、疑問符の形を得た発言が為される。

「私の踊りを? それはまたどうして?」

 首を傾げる彼女から予想通りの反応が来た事に、ここからだよな……、と全身に力を入れ、一呼吸の間を置き、僕は自分にとって都合の悪い事も含めた上で理由を説明しだす。

 



「なるほど、私の踊りが祭術を扱う時の振る舞いに似ていると思ったから……ね」

 と、ロジェの話を聞き終えたアニエスは、目を伏せて、考え込む素振りをみせていた。

……どっちになるんだろう?

 期待と不安で入り乱れて心中穏やかではないロジェは、緊張で口の中に溜まる唾液を喉を鳴らして呑み込み、逸る気持ちを抑え込みながら彼女の答えを待つ。

「まぁ、休憩時間の合間にほんの少しだけなら別に構わないけど、それで良い?」

 アニエスから発せられる言葉を聴いてから一拍遅れでロジェは一足分だけ動き、アニエスの右手を両手でしっかり掴むと胸元近くまで持ち上げ、

「ありがとう!!」

 喜色満面な面持ちで言った。

「……っ!?」

 とっさの事に面食らい、これ以上ないというほどに両眼を大きく見開き、アニエスは口を半ばあんぐりと開ける。

……あれ?

 アニエスの様子がどこかおかしいと思い、眉を八の字の形に変化させて、あの……、とおそるおそる声を掛けてみた。

 そうすると背の高い少女の片眉が小さく動きだしてから瞳孔が定まり、握られていない方の片手を拳にして縦向きにさせたまま口元に近づけて、から咳する。

「ロ、ロジェ。そ、そろそろ手を放してくれない?」

「……あぁ。これはすみませんでした」

 照れ笑いを滲ませた口調で言いつつ両手を離した途端、彼女は己の手を隠すように素早く背中側に引っ込める。

 一連の動作に対し、きょとんとした表情を浮かべているロジェが疑問に感じる前に、アニエスから、もう一度だけ咳払いが発せられた。

 「とりあえず、今日のところは……」

 と、彼女が言葉を言い終える前に僕は人差し指を立てて、懇願する。

「ちょっと、待って下さい。帰る前に僕の祭術を一回だけ見てもらってもいいですか? 僕の祭術が他の祭術師が扱う祭術とどう違っているのかを第三者の視点から知っておきたいので」

 アニエスは、しょうがないわね、と微苦笑交じりの吐息つきで囁き、向かい側の壁際へと移動していく。

……よし、やるぞ!!

 両手を握り締めて小さくガッツポーズを行い、己に気合を入れてから自分の近くの壁面に立てかけている雑嚢に歩み寄り、屈み腰になりつつ、雑嚢の上部にある結び目をゆるめ、中を覗き込む。雑然と色々な物が混ざっている中に片手を突っ込んで行く。旅立つ直前まで世話になった女性達から餞別代わりに渡された着替え一式やその他のもろもろを見回し、それらを退かしながら目当ての物である祭術道具類が収納されている袋を取り出す。

「うーむ、どうしようかな」

 さきほどのアニエスの忠告を思い返し、激しい動作は控えた祭術の構成について頭をしぼること、一刻。

 よし、これで行こう、と一人静かに頷き、自分の目的に適う必要な道具を手に持ち、腰を上げると共に振り返り、視線の先にいる壁に背中を預けているアニエスの姿を捉える。

 その一瞬、肌が粟立ち、身体が強張っていく感覚が一気に駆け巡ってきた。喉を鳴らし、人前で祭術する事に対して緊張している、と自覚しているからこそ、その対処方法として何回かに分け、大きく息を吐き出す。

「それじゃあ、始めます」

 と告げ、両手に持っていた球体を空高く垂直に投じた。


 


 ロジェは、路地裏のスペースを十二分に使うことはせずに、半径五メートルの範囲内でどこまでも能面で身を捻り、二つの球体を空中に投じたり転がしたり、動き回っている中で、触覚以外の残り感覚や己の感情を置き去りにして、ひたすらなまでに、祭術を扱う、という一点だけに全神経を尖らしている。

 そこに動き続ける事で肌に吹きつけてくる一陣の風。

 路地裏という場所柄ゆえに湿気を多分に含んでおり、不快感を覚えるほど無意識の内に顔を顰めそうになるものであったが、横一文字にきつく口元を結んでいた。

 左右に一歩幅分だけステップを踏み、軽く息継ぎを行うと同時に真正面の位置にいるアニエスの表情をちらりと見遣った後で、宙へと全身を一回転させる。

 身体を回している間。あれ? と胸中で小首を傾げるロジェの頭を掠めていったのは、一瞬のこととはいえ、アニエスがどことなく複雑そうな表情を浮かべていたような気がしてきたからであった。

 祭術の事だけに集中していた意識の中にアニエスに対する疑問が芽生える。

 身体を真正面に戻したときにもう一度彼女の表情を横目でちらりと見る。だが、先ほど魅せた表情は窺うことが出来ず、

……やっぱり、僕の気のせいだったかな。

 と思い直しつつ、左の靴底が地面に着いた瞬間。

「……っ!?」

 と、足の裏から伝わり、段々と下半身から上半身へと身体の部位を苛む熱を伴う激痛が迸る。

 息を詰めたのもつかのま、すぐに歯を食い縛り、痛みを堪えようとしている間も右足を横向きに地を踏み、右肩を突き出した半身の体勢をとっていた。

 だが、それでも回転の弾みを御しきれておらず、その衝撃を逃がそうと右膝を少し折り曲げてしまい、踏ん張っていたはずの左足が宙に浮きあがり、バランスを崩し、右肩から地面の方へと水平に体が傾いていく。

 自分の視界が斜めに傾きつつある中で、

……こんな所で祭術を終わらせてたまるものか!!

 と瞬時に思い、右肩を軸としたまま左肘を目一杯引き、その弾みを利用して反時計回りに身体を翻している途中で、降ろしていた左の靴からは砂利を踏みしめた感触が伝わってきた。

 だが、勢いが弱く半回転もいかないまま制動をかけていくとアニエスに背中を向ける形で壁際と対面する羽目になった。

……とりあえず、倒れずに済んで良かった。

 安堵の息が漏らし、静かに胸を撫で下ろしていた時に唯一無二の観客から気遣わしげとも取れる声音で言葉を投げ掛けられる。

「君は、そんな状態で祭術を続けられるの? やめといた方が……」

「いえ、大丈夫ですよ」

 と、僕は振り向かずに彼女の言葉を遮り、そう断言した。

「ふぅ……、なら好きにすると良いわ」

 呆れ果てた、といった響きをひしひしと感じさせる口調で言われてしまい、ただただ、口の端を上げて苦笑するしかなかった。

 壁を直視しつつ、ロジェは肩に掛かる余分な力を抜き、左右の靴底で幾度も地面を叩き、リズムを構築する。

 鼓膜に届く、微かな旋律の中で自分の動作が乱れてしまった原因について、思考を巡らせる。

 祭術に意識を集中していたおかげで節々の痛みを意識せずに済んでいたのが集中力が一瞬で逸れてしまったあの時に、一気に痛みがぶり返してしまったのだと認識し、

……祭術を扱っている最中に別の事を考えるなんてなぁ~~~。こんな事じゃあ、祭術師になるなんて、本当に遠い道のりになってしまう。それだけは、絶対に嫌だ。

 と、同じミスをしないと心掛け、雑念の振り払うように小さく首を左右に動かす。

 ロジェは、心を静めるようにリズムに耳を傾けながら、そのテンポに合わせて身体を揺らし始める事で半ば精神統一する。

 そうして、己の感情や思いを無心状態へと落とし込み、ベストな状態へともっていく為にまず想像するのは、意思を持たない人形となった自分が祭術を披露する、と。


 

 

 ロジェが思考のスイッチを完全に切り替え、祭術に集中し始めてから十分近くが経過した頃。

 地面に円や三角や四角などの模様を描くような緩々とした足運びで行っていたロジェは、ある位置に着くと足先を揃えて静止したまま、方向転換する。

 そこは、ロジェとアニエスを結ぶ直線状の地点。

「……以上で終わります」

 と、激しく肩を上下させつつ、汗だくになっている僕は、そのひと言を喋り終えてから瞬きしたと同じタイミングでおでこから垂れた汗しずくが片目に入り込んでしまう。

 ううっ、と唸り声を出しながら条件反射的に片頬をゆがめ、急いで左手で掴んでいた球体を右手に移し変えてから首を縮めると空いた左手で襟首を少し上に伸ばし、それで目元と額の汗を拭い去る。

 目線を戻し、一息入れる。

……なんとか最後まで祭術をやり終える事が出来た。後は……彼女に違いを訊くだけだな。

 両手を組み、背伸びする。

……それに彼女から僕の祭術に対する感想を訊けるかもしれないし、もしかしたら、すごい良かった、とか言われるかも知れないなぁ~。

 と、自分なりの手応えを胸の裡でしっかりと噛み締めていたロジェは、意気揚々とした面持ちで観客の一人に感想を求めようと歩み寄っていく。

「どうでした? 僕の祭術は」

 期待に満ちた眼差しで何を思っているか判らないアニエスの顔を見合わせる。

「うん。えーっと、そう、ね」

 視線を彷徨わせてどこか歯切れが悪そうにしている彼女の反応に訝しげに思いつつ、再度尋ねた。

 右の掌を左肘部分に添えるように置き、寄りかかっていた壁から身体を離したアニエスは眼前にいる少年の視線を逃れるように顔を横に背けたまま、唇を開ける。

「君の祭術は……なんだか、とても怖いわ」

「……」

 ロジェはアニエスが話した内容が完全に呑みこめず、口を半開きにさせた状態で両眼を瞬かせる。

 そうすること、五秒以上十秒未満。

 ロジェがようやく、怖い、と表現された一言に自分の祭術全てを凝縮されているのだと理解した途端、否定された、と細波のように揺らめく己の感情と共に、目の前にいる瑠璃色の瞳の少女を無感情の瞳で映しながら、無意識に利き手を爪の跡が残るほど力いっぱい握り締めていた。

……この人は、一体何を言っているだろうか? 僕は今までどおりの祭術をやってみただけなのに。どうして、それが怖いなんて言葉に繋がるのかがさっぱり判らない。そもそも、良かった、つまらなかったっていう感想なら理解できるけど、怖いって、それは無いんじゃないか?

 と、考えれば考えるほどに落ち着いてはいられない心境に陥り、アニエスの真意が見えてこない以上、問い質すしかないと思い至り、己の感情をギリギリ制御できるように声を低めて、一言目を発しかけようと息を吸い込もうとしたその時。

「「何故、ジェローム派やエンリコ派といった祭術体系ではないからといって、我々の祭術を偽物、紛い物と蔑み、我々から仕事を取り上げる必要があるのでしょうか!!」」

 突如として大勢の老若男女が高らかに謳いあげている声が鼓膜を打ち、その大音量に思わず両肩を震わせているロジェと同じタイミングで身を竦めるアニエス。

……これって確か……、抗議活動なんだっけ?

 ロジェは耳を澄ませながら、自分が聞いた宣告以降も続く内容から察するに数日前に遭遇した祭術師制度に対する抗議活動と同様のものであると把握すると、めんどくさい事になりそうだなぁ、と心の中で溜息をついた。

 また、彼らの声がだんだんと近付いてくるような錯覚を覚え、まさか自分達がいる路地裏近くで抗議活動行進をやっているんじゃないだろうか? という疑問符が芽生え、彼女から一歩後ろに下がり、方向転換して二つある街路の入り口の片方を選び、歩きだす。

 ロジェが自分の後をアニエスが着いてくる気配を背中で感じている所に、

「……だからこそ、列島諸国全土を巻き込み、この地で住まう者達を震撼させた事件の、その首謀者である大罪人達の名で私達を貶めるのは持っての外じゃありませんか!!」 

 一際、朗々と紡がれる女性の声に追随するように、そうだそうだ、といった肯定が次々に叫ばれていくのを耳にしている傍らで、視界の端で目線を落とすアニエスが小刻みに震わせているのが見え、

……そんなに彼らの声に驚かなくても良いと思うけどな……。まぁ、僕も人の事は言えないか。

 前半に対しては、呆れ交じりに。後半に対しては、苦笑交じりに思う。

 瞳孔を正面に戻すと、丁度、自分達がいる路地裏の横を通り過ぎようとしている抗議活動の行進をしている集団。

 その一人一人の面構えからは、並並ならぬ激しい感情を胸に宿しているのが一目で判るほどに興奮しており、己の胸にすくう恨み辛みを大義名分の形に昇華させて吐き出すようにして吼えている光景に、僕は背筋が凍るような錯覚が全身を駆け巡っていくと共に音を鳴らして唾を呑みこんでいた。

 それにしても、と一拍の間をつくる。

「あの人達が言う所の愚人って人達は何をしでかしたんだろうか?」

 思案している事柄が自分の口から漏れ出ている事に意識がいかず、かの集団から異議を唱え続ける口調の節々にひしひしとこちらに伝わってくるほどに侮蔑と厭忌が内包されているが故に、ロジェにとって、愚人に関する知識が『既存の祭術体系以外を扱う者』としてしか知らず、それ以上の詳しい事を認識していなかった。

「ふぅむ。あの人達にあそこまで恨まれているんだから、よっぽど、かなり悪逆非道の行為をしでかしたんだろうなぁ」

 と、言葉にした瞬間。後ろから右肩を力強く掴まれ、引っ張られる。

 上体が右側へと促され、視界の隅で自分を振り向かせようとしている人物を確認する前に、乾いた音が聴覚に響いたと同時に左頬に衝撃が奔る。

 ??? と頭が真っ白な状態に陥っていたロジェの全身が右方向に傾きつつあったが、一拍遅れで、頬を打たれた、と頭が認識すると意識を回復させ、すぐさま右斜め後ろに左足を大きく踏み込みつつ、逆方向に身体を寄り戻していく。

 熱を伴う鈍痛を感じる左頬に片手を当てながら、自分を打った張本人であるアニエスを細目で睨みつけ、

「なにす……」

 と、僕は目を大きく見開き、瞳孔に映る前歯で小さく下唇を噛み締めながらも目尻に涙を溜めてこちらを睨み据えている彼女の姿に気を取られてしまい、自分が言おうとしていた言葉を完全に発する機会を失ってしまう。

……なん……なんだよ。そんな顔されていたら、怒るに怒れないじゃないか。

 内心で尻込みしている己の耳に入ってくる街路側から聞こえてくるざわめきとは別に、

「彼らの事を何も……何も、知らないくせにそんな事軽々しく口にしないでよっ……!!」

 微かに吐息を震わせているアニエスが何かを必死で堪えるように右手で肩を浅く抱きしめながら掠れ声で囁いた。

 それを黙って聞いていたロジェは、頭部に布を装飾している少女の言動を顧みて思考する中で、抗議活動を行う人達が指している大罪人である愚人と呼んでいる人達とアニエスが何かしら関係があるのではないか、と推測する。

しかも、今しがたアニエスが見せた反応は間違いなく親しい者を侮辱された時の反応に近いものを感じたことから、そう確信するだけの材料は十二分と判断し、そこから導き出されるただ一つの結論事に対し、思いを馳せる。

 すなわち、自分の不用意な一言が彼女を傷つけてしまった、という単純な事実。そう理解してしまったロジェは、様々な想いが胸の裡に去来し、なんて彼女に言えばいいのか、と逡巡の数拍を得ている間にも、ロジェ越しにちらりと街路の方に視線を移したアニエスの、感情に任せた言葉が続いていく。

「あそこにいる人達も、ろくに彼らの事を知りもしないで愚人、愚人と好き勝手呼んで、愚人の全てが大罪人? なによ、それ、ふざけないで。どうして、愚人が引き起こした事件ってだけで、事件と無関係だったお母さん、お父さん、みんなが……あんな目にあわなくちゃいけなかったというのよっ……!? 祭術なんて、あんな、あんなくだらないものに関わらなければ、今頃……」

 最後の部分を呑みこんだアニエスを凝視していたロジェは、

「祭術が……くだらない?」

 と、聞き捨てならない彼女が発した物言いに声を絞り出すように反復した後で、唇をわなわなとさせつつも冷静になろうと一呼吸する間に、

「えぇ、少なくとも私にはね? 祭術は……人を不幸にするだけの代物でしかないのよ」

 アニエスが表情とは裏腹に吐き捨てるよう断言した。祭術と自分を深く結び合わせて認識しているロジェにとって、祭術を否定する言動は、己自身を侮辱される以上の屈辱そのものであり、それゆえに今までの思案が吹っ飛ぶほどに頭に血が上り、冷静さを保つ事すら忘れた状態で射抜くようなにアニエスの顔を捉え、言葉をつくりだす。

「貴方が何を今まで見てきたのかなんて事は、僕には関係無いことだ。それでも、これだけ言わせてもらう。祭術は人を不幸にさせるものでも、くだらないものなんかじゃない!!」

「そうね……。君は、祭術師を目指している身分だもの。本当に祭術に関わる事になれば、どんな目に遭うかも知らないから、平気でそんな事を言えるのよ」

「なん、なんだよ……。本当に祭術に関わる事になれば、って。それじゃあ、まるで僕が本当に関わっていないみたいじゃないか。確かに祭術の知識は少ないのは自覚している。でも僕は現にこうして、きちんと祭術を扱えているというのに。何をバカな事を言っているのさ」

「祭術を扱えている? 君は本当にそう思っているの?」

 背の高い少女にそう問い返され、数日前に出会った祭術師の姿が頭の片隅を掠め、思わず言葉に詰まった瞬間。

 突如として、街路の中心にあった人々の声が一斉に止み、一瞬にも満たない空白が現われる。

 それもすぐさま消え、あっ、とも、えっ、ともとれる小さな驚きを孕んだどよめきがロジェとアニエスがいる所まで伝わり消えない内に、その微かな通行人達の声を掻き消すかのように、

「俺たちの邪魔をするな。とっとと失せやがれ!!」

 と、一人の男性の怒鳴り声を皮切りに、次々と大人達の怒声が響き渡り、冷や水を掛けさせられた様にハッとなって、思わず後ろに左足を半歩分ずらしたロジェとアニエスも我に返った様子で口を噤み、何事かと瞳孔を動かす。

 すぐさま街路の方から響いてきた怒鳴り声からだんだんと何かを言い争う声へと発展していく同時に、己の思考に刹那の間が生じて自分が彼女とのやり取りでいつの間にか感情的になっていた事を自覚してしまい、なに、やっているんだ。……僕は? と自嘲の笑みを内心で作る。

 そう考えると急にアニエスの顔が見づらくなり、頭を乱暴に掻きながら街路側へと身体を反転させ、街路側をみつめる。

 通行人の姿がちらほらと見かける中で、声は近くで聞こえるのに、自分がいる路地裏からだと言い争いの中心となっている者達の姿が見えてこない事に気づき、

「もしかして、まだこっちの方には来ていない?」

 と、不思議そうに述べる。めんどう事になる前に退散した方がいいよな……、と判断を下し、足早に立ち去る為に右足を一歩前へ踏み込んだ時、そういえば……、とある事を思い返す。

……抗議活動していた人達の抗議声明がピタリと聞こえなくなった?

 そんな思いを得ていたロジェの視界を不意に右の方向から横切る一つの人影。

 ロジェの視覚から脳へと人影の正体を知覚しだす。まず始めに人影を作っているのが女の子であり、その面容から次に自分と同じ異邦人の血が混じっている事を窺い知れた。

「ちょっ……!? あの子は……!?」

 目を大きく見開き、驚きの声を上げたロジェの頭に視線の先にいる女の子が数日前に出会った三人組の子供の内の一人、リリーと呼ばれた女の子の外見的特長が一致し、その子が仰向けの体勢になりかけたままの状態で中空に浮いている事を認識し、それが意味すること。すなわち、子供が自分達がいる路地裏のほぼ真正面の位置で街路の地べたに後頭部から落ちる、とそう理解した途端。

 咄嗟に身体が駆け出す為の前傾姿勢を整えたまでは良かったのだが、

……あの子供とほとんど面識が無い僕が助けてもいいものなのかな……?

 と、直前になって躊躇いの気持ちを頭と身体に圧し掛かり、振り払おうと考え込んでしまった結果。一瞬の判断と行動を鈍らせていたロジェの背面にぶつかる緩やかな空気の流れがいきなり変わり始めた事に、何だろう? と振り返ろうとしたが、首を動かす必要も無く、答えが己の横を通り過ぎていく。

 ロジェが眼にしたのは、自分達が居る位置から街路まで約十メートルも満たない距離を縮めようと一心不乱に加速するアニエスの姿であった。

 頭に布を巻いている少女が数秒も満たない間に街路へと身を躍らすと、このままでは間に合わないと判断したかのように速度を落とさず身をさらに低くし、滑り込むの動作に移行した。

 宙を舞うリリーの身体と路面の間を己の足先から入りこみ、どうにか両脚部分だけで受け止めたアニエスだったが苦悶の表情を作り、

「っ!?」 

 と、呻き声を零す傍ら、リリーは目を瞬かせて自分が助けられた事をまだ呑み込めていない面持ちで呆然としていた。その様子を察したアニエスが上体を起こしながら眉間に寄せていた皺を緩め、リリー、怪我はない? と優しさが含まれた声色で発していた。

「お姉ちゃん? ……あっ。ごめんなさい」

 女の子が慌てながら起き上がると、彼女も同様に身を起こす。

 その一部始終を傍観していた金髪の少年は、

……なんとか間に合ったのか。

 ぽつりと呟き、意識せずに安堵の息をつく。アニエス達を真っ直ぐ見据え、よし、と思いを入れ直して合流する為に歩を進めている途中で、カルカソンヌ人の男性が二人に眼前まで近付いてきたのがロジェの視界に入ってきた。

 不機嫌な雰囲気を漂わせている男性は、アニエスとリリーを交互にじろじろと見やりながら、口を開ける。

「家族って訳でもなさそうじゃあなさそうだが……、この礼儀知らずなガキの事を知っているのか?」

 という男性の話し声に、ロジェがさきほどの辺りにいる人達の聴覚を支配するように届いていた怒鳴り散らしていた声と同じである事を覚り、同一人物なのだと認識する一方。

 ええ、と男性の言葉に頷いてみせるアニエスは、傍にいる女の子を庇うように自分の背後に置き、一呼吸の間があってから真剣の眼差しで対峙している相手の瞳を見据えていた。

「何があったかは知りませんが大の大人が子供相手にこんな事して……、恥ずかしいとは思わないんですか!!」

 男性は彼女の剣幕もどこ吹く風といった感じで首を回して背後に集まってきた仲間達に目を向け、恥ずかしいだってよ? と可笑しそうに言った後で、再度、眼光をアニエス達に向けた。

 その言葉を聞いた男性の仲間達は一人また一人と鼻で嗤らう度にアニエスの横顔から口の端を引き締めていくのを見ていたロジェは、

……あぁ、もう!! なに、やっているんだ。……彼女は。

 と、呆れ混じりに心の中で囁き、乱雑に切られている前髪から後頭部付近を乱暴に掻きながら街路に出る。二人の元に辿り付く間にも大人達はロジェを一瞥したのみに留まり、会話を続ける。

「とにかく。そいつが俺達の邪魔をしてきたから、少し退けたまでのことだぞ?」

「邪魔ってなによ!! あたしは、あんた達がこんな人通りが多い場所で、よく分からない事をして、他の人達の迷惑になっていたから、注意しただけでしょ!?」

「迷惑? そんな事無いよなぁ!!」

 首を左右に動かしているカルカソンヌ人の男性は、この場に居合わせている人達をぐるりと見渡しながら、全員に対して、問いかけるように声を大にしながら発した。

 周囲の人々は、騒動の中心に居るカルカソンヌ人から視線を背ける者や止まっていた足を動かして何事も無かったのように通り過ぎようとする者。はたまた、慌てた様子で隣にいる人と雑談を始めたりもしていた。

 ロジェ、アニエス、リリーも彼らの一挙手一投足を見ており、言葉を噤んでいた。視線を戻したカルカソンヌ人の満足そう容貌とは打って変わり、両眼には無関心を装う人々に対する嘲りの色がうっすらと彩られている。

「どうやら、迷惑ではないみたいだぞ?」

 彼の一言に、粘りつくような笑みを表わして忍び笑いするカルカソンヌ人の背後に控える数人。

 押し問答の展開になりつつある今、内心辟易した思いを抱えていたロジェは、右耳の上を擦ってこの状況を抜け出すにはどうしたらいいのかと思考を巡らそうとしていた一時に、抗議活動の集団内からこちら側に進み出てきた女性がカルカソンヌ人の肩に手をやり、思いっきり引っ張った。

「ちょっと、子供相手にいつまで大人気ない真似を晒せば気が済むのさ。これ以上、騒ぎになるとリーダーの面子に関わるから、そんなのに構っていないでさっさと行くわよ」

「あぁ!? アンタはリーダーでもないのに俺に口答えするな! それに今は俺がここを任されているんだから抗議活動の邪魔する奴らをお仕置きしようとするのは当たり前の話だろ」

 半身の体勢をとったカルカソンヌ人が首を動かして仲間の女性を睨みつけ、嫌悪感たっぷりに己の肩を後ろに回して細い手を振り解く過程で、険の含まれた口調で言い切った後で、

「コイツの言う通りですよ。姐さん」

「「そうだ! そうだ!」」

 と、次々に声を上げる集団内の人々。

「あんた達、何を言っているのよ!? こんな事しても意味ないじゃない」

 目を大きく見開き、唖然としている女性は、異論を唱えるもリリーを突き飛ばした男性の行為を肯定する者達の言葉で掻き消されていく。

……一か八かになるけど、ここから離れるチャンスかもしれない。

 と、大人達の言動を注視していたロジェは、そんな事を思い、抗議行進を行う集団が内輪で言い争っているこの機を逃すまいとアニエスとリリーの顔を流し見つつ、声には出さず顎先で路地裏の方を示す。

 ロジェの意図を把握したアニエスは理解の旨を首肯で返し、傍らにいる不思議そうな眼差しでロジェを見上げているリリーの手を握る。

 背後にいる彼らに気付かれないように身体を反転させ、彼女達に先行する形で走り出す。

……これで、ようやく厄介な事から解放されるなぁ……。

 やれやれ、といった風に小さく首を左右に振りながら、胸を撫で下ろしたのもつかの間。

「おい、お前ら!! 俺達の邪魔しといて、謝罪も無しに逃げてんじゃねぇぞ!!」

 先頭に立っていたカルカソンヌ人の声が聞こえて、反射的に肩から上を動かして振り返った矢先、最後尾にいるリリーに向かって、捕まえる為にカルカソンヌ人の男性が手を伸ばしていた。

 しまった、という言葉を内心で作るロジェの視覚に入ってきたのは、アニエスがリリーの手を掴んでいる片手を思いっきり引っ張り、アニエス自身の前に行かせる。

 一連の動作に、??? と表情に出しているリリーを尻目に、アニエスは正反対の手で少女の背を優しく押しだすと、男性の指先が空を切った。 

 リリーは、押された勢いで数歩の距離を稼いでいる間に、一時的とはいえ、歩調を緩めてしまったアニエスの背後に、忍び寄る手。

「後ろ!!」

 身を翻したロジェが足を止めて、アニエスに危険を知らせようと叫ぶ。その声にいち早く反応した彼女は、前傾姿勢をとる。そして、今しがたアニエスの頭部があった空間にカルカソンヌ人の片腕が突っ込み、宙を掠めていく。

 リリーの手を取り、自分の方へと寄せたロジェの口から安堵の息が零れ落ちる直前で、二回も失敗に終わり、舌打ちをしていたカルカソンヌ人の口元がニヤリと変化したような錯覚を覚える。

 思案する前に、答えが表れる。

 それは、カルカソンヌ人が空振りに終わった片腕を引っ込める事はせずに真下へと振り被り、アニエスの頭に巻いている布の結び目に五指を引っ掛けて、そのまま手前に引いてみせた。

 布越しに抑えようとするも男性の力には勝てず、頭部が急激に後ろの方へ傾くのと同期して、背中側から倒れていくアニエスは、地面にぶつかるまでの数瞬の内に宙で側転しつつ、うつ伏せの体勢になり、頭を防御した。

 人間一人が地面にぶつかった時の鈍い重低音を轟き渡る。

 


 男性の手で乱暴に外され、あらぬ方向へとアニエスの頭に巻かれていた装飾用の布が宙でひらひらと舞い、カルカソンヌ人の特徴の一つである赤銅色の毛先が布から解放された事で外気に触れ、重力に従って中空に翻る。

 そして、アニエスに視線を向けていたロジェやリリーや喧嘩を吹っかけてきた大人達や通行人達は知る。アニエスの髪が頭頂部に近づくにつれて、赤銅色が薄まり、途切れた先から鮮やかな栗色に変化していることに。

「……えっ?」

 と、困惑、狼狽が多分に内包されている音。

 それがアニエスを見ていた者達全ての口から発せられ、一拍にも満たない沈黙が漂う街路一帯に波紋するように響きあう間に装飾の布が音も立てず地面に落ちた。

 そして、全員が一時的な思考停止状態にあるこの場の空気を打ち破り、最初に動き出したのは、ロジェ達と数歩ともない距離にいるカルカソンヌ人の男性が靴底が土を踏み締めた事で生じる乾いた音が鳴らして、アニエスに詰め寄ると右手で胸倉を掴み上げていく。彼女の足が数センチ宙に浮く。

「て、てめぇ!! 愚人だったのか。……よくも俺達の前に、のこのこと現れる事が出来るよなぁ」

 アニエスに対する嫌悪感情が剥き出しなまでの言葉を端に発して、周囲にざわめきが取り戻される。

「なにしてるんだよ!?」

 と、アニエスに対する男性の行為に驚きを隠せずにいた僕は慌てて駆け寄り、彼女の胸倉を掴んでいる男性の右手に手を伸ばし、外そうと試みる。

……これは、厄介だな……。

 だが、ロジェと男性の力には雲泥の差があり、それ故に想像以上にてこずる羽目になっている矢先に、ロジェがやろうとしている事を鋭い眼光で一瞥した男性が、ふん、と不愉快そうに鼻を鳴らすと共にアニエスの身体を押すようにして放した。

 二、三歩後ろによろめき、身体を少し折り曲げながら咳き込むアニエスの顔色が優れない事を視覚で捉え、何か言った方がいいのかな? と思考を巡らせる。

 一拍の間を置き、真っ先に頭に浮かんできたのが、大丈夫ですか? という一言であり、とりあえず言おうと口を開けた直後、それまで横目でちらりと自分を見ていたアニエスが声を絞り出すようにして、声を被せてくる。

「……私は平気だから」

「えっ、あ、う、うん。それなら良いんだけど」

 自分がまだ何も言っていないにも関わらず、先に返答を告げられた事で、見透かされている!? という思いと共に恥ずかしさが急に込み上げてしまい、頬が熱くなる。

「おい、お前は知っていたのか?」

「何を……」

 喋っている途中で、集団の先頭で仁王立ちするカルカソンヌ人に振り向き終えたロジェは、目を大きく見開いて喉を鳴らし、

 ……これは、一体何が起こっている??? どうして、こっちを向いている人達全員があんな顔しているんだよ。

 と、ある者は憎悪である者は目を鋭くさせて睨み、忌避感の余りに顔を歪め、ある者は恐れからか視線を彷徨わせている。そんな人々の表情や眼差しから伝わってくる負の感情を一斉に浴びたロジェは怯んでしまい、利き足が一歩分だけ後方に下がってしまう。

「その感じじゃあ、お前は、そこの女が愚人である事を知らないのにそれで一緒にいるのかよ。ふん、呆れたもんだな。……いや、それとも、自分が愚人である事をうまく騙しきっていたというわけか」

 アニエスに対する侮蔑を隠そうともしない声色と眼差しで話しているカルカソンヌ人の男性の反応に、きょとんとしていたロジェは、静かに息を整える中で、横目でちらりと彼女を確認し、完全に顔を伏せている状態から何を思っているのかが分からない一方で、両肩が小さく震えているのだけが見て取れた。

「……」

 その時、自分でも何故だか分からない明確な言葉にならない思いに突き動かされ、彼の視線を遮るようにアニエスと集団の間に己の身体を差しこんでいた。

「何故、貴方達が愚人をそこまで憎むのが理由は知りませんが、彼女が何かしたわけじゃないでしょう?」

 と言った直後に、珍しい物を見るかのようにまじまじと僕を見据えていたカルカソンヌ人が突如として身をくの字に折り曲げ、くっくっくっ、と小さく声を漏らしており、

……なんだ? 僕は可笑しな事を言ったのだろうか?

 と、訝しげな視線で見遣っていた所に、腹を抱えて大口を開けて笑いだすカルカソンヌ人の男性の姿を目にする。ますます当惑するロジェの耳に彼の後方に控えていた人達からの哄笑が届き、思わず眉間に皺を寄せながら、不可解そうに堪えること数瞬。

「彼女が何かしたわけじゃないでしょうって?」

 可笑しそうに僕の言葉を繰り返していた集団の先頭に立つ男性に突如として歩み寄られ、顔に彼の息が掛かるほどの至近距離を許してしまう。

 そして、自分の目線に合わせるように身を屈んだ男性に、自ずと警戒心を強めて身を固くしているロジェを愉快そうに見ていたカルカソンヌ人が口の端を吊り上げ、

「……何も知らない子供のくせに、えらそうに愚人なんかを庇ってんじゃねぇよ」

 そう囁くのを聴覚で捉えた瞬間。

「っ!?」

 鈍い音と共に腹部に感じる鈍痛によって、ロジェの肺にあった空気が全部吐き出され、よろめきながら身体がくの字に折り曲がる。一時的な呼吸困難。

 俯きながらも視界がぐらつく中で自分の腹にのめり込んでいる拳を目にする。殴られた、という事実を認識しつつ地面に片膝を着きかけようとしていた間に、今度は右頬に空気が当たる感触を得たと知覚し、顔を上げようとした途端。右頬から左頬に衝撃が奔り、顎を激しく揺さぶられる。

 一発。だが、それだけではカルカソンヌ人の男性の勢いが止まらず、二発目、三発目とそれ以降も続き、

「あいつ等があんな事件を引き起こさなければ、俺達が愚人なんて嘲られることも無く、普通の生活が出来たはずなんだ!! それを……それを……俺達から何もかもを奪いやがってよぉ!? くそっ!! くそっ!! くそっ!!」

 と、己の感情を剥き出しな状態で子供相手に暴行を加えていた。

 それを見ていたリリーは、恐怖で全身を震え、アニエスに力一杯抱きつき、お姉ちゃん、と慕う女性の腰に自分の顔を押し付けるようにして、眼前に繰り広げられる光景から目を背ける。

「ちょっと、リリー。離して。私が動けないわ」

 と、アニエスが言葉にするも、顔を埋めたままの女の子はいやいやといった風に首を横に振っているのを視界の端で捉え、仕方ないという面持ちで安心させるように女の子の頭を撫でながら、

「やめて!! 彼は関係ないでしょ!?」

 ロジェを殴打している相手を睨みつけて非難の言葉を投げかけたものの、カルカソンヌ人の男性は聞き入れる様子がなく、止まらない。

 ずっと両腕を交差させて顔面へのダメージを減らそうとしているロジェは、彼女の言葉や周囲の雑音が徐々に遠のいていく錯覚を覚えていた矢先、あっ……やば……い、と身体にかかる負荷に耐えられず、力が入らなくなった両膝が地面に着く。

 ゆっくり顎を上げ、目が血走っている男性の表情をぼんやりと見る。

……ははっ……、僕は、なんて顔しているんだろうなぁ。

 彼の瞳孔に映る自分の姿に思わず心の中で自嘲の笑みが零し、鼻を鳴らす。

「てめぇ……、何へらへら笑ってんだよ!?」

 ロジェの襟元を右手で掴んだカルカソンヌ人が殴りかかる為の予備動作に左腕を持ち上げ、角度をつけて振り下ろされる。

 条件反射的に瞼を閉じて歯を食いしばり、身構えたその時。

「ひっく……。おまえさん方、なんか楽しそうなこと……ひっく……しているなぁ。……おっと」

 見知らぬ男性の声。それが意外にも自分の近くで話している事に気づき、誰だろう? と胸中で首を捻り、力を緩めてうっすらと目蓋を開けたと男性が最後の言葉を発したのが重なり合った瞬間に、

「へ?」

 ぱちくりと瞬き、素っ頓狂な声を漏らしたロジェの視界一杯には、こっち側へと倒れこんできている一人の男性。

……あれ? この人って、確か……

 と、男性の顔に気を取られた事で完全に避ける機会を失い、下敷きになる形で地に伏せる。

「ロジェ!?」

「あっ!?」

 アニエスとリリーの声が鼓膜を打ち、意識を現実に戻したロジェは、起き上がろうと男性の全体重が圧し掛かっている故に、重い、と呻きながら言葉にしていると、

「おぉ? ……ひっく……坊主すまんなぁ……ひっく」

 よっこらせ、という掛け声と共に男性が立ち上がり、人間一人分の重さから解放されたロジェも続いて起きあがる。

「ッ~~~」

 一呼吸しただけで咥内にじわじわと感じる鈍い痛みと血の味に自然と片頬が強張り、そっと掌を当てて血が混じった唾液を苦い思いで飲み干す。

「うわっ!! 酒くさっ!! 顔近付けるなよ。おっさん!!」

「失礼な……ひっく……若造だな。おれは、これぇ~~~ぽっちも酔っ払ってなんか無いっていうのに……ひっく」

 前方には、自分の上に倒れこんでいた酔っ払いらしき男性と集団の先頭に立つカルカソンヌ人の男性。

「そこの坊主。おれは……ひっく……酔っ払っていないよなぁ」

 前者の男性が振り向き、声を発した途端、鼻をつんと刺激するアルコール臭が漂ってきて、鼻の穴を摘んだ。

 酔っ払いらしきではなく、正真正銘の酔っ払いだった。

「酔っ払ってますね。完全に」

「そうかぁ? そうかぁ!!」

 二度同じ言葉を繰り返す酔っ払いが口を大きく開けて笑い出し、ロジェの頭部に片手を置くと何故だか知らないけれど力強く撫でられる。

 突然の事に驚き、酔っ払いの手から離れるように半歩下がったロジェは、浅く息を吸い込み、しゃっくりしている男性の頭頂部からつま先までまじまじと見据え、

……やっぱり、そうだよな? 最初、酔っ払っていてよく分からなかったけど、あの時の祭術師に間違いないはず。……多分。

 この都市で遭遇した祭術師の容姿を思い返し、重ね合わせていた。

「なんだぁ……ひっく……。坊主? 俺の顔に何か付いているのか」

 己の顔を両手であちこち触りだす祭術師。いえ、そんな事無いですよ、と、否定の意味を込めて両手を横に振りながら言う僕に、ふむ、と酔っ払いが首肯した。

「てめぇ等、いい加減にしやがれ!? 何を勝手に俺達を無視して話しているんだよ!?」

「おぉ、そんなに構ってほしかったのか。よしよし……ひっく……」

 祭術師がロジェにしたような感じでカルカソンヌ人の頭を撫で始め、恐れを知らないその行為にロジェが呆然のあまり、口を半開きにさせていると、

「なっ!? 誰もそんな事言ってねぇだろ」

 と、うざったそうに酔っ払いの手を払い除けつつ、ピリピリとした様子で喋りだしている集団の先頭に立つ男性に対し、仕方ねぇなぁ、と、つまらなさそうな声色で呟く祭術師であった。

……なんなんだ? この人は……。

 そんな二人のやり取りを聴覚で捉えながら、視線の先にいる人物が本当にあの時の祭術師だったのかと改めて不安に駆られていた時に、不意に右肘部分の裾が何度も引っ張られる感覚が来た。

 ロジェは右横に向いて目線を落としてみると、自分の裾の端を指先で掴んでいるリリーの両眼と目が合う。

「ねぇ……、怪我は平気?」

 と、申し訳なさと心配の色が混濁した小声で言うリリーに、

「ん……、あぁ。僕は大丈夫ですよ」

 目を細めて言葉を返すロジェは、ふぅ、と小さく肩の力を抜き、気持ちにある程度の余裕が生まれたことから、路地裏での言い争いが有耶無耶のままになった状態でいる相手に対して、意識を傾ける。

……そういえば、彼女の方は大丈夫だろうか? ……けど、今、色々と聞くのはまずいしなぁ。あっ!? そうか。自然な感じで様子を窺ってみれば、彼女に気付かれる事もない。

 よし、と意気込み、さりげなくさりげなく、と心がけつつ、無意識に顔を向けてアニエスをまじまじと見る。

……あっ。

 と、そこで複雑そうな感情を漂わせた眼差しでこっちを見据えているアニエスと視線がぶつかり、自分の視線に気づいた彼女が気まずそうな表情を魅せながら目を伏せた。

 アニエスの反応に、それゃあそうだよな、とも、何故、自分があんな事も言ってしまったのだろうか、とも思い、心の中で苦い気持ちに満たされる。

……って、こんな事に気を囚われてる暇は無いんだ。とにかく、抜け出す算段を見つけないと。

 一度目が失敗に終わってしまった今、そうそうと二回目の好機が簡単にあるとは考えておらず、また大人達も警戒しているはずである事を念頭に入れて、どうすべきかと注意深く両眼を動かす。

 と、そこでロジェはある事に気がつく。

 抗議集団を行う大人達は闖入者である酔っ払いの存在に気を取られているということ。また、ロジェ達のほぼ真正面に渦中の酔っ払いが立っており、それによって少年少女側に向いていた大人達の視線がある程度、遮られていた。

 たまたま祭術師がいる位置が僕らには抜け出す為の重要なカギになりえる、と判断しながら祭術師がいる射線状に重なり合うように自分の身体をずらし終えると、

「彼等の隙を見て、僕が合図出すから、その時は全力で走って。……それと、彼女にもそう伝えといて」

 と、リリーに囁きかける。

「そんな事なら、お姉ちゃんに直接言えばいいのに……。あっ、もしかして喧嘩でもしたの?」

 苦笑を口元に深く滲ませて、まぁ、そんなところかな……、と口にした僕を翡翠の瞳で凝視していた女の子は、

「お姉ちゃんも喧嘩する事があるんだ……」

 ひそひそ声をさらに潜めた音量で喋っており、うまく聞き取れず、??? と僕が浮かべている間にも、

「うん、分かったわ。アンタの言う通りにしてあげる」

 と、続け様に聞こえてきた言葉から了承を得た事で、まぁいいか、と今しがた女の子が何を言っていたのかを頭の片隅に追いやり、この事を活かす為にも後はタイミングの問題だ、と思い、心の中で秒数を口ずさんで駆け出すタイミングを慎重に窺う。

 五秒。十秒。十五秒。と経過しても尚、集団の先頭に立つ男性の罵詈雑言をのらりくらりと交わしている酔っ払いの会話は続いている一方で、こく一刻とリーダー格の男性の背後にいる仲間達の表情にも変化が生まれており、それらの多くが酔っ払い一人相手にヒートアップしているカルカソンヌ人の男性に対する冷やかな眼差しであり、また、男性が歩みを止めている故に集団が立ち往生となっている状態への不満げな感情が視覚に見える形で表れていた。

「おい、こんな奴ほっといて、先に進もうぜ……って、完全にコイツ聞こえてねぇなぁ」

「仮にもこの場を任せられている人間なんだから、そんな物言いは無いだろ。聞かれたら、後々が面倒だろ」

「しかし、どうするよ? このままじゃ、埒が明かねぇぞ」

「あぁ、そうだよな」

 リーダー格の男性の仲間達が内輪でぼそぼそと話している声がロジェの耳に届き、つかの間の思考を巡らせて大きく息を吸い込み、

「今だ!!」

 と、声を張り上げた。と同時に、自分の背後で二人分の足音が遠ざかっていくのを耳にしながら、よし自分も、と思い、身を翻そうとしている間に唖然としている抗議集団の大人達の顔が次々と両眼に映しだされていく一瞬の最中に、目の端で捉えた肩越しにロジェへと振り向いた祭術師の横顔に表れていた変化に内心で驚きを得る。

……笑っていた……?

 どうして? 何故? と疑問符が胸の奥から湧き出てくる。確認したい、と気持ちに駆られるも、すでに方向転換を終えていたロジェの脳裏に掠めるのは、逃げ出すのに一刻の猶予も無いという事であり、故に尋ねたいという思いを堪え、勢いよく地を蹴った。

 数秒遅れで、

「あっ、待ちやがれ、ガキ共!? ……って、うわぁ!? おい、おっさん何しやがる。俺に抱きつくんじゃねぇ。こ、この離れやがれ!!」

「そんな連れねぇこ……ひっく……というんじゃない。転んだ年長者を支えるのも若者の役目だぞぉ……ひっく」

「くそっ!! おい、お前等何してやがる!? はやくあいつ等を早く追え!?」

 その言葉を合図に、集団の中から三人の男性が駆け出す。


 ●


 浅い呼吸が繰り返される音。顔面にぶつかる生暖かい風。それらを一身に受け止めているロジェ、アニエス、リリーの三人は、必死な思いで抗議集団と一悶着があった往来から数十メートルしか離れていない生活路を駆け出していた。

 三人の中で先頭を行くのは、赤銅色と栗色が渾然と織り成している髪を外気に晒しているアニエスであり、リリーの手を掴んで引っ張る形で進む。

 二人の後ろを着かず離れずの位置にいるロジェは、時折、自分達を追っかけてくる三人の男性を肩越しにちらりと確認しつつ、

……これじゃあ、追いつかれるのも時間の問題だよな。どうすれば、逃げ切れる?

 と、焦燥感を抱えながらも前方に顔を戻す。目線の先にはアニエスとリリーの背中が見えており、ロジェは真っ直ぐ見据えたまま、ある事を思う。

……僕一人だけなら彼等から逃げられる自信はある。人買いから追われていたあの時の無力な自分はもういないから。だけど……彼女達を置いていこうとする気がしないのはどうしてだろうか?

 それは、走っている間中に何度も何度も自問してきた事柄であり、その度に答えを見出せない自分自身がいるという事実に戸惑う。

……もしかして、情が移ったというのかな? この僕が。彼女達に?

 そんな想いが脳裏を過ぎり、参ったな、という溜息が自然と口から零れ落ちていく。

 その間にも、三メートルを走り、四メートルを駆け、五メートルを過ぎ去った時になって、ようやく、とにかく!! と気持ちを強引に切り替えて追っ手から逃げ切る事だけに意識を集中させようと決意した。

…………うん。駄目だ。集中できない。

 と、五秒も経たずに音をあげるロジェの耳に、

「おい、こら。待ちやがれ、ガキ共!?」

 背後から発せられる男性達の怒鳴り声が届き、そのハッキリとした音量から自分達との距離を着実に縮めつつあるのをを実感する。その一方で、アニエスに連れられているリリーの背中がみるみると自分の方へと近づいている事に気が付く。前方にいる二人と衝突しないよう適度に速度を緩めていく中で、すぐにその原因がアニエスの走るペースが落ちてきているからだと把握する。

……どっちみち、このままじゃあ、数分も持たずに三人共に捕まる羽目になる。それなら、いっそのこと……、自分が囮になって二人を逃がしたほうがいいんじゃないか? 僕一人だけならなんとかなるんだし。

 と、自分が思案する中で最善だと思う方法を実行しようと思い立ち、スピードを上げて、女の子を追い越し、彼女と併走する。

 流し目でアニエスの横顔を見ているロジェは、さきほどまで言い争っている相手になんて言葉をかければいいのか、と今更ながら思い悩む。

「……どうしたの?」

 話しかけられると思っても見なかった故に脈拍が速くなるのを全身で受け止めながら、ええっと……その、と、しどろもどろになるロジェだった。

 数回の呼吸を得た時には落ち着きを取り戻したロジェは、喋りだそうと唇を開けた瞬間に、率直に述べたら反対される、という直感が働き、どうしてそう思ったのかが自分でもよく分かっていないまま、それに従う事を決める。

「ここから先は二手に分かれて逃げよう。その方が三人一緒に掴まる確率が下がるから良いと思う。それじゃあ、僕はこれで……」

 行くね、という最後の部分を言う為に息継ぎしている合間に、

「それは駄目」

 感情を窺えない瞳で自分を一瞥したアニエスから発せられた声によって遮られる。

「えっ?」

 言おうとしていた言葉を呑みこんだロジェは両眼を瞬かせ、呆けた声がこぼれた。と同時に、否定されないように話したにも関わらず、一蹴されてしまった事が腑に落ちない気持ちを抱えていた所に、

「リリーちゃん、こっちこっち!!」

「お姉さん達も早くこちらへ!!」

 聞き覚えのある、第二次成長期が終わっていない声に、ロジェは彼女の横顔から視線を前方に移してみると、数十メートル先にある左側の細道から身を乗り出し片手を大きく振っているフィルマンとジャンの姿を視認する。

 そして、二人が発した内容から即座に、巻き込んでいいものかと逡巡を得てしまい、ふと視線を隣にいる背の高い少女に向けてみると、自分同様にその顔には迷いが表れていた。

 だが、それもつかの間。彼女は僕と女の子を交互に見てから、言語を構成する為の音を奏でる。

「私、あの子達に任してみようと思う」

……確かに、あの二人ならこの入り組んだ都市の土地勘があるし、しつこく追っかけてくる大人達を振り切る為の道を知っているはずだよな……。

 と考え直して、肯定の返事を行った。

そして、ロジェ達はジャンとフィルマンの二人と合流する。



 商業都市の北東地区にある旧城壁周辺には、残骸が撤去されていないゆえに時間帯によって陽射しが遮断され、陰影が色濃く作り出される場所が幾つか存在する。

 南東地区の住宅密集地から北東地区との境目を越えて住宅が建ち並び、家と家との隙間を縫うように存在する小路もそんな内の一つであり、そこにロジェ、アニエス、リリー、ジャン、フィルマンの姿があった。

「「はぁ……はぁ……、はぁ……はぁ……」」

 五人は思い思いの体勢から息切れを起こしている身体に肺いっぱいの新鮮な空気を取り込んでいた。

「まさか、あんなにも彼等がしぶといなんて……。予想外すぎるだろ……」

 途切れ途切れにそう囁いたロジェであり、両膝に両手を当てていた姿勢から上体を起こす。辺りをぐるりと見渡し、

……まさか、こんな所があるなんてなぁ~~~。

 そんな感想を抱いている所に、すぐ近くで意気消沈とした面持ちで地べたに座り込むアニエスを視界に捉える。彼女に歩み寄り、大丈夫ですか? と声を掛けつつ起き上がるのに手を貸そうと思い立ち、片手を伸ばす。

 彼女が顔を上げ、僕をみつめる瑠璃の輝きを放つ左右の瞳には、気後れ、戸惑いの色が滲み出ていた。

 それを自分がこんな事に手を貸す人間とは思われていないんだろうな、と解釈したロジェは、同意見とばかりに心の中で苦笑を深める。

 数秒にも満たない思考の間にも、あ、ありがとう、と口にしたアニエスが金髪の少年の手を取り、起き上がる。

「みんな。ちゃんといるわよね?」

 と、ロジェから視線を外しながらもそう言ったアニエスは、子供三人組がそれぞれ肯定の声を発するのを聴き終えると、静かに息を吐き出すと同時に、リリー、と子供達の名前を告げた。

 どうしたの? と呼ばれた当人は姉と慕う女性の眼前まで歩み寄ると、そこでアニエスの表情が硬くなっている事に感付き、お姉ちゃん? と囁きながら不思議そうな眼差しで見上げる。

 男性陣の視線が彼女達に集中した途端、

「どうして、あんな危ない事したの!?」

 小路一帯に響き渡るほどの声量がアニエスの口から発せられ、リリーはびくりと両肩を上下させて両眼が潤み始める。

 半ば放心状態にあった僕だったがすぐに我に返り、お……おい、と、思わず彼女に声をかけるも睨み返され、首を縮めた。

「リリー。貴方があの場で抗議集団に言った事は、確かに正しい事かも知れない。けれどね? ああいった人達には、何を言っても聞き入れてくれる可能性はとっても低いの。それにさっきのような暴力なんて最低な行為を振りかざされる事だって、大いにありえる。だから……こそ、そんな事で貴方の身に何かあってからではもう何もかも……遅いのよ」

 女の子に話しかけている彼女の声色には少しずつ震えが含まれるようになっていき、それは第三者でもはっきりと分かる程の変化でもあった。

 それゆえに、心配そうな面持ちでアニエスをみつめているリリーがおそるおそるとしながらも、お姉ちゃん……? と言葉を掛けた。

 女の子が呼びかける声に、あっ……、という小さな単音がふっくらとしたアニエスの唇からこぼれ、目を瞠ったのも一瞬。すぐに、んっんっ、と空咳を行い終えた頃には、いつもの冷静沈着然とした雰囲気を漂わせており、アニエスの表情が変化する様を目にしていたロジェは、詰めていた息を吐き、安堵の肩を下ろす。

……あれ? なんで今、安心したんだろう?

 と、己の中に生じた感覚に対して、しきりに首を捻りながら結論を出そうと黙考するロジェの傍らで、アニエスは女の子の目線と等しくなるように両膝を地面に着けてから言葉を紡ぎだす。

「リリー、ごめんね。急に怒鳴ったりなんかして……。本当はあの場で、他の人達の迷惑行為を働いていた人達にきちんとやめなさいと告げた貴方を誇らしく思うべき所なのに……。それなのに、本当に私は駄目ね……」

「なんで、お姉ちゃんがごめんねっていうの!?」

 ううん、という風に首を横に振りつつ自嘲的に話しかける姉と慕う女性の言葉を遮った女の子の反応に、アニエスはただただ、目を丸くするだけであった。

「ごめんなさいを言わなくちゃいけないのは、お姉ちゃん達を巻き込んでしまったあたしのほうだよ。だって、お姉ちゃんが怒ったのはあたしを心配してくれたからなんでしょ? だから、お姉ちゃんがごめんなさいって言うのはおかしい」

 はっきりと告げ終えた女の子が深呼吸する傍で、リリー……、と呟くアニエスの相好は崩れていた。

 一拍の間が生まれ、

「だから、その、お姉ちゃん、ごめんなさい!! フィルマン、ジャンも巻き込んでごめん。そして、ありがとう。 ……それから、アンタもあの時、あたしを助けてくれてありがとう」

……あれ?

 後半部分が自分に向けて発せられたのだと数拍遅れで認識し、考え事から無意識に顎を引いていたのを元に戻し、彼女達の方に振り向いたその瞬間、リリーと目が合うものの視線を外されてしまう。

 この事に、ははっ、と口元に微苦笑を滲ませる。吐息をついたアニエスが左手に持っていた布を自然な動作で頭を巻こうとした途端、

「駄目!!」

 と、言ったリリーが機敏な動きで布を奪い取っていく様を目をぱちくりとさせて見ていたアニエスだったが、すぐにハッとなり、言葉を紡ぎだす。

「駄目ってどういうこと?」

「せっかく綺麗な髪しているのに、それを隠しちゃうなんて勿体ないよ」

「き……れ……い?」

「うん!! あたしだけじゃなくて、皆もそう思ってるはずだよ」

 にこやかに力強く首肯した女の子が同意を求めるように男性陣をぐるりと見回す。

 リリーちゃんの言う通り、とばかりに首を縦に振るジャン。

 俺も布を巻かないほうが良いと思います、と冷静に賛成の言葉を呟くフィルマン。

「貴方達、何を言っているのよ……。コレが気味悪く思わないの?」

 声を震わせながら彼女が前髪を摘まんで子供三人組に問いかけた。

 ううん、と一斉に首を左右に振っている子供達が唇を開け放ち、

「「全然」」

 同じタイミングで声が重なった。

「えっ……あっ……その……」

 アニエスは言葉になる前の音を発しつつ、信じられない、とばかりに動揺の色を隠しきれず、姉と慕ってる年上の女性がどうしてそんなにもうろたえているのかがいまいち呑みこめていないリリー達は、不思議そうな眼差しで見上げていた。

「これは、子供達の勝ちですね」

 と、一歩引き気味の位置で四人の会話を見守っていたロジェの口から思わず漏れ出た言葉がアニエス達の耳まで届き、うろたえ気味の表情から一転して、アニエスが鋭く目を細めて、ロジェを一瞥した。

「……あっ。いや、何でもないです。はい」

 慌てて両手を横に振りながら訂正の弁を語るロジェの様子に、子供三人組が可笑しそうに声を上げ、小路一帯に反響しあう。

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