第四章
朝を告げる小鳥達の囀りによる協奏曲が奏でられ、その音が南東地区にも届き始めた頃。
カメレオン亭の二階にある西の方角に等間隔に配置されている窓が外向きに開け放たれ、新鮮な空気が二階の廊下に流入し、埃臭さが一掃され、日差しが薄暗い廊下に照らされた中を頭に巻いている群青色のスカーフの結び目の端を揺らしながら、アニエスが歩いていた。
廊下の行き止まり近くで足を止めると、閉じている窓の方に身体の向きを変えてから取っ手部分を掴み、最後の窓を開ける。
私は、そのまま、窓枠に両手を置いて軽く身を乗り出す。
「んー、今日も晴れてるわね」
と、青空を眩しそうに目を細めながら見上げていた所に、横から小鳥の鳴き声が聴こえてきた。
その方向に顔を動かした私の瞳に映ってきたのは、窓の内、最初に開けた窓の枠に一羽の小鳥が降りたち、跳ねるようにして左右を行き来しているその動きに、あまりの可愛らしさに唇を綻ばせて、見惚れていた。
だが、すぐに小鳥は外側に頭をもたげ、両翼を羽ばたかせて飛び去ってしまう。行っちゃった、と名残惜しそうにぽつりと声を漏らした自分自身に気付き、顔を下に傾けて苦笑する。
「……さてと、そろそろ寝起きの悪い誰かさんを起こさないと」
深い息を吐き出しながら、独り言を口にしつつ、窓枠から手をはなして後ろに振り返り、左から右へと窓側とは正反対の壁に等間隔で配置されている木製の扉三枚を流し目で見て、自分の真正面にある物置部屋ではなく、もう一つ右隣にある部屋の方へと進み、立ち止まる。
「ロジェ、起きている?」
と、言葉にしながら共に手の甲で軽く扉を叩いた。
一回目、返事なし。まだ起きないのね、と思い、さきほどよりも声量を上げると共に音が変わるくらいに強くノックする。
二回目、反応なし。拳を横にして年季を感じさせる扉が壊れない程度に力一杯に扉を叩く。
三回目、応答なし。ノックしようと振り上げていた片腕を静かに下ろし、ここまでして、部屋の中から起きる気配が感じられない事に口元を堅く横一文字にしていたアニエスは、両肩を落とした後で視線を宙に注いで一考する。
……どうして、毎日、朝ごはんが整ってから、私がこうして起こさなくちゃいけないのかしら? しかも、二日目以降から徐々に寝過ごす時間が増えていっている訳だし、今日こそは、自分で起きる様に言ってやらないとね
最後の部分をロジェが酒場の二階に宿泊するようになって一週間近く経った今、そう固く誓ったアニエスは、鍵が掛かっていない扉の持ち手部分を片手で掴んで回しながら、ロジェが未だに寝ているはずの部屋に足を踏み入れた。
生暖かい風が私の顔にぶつかり、思わず、顔を顰めながらも両目を右の方に移動させると、唸り声を上げながら、寝苦しそうに額に大量の汗を浮かび上がらせているロジェの姿が翡翠色の瞳に飛び込んできた。
……この部屋は窓が無いから、よけいに暑くなってしまうのよね……だから寝不足になって、朝ごはんの時間に遅れるのかな?
と、そんな事を考えながら、入り口の隅に置かれている木の棒を手に取り、扉の凹凸部分に木の棒を引っ掛けて扉を開けっ放しにしてから、寝台に近付くとロジェの身体に掛っている布を両手で掴み、思いっきり引き剥がす。
「えっ……!?」
目を大きく見開き、絶句している私の瞳に映ったのは、横になって身を縮めている上半身裸のロジェの身体にある多数の内出血痕と火傷痕。
一昨日の出来事で、酔っ払いの連中に手酷くやられたのか、と脳裏を掠めたものの、だが、すぐに彼の身体にある傷跡のどれもが瘡蓋になっていない事を知り、なんだか自分が見てはいけないものを見てしまったような気が込み上がけ、きまずい思いと共に辺りを見回していた時に、きっと私の目の錯覚に違いない、と思う。
アニエスが両目を力強く擦っている最中、
「やめて……様の言いつけ通りにしますから……お願いですから……僕を殴らないで……ください……」
と、微かに発したロジェの寝言を聞いてしまい、ピタリと動きを止めて、うなされているロジェを数秒間見つめると、目を瞑り、ふぅ、と大きく息を吐き出し、動揺している自分の心を落ち着かせる。
そして、目蓋を開けると、力一杯に固く丸まっているロジェの両手を視界の隅に捉えたアニエスは、一拍の間を置いてから、ほら、起きなさい、と言葉を掛けながら、片膝立ちの体勢となり、己の両手で彼の両拳をやさしく包むようにして、握る。
「この感触は……」
と、独り言を口にしていたアニエスは、直に触れあうロジェの手から伝わってきた見知っている感覚に懐かしさを覚えながら、そっと視線を落とす。寝息を立てる少年の掌には真新しい小さな裂傷跡の瘡蓋や幾つもの胼胝がたくさん作られており、祭術を扱う為に必要な短剣などの道具を使っているからこそ、それらが出来たものであり、すなわち、この少年が現在に至るまで積み重ねてきた証でもあると窺えた。
……本当に、祭術師なんてものになりたいと思っているのね
そんな事を考えながら、
「んっ……」
ロジェが身動き始めたと同時に、彼の片手から自分の手を離した私は、入り口の方に数歩下がる。
仰向けになったロジェは上体を起こし、左右に首を振り、顔を右斜め前方に動かし、アニエスと視線がぶつかりあうと疑問視を込めた声音で尋ねてきた。
「あれ? どうして貴方がこの部屋に?」
「いつまでも寝ているロジェを起こしにきたのよ」
あぁ、そうだったんですか、と寝ぼけ眼で呟きながら彼は、両足を地面に下ろして立ち上がると自分に背を向けて、壁際にあるテーブルの方に近付き、卓上に無造作に置かれている服に手を伸ばそうとしていた。
「……じゃあ、私は一階に行っているから。扉は開けっ放しにしとくわよ」
と、ロジェの身体にある傷跡に目線が行きそうになるのをどうにか堪えていた私は、平常心を保つようにして、冷静に告げると彼は振り向いてから肯定の返事を口にした。
それを耳にし、廊下に出たアニエスは、階段の一段目部分に片足を着地させてから、彼がいる部屋の方を肩越しに振り向きながら、ロジェとのやり取りを思い返す。
……ロジェは、他人に身体の傷跡を見られても平然としていた様子だった。……という事は、彼自身にとっては、特に気にするような事でもない? そうだとしたら、必要以上に私が気にしすぎていただけって事になるわね……
と、溜息をつき、外見に対する偏見を幾度も経験してきた自分自身がそう思ってしまった事に対して、少年に対する申し訳なさやらで苦い気持ちで胸が満たされ、アニエスの表情は翳りを帯びたものに変化していた瞬間に彼が苦しそうに呟いていた寝言が脳裏に浮かんできた。
もしかしたら、と思いながらも、それ以上は、思案しようとしても面白半分に邪推するだけにしかならないと判断したアニエスは、階段を下りる。
●
大通りとは異なり、人通りが少ない薄暗い路地に一人黙々と動き続けているロジェの姿がある。
酒場の準備を終え、色々と試してみたい、というはやる気持ちを抑えながら、駆け足で練習場所と化しつつある南東部の一角に訪れており、三日経った現在も、引いてくれない全身を蝕む痛みに四苦八苦しながら、練習を開始して数時間が経過しようとしていた。
「えっーと、確か、次は、こんな動き方していたような気がするんだけどなぁ」
今も尚、脳裏に焼き付けてある彼女の踊りと昨日見た男性が扱う祭術を思い返しながら、祭術に取り組んでいた。
「よし」
と、気合を入れ、己がいた位置より数メートルほど後ろに下がると前傾姿勢をとり、駆け出す。
ここだ、という思った瞬間に、宙を舞うと、滞空時間中に己の右肩を支点に身体を翻し、回る。
一回転目は成功させ、もう一回、という思いで、勢いそのままに、二回転目に突入。
しかし、半回転もしていない途中で、全身を激痛が奔り、体勢を崩す事となり、左足が地面に着いてしまい、一拍遅れて右足も地面に着地し、前のめりになるのを上体を逸らす事で堪え、どうにか持ち直した。
「ふぅ……、また痛み出してきたか」
痛みを我慢にしようと眉間に皺を寄せているロジェは、そろそろ休憩しよう、と考え、日陰になっている側の壁に背を預けて地べたに座り、痛みを覚えた足と腕の部分を丹念に揉みほぐしている最中に祭術師やアニエスが多彩な動作を披露している昨夜の光景を思い出す。
「あの人達みたいには、どうしてもうまくはいかないもんだな。それに祭術師と呼ばれる人達も彼女達と同じかそれ以上の実力があるんだろうから、目的を果たすためにも、まずはあの二人の動きに着いていかなくちゃいけない、というのにこんな所で躓いていちゃ駄目だって言うのに。……悔しいなぁ」
と、今日に入って何十回目となる自嘲が入り混じる吐息をつきながら、一人ごちた瞬間に、意識せずに口にしていた最後の言葉に気づき、両目を瞠る。
くやしい、と。久々にそう感じている自分自身がいる事に、つい苦笑が零す。
頭を左右に動かしてから、マッサージを止めて立ち上がり、次は身体を伸ばそうと動こうとした矢先に、聴覚に遠くの方から砂利を踏み鳴らす音が届いてきた。
祭術を行っている訳ではないから慌てる事は無い、と平然とした面持ちでいるロジェは、ストレッチを行いながら通行人が通り過ぎるのを待っている所に、ぴたりと足音が止んだ。
ロジェがいる路地は、動き回れる程度の幅ではあるが横道が存在しない一本道ゆえに、ここを移動しようする人達の多くは、すれ違うしかなかった。
ゆえに、通行人と思わしき人物から音が聞こえなくなった事に、僕は、なんだろう? という思いで、その方向に首を動かす。
「あれ? どうして、貴方がここに……?」
こちらに歩み寄ってくる人物の姿を視界に捉え、幾度も瞬かせている僕は、上擦った声で疑問を投げかけていた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。私は、ただ、昼過ぎになっても戻ってこない君に、ねえさんに頼まれて、これを渡しにきただけだから」
そう答えながら、自分の眼前まで近づいてきたアニエスは、呆れ気味な眼差しでロジェを見据えつつ、左手に持っているバスケットを目の高さまで掲げてみせた。
「えっ!? もう、そんなに時間が過ぎているんですか!?」
あちゃー、という思いで僕が片頬を引き攣らせている所に、彼女からバスケットを自分の胸元に押し付けられ、良く分からないままに両手で抱えるようにして、受け取る。目線を下げて見てみると、籠の中にあったのは、水筒と片手間で食べられるようにしてある円形状のパン二個があり、パンの間には、切り分けられているトマトやレタスと燻製された豚肉が挟まれていた。
「とりあえず、在り合わせの物で作っただけだから、あまり味には期待しないほうがいいわよ」
バスケットから目線を逸らさずに目を白黒させたロジェは、えっと、と微かに言いながら、貴方がこれを……? と、心の中に生じたままの形で言葉にする。
「……悪かったわね。ねえさんの手作りじゃなくって」
と、彼女のいつも通りの素っ気ない物言いに、ロジェは苦笑しつつも顔を上げた瞬間、目に飛び込んできたのは、かすかにむくれている彼女の面立ち。僕がその些細とも云える彼女の変化に多少の判断がつくようになってきたのは、ここ最近ではあったものの、それでも、彼女が何に対してムッとしているのかが分からずにいた為にどうしていいものか、と焦りながら、話しかける。
「い、いえ、そんな事はないですよ? ……ただ、貴方がクローデットさんに頼まれたって云ってたから、てっきり、クローデットさんが作った物ばかりだと、そう思っただけですよ。えぇ、本当にそれだけです」
喋っている途中で、徐々に、何をこんなにも僕は慌てているのだろうか、とそんな事を思案できるぐらいにロジェが冷静さを取り戻すと、アニエスが口元を片手で塞ぎながら顔を俯けて両肩を震わせている事に気づき、もしかしたら、彼女を怒らすような事をしてしまったのだろうかな、と咄嗟に思い、おそるおそるといった風に尋ねる。
「あの、どうしたんですか」
「ん? あぁ。君があまりにも慌てふためくから……つい、ね」
はあ、と気のぬけた言葉を返す僕と視線を行き交う彼女の口元を綻ばせるような動きを見せたような気がして、えっ? と内心で驚いているロジェが次に瞬きした時には、アニエスは、いつもの感情を窺わせない表情を浮かべていた。
……僕の見間違いだったか……
と、一人で結論付けている間に、彼女が自分の横に移動して壁に背中を預けてから、僕を横目でちらりと見下ろしながら、形の良い唇を静かに開ける。
「さっき、君の練習を見ていたけど。まだ、あの時の痛みが完全に引いていないのよね? だったら、あんまり無茶はしないほうが良いと思うけど?」
「心配してくれているのですか?」
ロジェは、思った事を問いかけてみると、数秒の間だけ沈黙が流れた後で、アニエスは、自分がいる位置とは正反対に顔を向け、捲くし立てるように言葉を続ける。
「……別にそういうわけじゃない。君がそのまま倒れでもしたら、寝覚めに悪いっていうだけの事よ。それよりも、早く食べたらどうなのよ」
彼女の発言を聞き、どちらなんだろう、と戸惑いを感じたのも一瞬、考えても仕方ないと気持ちを切り替えて、胡坐の体勢になったロジェは、両足の踵が交差している中心部分にバスケットを置き、食前に行う祝詞を口ずさみ終えてから、食事を始める。
喉を鳴らすほどに水を飲み、疲労状態の身体が生き返るような錯覚を覚えるくらいの快感を覚えながら、パンを頬張る。香ばしい小麦粉のほのかな匂いが鼻腔をくすぐり、噛み締める度に弾力のある食感が最初に来て、次に瑞々しい野菜の歯ざわりと燻製された豚肉の香りと歯ごたえを一通り楽しむと、名残惜しさを感じながら嚥下する。
「ねぇ。どうして、そこまで必死になって祭術師になろうとしているの?」
僕がパンを食べ終えた時に彼女から必死さを滲ませた声音で発せられた唐突な質問に、手の動きを止めて、横斜め上に視線を向ける。
互いの視線が交差したのも、束の間。
これ以上ないと言うほどに目を見開いて、あっ、と何かに気付いたように声を漏らすアニエスは、そのまま視線を彷徨わせながら、今の質問は、えっと、その、あの……、と、しどろもどろに話す。
きょとんとしながらも、そんな彼女の様子を直視していたロジェは、
……それほど、祭術師になろう人間が珍しいのかな? もしかしたら、彼女の周囲には祭術を扱う人がいないのかもしれない
と、思惟を巡らしながら、バスケットを片手に持って立ち上がり、向こう側にある壁を見据えたまま、発言する。
「……僕は、あの祭術から得た感覚の意味が知りたいんです」
ロジェは、伏し目がちになり、あの時の事を脳裏に去来する。
場の雰囲気、観客達の表情や熱量、祭術を扱うリール人の表情などは所々に記憶が抜け落ちていてもなお、祭術を扱うリール人の動作と自分があの祭術から得た何らかの感覚だけは、昨日の事のように記憶している事に自然と片頬を釣り上がっていた。
……あれは、すごかったもんなぁ
「あの祭術?」
ロジェが思い出に耽っている間に、彼女の疑問符が含まれた声が聞こえ、ロジェは、身体をびくりとさせた後、横目にちらりとアニエスの方を視界の端に入れる。
彼女は、すでに落ち着きを取り戻したようで、僕の話を真剣な表情で聞いている事に、次は自分の方がどことなく、気もそぞろになりつつあるのを咳払いして、一呼吸置いた。
「ええ。僕が初めて間近で見て、触れた祭術の事なんですどね。あれに出会わなかったら、今頃、僕はきっと……」
と、続く言葉を繋ごうと口を開きかけたものの、そこで、彼女の質問には関係ないよな、と考えを改えて、首を左右に振る。
「えーっと、そうですね。どこから話せばいいかな?」
逡巡を顔に表わして、後頭部を片手で掻いているロジェは、途切れ途切れに呟く。
「ロジェが嫌じゃなければ、全部話してほしいんだけど?」
「別に嫌ではないんですけれど、……全部ですか。そうなると、僕の過去も掻い摘んで話す必要が出てくるので、長くなっちゃいますよ?」
最終確認の意を伝えると、アニエスからは、私は構わないから、という言葉が返ってきた。
わかりました、と僕は言い、目を細めながら己の過去を交えて話し始める。
「……という事があったんです」
人身売買を生業とする者に掴まり、しばしの間、買い手が見つかるまで彼の許でいた折、隙を見て、逃げ出す事が出来た道中にある祭術を披露している所に出くわし、完全に見入ってしまった事が原因で、再度、その者に捕まって売られてしまった事を他人事のような口調で、ひと通り、語った。
……あぁ、そうか
と、急に思ったロジェは、今の自分が人買いに対する喜怒哀楽が抜け落ちたように何らかの感情も湧いてこない事を自覚し、それらを昔の事だからといった風に思考を纏めて、話を再開する。
「それでも、あの祭術に触れた時に得た感覚がどうしても忘れられなくて。僕を人買いから購入した人達の許で暮らし続けている間、おかげで色々な目に晒されたりする度に何回も何度もあの祭術の事を思い返しては、あの感覚が何だったのかを知りたい。あの感覚にもう一度触れてみたい。それまではこんな所で死んでたまるものか、という気持ちが膨れ上がり、それで自分自身を奮い立たせたりしたんですが……。いま思えば、確かその頃だったような気がします。最初に見た祭術を扱っていた彼のようになれば、答えが見つけられるんじゃないか、と思い、祭術師になろうと決意し、独学で密かに祭術の練習するようになったのは。そして、主人から解放されるようになり、今に至るって感じですね」
ふぅ、とロジェが肩の力を抜いていた所に、
「……どうして、君はそんな風に笑いながら話せるのよ」
ポツリと呟いたアニエスの言葉を全部聞き取れず、えっ? という声を発しながらロジェは首を横に向けようとした時には、今度は、ロジェにも聞こえる声量で、ううん。なんでもないわ、と言った彼女は、自分と向かい合わせになる位置まで移動すると、振り向いた。
「祭術師になろうとした理由を話してくれてありがとう。……にしても、君にとって、さしずめ祭術は希望ってところなのね」
彼女の最後の物言いは、どことなく皮肉めいた響きを含んでいるような気がしてきて、僕は首を捻りかけたが、すぐにこれも自分の気のせいだよな、と気を取り直し、
「希望っていう言葉が当てはまるかは分からないけど、僕にとって、祭術は希望の象徴ともいえる存在であると思うしね」
と、肯定する。
目を瞠って、そう、と簡潔に述べたアニエスの声を聞いていたロジェの片眉がぴくりと動き、一瞬とはいえ、透徹なまでに瑠璃の輝きを有するアニエスの瞳が漣のように揺らいでいるのを見落とさなかった。
……何か、彼女の気に触るような事を言ったのかな?
思案して、その事を訊いてみようかどうしようか、と迷っている自分を余所に、アニエスが形の良い桜色の唇を開ける。
「それじゃあ、私は酒場に戻るから。あんまり、仕事の時間に遅れないようにね」
と、言葉にし終えたアニエスは、地面に置いてある中身が空になったバスケットを手に持ち、来た道の方向に身体を反転させて歩き出した。ロジェは、質問するタイミングを失いかけたものの、まぁ別に訊かなくてもいいかな、と思いなおし、口を閉ざす。
そして、そのまま去って行く彼女の後姿が見えなくなるまで眺めていた。
●
「ただいま。ねえさん」
扉を開け放って、口にした私は室内から流れる湿度の高い空気が顔に当たり、うっ、と辟易しつつも、我が家の中へと踏み入れた瞬間に、硬い物同士が接触する音の響きが聴こえ、自然とその方向に顔を動かしていると一緒に暮らしている女性の声が届く。
「あら、おかえりなさい」
と、室内に入ってきたアニエスを出迎えたのは、テーブルに備えられた椅子に腰掛けているクローデットであり、アニエスを視界に捉えた際に、一瞬の間だけ子供が悪戯を思いついた時のような表情をみせたかと思うと、手元に置いてあるコップの淵をなぞりながら、目尻が下がり気味の瞳を上弦の形にさせて続け様に言葉を紡ぎ始める。
「うん。今日も風呂上りの貴方は、色っぽくて素敵ね」
「なっ……!?」
姉の思いがけない言葉によって、絶句していた私は姉から視線を逸らし、銭湯から家に辿り着く間に夜風に晒された事で、火照っていた肌が良い具合に下がっていたはずなのに、今は自覚できるほどに自分の体温が急激に上がっていくのを感じていた。
嬉しさと恥ずかしさが入り混じる感情が胸中で渦巻き、私はあたふたしながらも、テーブルの方に歩き出している所に、そこで、こっちをずっと見ている姉の視線に気づき、軽く咳払いする事で冷静な表情を装いながら、椅子に座る。
頭に巻いていた布の結ぶ目を両手でほどき、それを手にとると湿っている髪と水分を十二分に吸っている事が重さで分かると同時に、布で一纏めにしていた髪が零れ落ち、アニエス自身本来の、肩まで切り揃えられている髪型に戻った。
髪が外気に触れる心地良さを覚えつつもアニエスは顎を引いて、クローデットの方からこちら側を見えないように、もう一度、布を自分の頭に被せてから両手で髪に含まれる残りの水分を拭き取っていく。
その一方で、クローデットはこういった類の言葉に弱いアニエスの表情を愛おしそうに見つめ、ひとしきりに満足した様子で立ち上がって、服などが収納されている棚がある所まで移動する。
彼女は、屈みこんで棚の一番下にある引き出しを開けて、外出の準備を行いながら肩越しにアニエスをちらりと見やり、呟く。
「それじゃあ、あたしもこれから銭湯に行ってくるわね」
髪を拭く動作を止めた私は、手に持っていた布を膝上に載せてから姉がいる方向に首を動かしてから、こくりと首を縦に振って、肯定を伝えた。
クローデットが出かけたのを見送り、欠伸を噛み殺しつつ木櫛で丁寧に髪を梳かしているアニエスは、家の中には自分一人しかいないこともあって、幾度目かの深い溜息をついていた。
あれから時間が経っているはずなのに、今もロジェが口にしていた祭術への想いに対する言葉の数々が嫌というほど脳裏を駆け巡っている。
……自分から尋ねた事なはずなのに……。なんで私はあの時、あんな事言っちゃったのかな?
ロジェが祭術の話を聞いている内に胸の内から湧き出てきている仄暗い感情をどうにも抑えきれず、希望という言葉を用いて、皮肉交じりに言ってしまった事に対する苦い気持ちを抱いている一方で、彼が私の言葉を額面どおりに肯定した事の意味合いを素直に受け取めるべきか、そうしないべきか、と現在も図りかねている。
……けれど……、あの表情から察するにロジェが嘘ついているとは思えない。なんせ、自分の過去をあんな風に語ってしまうような人だしね……。だから、もしも私の皮肉に気づかず、そのまま受け取っていたとしたら……あっ
と、そこでロジェの事を思案している自分自身に気がついた途端、
「……祭術が本当に希望と呼べるものだったら、どんなに良かったものだろう」
と、堪えるようにして目蓋を固く閉ざして、無意識に真情を吐露していた。
目を開けたアニエスは、深呼吸した後で、テーブルの隅に髪を梳かす役目を終えた木櫛を音をあまり立てないように置く。
そのまま、テーブルの上に両腕を乗せてから手の甲同士を重ね合わせるとその部分に顎を当て、視界に入るテーブルの表面にある木目模様を眺めていた所に、そういえば、と、ある事に気が付いたアニエスの脳裏にあったのは、
……なんで、私は足を一端止めてまでロジェの祭術を見ていたんだろう?
という自問自答であり、昼間の出来事を思い返す。
陽射しが遮られている場所で一心不乱に動き続ける時のロジェの表情は、遠目で見ていても分かる位に活き活きとしており、その様子はどこか子供が新しい玩具を手にいれ、はしゃぎ回るようにして遊んでいるような印象がアニエスの中に芽生えていたと同時に、自分の中でそう思える事自体に、どことなく懐かしい、という想いが込み上げてきた。
……そこまでは分かっているんだけどなぁ~
と、なかなか考えがまとまらず、上体を起こして椅子の背もたれに体重を預けると天井に視線を傾け、部屋を包み込む温かい光の根源である天井に釣り下がっているランタンをぼんやりとみつめている間にも眠気が襲い、欠伸を繰り返すうちに、うとうとしかけているアニエスは、少しだけなら、と心のうちでそう呟きながら、静かに目蓋を閉じる。