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第一章

 太陽が西に傾きかけ、交易が盛んな市場を有する商業都市では、一日で一番活気付く時間帯。

 市場に行こうとする人々と市場から帰っていく人々が交差するストリートで彼らの邪魔にならないよう、隅で座っている金髪の少年がいる。

「まさか、祭術師募集がすでに終わっていたなんて、ついてない……」

 自分の当てが外れた事に息を長く吐きだした瞬間、腹から音が鳴るのを聞き、三日近くもきちんとした食事に在りつけていない事を思いだす。

 この都市に行く為に所持金のほとんどを使い果たしてしまい、今日の昼頃に到着する事になったとはいえ、すでに果物一個すら買えるだけの金額を持ち合わせていない。

 どうしようか、と考え、何気なく、不揃いの前髪越しに赤い瞳を通行人達のほうに移し、自分と同じ髪色、瞳をもった人達を見かける。

……そうだった。ここは、今まで行った都市とは違うんだよね。それなら、僕の祭術が通用するかもしれない。

 少年は、膝丈まであるズボンのお尻の部分をはたきながら中腰の体勢になると、傍らにある横倒しの小さな雑嚢を手に取り、結び目を緩めつつ、中に入っている祭術に扱う道具を確認する。

「さてと、やるとしますか」

 こうして、祭術を披露する為に準備運動を始める。



 都市内北西部の地域に市場は開かれており、露天商を営んでいる人達が並んでいる一角で、買い物籠をもっている一人の少女が贔屓にしている露天商の前に立っている。

「そういえば、クローデットちゃんの容態はどうなんだい?」

 と、露天商の言葉を耳にした少女は、野菜や果物が入っている籠から視線を外しすと、目尻が釣りあがっている瑠璃色の両眼が露天商のおじさんの目線と交差する。

 そして、少女の血色の良い唇が開く。

「……起き上がれるぐらいにはなったので、少しずつ、良くなっていると思いますよ」

 露天商の陽気なおじさんにアニエスと呼ばれた少女は、静かな声で答える。

「それは、良かった。それじゃあ、これをおまけしとくよ。クローデットちゃんに栄養つけてもらって、わしが扱っている品物を買ってもらいたいからねぇ」

「ありがとうございます。姉さんも喜びます」

 二重の瞳が露天商の表情を捉え、感謝の言葉を紡ぎ、手渡された林檎二個を買い物籠に入れる。

「ところで、アニエスちゃんの年代では、そのお洒落が流行っているのかい?」

 おじさんがアニエスの頭に巻いている布を見つめながら、不思議そうに問いかけてきた。

「私と姉さんの趣味なんです」

 笑みを零すでも無く、事実を淡々と述べると、そうなんだ、と納得したおじさんとの会話をそこで終えて、市場を後にする。


 ●


 夕日の光に照らされ、周囲の風景が赤味を帯びているひととき。市場からさほど離れていないメインストリートを歩いているアニエスは、額から汗が流れるのを袖で拭い、立ち止まって空を仰ぎ見る。陽射しの強さに、目を瞑る夏の季節という事を実感すると共に、ある事を思い出す。

……もうすぐ、あと二週間ばかりで、祝祭なのよね……

 と二週間後に開催される商業都市の設立を祝う祭りの事に思いを馳せていた時、

「つまらねぇんだよ。やめろ、やめろ!!」

 見上げていた視線を戻すと、かなり距離があったものの、メインストリートの開けた頃に道具を扱っている見慣れない金髪の男の子に野次を飛ばす大人二人組の姿を捉える。大人達の行動に眉をひそめながら、少年の動作を注視し、披露しているのが祭術であると把握する。

……こんな所で、祭術を披露するなんて!? 

 商業都市内で、無断で祭術を披露する行為は、禁止されている事実を知っているからこそ、警邏隊に捕まって、都市追放された者達を何回も目撃した事がある故に、無謀ともいえる少年の挙動に、戸惑っていた。

 肝心の少年は、男達の言葉を気にした素振りを見せず、平然と祭術を披露し続けており、その姿に男は苛立ちを隠きれない様子で近付き、男の子は襟元を掴まれ、突き飛ばされる。

……あの子、意外と度胸あるのね

 身体の向きが彼らに向いているアニエスが歩き出そうとした瞬間。

「異邦人のガキが祭術を扱うな!? 祭術は俺たち、リール人しか扱う事が許されてねぇんだよ」

 と尻餅をついた少年に向かって、二人組の片割れが発した言葉に、自分も含め、周囲の誰もが息を呑んでいた。

「おい、お前ら、何を勝手な事をほざくな!?」

 いち早く彼らに怒声を上げたのは、血気盛んな赤銅色の髪の若者。

「んだとぉっ!? ん。てめぇ、カルカソンヌ人じゃねぇか。んだよ、南部の田舎者の分際で出しゃばってくるんじゃねぇよ」

 南部の田舎者と蔑まれた若者の瑠璃色の目を見開き、怒りで身を震わせ、二人組に近付き、食ってかかり、二対一の喧嘩が始まった。

……寄りにもよって、リール人とカルカソンヌ人の喧嘩になっちゃうなんて……

 北部方面を中心に暮らしているリール人と南部方面を中心的に暮らしているカルカソンヌ人は、列島諸国の人口の大多数を誇る二つの人種。

 また、過去の歴史から互いに不干渉の立場を保つ事で争いを回避する事を選んではいるが、それでも、相手の人種に対する好感情を抱いている者はそう多くない。ましてや、祭術に関する事柄は、カルカソンヌ人やリール人にとって、衝突の火種になりかねない。

 その事を知っているアニエスにとって、目の前の光景は、頭を抱えたくなるものであった。 

 そして、すぐにリール人の二人組やカルカソンヌ人の若者に加勢しようとする者達が続々と現れだし、喧嘩の規模が膨れ上がると共に、野次馬が集まりだす。

 アニエスのいる往来は、あっという間に通行が困難になるほど人がごった返している状況に陥り、嫌な予感が的中した事に、参ったわね、と呟きながら、通り抜けられそう道を探そうと、視線を左右に動かす。

「君達、こんな人通りの多い場所で何をやっている!?」

 商業都市の治安維持を目的に結成された警邏隊二十四人が人垣を分けて、騒動の中心となった場所にたどり着き、殴り合っている者達を取り押さえる。ストリートに留まっている野次馬達も散らばっていく中で、事態が沈静化しつつあるのを胸を撫で下ろし、これで巻き込まれる事もない、と思い、動き出す。

「何度も言っているじゃあ、ありませんか!? この都市には、今日、着いたばかりで彼らと面識も無ければ、僕は巻き込まれただけなんですって」

 騒ぎの中心地点まで差し掛かったアニエスは、警邏隊の二人に金髪の少年が懸命に説いている様子を目撃し、足を止める。

 少年の方を良く見てみると、顔を殴られた跡と口が切られ、出血していた。

 どちらにせよ、無断で祭術を扱う行為で捕縛されるのも時間の問題なのだから、ほうっといてもいい、と自分に言い聞かせる。 

「うんうん。分かったからね? とりあえず、ついてきてもらえるかな。話は事務所の方で聞くからね?」

 と言った警邏隊の一人が少年の片腕を掴み、連れて行こうとするのを振りほどこうとする少年。 彼の話を真面目に取り合おうとしていない警邏隊の反応は少年を騒動の渦中にいた人物の一人と看做されているという事が端から分かり、アニエスは、深い息を吐き出し、一歩を踏み出す。



……まさか、こんな事になるなんて……

 痛みがひいていない左頬を擦りながら、何度も、喧嘩とは無関係であると説明していたにも関わらず、聞く耳を持ってくれない警邏隊の人達相手に、どうすれば、と思案する。

「もしも、君の言う通りだったとして、どうして、騒ぎの近くにいたのだね?」

 警邏隊の一人が苛立ちを露にしつつ、尋ねてくる。

 それは、僕が祭術がここでやっていましたから、という言葉を言い切る前に、

「ベルナール、大丈夫だった?」

 という声が右横から聞こえ、警邏隊と共に振り向く。

 頭に布を巻いている釣り目の少女がいた。

「……ベルナールに何か用件があるんですか」

 ベルナールという名前が自分の事を指しているのだと知り、面識の無い少女にそう言われている事に、戸惑いを得ていた。

「えーっと、君は、この男の子と知り合い?」

 警邏隊の人達は、当惑気味の表情で少女に訊いてきた。

「はい。彼は、私の友人なんです。観光に訪れた彼とここで待ち合わせしていたんですよ。そうしたら、あの騒動があって」

「そうなのかい?」

「いえ、ちが―――」

「怪我してるじゃない!?」

 少女との関係を否定しようと声を発しかけた瞬間、彼女の言葉に遮られると共に、警邏隊に背を向ける形で自分の目の前まで駆け寄る。

……背が高いなぁ……

 と彼女の印象を抱いていた。僕の頬を触れる少女の手に困惑し、

 わたしにあわせて。

 そう、唇が動いたような気がした。それって、と言葉にしかけた時、彼女の後ろにいる警邏隊の姿をとらえ、一つの可能性に気付く。

……僕を助けようとしてくれているというのかな……?

 少女の行動理由が判断つかなかったものの、この場から抜け出す為には、それが一番良いのかもと思い、話を合わせる。

「えぇ、そうなんです」

 と警邏隊の人達と目を合わせ、断言する。

「―――ふむ。嬢ちゃん達がどこに住んでいるのかを教えて欲しい」

「南東部の地区にあるカメレオン亭です」

 それまで、沈黙を保っていた無精ヒゲを生やしている警邏隊の一人に住所を問われ、ためらいもなく答える少女。

「カメレオン亭か……。よし、ワシらは引き上げるぞ。まだまだ、仕事があるからよ。少年、―――くれぐれも嬢ちゃんに迷惑かけないようにな」

 首肯するおじさんは、戸惑い気味の相方の肩を叩き、自分達から離れていく。

 金銭が稼げなかったのは痛いけれど、面倒事を回避しただけでもよしとするかな、と顔を下に向けて考えに耽っていた最中、身体が左側に引っ張られ、つんのめる。

 顔を上げると、そこには自分の左手を掴んで、前を歩こうとしている少女の姿を確認する。

「え? ちょ、ちょっと」

 焦っている自分の方に振り向き、感情の読めない表情を浮かべている彼女から、

「私についてきて」

 と有無を問わない声音で呟かれ、警戒心を強める一方で、あの場から抜け出すきっかけを与えてくれた彼女の言う通りにしてみようと決める。



 「どうして、僕を助けてくれたんですか?」

 警邏隊の姿が見えなくなった頃合を計り、前を歩く少女の肩越しに疑問視を発した。

「別に助けたわけじゃない。君に聞きたい事があったから、連れてきただけ」

「……そうですか」

 それ以降、会話が途絶えたまま、彼女の意図が考えるのはやめて、彼女の後を追う着いていくだけしかなかった。

 人通りの少ない路地に入り、辺りを見回した少女は、そこで握っていた僕の左手を離し、向きを変えて、対面する。

「……ねぇ、君はこの都市に来て、何日目?」

 唐突な質問に対し、今日着いたばかりなんですが、と戸惑いながら返答した。

「君は、正規の祭術師ではなく、目指している身ってところなのね」

……どうして、それを!?

 指摘された事実に、息を呑む。混乱した思考が脳裏を駆け巡っていた時、

「そんな、驚かなくても……。ただ、あんな所で祭術を扱っているから、予測が当たっただけ」

「あぁ、そういうことでしたか。確かに、僕は祭術師を目指してます」

 と言い切った僕に、彼女の瑠璃色をした瞳が揺れる。

「ん? あんな所って、……それって一体」

 首を傾げる少年に、少女は数秒の間を置いてから、口を開き、

「君みたいに人通りで祭術を披露して、警邏隊に捕縛されていった人々を多く見てきたから」

 少女の話は続き、商業都市が他の都市とは異なり、市議会の許可なく、人通りの多い場所で祭術を扱う行為は禁止されている事を知る。

「僕も最悪の場合、都市追放されていたというのですね……」

 北部方面の様々な都市で祭術師となろうと試みた結果、商業都市に訪れる事となったロジェにとって、所持金も心許ない今、都市追放されれば、死活問題どころではなかった。

 ふと、ある公的組織の存在を思い出し、

「そういえば、この都市の旅団はどこにあるのです?」

「旅団は、一つも設立されていないわよ。まぁ、昔はあったみたいだけど」

「ここに住む祭術師達は、どうやって、仕事を得ているのですか!?」

 と思わず、大声になりながら、問いを発する僕を眺めながら、彼女は冷静な口調で告げる。

「そこまで、私も知らないわよ」

 参った、と心の中で愚痴っていた時、腹の音が鳴り出す。自分がここ数日、まともな食事を口にしていない事を改めて認識する。

……あっ、やばい

 と感じた瞬間には、体中の力が抜けてしまい、前へ傾く。

 少女は慌てた様子で、買い物籠を下ろすと同時にニ、三歩踏み込み、少年の右肩を押さえる形で支えながら、壁に寄りかからせる。

「どうしたの?」

「……お腹空いた」

 少年の言葉を耳にし、目を丸くした少女は、考え込んだ様子をみせた後で、大きく息を吐き出す。

「……ふぅ。なんか食べさせてあげるから、もう少しだけ、歩けるよね」

 警戒心以上に空腹には耐え切れなくなり、彼女の提案に乗る事にした。



 南東部の地区。一角の路地裏を歩いている二人。

 急に足を止めた少女は、首を動かし、後ろにいる僕に、こっち、と呼びかけられ、近くの建物の扉を潜り、入っていく。

 彼女にみならい、建物の奥へと足を踏み込む。

……ここって、酒場?

 建物の中は、様々な調理器具が置かれ、料理する場所なのだと分かると共に、奥の扉から人々の笑い声を耳にする。アニエスは、近くの調理台に買い物籠を置き、中身を順番に出していく。

「おぉ、帰ってきたのか! おかえり!」

「ただいま、おじさん」

 前掛けを着けている上背の男性が自分達に反応し、調理の手を中断し、やって来る。

「アニエス。この男の子は?」

 瑠璃色の瞳をもつ男性が僕の姿を不思議そうに見つめ、少女へ疑問を投げかけていた。

……彼女、アニエスという名前なんだ。

 場違いな感想を秘める一方で、アニエスは、一歩、前に進み、眼前にいる男性に今までの経緯を説明していた。

「なるほどね。それじゃあ、彼……名前はなんて言うんだい?」

「……あれ? そういえば、訊いていなかった」

 男性から質問を受け、思い出したかのように一言呟いたアニエスは、身体の向きを反転させ、僕と目を合わせ、

「自己紹介がまだだったよね。私は、アニエス。後ろにいる男性は、この酒場を経営しているレイモン。君の名前は?」

『そう、名前が無いのは、不便ね。それじゃあ、せっかくだから、あたしが付けてあげるわ。 君は、そうねぇ……。うーん、ロジェっていう名はどうかしら? 素敵じゃない?』

 今の僕の証である『ロジェ』という名前をリール人の女性が付けてくれた事を思い出し、懐かしさが込み上げながら、二人に名乗った。

「うん。ロジェ君の為にも、どんと、美味しい料理を作って上げるから、少し待っててくれよ」

 と笑いながら調理に戻る男性。

「それじゃあ、行きましょう」

 と少女に促され、奥の方にある木の扉を掻い潜る。



 酒場は、少人数で切り盛り出来るほどの面積。丸型のテーブルが八台。一台につき、椅子が四脚備えられている。

 酒を酌み交わす人々で賑わいをみせている酒場の中にアニエスが現れ、視線を向けた客達から、

「おぉー、アニエス(ちゃん)!!」

 大音量の歓声に圧倒され、一歩後退する自分とは対照的に、彼らの言葉に手を振りながら、彼女は首を左右に動かし、ある方向に視線が止まった。

「ついてきて」

 と彼女に案内されていた最中、

「今日も綺麗だねぇ。アニエスちゃんの顔を見ていると、一日の疲れが消し飛ぶよ」

「あら、私もおじさんの力になれる事があって、嬉しいわ」

 とも、

「そこの彼は、もしかして、嬢ちゃんの恋人かい?」

「違いますよ。彼がお腹を空かせていた所を拾ったんですよ」

 アニエスに次々と親しそうに話しかける客達と言葉を交わしている様子を傍らにいたロジェは、遠い目で見ている。

「おい、坊主! 俺らのアイドルを取るんじゃないぞ!? もし、付き合いたいというなら、そん俺達を倒してからにするんだぞ~」

「はい!?」

 頬を赤らめ、酒の入ったコップを右手に持っている男性客の一人が左腕を自分の肩にかけて、話しかけてきた。思わず、素っ頓狂な声で返事するロジェの反応に笑い出す人々。

「もう、おじさん。彼に絡まないであげて」

 彼女が半身だけ振り返り、言葉にする。嬢ちゃんがそう言うなら、しょうがねぇな、と男性客は、酒の匂いを漂わせ、己の席へと向かった。

……驚いたなぁ……

 胸を撫で下ろし、歩を進める。

「それじゃあ、ここで少し待ってて」

 端の方にあるテーブルの所で、足を止めた彼女は、 言葉少なげに言い、酒場の奥へと姿を消していく。

 木の椅子を後ろに下げ、深く腰掛ける。背もたれに身体を預け、力を抜いていた。赤い瞳を酒場の天井に向け、酒場の雰囲気と喧騒に対し、一歩引いている自分自身がいる事に苦笑を得る。

……早く食べ終えて、ここから立ち去ろう……




 三十分近くが経ち、彼女が料理を運んできてくれた。シチューに入っている塩漬けされた豚肉を勢いよく頬張り、

……おいしい

 久々の食事の有難さを痛感していた矢先、肉の欠片をよく噛まずに呑み込んでしまい、むせる。

「っ……!?」

 息が詰まり、と胸元を右手で叩いて落ち着かせようとする一方で、左手にコップを握りしめ、口元に運ぶ。

……水がない!?

 中身がすでに空である事を知り、余計に咳が激しくなり、顔を伏せる。

 そこに硬い音を耳にし、目線を上げると水差しがテーブルの中央に置かれる。運んでくれた手から視線を辿ると、給仕の仕事をしているアニエスの姿があった。

「……もう、なにやってんのよ」

 呆れの交じる口調で呟きながら、自分が握りしめていたコップを奪い取って、水を注ぎ込んだ後に渡してくれた。

「気持ちは分かるけど、ゆっくり、食べなさいよ」

「……ありがとう」

 喉を鳴らして水を飲み干した後、息を整える自分を一瞥した彼女は、己の仕事に戻る。

 食事を再開したロジェは、ゆっくりと咀嚼しながら、ここに至るまでの経緯を思い浮かべる。

 ……彼女の申し出が無かったら、本当に危なかった……。にしても、どうして、彼女は見ず知らずの僕にそこまでしてくれたのかな……?

 彼女に対する感謝の念を抱くと同時に、かすかな疑念が胸の裡に芽生えかけ、自問自答する前に、まぁ、考えても仕方ないか、と考え、残り僅かとなった食事に専念する。 

 シチューが入っていた皿の中身も空となった。一息つき、腹が満たされた事で、睡魔が襲い、首を前後させていた一時、

「てめぇ、ふざけるなよ!?」

 酒を交わす人々の声を打ち破る怒鳴り声と物音が酒場全体に響き渡る。ハッとするロジェが顔を上げると、目と鼻の先にあるテーブルの一台と椅子が派手に転がっており、その近くにリール人の若者とカルカソンヌ人の若者が取っ組み合っていた。二人ともに、悪酔いしている状態にあった。

 この光景に、どう喧嘩を止めようかな、と思案し、反射的に腰を浮かせている自分がいる事に気づき、思わず苦笑が零れる。

……ここは、あの場所じゃないんだから、荒事は不要だよな……

 と思考を切り替え、視線を中心から横にずらしてみると、他の客達が壁際に避難していた。

……巻き込まれたら厄介だから、僕もここから移動しよう……

と思い、近くの壁際に足を進めている。

 ロジェが二人の喧嘩を横目で見た時には、仰向けになっているカルカソンヌ人は、倒れた衝撃からか、身動き一つしておらず、硬く目を瞑っている。そんな彼に、リール人が馬乗りの体勢となって、さらに殴りかかろうと片腕を振り下ろそうとした瞬間、

「やめなさい!!」

 と叫んだアニエスがリール人の横から、彼の片腕を両手で押さえ、引き剝がそうとする。

「南部人の風情が、俺に触るな!?」

 闖入者の存在に舌打ちしながら、首を動かして、己の腕を掴んでいるのが瑠璃色の瞳をもつ少女である事を知ったリール人の若者は、声を荒げ、強引に振り解いてから彼女を突き飛ばす。

 立ち上がったリール人が尻餅をつくアニエスの方向に振り向いており、僕の方からだと彼の表情を窺うことはできない。それでも向かい側の壁沿いに人々の顔から、剣呑な気配を感じ取り、巻き込まれないように逃げていれば良かったのに、とアニエスに対する感想を裡に秘める。

 周囲がアニエスとリール人の二人に焦点を定めて、固唾を呑んで見守っているこの状況に、静観を決め込もうとしたロジェではあったが、アニエスが喧嘩の仲裁に入った事で、彼女の真意はどうあれ、結果的に助けられた事実が自分を動かし、恩返しと言う意味合いも込めて、二人の方向に近付きだす。

 人々から、おぉっ、とも、えっ、ともいう声が続々と紡がれ、リール人の青年は、何事かとロジェの方に振り向いた。

「なんだぁ!? てめぇは」

「そろそろ、やめましょうよ。周りに迷惑ですよ?」

 僕の言葉を聞いた若者は完全に頭に血を上らせ、殴りかかってきた。

 大きく振り降ろす右腕。半身分だけ身体をずらし、一歩後ろに下がり、避ける。

 目の前を通り過ぎる彼の右手首を掴んでから、足払いする。

 体勢を崩す若者の身体と入れ替わるように、背後に周ってリール人の右手首を捻りあげる。

 うつ伏せになったリール人の背中に片膝を乗せ終え、組み伏す。

「おお、坊主、なかなかやるじぇねぇか!!」

 そう言葉を放った男性客が両手を叩き始め、他の客達も次々と拍手しだしていた所に、

「……なに、危ない事やっているのよ」

 起き上がったアニエスが、目の前にやってきた。彼女は自身の横腹に両手を置き、僕を見下ろして、納得のいかない事を口にしていた。

「荒事にはある程度、慣れてますから。それに、それはこっちの台詞ですよ。どうして、わざわざ喧嘩の仲裁役みたいな事をやったんですか?」

「ここは、私が仕事している場所だから、私がやらなくちゃ」

「……だからって、貴方一人の力では、無理に決まってるじゃないですか」

「そんなことない」

「そんなこと、ありますよ」

 互いに睨みあう状態が続いているロジェとアニエスは、自分達を呆然と見つめている人々の事をすっかり忘れていた。

「……二人とも、なにやっているんだ。その辺で良いだろ。それより、警邏隊には連絡したのか?」

 一歩を譲らない二人の会話に歯止めをかける声を発したのは、この酒場の主。周囲の人々から安堵の息が漏れた。

「あっ……」

 とアニエスが目尻が上がっている瞳を見張り、私が行ってきます、とレイモンに告げ、酒場の外に出て行く。



 それから、酔っ払い二人を連行していく警邏隊の姿を見送った後も酒場の椅子に座っているロジェがいた。

『アニエスを助けてくれて、ありがとう。俺からの感謝の気持ちとして、果物を切っとくからさ。食べていきなよ』

 レイモンの言葉を思い出し、断りきれずにこうして、今も酒場に居座っている自分に対し、心の中で苦笑を零しながら、眼前に置かれた器から切り分けられた果物を刺したフォークを口元に運ぶ。

 眠い目を擦りつつ、果物の食感を味わうと、

「それでは、はじめたいと思います」

 活気付く酒場の中、アニエスの静かな声音が一際、響きわたる。

「「待ってましたー!!」」

 常連客と思わしき人々の声の音量に驚き、自分の身体が強張りかけていた間に、前掛けを外し、畳み終えたアニエスがゆっくりと歩きだす。

 行く先は、酒場の中央。彼女の動きに合わせ、拍手、口笛、足踏みなどをしながら奏ではじめる酒場にいる人々。

……これから、何が始まるんだ?

 そんな思いを抱いている自分の瞳が次に映しだしたのは、右と左の踵を交互に木の床を叩き、一つのリズムをつくるアニエスの姿であり、 数十秒を過ぎた頃から、変化が生じる。

 踵を踏み鳴らす最小限の動作が徐々に、右足と左足を前へ大きく振りだす動作へと移る。

 静から動の流れに変わった途端、彼女の身体全体をもちいたダンスがはじまり、時に前転、後転、側方宙返りを交えて、舞う。

 独特のリズムで多彩の動きを魅せる彼女に、思い思いに声をかけ、酒を堪能しながら楽しんでいる客達。彼らの表情を視界の端に入れていたロジェは、目を擦りながらも、今、目にしている光景を脳裏に焼き付けようとしていた。

……それにしても、彼女はすごいな。こんな激しい動きにも拘らず、表情一つ変えないなんて

 舞いとは対照的に冷静な彼女の表情を見やり、感心していたロジェは、

……あれ?

 と彼女の動作を見続けている内に、形容しがたい思いが芽生えた事に、なんだろう、と不思議がるも、明確に定義できる言葉を見つからず、四苦八苦していた。

 だがそれも次第に、目蓋を開けているのが辛くなるほどに倦怠感が身体を包んでおり、故に考えるのを止めてしまう。

 アニエスの舞いは続行していたが、眠気には勝てず、果物が入っている器を退けて、両腕をテーブルに置いてから顔を伏せた。



 人の声が浅い眠りに落ちていたロジェの耳に届き、目を覚まして身じろぎしつつ、顔を上げている途中、

「あら? 起きたのね」

 と穏やかな声で話しかけてきたのは、正面の椅子に座っている女性。彼女の目尻の下がっている瑠璃色の瞳と目が合い、

「あぁ、いきなり、話しかけてごめんなさい。私の名前はクローデット。レイモンとアニエスから君の事情を聞いているわ。だから、ロジェ君、今日は、うちに泊まっていきなさいな」

「……はい?」

 予想外の言葉に虚をつかれてしまい、思わず素っ頓狂な声を発してしまうが、すぐに平静を取り戻したロジェは、目の前の女性から目線を逸らし、テーブルに置かれているランタンに焦点をあわせ、

……確かにこの人の提案は、今の僕にとって申し分ないほど魅力的なものではあるけど……

 歯切れの悪い思いを覚えていたのは、過去に親切な申し出を受け入れた結果、酷い目にあってきた思い出を一度たりとも、忘れた事が無かった。

 右耳の上を髪越しに軽く触れながら、目線を戻し、それ故に慎重な口振りで、断りの言葉を呟く事にした。

 「お気持ちは有難いですが、やっぱり、これ以上は貴方達に迷惑をかけるわけにはいきませんよ」

「あら、そんなの気にしなくていいのよ? だって、ロジェ君がアニエスを助けてくれたらしいじゃないの。恩人をお礼の一つもなく、むざむざ帰らすわけにはいかないわよ。……それにね、こうしてロジェ君と会ったのも何かの縁だと、あたしは思っちゃう方なのよね」

 赤銅色の髪を掻き分け、そう言ったクローデットを呆然と見つめ、不思議な人だな……、という思いを得ていた。

 軋ませる音が聞こえ、その方向に首を動かしてみてみると、ロジェの三メートル後ろにある階段があり、丁度、二階部分から降りてくるアニエスの横顔が視界に入った瞬間、彼女の方も、こちらに顔を向け、目があった。

「……ようやく、起きたのね」

 静かな声音で呟きながら、一階に降りたアニエスは、ロジェ達のいるテーブルに近付き、

「ねえさんの言った通りにしてきたよ」

 ねえさん、と呼ばれたクローデットは、左横にいる少女に振り向き

「アニエス、おつかれさま」

 と優しげな眼差しで言葉をかけ、微笑する。

……姉さん?

 彼女達を交互に眺めるとカルカソンヌ人の身体的特徴が一致している事に気付き、彼女達の関係を知っていた最中、クローデットが自分の方に向き直り、言葉を発する。

「ロジェ君、本当に気にしなくていいから、泊まっていきなさい。ね?」

 念押しした真正面に座っている女性の迫力にたじろぎながら、アニエスを一瞥した後、

……この人の姉というなら、大丈夫かもしれない

 と思い、ロジェ首を縦に振り、肯定の意思を示した。



 ロジェを二階の部屋まで案内する役目を終えたアニエス。階段の踏み板を軋ませる音を耳にしながら、

『僕は祭術師を目指しています』

 少年の言葉が脳裏から離れず、

……あんなにも迷い無く、祭術を扱う者になろうとするのはどうして……?

 そんな疑問を抱き、自分の中に込み上げてきた祭術への思いに対し、唇を噛み締める。

 「彼の事も祭術の事も私には関係ない」

 と自分自身に言い聞かせてから勢いよく首を左右に振った後、両頬を軽く叩き、深呼吸した。

 酒場の一階に降りると同時に、自分の目線が咳き込んでいるクローデットに釘付けになり、彼女がいるテーブルに慌てて駆け寄った。

 クローデットの背中に右手を当てて、優しく撫でながら、

「ねえさん、あんまり無理しないで」

 と呟いた。

 数分間経って、ようやく呼吸を落ち着かせたクローデットは、自分の方に振り向き、

「あたしは、もう大丈夫よ。ありがとう」

 その言葉を耳にした私は、姉の左横にある椅子に座った。

「彼を滞在させて、本当に良いの?」

 不安な面持ちで疑問を口にすると、頬杖を突いていたクローデットは一瞬だけ目を見開くと、すぐに安心させるように穏やかな口調で、

「なに、言っているのよ。放っとく事なんて、あたしには出来ないわよ?」

 と笑みを浮かべていた。

……ねえさんには、ほんとに敵わないなぁ

 微かに口元を上げて、クローデットを頼もしく感じていた。

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