第十一章
メインストリートの大広場。
ロジェは、己の呼吸がまだ荒い事を自覚しながら、今か今かと出番を待ち続けている間に、付け焼刃とはいえ、今後の行動順を頭の中で整理する。
視線の先。大広場中央付近では、各都市の旅団に所属している少人数や祭術師一人だけと云ったペース配分で自由競技が行われている。
一組の持ち時間は、約十分間で、大体、二組から四組ぐらいまで入れ替わり制で大広場に立ち、終了の時間を報せるのは進行役の男性の笛が合図でもある。
そして、色々な感情を込められた拍手喝采や野次や罵声などを言い放つ見ている側の人間達の声は、時に共鳴しあい、時に他の声によって、それらは宙へと掻き消されていく。
そんな中で、黙々と己の表現をやり通す。
……落ち着け。落ち着くんだ。目の前のあの人達のが終わってしまえば、いよいよなのだから。
ロジェは、深呼吸する。
俯き加減になっていた顔を見上げ、このどこかにクローデットが連れ出してきてくれるはずのアニエスが見ている事を願う。
そして、
「次の方々どうぞ。前に」
と、進行役をこなす警邏隊の人から言われ、次の出番の為に休憩していた祭術師達も含めたロジェは、自由競技を終えて戻ってきた祭術師とすれ違い、大広場へ移動する。
●
「いよいよ、ロジェ君の出番よ!?」
喜色満面なクローデットは、隣にいるアニエスの肩を揺すられるも、当の本人は、憮然とした表情で沈黙を保ったまま、ロジェの一挙手一投足を見つめていた。
ロジェは、他の祭術師達と位置決めの話し合いを終えた後で、アニエス達から見て広場の左奥におり、観客達との距離が近い位置に向かいだす。
「では、次の自由競技が始まりますので、しばしの間、お待ちください!!」
進行役の男性が宣言する。
「次はどんな祭術を見せてくれるんだーーー!!」
「期待しているぞーーー!!」
「お前等、つまらないもん見せたら、ただじゃ置かねぇぞぉ~~~!!」
わぁ!? という今から始まる祭術に対する応援や野次の声が次々と飛ばされ、大広場を覆い尽くす。
これらのざわめきは、商業都市の各地区へと波及する。
人々の熱気が溢れるばかりのあの場所で、
……この前、私に魅せたままの祭術だと、終わった後がどうなるのか分からなくなるわよ。その覚悟はあるの? ……ロジェ。
と思い、頬杖している逆側の手が無意識に握り拳となる。
アニエスの両眼が祭術師達の姿が視界に入らないほど、ただ一人に焦点が絞られる。
なんだか、口の中が異様に乾いた気分となり、落ち着いていられない。
頬杖を付いている状態から姿勢を正す。
……ここからだと、やっぱり、表情が分かりにくいわね……。
だからこそ、アニエスは決断する。
「私、ここを降りる」
「ん? ……えぇ、いってらっしゃい」
流し目でアニエスの横顔を捉えたクローデットは、妹の瞳に宿る想いを読み取り、快く送り出す。
姉に背を向け、回廊の入り口兼出口を目指して走り出す。
目的地は、大広場。
●
「あそこにいる子供は、どこの旅団の者なんだ?」
「記章があるから、祭術師なんでしょうけどねぇ~~~」
あまりにも場違いなボサボサ髪の少年の存在に対する観客達の声が聴覚を捉え、彼らの訝しげな視線を一身に浴びていた。
……これが祭術師の舞台なんだ。
集団の時とは違う感覚を改めて実感した事で、胸の裡から恐怖心が呼び起こされ、ロジェは、条件反射的に身を竦ませる。
だけど、
……僕がただ単に、こう言う場に慣れていないだけなんだ。だから、意識してしまって当然!!
と、左右の手を持ち上げ、両頬を叩いた。
乾いた音が鳴り、左右の頬に小さな痺れと痛みを感じつつも気を取り直す事に成功する。
ふぅ、と一呼吸したロジェは、進行役の男性からの開始の合図を待った。
五秒、十秒、十五秒が経過して、進行役が周囲を見渡した後で口を開き、
「さぁ、始めてください!!」
こうして、三組の祭術が開始される。
●
「やめちまえ!?」
「お前、下手すぎなんだよ~~~」
「「やめろ!! やめろ!! やめろ!!」」
罵声、嘲笑、悪口雑言が大広場に到着したばかりのアニエスの耳に入っていた。
……何事?
と、思考する一方でまだ自己の息が整っておらず、疲労感を伴った身体は膝上に両手を付いた体勢にあり、なかなか顔を上げられなかった。
深呼吸を一回、二回、三回、と繰り返していく中で、ようやく上体を起こす事が出来た。
視界一杯に広がる祭術を見ている人達の輪が隙間が無いほど構築されるのを目の当たりにして、唖然となる。
それでもゆっくりと移動しながら、忙しなく視線を動かして、どうにか輪の中へと入る事が出来ないものか、と道筋を探しだす。
アニエスが必死になる理由には、自分の中で渦巻いている想いによって、突き動かされていた。
今更、祭術を見た所で自分の想いは変わらない、という気持ち。
だけど、もしかしたら……、という気持ち。
正反対の位置から発せられる二つの想いが激しく鬩ぎあっており、どっちが本当か嘘なのだろうか? と判断を下そうとしても、どうしてだがうまくいかなかった。
だからこそ、まるで誰かに、確かめてみろ、と背中から押されてるみたいに左右の足が動き、この場に辿りついていた。
それなのに、肝心の自分が良く知っている少年が扱う祭術が見れない事にもどかしさと焦りを抱き始めていた訳で、
……どうしよう?
と、思っていた矢先に背後の方から幾つもの足音が聴こえると同時に、
「もういいや、帰ろうぜ」
「そうだなぁ~~~」
二人組の会話が己の鼓膜を打ち、他にも似たようなやり取りをしている人々がいる事を聞き取ったアニエスは後ろの方へ顔を向けてみると、目に飛び込んできたのは祭術師達に背を向けて歩きだす人々。
見続ける選択をしていた人達で保たれたその形が乱れ、次から次へと見る事をやめた人達が崩壊した輪の外側から抜け出し始めていた。
アニエスは、その崩れかけているポイントから人の波を掻き分けて進み続けること十数秒近くになって、自分が祭術を見やすい位置に辿り着く。
ふぅ、と呼吸を落ち着かせて、前を見る。
ロジェとリール人の祭術師二人組とカルカソンヌ人の四人組が大広場で祭術をしていた。
見れた事に対する安堵感より先に野次や嘲笑を浴びせられている対象がロジェであった事を理解する。
それも一目瞭然なくらい二組よりも動作が遅かったり、感情表現がつたない為に、プロとアマの実力差が著しく存在しており、故にひときわ異彩を放っていた。
「下手」
と、ロジェの祭術に対する動き方への見解を口の中で言葉を転がす。
だけど、ロジェ自身に向けられている罵詈雑言と言った周囲の声が届いているはずなのに、ボサボサ髪の少年の表情からは、ただ只管、己の祭術に集中しきっている様子にこれ以上ないというほどに目を見開いて、どうしてそこまで……、と無意識に呟いていた。
「あれ?」
ロジェの動作に一つの違和感を募らせていく。
瞬時に思考回路を働かせて、その正体を突き止めようとする。
前髪が切り揃えられていない少年が右の二回転を宙で舞い、着地すると共に身体の重心を右足に傾け、屈み込むと共に左足を精一杯伸ばす。低姿勢となった少年は、右腕を折り曲げて掌を横向きにさせて、胸元と十センチも離れていない空間に置いた。
と、右の掌に吸い込まれるような形で垂直に落ちてきた球を捕らえたはずだった。
だが、球は勢い良く少年の頭に直撃し、快音を響かせる。
場に空白が生まれた。
「何、失敗してんだよぉ~~~。おまえ、下手くそだなぁ!!」
「くっくっ……くっく……。あぁ~~~、腹が痛い」
ロジェを中心した位置に、呆れと爆笑の渦に生じる。
「あっ……、そうか」
と、一人言を口にしていたアニエスは、納得気味にロジェを見据えつつ、違和感の正体を察する。
それは、ロジェの雰囲気が異なるという事であった。
以前に祭術を披露してみせた時には、見ている側からも伝わってくるほどの全身が張り詰める緊張感を漂わせていたのだが、今はそんな気配の素振りがあまりにも感じられなかった。
……確かに、前よりは柔らかくなったとは思うけど、それでも、まだまだ随所に固さがありまくりだし、これが私に見せたい祭術とでも言うの……?
と、疑問が芽生える。
ロジェが動けば動くほどに、祭術を披露する場が保っていた緊張感が急速に失われていく。
この場にいる祭術師二組にとって、ロジェの祭術が己の祭術を邪魔する不協和音となっていたが、それでも、自分達の方も祭術を扱っている途中だけに集中しないわけにはいかず、所々でボサボサ髪の少年を睨みつける場面が幾たびかアニエスの視界に入り込む。
……分からないわね。
と、思ってしまう胸中には、ロジェの脚捌きと腕の振り方が私から見ても無茶苦茶に思えて仕方がなく、それゆえに彼の意図が把握しきれずにいる。
アニエスが抱く想いとは裏腹に、ロジェは、二回転半している時に着地の足並みが揃わなかったり、祭術道具を扱っている傍から掴み損ねていたりしている訳で、失敗と思わしき行動を何回繰り返そうとも、祭術を扱う事だけは止めようとはしなかった。
だからこそ、ここに到着した時に自分の耳に聴こえてきた野次や嘲笑は、ロジェに対して言われていたものなんだ、と再認識してしまい、思わず右手を持ち上げ、右の中指と親指で左右のこめかみを何度も指圧する。
アニエスが再認識した結果を得た事で、脱力したように息を吸った瞬間、自分の耳を通りぬける人々の声に、あれ? と首を捻った。
野次や嘲笑を宿す言霊が掻き消されるほどの笑い声に大広場全体が溢れかえっていく。
「おいおい、しっかりしろよ!?」
励ましの声を掛ける者。
「少年!! 他の祭術師達に負けんじゃねぇぞ~~~」
激励する者。
「アイツ、なかなか根性あるわねぇ」
応援する者。
「頑張れ!! ロジェおにいちゃん!!」
声援を送る者。
……この声って……?
と、聞き覚えのある声音に反応したアニエスは、視線を彷徨わせてみると、すぐにリリー達の姿を発見してしまい、子供三人組の位置まで歩き出す。
「貴方達、来てたの?」
三人組が肩越しに振り向いて、飾り布を巻いている少女の姿を捉え、アニエスに対する三者三様の呼び方を言った瞬間、子供達の声が調和した。
ふと、その光景に口の端が緩みかけそうになっている事に気づき、咄嗟の判断で片手で口元を隠す。
アニエスは、奥歯を噛み締めてから片手を下ろした。
「お姉ちゃんもアイツの祭術を見に来たの?」
「リリー達は知っていたの? 彼が祝祭で祭術を披露する事を……」
目を瞬かせながらアニエスが問い返してみると、子供達が互いの顔を見合わせ、三人ともに首を傾げていた。
……ん? 何かが噛み合っていない?
アニエスが子供達の様子に不思議そうな眼差しを向けていた所に、
「あれ? ロジェさんが祭術の練習していたのって、この祝祭に参加する為なんでしたよね?」
三人組の中で次に唇を開いたジャンが言い放った内容が自分の耳に届き、
……あぁ~~~、そうだった。三人には、彼が練習場所を求める理由について、そう説明していたんだっけ……。今の今まですっかり、忘れてたわ。
恥ずかしさの余り、顔を隠したくなる気分に駆られてしまい、数秒も満たない間に右腕に力が入り、前腕部分を持ち上げそうになった時に、ようやく己の動きを察し、咄嗟に爪を立てて右手を握り締めたまま、下げさせる事に成功する。
「えぇ、そうね。でも、ほら? 私がロジェの祭術が前に見た時もあんな感じだったから、出場しない場合もありえるんじゃないかなって、自分で勝手に思っちゃったのよねぇ~~~。だから、今日になって、ここに訪れてみたら吃驚しちゃって……」
左右の眉を八の字に下げた表情を作りつつ、辻褄を合わせる為に思考回路をフルに活用しながら喋りだしていた。
「確かに、アイツの祭術は下手だよね」
「へぇ~~~、そうだったんだ」
しきりに納得した面持ちで首を縦に振るリリーとフィルマンの二人。
「……」
口を閉ざしているジャンと目が合う。
「わ、私の顔に何か付いている? ジャン」
何故だか分からないけれど、自分の心を見透かされているんじゃないか、と思い始め、唾を飲み込み、内心で冷や汗を掻きだしたアニエスは、不安そうな声色で尋ねる。
「お姉ちゃんの顔に変な物は付いていないから、安心していいよ」
と、真っ先に答えたのはリリーであり、
「リリーの言う通りなので、大丈夫です」
追随する形でジャンが言葉を紡ぎ終えた瞬間に、わぁ、という大音量が鼓膜に響いてきた。
「そうだ。まだ、ロジェさんが祭術をやっている途中だったんだ」
「一人だけ、下手で可哀想だから、アイツの応援をしなくちゃ!!」
「ロジェお兄ちゃん頑張れーーー!!!」
三人組は、一斉に方向転換してロジェや祭術師達がいる方向へ顔を動かし、それぞれがロジェへと声を掛け続ける。
私も、ボサボサ髪の少年の方に視線を向ける。
……そうじゃない。軸足にしっかりと重心を傾けなくちゃ……、だから、今みたいな変なぶれ方になって、千鳥足みたいになっちゃうのよ。……あっ、なんで、そんな所でバランスを崩すかな。回転する時は、こうやって、両腕の肘をきちんと折り畳まないと……。
声には発しない呟き。ロジェの祭術を目にしていく過程で、私だったらこうするのに、という思いが強まり、無意識に小さく手振り身振りを交えながら、ロジェの祭術に魅入っていた。
時間も五分台半ばに突入し、祭術も中盤から終盤への段階に突入する。
ここら辺から祭術師達が活発に動き出す。
陣形を組み、集団を活かした祭術の構成となっていく。
動作に変化が見受けられないのは、ロジェ一人だけであった。
緩慢とした流れの中で両足の爪先を器用に扱い、地面に何かの模様を描くようにして、身をくねらせた舞っている。
その様子を目にしていたアニエスは、
……なんだか、子供が自分の思った事や感情を夢中になって紙に描いているみたい……。
と、思うようになっていた。
「今、私は何を考えていたの?」
小さくかぶりを振り、自嘲交じりの溜息をつく。
だけど、もうすでにアニエスが得た認識は、この瞬間にも忘れる事が出来なくなるくらい脳裏に焼きついて離れず、視線の先で祭術を披露しているロジェの姿が自分の日常の風景となっている道端で無邪気に遊んでいる見知らぬ子供達やリリー達の姿と重なりあわせていく。
その作業を半ば意識せずにやっていた。
だからこそ、
「あっ……、そうだった。私も昔はあんな風にやっていた事があったっけ……」
息を呑み込んだ後で懐かしそうに囁いたアニエスは、鼻の奥がつんとした感覚が込み上げてきて、徐々に視界がおぼろげになる。
堪えきれずに目を瞬かせると、目尻から涙が零れて左右の頬を伝って落下する。
落ちた分の涙だけでは終わらず、次から次へと涙が溢れ出てくる。
袖口で涙を拭いているアニエスの様子を横目でちらりと見遣ったジャンが隣に居るリリーの裾をついばむように引っ張る。
「ジャン。どうしたのよ」
小声で話すリリーに、ジャンは口を閉ざしたまま、顎先を後方に動かして、見ろ、と合図した。
リリーとフィルマンは上体を捻って振り返る。
「後ろに何があるのよ……って、お姉ちゃん。どこか痛むの?」
「アニエス姉ちゃん?」
子供達に泣いている所を見られた事を自覚したアニエスは、首筋から耳付近まで紅潮させる。
ふぅ、と一息を入れる事で自分自身を落ち着かせてから、
「ちょっと、昔の事を思い出したら、自然と涙が出てきちゃってね……」
「悲しい事を思い出したの?」
やんわりと首を左右に振ると同時に、ううん。違うの、という前置きの言葉を囁いた後で、
「嬉しかった、とか、楽しかった、とかのそういう感情を得る事ができた思い出の方だから、私はもう大丈夫よ」
と、涙を拭いながらも口元に若干の固さが残る微苦笑をリリー達に向けて、安堵を齎せる声色で語りかけた。
「そうなんだぁ~~~。あれ? でも、お姉ちゃん。嬉しかった事でも涙が出るものなの?」
「悲しいから涙が出るんじゃないの?」
リリーとフィルマンの二人からの質問に、
「……多分ね、リリー達にもそういう時が来ると思うわ」
ふぅん、と返答する二人の表情には、理解と不理解が半分半分が如実に浮かび上がっていた。
リリーとフィルマンの顔色がつい可笑しくて、私は目を細める。
それから、異なる髪質をもつ二人の頭頂部に左右の五指をそれぞれの髪に入れてから漉くように力加減しつつ撫で回す。
アニエスの行為に対して、嫌そうな素振りを見せていないフィルマンとリリーは、互いの顔を見て、
「変な顔になっているわよ。フィルマン」
「リリーちゃんも人の事言えないと思うなぁ~~~」
「なにをぉ~~~!! アンタなんかこうしてやるんだから」
「痛っ!? 痛いってばぁ~~~。リリーちゃん、僕の頬を抓らないでよぉ~~~」
「あたしに対して、変な事を言った罰よ!!」
子供達から手を離して、あはは……、と乾いた笑い声が零れ落ちるアニエスは、どう対処して良いのか、と困惑を覚え、咄嗟にジャンの方に視線で訴えかえる。
ジャンは、またか、と云った感じの表情で友達二人を見ていたが、己を見つめている尊敬の念を抱いている年上の女性の両眼に込められた意味をすぐに察して、一回だけ力強く首肯した後で行動に移る。
「ほらほら、まだ祭術が終わってないんだからな。見逃す羽目になっても知らないぞ。二人とも」
二人の間に入り込んだジャンの手によって、フィルマンのぷっくらとした両頬を引き伸ばし、上下に動かしてみたり、抓ったりしているリリーの両手を引き剥がそうとする前に、それもそうね、と言った金髪の女子はいとも簡単に引き下がり、ロジェ達がいる方向に首を動かした。
やれやれ、とばかりに首を左右に振るジャンは、自分が元の位置に歩き、観戦を再開させる。
さらに赤味を帯びた左右の頬を擦りながらフィルマンも、もうひどいよぉ、と物々言いつつ祭術観戦に戻った。
一段落したと見るや、一息をつく。
改めて、ロジェに焦点を合わせながら、アニエスは思考の海へと沈殿する。
そう思い出してしまった。
両親達に祭術を教えてもらった当時のことを。
心の奥底で祭術によって得たもっとも辛い記憶の傷痕を長年に掛けて分厚い瘡蓋の層となっていたものが次々と剥がれ落ちていくような想いで、自分が両親達との思い出すらも封じ込めていた事を知る。
祭術に纏わる記憶を思い出す度に心臓を鷲掴みされたような圧迫感を覚える。
「ッ……!?」
アニエスは、左手を左胸に軽く抑え付けるように当て、深呼吸を繰り返す。
自分にとって、祭術に纏わる記憶の全てが辛くて苦しいものだと認識していたはずだった。
確かにその通りだし、間違っていない。
だけど、
……ずっとこの胸に抱き続けていた祭術に対する感情が私の祭術に関する記憶のほんの一面でしかなかったなんてね……。そんな簡単な事実を今更になって気付かされる事になるとは、なんという皮肉かしら、これは……。
心の中で自嘲気味に呟けば呟くほど対照的に清々しい気持ちへと変化していく。
「……あぁ、そうだった。とても、大切な……大事な事を忘れるところだったわ」
独り言を口にしたアニエスは、両親達との思い出の傍らにはいつも祭術の存在があったのだ、と改めて理解に至っていた。
……そういえば、祭術を両親達の前で初めて披露してみせた時の事を思い出すわね。私が祭術を終わった瞬間に、拍手してくれたり、誉めてくれたり、と色んな事をしてくれるみんなの様子からとても楽しんでくれたのがすっごく伝わってきて、なんだかあの時は無性に嬉しかった。そしたら、笑顔のみんなにつられて、いつの間にか私自身も笑顔になっていたんだったわね……。
懐かしい、と思案できる余裕が生まれると同時に、ふぅ、と両肩を下ろした。
この事を思い出させてくれたのは、一人の少年から視線を外す。
相変わらず、ロジェを中心に野次や嘲笑を浴びせる人々が多いにも関わらず、下手なりに祭術を披露しているボサボサ髪の少年を応援している物好きな者達が少しずつ少しずつ数を増やし、存在するようになっていた。
一通り見終えた後で、この混沌とした状況を作り出している本人に視線を向ける。
……何時の間にか、彼があんなにも楽しそうに祭術をやれるようになっていたなんて……。
数日前に頼まれ、見る事になった時の祭術と現在進行形で目の前で繰り広げられている祭術は、同一人物が披露しているにも関わらず、数日の間でほんの少しだけ変貌を遂げていた。
もし、自分が思った事を他者に説明を求められたら、言葉に詰まるだろう、と簡単に思い浮かぶほど言葉で表現するには不十分である事を脳が告げていた。
正にそれは、雰囲気、と呼べる類のものがその正体であり、視覚で捉え切れない所に何かがあると感じ取っていた。
だけど、この前のと今の祭術にも確固として共通している部分も大いにある。
例えば、技術面と祭術の命とも云える感情表現などの実力に関しては、変化があまり見受けられない。
……まぁ、たった数日間でかなりの別物にでもなっていたら、それこそ、御伽噺の世界じゃあ無いんだから、仕方ないんだけどね。
踊り続けるロジェの姿を見つめる。
……本当に子供が無邪気に遊んでいるみたいに……。
見ている方がなんだか懐かしく思えるような、それでいて、胸の内側がくすぐったくなるような気持ちになっていく。
アニエス自身、胸の裡で生じかけているものの正体に戸惑っていた折に、
『祭術が人と人とを結び合わせる架け橋になってくれると信じているからこそ、扱い続けているんだよ』
脳の奥底で眠っていた記憶から呼び起され、聴こえてきたのは、父さん達はなんで祭術を扱い続けるの? という自分が疑問を口にした時に父親が語ってくれた台詞。
「祭術が人と人とを結び合わせる架け橋になってくれる……か」
この言葉にどんな意味があったのか? と、父親の心意を探ろうにも、すでに故人となっている以上は、迷宮入りは確定であり、そのまま言葉通りに受け取る以外なかった。
落胆の気持ちを隠しきれず、項垂れて唇を噛み締めていた私の鼓膜を震わせる笑い声の音量の凄まじさに、咄嗟に全身を硬直状態に陥った。
……な……なに? いまの……?
目線を上げ、首を左右に動かし、辺りを見回す。
祭術に促されて喚起されたように多種多様な感情の色の輝きを発している表情を浮かべている観客達の姿が見受けられた。
祭術を観ている側の彼や彼女らの様子がアニエスにとって、興味深いものと映り、周囲にいる観客達の表情や仕草一つ一つを眺めていく。
その中でもっとも印象に瞳の奥に入り込んできたのは、人々の楽しそうに笑っている姿であった。
羨ましい、と素直にそう思ってしまった。
……私もあんな風に笑えたら良いのになぁ……。
無意識に両手を動かして、両頬をなぞるように触れてみると、
……あれ?
指先から伝わってくる思いがけない感触に、目を大きく見開く。
すぐに己の表情に付いた名称が思い浮かぶものの、まさか、そんな……、という否定の思いが脳裏を過ぎり、本当にそれで合っているのかが分からず、鏡を持っていない今では、とても確認のしようがなかった。
アニエスは左右の頬から両手を離して、身近にいる子供達に尋ねる。
「ねぇ、リリー。私はわらっている?」
「??? 何を言っているの、お姉ちゃん? さっきから笑顔になっていたじゃないの」
リリーが振り返って不思議そう眼差しでアニエスを見上げながら、言葉を返す。
「そ……そうよね。変な質問してごめんね」
……やっぱり、私は笑っているのね……。祭術を見て……?
とそう思った途端、アニエスは腹を抱えて身体を折り曲げる。
身体全体が徐々に震えを増していき、勢いよく血の気が引いていくのが手に取るように分かる。
……私が祭術を見て、楽しんでいたというの? ありえない。ありえないわ。そんなこと。あってたまるものですか!?
拒絶反応を起こす。
祭術から得た感情を認められない。認めてしまったら、自分の中にある何かが崩れてしまいそうで、その結果がとてつもなく怖い。
いやいや、とばかりに激しく首振りを始めるアニエスは、無意識に後ずさり、二歩目、三歩目、と視線をロジェ達に固定した上体で大広場から遠ざかろうとした瞬間に、鈍い音が鳴った。
「……ぁれ?」
アニエスの動きが止まると同時に呆けきった声が自身の唇から零れた事を認識するのに数秒を要し、目を瞬かせながら、
……えっと……。
さらに数秒の時間が経過して、ようやく思考速度が平常運転に戻ると身体の震えや冷たさがいつのまにか消えていた。気を取り直す為に頬を軽く叩き、一息を入れる。
「そういえば、音が微かに鳴ったような?」
肺に新鮮な空気を送り込み過程で我に返った要因となった音の正体が気になり、目線を落とす。
大広場の砂地であった部分を埋めているのは何十万枚にも及ぶ四方数十センチの石畳。その表面全体が平らに均されている物は一つも無く、一枚ずつ異なる大きさの凹凸部分になっていた。
半歩分だけ後ろに下がっている片足を少し浮かして、踏み締めていた石畳を見た。表面にある凸凹の中で一番大きく盛り上がっている所が一箇所があり、そこに靴裏の踵に丁度良く当たって音が鳴ったのだ、と理解する。
顔を上げ、ほぼ直線上の位置にいるロジェ達を見遣り、
……私はまだ、祭術の事を……。
アニエスは、改めて認識する。
己の中に抱いている祭術に対する想いが憤りや憎悪の感情だけではない真実を。
両親達との思い出や拒絶反応が生じる直前に得たものは、真っ黒な感情に満ち満ちているものでは決してない事を一瞬で理解するに至っていた。
だって、それは誰しもが体験した事がある心を動かす材料の一つであり、アニエス自身も数え切れないほど十二分に見知っている類のものであるのだから。
歓喜、と。
そう定義された感情の名を思い起こしていたアニエスは、項垂れるように重たい溜息をつく。
気づかなかった。否、己の手で私自身を騙し続けていただけの事であり、その証拠に自分の方から祭術を遠ざけていた訳で、今更になって……、という思いが頭の片隅を過ぎる。
しかし、この瞬間にもロジェの一挙手一投足を忙しなく左右の目で追って、祭術に魅せられている自分が居る事からは、もう目を背けられない。
だからこそ、
……結局、どちらも私の気持ちに変わらないんだよね……。
と、思い直す。
祭術に対する矛盾した想いを自覚した今となっては、そこから自分はどうしたいのかまでは正直なところ、よく分かっていなかった。選択肢の一つとしては、このまま気づかない振りをし続けて、生活する事もありえるかもしれない。
いくつもの思考の欠片が脳内を渦のように巻いており、情報を整理しきれずやや混乱気味になっていたアニエスは、前方にいる観客達越しに見えるロジェ達の姿を捉え、祭術を最後まで見届ければ、もしかしたら、ヒントの一つぐらいなら目の前に転がっているかもしれない、と結論付けた。
ふぅ、と一息を入れる。後退した分だけ歩き出す。
人と人の隙間という隙間に流入してくる緩やかな風がまだ涙の跡が乾き切っていないアニエスの顔面に撫でるようにして過ぎ去り、吊り張った違和感を残す頬を労わるような冷たい心地よさを与え続ける。
涙の跡が消えるまでの間、その感覚に浸りながらも十数メートル先で繰り広げられている祭術の交響曲を眺め、耳を傾けていく。




