第九章
天高く、うっすらとした雲の大群が太陽を覆いつくようなに漂っており、快晴とは言いがたい天気。
北西地区にある大市場。北東地区付近に商店が並んでいる街路に、
「これでもう今日の買出しは十分かな。……さてと、帰ろうっと」
と、一人呟いたのは、肉屋の前で片手で抱えているバスケットの中を覗き込んでいるアニエスの姿があった。
アニエスは、脳内で自分が覚えている範囲の商業都市の地図を思い浮かべる。
そして、現在位置が北東地区に近い事もあり、このまま北東地区方面の道からカメレオン亭に移動する方向性に決める。
「それじゃあ、綺麗な姉ちゃんのためなら、このおじさんはいくらでも値切ちゃうからさ。また、来てくれよ」
陽気な肉屋の主が発した声に、
「おじさんったら、お世辞が上手いんですから……。そうですね。機会があれば、ぜひに」
姉と同じような穏やかな口調で言葉を切り返し、少し頭を垂れると共に、身を翻して地面を蹴った。
歩行する事、約十分。
アニエスは、祭術師斡旋所の建物がある往来の左側の端に通行している。
利き手に持つバスケットを前後に揺らしながら、自然と視線の先にある祭術師斡旋所を見遣る。
一息をつく。
……ロジェもここに訪れていた事があったのよね。祝祭の祭術師募集が目的でもあった訳だから、そうなんだけど……。
さらに、奇妙な縁になっちゃったわね、と私は、そう思う。
今更ながら偶然とはいえ、ロジェという少年に関わりを持ってしまった事に、後悔、の一言だけでは言い表せない想いが自分の中にある事を認識してきた。
……そういえば、一昨日辺りから酒場の手伝いが終わった瞬間に、そそくさと何かの準備して、外出するようになったみたいなのよね……。一体、ロジェは何しているんだろう?
アニエスは、無意識の内に居候の少年の事を考えている事に気が付いていなかった。
俯き加減に考え事に耽っていた時、
「うおっ!!」
「えっ!?」
と、見知らぬ男性の声と私の声が調和したタイミングで、左半身に衝撃が奔り、右方向へと倒れこもうとしている。
刹那の間に自分の現状を把握しようと思考回路がフル回転になり、アニエスの両眼が動く。右手にバスケットを持っている為に、受身が取れない。
バスケットを落としてもそれが障害物となる可能性があったものの、そうしなければ、受身が取れない、と判断し、そのように実行しかけた途中で、左手首が掴まれる感触を得る。
?、と疑問符を浮かべている間に、全身が元の位置に引き戻された。
たたらを踏みながらも姿勢を正した直後。
「すまん。嬢ちゃん。大丈夫か?」
と、アニエスの左側から声が聞こえ、その方向に左肩を支点に身体を動かしつつ、
「私なら大丈夫です。それよりも、助かりま……した」
と、建物の入り口に設置されている小さな階段から下りてきた体格の良い壮年の男性と対面する。
彼我の距離、数十センチ。
アニエスは、彼の姿を捉えた瞬間にも目を大きく見開き、言葉の半ばで一瞬でも間を開けてしまったのは、その男性に見覚えがあったから。
未だに、記憶に新しい祭術師制度に対する抗議する集団と一騒動を起こしてしまった矢先に逃げる機会を作ってくれた張本人である事に勘付いたゆえに。
だからこそ、
「あ……あの、この前は、ありがとうございました」
「この前……? あっ、そうか。嬢ちゃんは、坊主と一緒にいた……」
アニエスの言動に対して、怪訝そうな表情から驚きの表情にすぐさま変わり、男性は納得する。
この時、アニエスは、彼の言葉に含まれた単語を聞き落とす事はなかった。
「坊主?」
「ん? あぁ、ロジェの事だよ」
「あれ? ロジェと知り合い……」
彼がロジェの事を知っている事に内心でびっくりしていたアニエスは、言葉の途中で男性の背後にある建物の看板が目に飛び込んできた。
祭術師斡旋所。
……この人、祭術を扱う側の人だったの……。
という思いを抱く。
「あぁ、そうだ。坊主とはちょっとした縁でな。俺が祭術を教えているんだよ」
と、どこか罰の悪そうな表情を浮かべつつも、ゆっくりと優しさが込められた口調で言う男性。
祭術の事を考えた途端、夏だというのに、私の体温が急激に奪われていく感覚に陥る。
徐々に加速する鼓動に、落ち着け、落ち着け、と自分に何度も何度も言い聞かせた後で、口を窄めて深呼吸を行い、力を抜き、いつものように表情と態度を取り繕う。
冷静沈着だねぇ、と周囲の人々に言われるまでになった人物像を構築する。
「そうだったんですか。ロジェがお世話になってるみたいで……。それでは、私はこれで失礼させていただきます」
そう告げ終えると、身体を右に回し、カメレオン亭へ帰路する為に、足早に歩き出す。
アニエスが五メートル近くまで進みかけた折に、
「嬢ちゃん!?」
と、呼び止められた。
振り向こうか、それとも振り向かずに移動しようか、と迷う。
だが、瞬時に後者の選択は、一騒動の時の恩人相手に失礼に値する、と判断を下し、
「何でしょうか?」
アニエスは足を止め、肩越しに顔を向ける。
男性の表情には逡巡の色が濃くなっていたが、数秒もしない内に意を決したように、
「嬢ちゃんの……両親は健在か?」
「……」
その質問が耳の奥に届いた瞬間、息を呑み込むと同時に身震いが生じる。
「いや、今の質問は気にしなくて良い」
我に返った様子で男性が呟き、アニエスは、こくり、と首を縦に振った後で街路を進みだしていく。
「なんてバカな質問してるんだ。俺は……」
モンドの囁きは、アニエスには届いていない。
●
夕陽が沈みかけようとしているの時刻。それは即ち、酒場や食事処の営業時間帯。
カメレオン亭も夕食や酒の為に訪れた客達が大勢入っており、賑わいをみせている。
ロジェとアニエスとクローデットの三人は、落ち着き払った態度で給仕を担っていた。
アニエスは、ワインの入ったジョッキ二杯を注文を受けたテーブルに置いている間に自分の身体を上から下へと眺め回すように見られているのを肌で感じる。
だが、アニエスにとって、カメレオン亭内でのこういった類の視線は、いつもの事であり、受け流していた。
「お姉ちゃん。綺麗だねぇ。この後、俺と遊びに行かない?」
「そうそう。オレと素敵な一夜を凄そうじゃないか!!」
と、話し掛けてきたのは、アニエスが給仕しているテーブルに記章を服に飾り付けてある二人組の男性であり、記章から判断して、彼らは祭術師である事は一目瞭然であった。
「おいおい、俺が先に声を掛けたんだぞ。邪魔するなって」
「良いじゃんか。そんな事はさぁ」
そのタイミングで、こちらを心配そうに見つめているロジェと目が合う。
ボサボサ髪の少年は、アニエスの危険が迫った時、助けられる位置に移動しようとしている。
……なんか、むかつく。
気遣われている事に、何故だか無性に腹がたち、見てなさいよ、と意味合いの視線をロジェにぶつけ、
「申し訳ございませんが、そういった申し出は全てお断りさせていただいております」
と、自分に声を掛けてきた二人組の男性に対して、淡々と告げる。
面食らったような様子の二人組を一顧だにしないアニエスは、問題が発生する前にこの場を立ち去る。
「ちぇ……、若いのにお堅いねぇ~~~」
と、二人組の片割れが口にした。
「アニエスちゃん。こっちに酒二つ!!」
「分かりました!!」
新たな注文を聞き、厨房への扉に向かうまでの間、ロジェを一瞥すると、表情と雰囲気には、安堵の色が含まれていた。
……何よ。まったく、私だって、これぐらい出来るんだからね。
と、思う一方で、深く息を吐き出し、全身に張り巡らされていた余分な力を抜いた。
それは、アニエス自身、酔っ払いに対する対処方法を心得てきているとはいえ、その都度、緊張や不安に晒されているという事実に他ならない。
厨房に入る。
……にしても、さっきの二人組といい、今日はやけに祭術師達が多いわね。まぁ、どこの酒場や食事処も同じなんだろうけど。なんせ、明日はいよいよ、祝祭なわけだし……。
と、祭術に対する複雑な感情を持て余しながらも、テーブルにお盆を置いてからコップ二杯にワインを注いでいた。
コップ二杯をお盆の上に乗せ終えて、再び、店内へ戻る。
頭に飾り布を巻いている少女の視界には、カメレオン亭全体が見える。
顔なじみの客と一見の客と祭術師の証である記章を付けている客がおり、三番目の客がテーブルの占拠率の大半を占めていた。
給仕を淡々とこなしつつも、祭術、という単語を脳裏に思い浮かべた瞬間、自然と目の端でロジェの姿を追う。
数秒が経過し、
「嬢ちゃん!! シチュー一つ追加!!」
「あっ、は~~~い!!」
新しい注文の声によって、ようやく、己の目線が誰を追っていてたのかを知り、咄嗟に視線を逸らす。
……何をやっているのよ? 私はまったく……。
自嘲的な想いが胸中で込み上げ、ふと、買出し中の時に再会した壮年の男性の言葉が頭の片隅を過ぎっていく。
俺が坊主に祭術を教えている、という言葉を。
また、瞳の奥で再生されるロジェが祭術を扱ういくつかの場面。
……あんなにも祭術に関わっていこうとするなんて、私には分からないわ。あんな風に一心不乱なまでに……無我夢中で……そんなの……まるでお父さんやお母さんや他のみんなみたいじゃないのよ……。
思いの途中で、一心不乱や無我夢中と言う単語に似合うほど祭術を取り組むボサボサ髪の少年の姿がアニエスにとって、とても身近だった人達の面影と重なり合う。
ここで理解に至る。
どうして、数週間前まで存在すら知らなかったロジェに意識が傾むき、胸の裡で苛立ちめいた感覚を覚えていた理由。
私が思った二つの単語と同様に、祭術をやろうとするその立ち振る舞いがあまりにも、記憶の引き出しに、思い出さないように、と厳重に仕舞い込んでいた筈の幼い頃の思い出が次から次へと蘇らしていく。
今、思い出したくなかった。
けど、忘れるなんて事は、もっと出来るはずがなかった。
そして、思い起こしてしまった事で、哀しみの感情が胸元を力強く締め付けられる錯覚に陥り、苦しい、と思ったその一瞬で左右の目尻から零れる雫が両頬から顎へと伝い落ちていく。
「あっ……はぁ……はぁ……」
呼吸音が荒れだす。
「アニエス。大丈夫? 少し休めば? ……そんな顔しなくても大丈夫。この状況ならあたしとロジェ君がいれば、問題ないわ。だから、とりあえず厨房の方に行きましょう」
心配、の二文字を表わした面立ちで語りかけてきたクローデットは、妹のお盆に何も載っていない事を確認してから、手首を掴み、引っ張っていく。
二人は、厨房に入る。
レイモンが忙しそうに動きまくっている傍らで、姉は、妹を厨房のテーブルに備え付けられている椅子に座らせると、レイモンに事情を説明し、彼は頷いた。
「そこで休んでといてね」
一言だけアニエスに声を掛けてから、クローデットは店内に戻る。
テーブルにお盆を端に置き、そのまま私は両腕を枕にして、そこに横向きで頭を乗せた。
そっと目蓋を閉じた。
●
姉妹の様子を店内で動きつつも把握したロジェは、クローデットが戻ってきたタイミングで捕まえて話を聞き出す。
「彼女は、大丈夫なんですか?」
「少し休めば、問題ないと思うわよ」
ロジェの質問にアニエスの姉は、柔らかい声音で応えた。
そうですか、と呟き、ほっと胸を撫で下ろす。
「アニエスの事が心配?」
「えっ? ……まぁ、それは心配してない、と言えば嘘になってしまいます」
変な言い回しになってしまった。
クローデットは目を細めて、
「……とにかく、アニエスが居ない分まで頑張りましょうか。多分、もう少ししたら店内も静かになると思うから」
と、言った。
「そうですね。……あっ、それとクローデットさん」
移動しかけていたクローデットは、ロジェの方に身体を反転させる。
「後で、相談があるので乗ってもらえないでしょうか?」
一瞬、きょとんとした表情になったクローデットだったが、
「分かったわ」
と、肯定する。
「ありがとうございます」
「とりあえず、今は仕事を片付けちゃいましょうか」
「はい」
……あとはこれで、上手くいってくれれば良いんだけど……。
期待半分の不安半分を抱えながら、そう思いながら、クローデットの背中をみつめる。
そして、給仕の仕事をしようと、改めて足を動かす。
●
アニエスがうつ伏せになってから幾ばくかの時間が過ぎ去ろうとしていた。
……落ち着いてきたし、そろそろ戻らなくちゃ……。
身じろぎした後で、目を開けると上体を起こすと、
「アニエスちゃん。もう、大丈夫なのか?」
調理中のレイモンが肩越しに振り返り、ちらりと横目でアニエスを見遣る。
「えぇ、私はもう平気です」
という言葉と共に首肯してみせた。
「そうか。なら良いけどよ。あんまり、無茶すると世話好きの姉さんがめっちゃくちゃ心配するから、ほどほどにな」
「そうですね」
と、姉の世話焼きすぎる場面に幾度も遭遇した事がある私は、心の中で笑みを深めて相槌を打つ。
起立する。
片手でお盆を持って、店の中へと繋がる扉を潜った。
店内は、すでに自分がいた時間帯とは打って変わって、お客の入りが減っており、席がまばらに開いている。
感覚的に繁盛する時間が終わった事を悟る。
視線の先。カメレオン亭の入り口付近でロジェとクローデットが何かしらのやり取りしていた。
距離が遠い為にその内容までは、私の耳に届いてこない。
とりあえず、二人がいる所に行こう、と思い、右足を前へと踏み出す。
近付くに連れて、私の足音と気配でも察したのか。姉さんが流し目でこちらを確認する。
「あら、アニエス。その様子だともう大丈夫そうね」
クローデットが方向転換すると同時に、ロジェもアニエスの方を向く。声が届く距離でアニエスは制動をかける。
「えぇ、それにしても、随分とウトウトしていた所為か。いつの間にか、混雑時に戻るタイミングを見失ったみたいね……。ごめんなさい」
「別に構わないわ。そんな事は。だって、貴方の調子が良くなっているのでしょう? それで十分よ。ねぇ、そう思わない? ロジェ君」
「えっと、そうですね。クローデットさんの言う通りだと思います」
アニエスの姉の返しに、ロジェはぎこちなく答えた。
……クローデットさん? そういえば、ロジェは、つい最近からねえさんの事をそう呼ぶようになっているわよね。
と、どうしてだか自分でも判断できない霧が掛かって見えないそんな思いを抱き、内心で首を傾げる。
この間にも、新たな注文を呼ぶ声がカメレオン亭に響き、ロジェがさっそく声がしたテーブルの方へと足早に移動する。
アニエスがボサボサ髪の少年の後姿をみつめていた矢先、クローデットが横に歩み寄り、
「明日、あたしと一緒に祝祭を周りましょう?」
「ねえさん……。身体の方は大丈夫なの? 去年も今と同じ事を言ったけど、結局、行けるような体調にならなかったでしょう?」
「去年はごめんね。約束を守れなくて」
「別に去年の事は、気にしてないし、それに祭術なんてものを見てもつまらないだけだから」
一息を入れ、そう言葉にする。
「アニエス……」
自分の名前を呼びかけるクローデットの声色と表情は、形容しがたいものとなっていた。
「だから、無理する必要ないと思うから、明日も十分休もう……ね?」
「いえ、せっかくの一年に一回の祭りなんだし、あたしは去年の分も楽しみたいから、明日は行けるわよ!!」
と、断言した。
「まぁ、それなら良いけど……」
……本当に大丈夫かな。 まぁ、ここ数日はねえさんも元気そうにしているみたいだから、平気なんだと思うけど……。
不安を拭い去る事は出来なかったものの、姉の明日にかける意気込みに負けて、私は承諾する事になった。
「これで良いのよね。……ロジェ君」
「ん? ねえさん。何か言った?」
「今日もあと少しだなぁって」
うん、と私は相槌を打った。
そして、姉妹の会話を終えて、仕事を再開する二人であった。




