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9話 ミネットの決意

 パン屋での仕事を終えたミネットは、群青色に染まった、細い路地裏の一角を歩いていた。

 いつもの帰る道とは、間逆の方角。

 目的を遂行する姿を誰かに見られることが何となく気恥ずかしく思えてしまった彼女は、煉瓦通りではなく、あえて人目に付かない道を歩き続けていたのだ。

 特別忙しかったわけでもないのに、疲労感がいつもよりも増している気がする。一歩踏み出すたびに、足の重さに意識を奪われて仕方がない。

 足を引き摺るようにして歩いていたミネットだったが、視界に目的地を捉えると立ち止まり、顎を上に向けた。

 目の前にそびえ立つのは、国境でもある『壁』。

 赤茶けたその壁は、ミネットがこの町に連れて来られた時から、何ら変わることなく在り続けている。

 この『壁』の向こうは、フラムナワ国。

 ミネットの故郷でもある国だ。

 戻ろうと思えば、いつでも戻ることができる距離。

 様々な問題を要する、エアキネシス。

 嫌な記憶を呼び起こされる、水麗地区があるこの町。

 孤児院を出た後、この町から離れようと思えばできた。

 もっと活気があり栄えている、東のアクアラルーン城下町に行くという手もあった。

 それでも、ミネットはそれらの選択をせず、この町に居続けている。

 心のどこかで、まだ期待していたのだ。

 いつか、両親が迎えに来てくれるのではないかと。

 自分を売った両親を強く憎む反面、それでもまだ、心のどこかで(すが)る気持ちを捨てきれていなかったのだ。

 あの幸せだった日々――母親の穏やかな笑顔と、父親の大きくて温かい背の感触を、どうしても忘れることができなかったから。

 でも、その叶うことのない願いは、そろそろ捨ててしまわなければならない。

 夢から覚めなければならない。

 いつまでも子供ではいられない。

 だから今、ここへ来た。

 昨晩、アニエラからリュシアンについて色々と聞いた。

 あの日、ミネットを助け出してくれた傭兵団の一員にリュシアンもいたとは、夢にも思っていなかった。

 きっとミネットに背を貸してくれていたのも、リュシアンだったのだろう。確証は持てないが、ミネットにはそう思えた。

 そもそもミネットは、リュシアンを同じ孤児院の仲間だと思いこんでいた。

 でも、それは間違った認識だった。

 リュシアンは水麗地区から助け出してくれた後、ミネットが孤児院を出る日まで、保護者のようにずっと傍で見守っていたのだ。


(リュシアンに、年齢を訊いておけば良かった)


 深い海色の髪をかき上げ、ミネットは一人苦笑する。

 リュシアンは体格は良いが顔は童顔混じりなので、ミネットと同じ年齢だとばかり思っていた。

 加えて、ミネットが孤児院を出るタイミングでリュシアンも傭兵団に入ったものだから、二つ離れているだなんてかけらも思わなかったのだ。まさか再就職だったとは。


(でも、リュシアンもリュシアンよ。わざわざ傭兵団を辞めてまで孤児院に戻ってきたのに、私に全然話しかけてこなかったんだもの)


 今までリュシアンを孤児院の仲間だと思っていたことに、自分には全く責任がない。

 そう結論付けたところで、決意が沈んでいかないよう、ミネットはさらに視線を上へと移した。


 彼女の、決意。

 それは、この町を第二の故郷にすること。

 彼と話をして、その決意を確固たるものにする。


 晴れているが、今日は月は見えない。代わりに無数の星が、控え目な光を放っている。

 その星々に誓うように、ミネットは胸の前で拳を握った。

 早く終わらせて、帰ろう。

 考えた直後のことだった。

 背後からいきなり伸びてきた手に、彼女の口が塞がれた。

 大きく跳ね上がるミネットの心臓。

 両の手首も同時に強く握られてしまった。

 思うように腕が動かせず、振り返ることもままならない。

 キリキリとした腕の関節の痛みが、脳に走り続ける。


「おっと、動くな。声も出すなよ? 少しでも声を出せば、喉を掻き切るぜ」


 声は背後ではなく、横から聞こえた。

 酒で潰れたような、しゃがれた耳障りな男の声だ。

 喉に僅かに当たる冷たく鋭利な感触が、男が言ったことは嘘ではないと物語っていた。

 喉に、ナイフを当てられている。

 状況が飲み込めたと同時に、ミネットの中の恐怖が急激に肥大する。

 それは瞬く間に全身に広がり、彼女の指先を震えさせた。


「こんな時間にこんな場所を女一人でうろつくとか、用心なさすぎるぜお嬢ちゃん」


 先ほどとは別の男の声が、今度は背後から鼓膜を震わせる。

 手首を締め上げている方の男だろう。

 あまり背が高くない男なのか、わかりたくもない生温かい息遣いを、首筋に感じてしまう。

 一人だけなら足を使って逃げ出せたかもしれないが、男二人がかり。しかもナイフを当てられている以上、それはできない行動であった。


「しかし、久々の上玉だなぁ? 売る前に俺らで楽しんでも罰は当たらないんじゃねえの?」


 耳障りな声が、恐ろしいことを口走る。

 水麗地区で耳を塞いでいたあの日の記憶が瞬時に呼び起こされ、ミネットの全身に粟が立つ。


「それもそうだな。それじゃあ早速、俺らと楽しもうぜ、嬢ちゃん」


 下卑た声と同時に、喉に当てられていたナイフと、口に当てられていた手が僅かに離れた。

 直後。

 ミネットは渾身の力を込めて、頭を後ろに向けて振った。


「ぐぎゃっ!?」


 ミネットの頭突きを鼻でまともに受けた背の低い男は、悲鳴を上げてその場にうずくまる。

 その隙を利用して、ミネットは男の手から逃れると全速力で駆け出した。


「待ちやがれこの(アマ)!」


 ナイフを持った男が、怒声と共にミネットを追いかける。

 ミネットは後ろを振り返ることなく、懸命に足を動かし続けた。


(とにかく、煉瓦通りへ……!) 


『壁』の近くだから――傭兵団の拠点があるからきっと安心だろうと、完全に油断していた。

 煉瓦通りを少しでも外れると、人目が極端に少なくなる。

 リュシアンに会いに行く所を誰かに見られたら――というくだらない羞恥心を捨ててでも、煉瓦通りを歩くべきだった。

 特に国境付近であるこの辺りは治安が悪いのだ。

 全力で駆けることに意識を取られていたミネットは、『助けを呼ぶために声を出す』ということを完全に失念していた。

 どんなに懸命に走っても、そこは男と女の足。ミネットは即座に男に追いつかれてしまった。

 男はミネットの襟首を掴み、渾身の力を込めて引き寄せる。

 ミネットの顔が歪む。

 バランスを崩し、足首を捻ったのだ。

 崩れ落ちるように床に倒れたミネットを、男がすかさず組み敷く。

 腹にかかる男の体重に、思わず呻き声を洩らすミネット。

 足をバタバタと動かして抵抗してみるものの、男は全く動じない。

 闇の中に浮かび上がる男の顔は、無精髭を生やした、狐のような目を持つ男だった。

 男は片腕でミネットの手首を押さえ、もう片方の手に持ったままだったナイフを、今度は彼女の頬に突き付けた。


「頭突きをかますとはとんだ女だ。だが、生きの良い女、俺は嫌いじゃない。おとなしくしていれば、この綺麗な顔に傷を付けずにすむぜ?」


 遊ぶようにピタピタとナイフの切っ先を頬に当てながら、男の手がミネットの服の中に進入してきた。

 生温かい手の感触が、全身に怖気を走らせる。

 知らない男の体温が、こんなにもおぞましいものだとは知りもしなかった。

 水麗地区で同じ部屋にいた少女達は、こんな恐ろしさに耐えていたのか。


(嫌だ。こんな男なんかに。嫌だ――)


 悔しさと怖さと、そして自分への後悔と――。

 それらが混ざり合い、ミネットの目尻に水滴が浮かび上がる。

 その様子を見た男は躊躇するどころか興奮したらしく、胸元を(まさぐ)る手の動きが強くなった。

 刹那。

 男が大きく横に吹っ飛んだ。

 何が起こったのか、ミネットには瞬時に理解することができなかった。

 急激に軽くなった腹上に違和感を覚えるほどだ。

 瞬きさえすることができず呆然としていると、そこで優しく背中から抱き起こされた。


「大丈夫?」


 声のした方に振り返ると、黒髪の男が心配そうに顔を覗きこんできた。

 左腕には、傭兵団員であることを示す、楕円形の紋章を装着している。

 傭兵団の人間が助けに来てくれた。

 安堵のあまり、先ほどとは違う涙が零れそうになる。

 ミネットは無言のまま、首を縦に振った。

 黒髪の男は猫のような金色の目を僅かに細めると、視線を真横へと向ける。


「リュシアン。そいつは?」


 男が呼んだ名に、ミネットは思わず肩を小さく震わせた。


「あぁ。気絶した」


 カンテラを下にかざし、足先で伸びた男をつつきながら、淡々とリュシアンは答える。

 黒髪の男――ジェネジオは、リュシアンの返答に失笑を漏らした。


「お前の一撃をまともにくらってたもんなー。そりゃそうか」

「どうやらこいつ、その筋のブローカーみたいだな。懐から連絡先が書かれた手帳が転がり落ちてきたぞ」

「マジか。貴重な証拠だから押収だな。ていうか傭兵団(俺ら)が近くにいんのに、大胆なことで」


 リュシアンからカンテラと手帳を受け取ったジェネジオは、しばし無言でパラパラと中身を確認する。

 ジェネジオから離れたリュシアンの靴音が、ミネットの方へと近付いてくる。

 だがミネットは、彼の顔を見ることができないでいた。長い髪で顔を隠すように俯く。

 彼に会いに、ここまで足を伸ばした。

 でもいざリュシアンを前にすると、何と言えば良いのかわからなくなってしまったのだ。

 それに暴漢に襲われかけたことで、彼女の頭の中からすっかり冷静さというものが吹き飛んでいた。


「……ん?」

「どうした、リュシアン?」


 ジェネジオの呼びかけに答えぬまま、リュシアンはミネットの傍まで近付き、片膝を付く。

 そして呆然とした様子で、喉の奥から絞り出すような声を発した。


「ミネット……どうして……こんな所に……」


 ミネットは俯くばかりで、何も答えることができない。こんな時でさえ、素直になることができない自分が情けなくて仕方がなかった。

 リュシアンは突如、目を大きく見開いた。その顔が見る見るうちに怒りで赤く染まっていく。


「あの男、ミネットに――。殺す。この場で殺す。俺が殺す」

「うわああああ!? ちょ、ちょっと待て! 落ち着けってリュシアン!」


 伸びた男の元に、肩をいからせながら向かうリュシアン。

 業火のような殺気を放つリュシアンを、慌ててジェネジオが後ろから羽交い絞めにする。

 しかしリュシアンの力は凄まじく、ジェネジオはリュシアンに密着したまま、ズルズルと足を引き摺られる状態となってしまった。


「もう一人」


 リュシアンの足を止めたのは、ミネットの声だった。

 ジェネジオを後ろにくっ付けたまま、リュシアンは声を出したミネットへと振り返る。


「この近くに、その人の仲間がもう一人いるの。鼻を強打しているはず」


 ミネットが頭突きをくらわせた男。おそらくまだ遠くには行っていないはずだ。

 ミネットの言葉を聞いたジェネジオはリュシアンから腕を放すと、頷きながら続けた。


「わかった。そいつは俺が見つけて捕まえとく。鼻を痛そうにしてる奴だな。伸びたこいつも俺が縛って本部に連行しておくから、リュシアンはそのお嬢さんを家まで送り届けろ」

「ジェネジオ。でも――」

「これは先輩としての命令だ。幸い『壁』はすぐそこだし、応援も呼ぶから心配すんな。それにそのお嬢さん、足を捻っているみたいだぜ?」


 ジェネジオに言い当てられたミネットは、ばつが悪そうに視線を床に落とした。


「……わかった」


 リュシアンは困ったように後頭部を掻いた後、静かに返事をする。

 リュシアンは今、何を思っているのか。その声だけでは、ミネットにはわからなかった。


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