8話 傭兵男の憂鬱
エアキネシスの町の最西端。
そこにそびえ立つのは、赤茶けた石を煉瓦のように丁寧に積み上げて造られた、フラムナワ国とアクアラルーン国とを隔てる『壁』と呼ばれる国境だ。
『壁』は南北に長い造りをしており、中もそれなりに広い。
そして『壁』の南側は、フラムナワ国の傭兵団の拠点となっている。
友好だと断言できない国同士の、境目。
そのせいか『壁』の中は、常に帯電したようにピリピリとした空気が充満していた。
「じゃ、ちょっくら昼飯でも食いに行きますか」
そんな空気など何処吹く風といった軽い口調で、黒髪の男が呟きながら立ち上がる。
ここはアクアラルーン国側の、傭兵団の詰め所の待機室だ。
人影は二人だけ。他の団員の姿はない。
『壁』の上からの見張りや町の見回りで、皆出ているのだ。
今はこの二人の休憩時間だった。
黒髪の男の向かいにいた男――リュシアンも、一拍遅れて木製の丸椅子から腰を上げた。
「俺も行く」
抑揚のない声だったが、それでも黒髪の男はリュシアンの言葉に目を丸くした。
「今日もパンを買いに行かねえの?」
「ああ。しばらくは昼にしっかりと食べようと思ってな」
「ふーん……」
訝しげな視線をリュシアンに送りながらも、黒髪の男は小さく頷くだけの反応にとどめた。
リュシアンと共にいる黒髪の男の名は、ジェネジオ。
リュシアンより小柄で、猫を彷彿とさせるような金色の瞳が特徴的だ。ベルト部分に数本括りつけられた小型ナイフが、彼の得物。
ジェネジオは年齢こそリュシアンと同じであるが、彼の先輩にあたる。
「ま、いいや。どこの飯屋にする?」
「どこでもいい」
「それ。それな! 訊いた側としては、その答えが一番困るんだけどなぁ」
「あんたの好きな所に行けばいいだろう」
半ば投げやり気味に放たれた言葉に、ジェネジオは嘆息した。
「あーわかったわかった。でも、文句は言うなよ?」
リュシアンは食べることができれば――ミネットのことを思い出すパンでさえなかったら、本当に何でも良かった。
食べ物の好き嫌いはない方だ。文句などあるはずもない。
この辺りにはパン屋はない。故にリュシアンは何でも良いと返答したのだ。
頭を掻き、悩みながら部屋を後にするジェネジオの後に、リュシアンも黙って続いた。
ジェネジオは散々迷った挙句、行き先を『壁』から一番近い大衆食堂にした。
家庭的な味が楽しめて、値段はそれなりにリーズナブル。傭兵団の人間が最も利用する食堂だ。
その食堂の中は、昼時ともあって人で溢れかえっていた。客層のほとんどが男とあって、店内のあちらこちらから豪快な笑い声が上がっている。
リュシアンとジェネジオは、丁度空いていた二人用のテーブル席に着くことができた。
椅子に腰掛けて早々、ジェネジオはメニューを見るより先に、肘を着きながらリュシアンを見据える。
「しかし、本当にまた入団試験を受けて戻ってくるとはなぁ」
ジェネジオの口からしみじみと放たれた言葉に、リュシアンの片眉が僅かに上がった。
「そんなに俺が戻ってきたのが嫌なのか」
「違うって。そんな穿った捉え方するんじゃねえよ。大した奴というか、変な奴だなぁと言いたかっただけだって」
「変は余計だ」
苦虫を噛み潰したような顔をした後、リュシアンは店員を呼び止め、料理を注文する。
ジェネジオもメニューを見ぬまま注文を済ませた。何度も来ているので、この店の自分好みの料理がわかっているのだ。
「いや、変だろ。入ったかと思えば辞めちまって。かと思っていたら今度は戻ってきて」
「…………」
露骨に眉間に皺を寄せたリュシアンだったが、ジェネジオは喋るのをやめようとしない。
金の猫目が何かを思い出すかのように、そこで上に向いた。
「そういやお前と飯を食うのって、これで二回目? あまり休憩時間が被らないもんな」
「ああ」
「そうか……。あの『作戦』の前日以来か」
「…………」
「お前にとって初めての大きな『作戦』だったんだよな。本当に、お前には色々と驚かされたぜ」
ジェネジオの言葉に、リュシアンの記憶と心が呼び起こされる。
目を伏せなくとも、いまだ鮮明に思い出すことができる、三年前のある一日のこと。
傭兵団に入って、最初の任務。
その『作戦』で、リュシアンの心が、そして人生が、大きく変わったのだ。
※ ※ ※
念入りな計画が功を奏したのか、『作戦』は一瞬の内に終わった。
水麗地区に巣食う強面たちも、鍛えられた傭兵団の前では赤子同然だった。
中には執拗に抵抗する者もいたが、『刃の女神』の力を込めた封印球を見せると、子猫のように身を竦め、おとなしくなった。
発動させると、無数の刃が飛びかい、目標を切り刻む封印球。
切り札として持ち込まれたのだが、使う間でもなかった。
店のオーナーを召捕った後、暗い一室で穏やかな寝息を立てる少女達を保護していく。
少女達が暴れないように、そして恐怖を少しでも和らげるために、他国から入手していた『安らぎの女神』の力が込められた封印球を、突入時に割っていたのだ。
作戦を気取られないよう、少女達を運ぶための馬車は、水麗地区の外に置かれてあった。
傭兵団総出で、深い眠りに落ちた少女達を馬車へと運ぶ作業が続く。
リュシアンが背負った少女は、青色の髪が美しい少女だった。
深海など見たこともなかったが、海の底はきっとこんな色なのだろうと瞬時に想像を掻き立てられるほどの、青。
見目秀麗な少女達ばかりの中で誉め立てるほどではない少女であったが、それでもその青は、リュシアンの網膜に鮮やかに焼き付いた。
リュシアンは少女を背負い、水麗地区の先にある馬車に向けて歩き続ける。
大勢の傭兵団の人間が、少女を背負ったまま夜の街を闊歩する。
騒ぎを聞きつけた野次馬達が集まり、水麗地区はにわかにざわついていた。
それらの視線から少しでも早く離れるため、リュシアンが歩く速度を上げた、その時だった。
「愛してるよ……」
突然、少女が声を発した。
刹那、雷に打たれたような衝撃がリュシアンの全身に走り抜ける。
それがリュシアンに向けて発せられた言葉ではないことなど、彼は理解していた。
夢現の状態の彼女の口から出てきた言葉。言うなれば、ただの寝言だ。
それでも、その言葉はリュシアンの心を大きく揺さぶったのだ。
『愛してる』
意味は知っていても、聞いたことがなかった言葉だ。
愛とは程遠かった子供時代。
孤児院での生活は慈愛に満ち溢れていたかもしれないが、愛してるなどと直に言われたことはない。
だからこそどこか現実味のない、それでいて神聖な言葉のようにリュシアンには思えた。
背中の少女は、それっきり言葉を発することはなかった。
少女の頭の重みが先ほどより増した気がするのは、果たして気のせいか、そうでないのか。
経験したことのないざわつきが、漣の如くリュシアンの胸の内に広がっていく。
それは少女を馬車に乗せた後も、消えることはなかった。
『作戦』から三日経った。
保護された少女達は全て、無事に受け入れ先を見つけることができた。
そんな報せが届いた中、リュシアンは傭兵団の一室でジェネジオに深く頭を下げていた。
「……リュシアン。俺、お前の言ってることが理解できないんだけど」
「だから、辞める。既に次の就職先は決まった」
頭を地に近づけたまま、端的に、かつ力強く答えるリュシアン。
しばらくの間、ジェネジオは口を半開きにしたまま、金の瞳で頭を下げるリュシアンを見つめることしかできなかった。
いつまで経っても、ジェネジオからの返答がない。
痺れを切らしたリュシアンは顔を上げると、そのままジェネジオに背を向けた。
「勝手ですまない。短い間だったが、世話になった」
放心したままのジェネジオを置いて、リュシアンはその日、傭兵団を後にした。
『壁』を出たリュシアンの足は、真っ直ぐに『次の就職先』へと向いていた。
エアキネシスの町にある、孤児院。
リュシアンが背負ったあの少女は、世話になったあの孤児院に保護されたらしい。
その情報を得たリュシアンは、二日前、孤児院へと足を伸ばし、話をつけていたのだ。
二日前の夜――。
突然姿を現したリュシアンを見て、食事の用意をしていたシスターは大層驚いた。
リュシアンは再会の挨拶もそこそこに、「ここに青い髪の少女が連れて来られたか」と尋ねる。
「ああ、ミネットのことね。部屋にいるわよ。でも昨日着いたばかりだから、落ち着くのを待っている状態なの。聞いたわよ。あなた達の活躍で彼女を救うことができたのよね」
ミネット。
それが少女の名らしい。口の中で大切に転がしてみる。
呼びたい。無性にそう思ってしまった。
いまだ自身の胸の内にくすぶり続ける、ざわざわとした気持ち。
そしてあの少女を傍で護りたいという庇護欲が、炎のように彼の中に渦巻き始めていた。
この気持ちは、一体何なのか。
リュシアン自身も理解できていなかった。
自分の気持ちも理解できぬまま、彼の口は気付いたら声を発していた。
「シスター。ここで働かせてください。俺にできることなら何でもします。お願いします」
自分の口から出てきた言葉に、リュシアンは驚いていた。
傭兵団に入ったばかりだというのに、何て身勝手なことを言ってしまったのだろうか。
しかしそう考える頭とは裏腹に、心はどこか納得している気がする。
それでも、馬鹿なことを言ってしまったことには変わりない。リュシアンは慌てて首を横に振った。
「すみません。その、変なことを言って。今のは――」
「リュシアン」
出会った時と変わらぬ芯のある声で、シスターはリュシアンの言葉を遮った。直立不動を余儀なくされるリュシアン。
シスターはレードルを手にしたまま、穏やかに微笑んだ。
「あなたの心に従いなさい」
そうして、リュシアンは再び孤児院に戻ることとなった。
だが、今度は子供達の世話をする大人として。
働くことを許可されたリュシアンだったが、一つ条件が課せられた。
それは、ミネットにあまり接触しないこと。
理由はわからなかったが、リュシアンはシスターの出した条件に何も言わず、首を縦に振った。
もどかしい気持ちもあったが、シスターの言うことだからきっと意味があるのだろうと、彼は信じていた。
戻ってきたリュシアンの姿を見て、彼を知る子供達は大いに喜んだ。リュシアンはたちまち子供達に囲まれてしまう。
ミネットが自分の部屋から出てきたのは、その三日後のことだった。
彼女の姿を再び見たリュシアンは、自分の胸の内に渦巻き続ける熱の正体に、はっきりと気が付いた。
※ ※ ※
「で。お前が傭兵団を一度やめてまで追いかけた娘とは、どうなのよ?」
運ばれてきた水を飲み干した後、ジェネジオは事も無げにリュシアンに訊く。
しかしリュシアンは彼の質問に動揺したらしい。大きく目を見開き、石のように固まってしまった。
「ありゃ。珍しい反応だな」
硬直したまま微動だにしないリュシアンを見ながら、ジェネジオはどこか悪戯っぽく微笑んだ。
「……知っていたのか」
「んー。まぁ、ちょっと想像したらわかるというか」
頬を軽く掻きながらジェネジオは続ける。
「ここから少し離れたパン屋に足しげく通ってただろ。で、そこにはお前が助けた少女が働いている。……子供でもわかるぞ」
「そうなのか……」
誰にも洩らしたことのない自身の気持ちをあっさりと言い当てられてしまったことに、リュシアンの胸の奥がむずむずと疼く。
「で、どうなのよ?」
金の猫目をキラキラと輝かせ、ジェネジオは再度追求する。
リュシアンは半ば諦めたように息を吐いた後、ゆっくりと口を開いた。
「駄目かもしれん」
「はぁ?」
リュシアンの返答に、ジェネジオは盛大に顔を歪めて見せた。リュシアンも、彼の言いたいことは痛いほどよくわかった。
何より、「辞めてまでおいかけたのに何やってんだお前」と、その顔が露骨に語っているのだ。
視線を下に逸らし、若干項垂れるリュシアン。
その様子を見たジェネジオは、次に用意していた不満の声を出すことができなくなる。
大柄な身体を小さく丸める様子は、まるで牙を抜かれて縮こまる虎のようだ。
リュシアンは、あの日シスターがミネットとの接触を制限するように言った理由が、ようやくわかった気がした。
きっと制限を課せられていなければ、こみ上げてくる熱い想いを子供達が見ている前で吐きまくっていたに違いない。
そして彼女に蛇蝎の如く嫌われてしまって――。
今となれば、その方が良かったのではと思えてしまう。
『二度と現れないで』
ミネットに突きつけられた言葉は、リュシアンの心に刺さったまま抜け落ちない。
それでもふとした瞬間に思い浮かぶのは、彼女のサラサラとした青い髪と、少し憂いを帯びた美しい横顔。
バルバラに泣き言を洩らしに行ったものの、さすがにここ一ヶ月通いすぎたのか「うざい」とにべもなくあしらわれてしまった。
もう、諦めるべきなのだろう。
思えば、今までは自分の気持ちを一方的に押し付けるばかりだった。あまり彼女の立場になって考えることができなかった。
あそこまで拒絶されてしまっては、これ以上続けても迷惑なだけだろう。
(諦める、か……)
しばらくはこの気持ちを引き摺ってしまうのだろうなと、リュシアンは心の中で深いため息を吐いた。
「あー……そういえばさ、東の湖に大型娯楽施設ができたのは知っているか?」
「話だけなら聞いた」
わざとらしいジェネジオの話題転換であったが、リュシアンもこれ以上沈みたくなかったので、あえてそれに乗る。
国内の一番大きな湖を利用した娯楽施設のことは、ここ最近リュシアンの同僚たちの間でも話題になっていた。
リュシアンも興味があった。娯楽施設にはカジノもあるらしい。
と言っても、カジノに興味があるわけではない。
水麗地区に流れる金がそちらに移動したら、治安の面で良くなるかもしれない。そういう意味での興味だったが。
「どうせなら、その娘を誘って行ってみれば? 遊んでいる内に解放的になってもしかしたら――ってこともあるじゃん?」
「人の話を聞いていたのか? 遊ぶ前に断られるに決まっているだろうが」
ジェネジオの提案に、リュシアンは大げさに息を吐きながら眉間を揉みしだくのだった。
娯楽施設は『王女と護衛×2と侍女の日常』の14話と15話の舞台になっております。
(※本作とは雰囲気が全く違うコメディです)